2007年の事だったと思いますが社会学者の鈴木謙介氏の講演を聞きに行ったことがあり、この講演で鈴木氏は、「これからの世の中はすべて二極化する」と話していました。その具体例として鈴木氏は音楽ボーカロイドの「初音ミク」を引用して、「作曲した曲と歌詞のテンポを合わせるため試しに歌わせる作業はこれまでプロになりきれないセミプロの歌手が担っていたが、今後はこの初音ミクで代替されるため、これで生活してきた人は仕事を失くすだろう」と述べ、このようにこれまでは玄人と素人の中間にも仕事があったが今後はその中間の仕事がなくなるため単純に「食えない素人」が増加すると指摘していました。
あれから大分年月も経ちますが、この指摘はやはり正しかったように思えます。ほかの国はどうだか知りませんが少なくとも日本社会においてはそれまで曖昧だった境界がどんどんと明確化し、またそのラインとなる基準もより厳しさを増しています。
いくつか例を挙げると、たとえばゲームだとほんの少しでも些細なバグがあればネット上で槍玉に挙げられて即欠陥品として批判され、生活用品でも使用には問題なくても色あいや形が少しでも崩れていたらこれまた即クレームが起こってメーカーは四苦八苦する羽目となります。かつてであればゲームのバグもよほど進行不能とならない限りはユーザーも多めに見て(進行不能でも許されてたこともある)、生活用品も色合いの一つでおかしいと指摘すれば逆に気にし過ぎだと言われていたように思えます。
こうした「境界の明確化」というか「厳格化」は最初に話した職業の面でも同様で、そこそこの実務スキルを持つ人間でもかつてはそこそこの給与で勤務することが可能であっても、現在においては給与を一段下げたとして勤務すること自体が出来なくなっているのではと思う節があります。何故なら、その人が持つのは中途半端なスキルであって、曖昧な社会では「0.5」とみなされたものの厳格な社会だとゼロサムであるため「0」か「1」しかなく、「1」未満はすべて「0」だからです。
逆に正規スキルホルダーは以前以上の給与を得られることとなります。もっともその一方で、それまで「そこそこのスキルホルダー」が担ってきた業務も担わなくてはならないので前より忙しくなっているのではと思う節もありますが。
長く語ってもしょうがないので結論を述べますが、こうした風潮なり傾向は私が歓迎するところではありません。単純にこの傾向は労働、富の偏極化をもたらし、社会が全体として弱くなる要素を多分に含んでいるように思えるからで、社会全体としてもっと寛容な姿勢を持つような志向が求められている気がします。より端的に述べれば、もっとカオスな社会を私は望んでいます。
またもう一つ例を取り出しますが表現の世界でもやたらと表現を狭めようとする傾向が目立ち、90年代に流行したかつての言葉狩りは勢いが減ったものの今度は「著作権」がやたらと出張るようになり、実在する会社や商品名を作品に登場させることについていちいち許諾が求められるようになるなど世知辛い社会になってきたという気がします。虚偽の事実やあからさまに貶めようとする表現は確かに排除すべきですが、街の風景としてマクドナルドやガストといった飲食店舗をそのままの名前で出したらダメって一体何でやねんと実はすごい不満に覚えたりします。何故なら今そこにある現実を否定するかのような所業に感じるためで、こうした物が続いて行けば現実を表現すること自体が否定されるのではと危機感も覚えます。
最後にもう一つ書き残すと、何故社会が厳格化したのかというとそれは間違いなく社会が情報化したからで、コンピューターの世界が現実社会にも浸透してきたとみていいでしょう。映画の「マトリックス」じゃないですが、あまりにも厳格化した社会だとどうしても齟齬が起きるのだからいくらかファジーな部分、工学でいうなら「遊び」の部分を設けるべきだと私は思うのですが。
より厳格化とより融通化は、国際社会のレベルと関連づけるべきかと思う
返信削除この方面のラインというのはなかなか難しく、一概に「理想の基準」という絶対値はないかと思います。時代に合わせて変えていくべきもので、国際社会のレベルというのもそういう意味では一つの基準でしょう。
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