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2016年9月16日金曜日

満映と中国映画の系譜

【画像】 観光客の自撮りにうんざりする奈良公園の鹿の写真が話題に(痛いニュース)

 関係ないですが奈良の鹿話なので一応。基本的に鹿はカメラを向けると目線を真顔で合わせてくるんでカメラ写りがいい動物だと信じています。

 話は本題に移りますが、今月の文芸春秋で気になった記事の中に満映こと満州映画協会関係者の記事が載せられていました。どういう記事かというと戦前に満映で編集係として活動していた女性を取り上げ、その方が死ぬ前にもう一度と満州こと現在の中国東北部にある吉林省長春市を訪れる話です。
 満映自体が戦前の会社であることから想像がつくでしょうがこの取り上げられた女性の年齢は現在95歳で、一人で歩行できるものの大事を取って車椅子で移動することにして長春を訪れていました。旧満映本社は現在、市の映画博物館となっており、この女性の訪問に際して入り口では元座員の館長とともに、かつて満映でこの女性から映画編集技術を教わっていた御年94歳の中国人男性もやってきており、二人は一目見るなり「懐かしい!」といって手と手を取り合ったそうです。少なく見積もっても60年ぶりの再会ですが、リアルにキャプテン・アメリカみたいな再会を果たしていました。

 話を戦前に戻すと満映で編集係として活動していたこの女性は終戦後はすぐには引き揚げず、しばらく満映に残り中国人スタッフへの指導を行っていたのですが、中国で共産党と国民党の戦争が過熱するに伴い映画関係者らは長春より北の地域に移動させられ、そこで指導を続けていたそうです。その後一旦は長春に戻ったもののすぐに日本への退去命令が出されたためこの女性が日本に戻ったのは1950年代に入ってからなのですが、この時期に指導していた中国人映画関係者が後の中国映画草創期の人材となっていくわけです。
 具体的にはこの時に育てられた人材が中国の映画養成所の指導者となり、この養成所からは世界的にも有名なチャン・イーモウや、私が文化大革命の連載で一次資料とした「私の紅衛兵世代」を書いたチェン・カイコー(陳凱歌)といった監督陣を輩出しており、こうした点を考慮すると満映の系譜は現代の中国映画に連なっていると言っても過言ではありません。

 私の学生時代に中国語の講師だった先生がまさにこの方面の専門家で一回だけ授業で詳しく教えてもらったこともありましたが、現在の中国映画業界には上記の様に満映をルーツとする流派と、香港映画をルーツとする流派が存在しており、両者が混ざり合った状態が今の中国映画業界だと言えるそうです。ただ先ほどの陳凱歌を始めとして映画業界は思想宣伝に関わる分野であったことから一定の年齢以上の層はほぼ例外なく文革の影響を受けており、最初に取り上げた女性と再会した中国人男性も、当時の思想弾圧によって最初の妻は自殺し、本人も辛酸を舐める生活を一時余儀なくされたということを話しています。

 逆を言えば、中国映画には必ずと言っていいほど文革の影が纏っているとも言えます。何気に昨日に友人とも話したし一昨日には上司とも話をしたのですが、今の映画関係者は文革と天安門事件を経験しておりその時の体験が嫌が応にも作品に現れてしまうし、そうして浮き出てくる要素こそ中国映画の魅力というか長所にもなっていると言えるでしょう。日本においても戦争体験と全共闘の二つが映画業界の中で重きをなしているというか重要な要素で、こうした広く共有されている強烈な体験こそいい映画を生む条件なのかもしれません。
 翻ってアメリカ映画を見るならば、あんま詳しくはないですがやはりベトナム戦争がかつては一番大きく、現代においては9.11でしょう。むしろ9.11なしに現代のアメリカ映画は語れず、この要素をどれだけうまく、静かに表現できるかによって作品の優劣が決まるというところもあり、「アバター」、「ハートロッカー」や「アメリカンスナイパー」等はまさにその典型と言えるかと思います。

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