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2016年7月13日水曜日

日本を破った米海軍三将~チェスター・ニミッツ

 二次大戦史において日本陸軍、海軍の将軍らはそれぞれ数多く紹介、分析されており、ちょっとしたまとめ本でも買ってくればある程度の有名どころはすぐに調べられます。然るに、その日本軍と戦い打ち破った米軍側の将軍についてはあまり取り上げられることが少ないのではないかと大体今年二月辺りにふと思いつきました。
 彼を知り……ではないですが、日本を破った米軍側の将軍はどういう人物でどんな戦略だったかを知るということはあの戦いでどうすべきだったのか、どんな判断が正しく、間違っていたかを考察する上で非常に重要であるように思えたため、とりあえず私の方で解説できる範囲としてしばらく二次大戦時の米海軍将軍をを取り上げます。一発目の今日は、事実上の海軍総司令官として指揮したチェスター・ニミッツです。

チェスター・ニミッツ(Wikipedia)

 ニミッツはドイツ系アメリカ人としてテキサス州で生まれます。当初は陸軍士官学校への入学を希望していたものの、当時の米国の士官学校は議員などの推薦がなければ入学できず、頼った伝手の下院議員がウエストポイント(陸軍士官学校)への推薦枠を使い切っていたため、代わりに余っていたアナポリス(海軍士官学校)へ推薦してもらい、海軍士官としての第一歩を歩みます。
 下級士官の頃は謹厳実直な性格で真面目に勤務をこなしていたようで、一次大戦の勃発もあって比較的早い昇進を遂げながら「海軍の休息」と呼ばれた一次大戦以後の戦間期を挟み、1941年の真珠湾攻撃を迎えます。

 真珠湾攻撃時、ニミッツは名うての潜水艦艦長として日本側にも知られていましたが、早くからその指導力と見識を買っていたルーズベルト大統領によって太平洋艦隊司令長官に就任するよう求められます。当時、彼よりも年齢の高い将軍もいたことから当初は難色を示すものの最終的にはこれを承諾し、事実上の太平洋戦争における米海軍総指揮官として日本と向き合うこととなります。
 司令官に就任したニミッツはまず最初に真珠湾攻撃について、「誰にも防ぎようのなかった事態だった」として一切の処分を行わないと訓令し、周囲を固める幕僚も前任者のメンバーをほぼそのまま受け継ぎました。この処置によって曲者揃いの提督たちの心を一気に掴み(どうでもいいが英語でも「ハートキャッチ」っていうのかな?)、その後も一貫して彼らの信頼を一身に受けながら統率のとれた艦隊指揮を続けていきます。

 個々の海戦についてはあまり詳しくありませんがニミッツが実際に行った決断で最も戦果が高かったものとくれば、日米の好守が完全に逆転したミッドウェー海戦において他ならないでしょう。このミッドウェー海戦前、米海軍内では日本軍がミッドウェー島の占領を図ってくるか、ハワイを再攻撃してくるかで二つに割れていたそうです。かつてに日露戦争でもバルチック艦隊の回航ルートがどちらになるかを見定めることが大きな勝敗要因になりましたが、この時の米軍も同じような感じだったのではないかと思います。

 ニミッツはこの際、日本軍はミッドウェー島を通ると判断して島内の防衛設備拡充に努める一方、作戦目標を島の防衛ではなく攻めてきた日本軍、特に空母艦船の撃破一本に絞り、島内の部隊に対しては、「あなた方がどんな目にあっても海軍は助けない」と非常な通知を行っております。また的空母撃滅という目標を必達するため、可能な限りの戦力をこの海戦につぎ込んでおり、修理に三ヶ月かかると見積もられた空母「ヨークタウン」も、「これならいける」と言ってわずか三日の修理を経て出撃させており、文字通り日本との決戦に臨んできました。

 結果は説明するまでもなく、日本側は多数の艦船を失いこれ以降の戦闘の主導権は完全に米軍へ握られることとなりました。しかしこのミッドウェー海戦単体で取るならば実は米軍艦船の損害の方が大きかったというのは、戦史マニアであれば誰もが知っている事実です。
 それでも何故日本の敗北とされるのか。理由はいくつかあり、日本はこの戦闘で主力空母の「赤城」、「加賀」等を失い、それに伴い大戦初期を支えた多くの熟練パイロットも失いました。米軍側はほぼ一ヶ月に一隻のペースで新造空母を建艦出来ましたが日本側はそれだけの工業力を持っておらず、事実上、一隻失ったらもう取り返しがつかないという台所事情でありました。ましてや「赤城」、「加賀」級の空母はその後作られることはなく、将棋で言えば飛車角を一気にとられたと言っても過言ではないでしょう。

 さらに踏み込んで何故日本はこのミッドウェー海戦で負けたのかというと、その原因として挙げられる有力な説としては作戦目標が米艦隊の撃破なのか、ミッドウェー島の占領だったのかどちらかはっきりしなかったためとされており、私もこの説を支持します。本当に笑っちゃいたいくらいなのですが戦闘が始まってもどっちを優先するか一切指示がなく、そのため現場の指揮官たちは米艦隊を迎撃しつつミッドウェー島にも攻撃をかけなければと動き、結局虻蜂取らずみたいになってぼろぼろにやられるわけとなりました。この点、初めから一貫して「主力空母撃破」を掲げた米軍とは対照的でしょう。

 こうしてミッドウェー海戦を制し主導権を握ったニミッツはその後も着実に戦果を上げていき、日本のポツダム宣言受諾後の9月2日に行われた戦艦「ミズーリ」での降伏文書調印式にも臨みました。終戦後は海軍作戦部長の地位に就いた後で引退し、マッカーサーと違ってそれほど国民的人気がなく地味だったことから特に政治とは関わることなく天寿を全うして亡くなっています。

 諸々の資料を見る限りだとニミッツは本当に真面目で実直な人物であり、組織の統率においては右に出るものがないほどチームをまとめ上げられる人物だったそうです。実際、この後で紹介するつもりのハルゼーもニミッツに対しては深く信頼し、その指示や意向に口を挟まずに従っています。
 そんなニミッツですがこちらもまた今度紹介するつもりのスプルーアンスともども若手士官時代、日露戦争直後に練習艦で日本を訪れ東郷平八郎と会う機会があり、彼について深い尊敬の念を覚えたと手記に残しております。そして戦後、日露戦争の旗艦であった戦艦「三笠」が好き勝手に部品取られた挙句にダンスホールとして使われていることを知り、「もっと大事に保存すべきだ。俺も金を出す!」とわざわざ言い出し、これを受け日本国内でも三笠の保存運動が高まり現在の様に横須賀市で記念館的に保存されるきっかけとなりました。

 こういってはなんですが、真に武人らしい武人だというのが私のニミッツ評です。

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