本日二本目。
前に南宋末期の著名な戦いである襄陽・樊城の戦いを取り上げましたが、今日するのはその後のお話しです。襄陽・樊城の戦いの戦いで最大重要防御拠点である同地を元軍に攻略された南宋軍はその後も連戦連敗で、ついには首都である臨安を落とされてしまいます。しかし南宋の家臣団は抵抗をあきらめず幼い皇帝一族を連れて南へ南へと逃げ、当時はほとんど開発が進んでなかったと思われる現在の広東省地域にまで逃げて亡命政権を打ち立てていました。
しかしそんな抵抗勢力の存在を元軍は許すことなく、亡命政権に対しても追撃軍を差し向けました。無論南宋軍はそうして迫りくる元軍に勝てるわけはなく依然と連戦連敗を続け、最終的には源氏あの香港近くにある崖山という場所で、元軍と海上決戦に臨みました。しかし海上戦に不慣れな元軍が相手とはいえ時既に大勢が決まっていた状況で、当初は有利に戦いを進めたものの徐々に追い込まれ、結局南宋軍はこの決戦においても敗北することとなりました。
当時の南宋の皇帝は9歳の祥興帝で、ほぼ間違いなく政治の実権は持っていなかったと思える年齢です。決戦後、祥興帝に講義を行っていた陸秀夫は運命を決めたのか幼い皇帝を抱いたまま入水し、これによって南宋は完全に滅亡することとなります。
この過程を見てピンときたら110番ですが、見てわかる通りにまるきり壇ノ浦の戦いの再現です。この崖山の戦いは1279年ですが、壇ノ浦の戦いから約100年後にほとんど同じ経過というか日本の安徳天皇のように入水して亡くなった幼い皇帝がいたというのはなかなか奇妙な縁でしょう。当時の日本側もこの偶然に感じるものがあったのか漢詩などで幼い皇帝を悼む詩が作られたりするなどされたとのことで、自分も面白いと思ったのでここで紹介することとしました。
ネット上ではこの崖山の戦いで後周の柴氏の子孫が戦死したと書かれています。私は現物の資料
返信削除を見ていないので本当かどうかはわかりませんが、もし本当なら、趙匡胤の石刻遺訓は南宋末期
になっても実行されていたという事になりますね。
またマニアックな内容を突いてきますね。ってか柴一族がこの時期までいたとはちょっと驚きです。直系の元皇帝はすぐ死んじゃいましたが、趙一族はほんと律儀ですね。
削除別のサイトで皇帝と陸秀夫との会話がえがかれたものがありました。真偽はともかく、文明の皇帝らしい表記のやり取りでした。後世の人間が美化した面が強いのでしょうが、皇帝になる予定のなかった人間が皇帝の座にもあるのでしょうが、自分が死ねば民は救えるのか?という問いかけは実権を持たない為政者であっても皇帝としての理想をあらわす言動でしょう。就く。多分人質としての人生の方が幸せだったかもしれない人に対する礼
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