・レイモンド・スプルーアンス(Wikipedia)
前回記事に引き続き、二次大戦で米海軍を率いた将軍というか提督として今日はレイモンド・スプルーアンスを紹介します。
スプルーアンスはメリーランド州の比較的裕福な家庭で生まれますが、彼が青年になる頃には破産し、学費の当てがないことから大学には行かずアナポリス(米海軍士官学校)への進学を決めます。卒業後は若いうちから海上任務に就きますが、一時期は電気技術の研修のためゼネラルエレクトリック(エジソンの会社)にも勤務しています。
若い頃から優秀と目されたことからスプルーアンスは順調に出世を重ねていきますが、一番の転機となったのは第一次大戦後の艦隊勤務で、後にともに日本海軍と戦うこととなるハルゼーの部下となったことでしょう。就任当初からスプルーアンスとハルゼーは意気投合し、ハルゼーもスプルーアンスの能力と人格を激賞して後の彼の抜擢に繋がります。
真珠湾攻撃が行われた日米開戦当時、スプルーアンスは太平洋艦隊の一司令官として航空機の輸送任務に就いており、海上でハワイが攻撃されたことを知ります。そして当時太平洋艦隊を束ねていたハルゼーの指揮の元でしばらくは太平洋上で指揮を執り続けましたが、真面目に世界の海戦史上でも屈指の決戦劇となったミッドウェー海戦の直前にハルゼーが急病となり戦場を離れ入院することとなります。この時ハルゼー自身の推薦もあり総司令官のニミッツはスプルーアンスを後任として任命し、世紀の一大決戦において当時の米海軍にとっても虎の子の空母艦隊を率いることとなりました。
この時スプルーアンスは、ハルゼーからの要求もありましたが自分の親しい幕僚はほとんど連れていかずにハルゼー時代のスタッフをほぼそのまま留任させています。ハルゼーのスタッフたちはスプルーアンスについて航空艦隊の指揮経験のない提督としか知らずその資質について疑問視するような目もあったそうですがスプルーアンスが就任直後に言った、「君たちが優秀な人間たちであることはハルゼーが選んだ時点でわかっている」という言葉を受けて彼を信頼するようになったそうです。もっとも、当のハルゼーがスプルーアンスの就任以前に、「今度来る提督は間違いなく優秀な奴だからてめぇらも黙ってその指示聞きやがれよこの野郎」的なことを言っていたということも見逃せませんが。
こうしてスタッフの信頼も得たスプルーアンスは来たるミッドウェー海戦において、ニミッツの指示を忠実に守り見事に日本の航空艦隊の撃破に成功し、その勝利の立役者となります。その後一旦ハワイに戻った後で充実した戦力を持つ艦隊の司令官に就任し、太平洋上の各島々の攻略作戦を指揮し、ほぼワンサイドに近いと言われたマリアナ沖海戦でも大勝してのけています。最後の艦隊決戦と言われるレイテ沖海戦には参加しませんでしたが、ここはハルゼーがいろんな意味で大活躍したのである意味いなかった方がよかったかもしれません。
その後は硫黄島の戦い、沖縄攻略を指揮し、沖縄戦では日本の特攻攻撃に自身もあわやというほど危険な目にあっただけでなく艦隊も大きな損害を受け、ニミッツの判断で沖縄戦の途中で指揮権をハルゼーと交替するとグアム島に戻り、終戦もその地で迎えます。終戦後はしばらく日本での上陸任務に就いた後、ニミッツの後任として太平洋艦隊の総司令官となるもこの職をわずか二ヶ月で降り、海軍大学校の校長を経て現役を引退します。引退後はトルーマンの要請を受けてフィリピン大使にも一時期就任していますがそれほど政治には深くかかわらず、穏やかな引退生活を送った後に天寿を全うしています。
スプルーアンスについて私の評価を述べると一言でいえば「地味」な感じする人なのですが、自分の考える一番恐ろしい相手ってのはまさにこういう「地味に優秀な人」だったりします。何故かというと地味な人は視界に入らず自然とその警戒も怠りがちとなり、突然表舞台に出て来られると対策が取れずにあれってな感じでやられてしまうこともあり、密かに「地味」というのは一種の強みでもあると考えています。
実際、彼について知っている現代日本人はほとんどいないでしょうが、ミッドウェー海戦、ひいてはその後の太平洋上の戦いで米海軍を指揮し日本を打ち破る立役者の一人であったりします。ハルゼーみたいに無駄に目立っている提督もいますがこういう隠し玉的な人材も持っていた辺りが米海軍の優れていたところだと思えるわけです。
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