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2015年6月24日水曜日

時代劇の大悪役、鳥居耀蔵について

 最初にこのブログのリンク先として新たに追加した、下記のブログを紹介します。

ピンハネ屋と呼ばれて

 ブログタイトルこそ後ろ向きであるものの書かれてる内容は割とエネルギッシュというかやや躁気味な内容に満ちています。このブログはどういったブログかというと、㈱リツアンSTCという静岡県にある人材派遣会社の現役社長が書かれているブログです。
 なんでこんなブログを紹介しようっていうのかというと、今年一月に私が派遣マージン率について書いた記事を読まれたことから連絡があり、ちょいちょいやり取りするうちにこういうブログを始めたと聞いたので、それならば是非と紹介することとしました。正直、あのマージン率の記事は派遣労働者からはいくらかレスポンスが来るだろうと思っていたものの、まさか派遣会社を運営されている方からコンタクトが来るとは夢にも思いませんでした。あともう一つ気になる存在として、スタッフサービスさんはちゃんと私の記事を読んでいるのだろうか……。

 そんなわけで本題に移りますが、適当な間に合わせのネタとして時代劇マニアなら既におなじみですが普通に日本史勉強していたらまず目にすることのない面白い人物として今日は、江戸後期最大の悪役である鳥居耀蔵について紹介します。

鳥居耀蔵(Wikipedia)

 鳥居耀蔵とは江戸時代後期の人物で、幕府直参の旗本として勤務した武士です。彼が表舞台に出てくるようになったのはあの有名な「天保の改革」の頃で、改革の主導者であった水野忠邦に見いだされて当時の江戸において最高裁判官に当たる南町奉行に抜擢されます。

 一体何故この人物が時代劇で悪役にばかりされるのかというと、一言で言ってしまえば頑固で人の話を全く聞かず、自分の価値観で他人を陥れたり捕縛したりをびっくりするくらい繰り返したからです。南町奉行時代は犯罪者崩れの手下や密偵を使ってはおとり捜査を繰り返し、気に入らない人物を次々とブタ箱(当時からそう言ってたかは知らないが)にぶち込んでいたそうで、そうしてついたあだ名は「蝮の耀蔵」となるほど当時の民衆からも明らかに嫌われていました。
 なおこの時の北町奉行はあの有名な「遠山の金さん」こと遠山景元で、鳥居が大衆娯楽の寄席などを規制しようとしたのに対して遠山は放任しようとするなど寛大な政策を取ったため、「遠山=善玉、鳥井=悪玉」という構図は早くから確立されました。

 話は戻すと、大衆に対しては厳しい態度を取りつづけた鳥居ではありましたが時の老中の水野忠邦に対しては完全なイエスマンで、水野の推し進めるぜいたく禁止令などの社会規制策は自ら率先的に実行していきました。特に顕著だったのは蘭学に対する施策で、天保の改革期に蘭学者を弾圧した「蛮社の獄」では中心人物となって関係者の一斉捕縛にも関わり、また開国はおろか西洋技術の導入に関しても終始反対し続けました。

 極めつけはこうした悪人にはなくてはならない讒言で、前任の南町奉行であった矢部定謙を讒言で追い出してちゃっかりと後任として就任したことを皮切りに次々とライバルを追い落とし、遠山景元に対しても水野と組んで北町奉行から大目付へ転任させることに成功しています。
 ただこうした鳥居の専横は水野という後ろ盾があったからこそというものがありました。しかしその水野による天保の改革がわずか二年で失敗に終わると、鳥居は保身のために水野を裏切り不正の証拠を一気に横流しするというスタイリッシュさを見せつけてくれました。これほど典型的な小悪党ってそうそういないだろって思うくらいの活躍ぶりです。

 いろんなことがあったけども、何はともあれ水野を裏切りこれにて一件落着……かと思いきや、一旦左遷された水野は開国などの外交問題を巡ってわずか半年で老中の座に返り咲くというカムバック賞ものの復帰を果たしました。この時にはさすがの水野も自分を裏切った鳥居の事は忘れておらず、今度は鳥居が同僚に裏切られる形で職務怠慢を理由に解任された上、財産没収となった挙句に丸亀藩(現在の香川県丸亀市)に預けられて蟄居させられます。

 丸亀藩に預けられた鳥居は監視されたまま屋敷に留め置かれ、当時の彼の日記には、「この一年間、誰とも会話しなかったなぁ(´・ω・`)」なんて記述も残されています。その軟禁期間は、江戸時代が終わって恩赦が出るまで実に20年にも及び、勝海舟によると鳥居が食べて投げ捨てたビワの種が出てくるころには立派な気に育っていたそうです。
 ただそんな軟禁生活も途中からは段々と行動の自由が許され、この間には丸亀藩士らとも交流を持ち彼らへ自分の知る知識を惜しみなく教えていたそうで、交流した藩士からは好々爺足るような好印象を持たれていました。

 しかし明治維新によって政権が変わったことにより、鳥井に対しても恩赦が出て晩年には完全な行動の自由を得ることが出来ました。なおこの恩赦が出された時も、「自分は幕府の命でここにいるのだから幕府の命令でなければ出て行かない」と言ってあくまで抵抗したそうです。また解放後も、開国された日本の各地を見て回っては悪態をついて回り、元部下が訪ねて来た際には、「自分の言うことを聞かずに開国したから幕府は滅んだのだ」と自説を曲げずに元部下を呆れさせたというエピソードまで残っています。

 最初にも書きましたが鳥居という人物は呆れるほど頑固でかつ敵対心の強い人物で、悪役として描くに当たってこれ以上の人物はいるか、いやいないと反語で言いたくなるほど典型的なキャラクターをしています。しかし20年間も軟禁されながら自説を一切曲げない頑固ぶりはある意味凄い所で、勝海舟も、「嫌な奴だったけどあの頑固っぷりは大したもんだった」と述べています。
 この鳥居は日本史の教科書にはまず出てくることはない人物ですが、私としてはこれほど面白い人物はそうそういないんだし、出来ることなら天保の改革と合わせてちゃんと教えてあげてほしいなという気がします。まぁ完全な変人の領域ですけど。

2 件のコメント:

  1. 片倉(焼くとタイプ)2015年6月24日 21:22

    高野長英が牢屋敷を脱走したのは鳥居耀蔵が奉行だったからという説があります。
    鳥居耀蔵が奉行でいる限り、一生牢屋暮らしで再び世間に出る事が出来ないと思い脱獄を決行しました。
    高野長英にとって不運なことに脱獄した同時期に水野忠邦が老中に返り咲き、鳥居耀蔵は失脚
    することになりました。 結果論ですが、 長英は脱獄しなくても世間に出られる可能性があった
    だけに残念です

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    1.  高野長英は本当に不幸でしたねぇ。あともう少し時代が下れば大活躍できた人材だっただけに、その死が惜しまれると共に、相手が鳥居では脱獄を図ろうとしたのも無理ない気がします。
       また高野に限らずとも安政の大獄では多くの知識人が葬られ、返す返すもそれら貴重な人材の喪失はもったいないという一言に尽きます。現代でもそういうことが起きないよう、歴史を鑑としてやってかないと駄目ですね。

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