ココイチでおなじみのカレーチェーンの壱番屋を創業した宗次徳治氏は1948年の生まれで、出身地は石川県とされています。宗次氏が語る最も古い記憶は四歳か五歳の頃に母に手を引かれて夜逃げするところというのっけからデンジャラスなシーンから始まるのですが、それからしばらくして父親のDVに耐えかねた母親は出ていき、子育てを全く省みようとしない競輪狂いの父親と二人で過ごすこととなります。
当時について宗次氏は、父親からは食事の世話をしてもらうこともなくもっぱら学校の給食を主要な栄養源として、どうしてもお腹がすいた時は河原で草を食べるという毎日を過ごしてたそうです。その父親も生来の荒れた性格から何度も住居を引っ越すというか夜逃げしており、当初は宗次氏に同情した周囲の人も段々と避けるようになっていったそうで、その父親からは宗次氏も何度も折檻を受けていたと話しています。
もうこれだけでも十分物語が成立する宗次氏の人生ですが、十五歳の頃に高校入学準備のため戸籍謄本を取り寄せた時、自分が養子であったという事実を初めて知ります。それまで宗次氏は自分の名前を「基陽(もとはる)」と思っていましたが実の名は「徳治」で、実の両親の名前は全く身に覚えのない名前だったそうです。
この時、胃癌で入院していた父親に話を聞くと三歳の頃に孤児院から引き取ったという事実を明かし、名前を変えた理由は「ギャンブルで負けが続いていたから」ということも教えてもらいました。その時について宗次氏は、「お前はもらってきてやったんだ」とよく言われていたのは事実だったんだなと思ったそうです。なんていうか、ツッコみどころそこなんだという風に思える言葉ですが。
実の両親の存在を知った宗次氏ですが、その両親を探そうという気持ちは全く出てこなかったそうです。本人曰く、出生に関心がなかったそうで、養父の入院、そして死去後は養母と暮らし、高校卒業後は名古屋の不動産販売会社に就職しました。そして結婚後、独立して不動産仲介業を営みだしたころ、奥さんと話し合い事務所近くで喫茶店を運営することにしました。運営は奥さんにまかせるつもりでしたが初日に手伝ったところ、「こっちのが面白いじゃん」と思うに至ったそうで、翌日にはもう不動産業をやめてしまい喫茶店専業で働きだすことにしました。
喫茶店業について宗次氏は、名古屋喫茶店ではモーニングサービスが無料で盛り沢山ついてくる文化があるにもかかわらず経営した「バッカス」という喫茶店では一切そういうのはやらず、小皿のピーナッツにすら30円のお金を取る料金形態としたそうです。これには客から文句が来るどころか銀行の融資担当からも反対されましたが、お客専用のカップを保管しておく「マイカップサービス」などほかのサービス面で差をつけ、開店から十ヶ月後にはもう二店舗目をオープンするなど繁盛したそうです。
そうして喫茶店を経営するうち、奥さんが作っていたカレーを提供してみたところこれがまた売れに売れたので、相変わらずの切り替えの早さというかすぐまた「カレーハウスCoCo壱番屋」を作ってカレー専門店を経営するに至ります。この「ココイチ」で画期的だった点はご飯の量はおろかルーの辛さも五段階で選べるようにして、それをきちんと料金に反映させたことだと宗次氏自らが胸を張って述べていますが、さすがに当時は生きてはいなかったのでほかのカレー屋はどうだったのかわかりますが、現在ではこうしたココイチのオーダーシステムがカレーチェーンにおいてスタンダードになっていることを考えると確かに画期的だったのではと思う偉大な一歩です。
ただココイチ一号店はオープンさせたものの、宗次氏曰く、「一日の売上げが六万円を越えたら二号店を出そうと思っていたのだがk路絵が大変な苦労だった」と述べ、二号店が出せたのはそれから一年後だったそうです。一年で二店舗目を出す辺り相当早いと思うのですが、この人のスピード感覚じゃそれでも遅かったのでしょう。この辺にやっぱ元不動産屋らしい臭いを感じます。
その後あれよあれよといううちに世界規模でココイチは拡大を続け、あまりの忙しさに子供の口に哺乳瓶突っこんでから家を出たこともあったそうでこの時のことについて、「危ないことをしていた」と語る辺りなんとなく余裕が感じられます。ただ、ココイチが拡大する中にあっても徹底的な現場主義的意識を持っていたとのことで、店舗に寄せられる「お客様の声」は毎日全通を宗次氏が読んでいたそうで、一日千通を超えると三時間以上かかるから朝五時に出社して読んでいたというエピソードまであります。
宗次氏についてはその激しい少年時代を送っていたこともさることながら、個人的には各インタビューでまるで他人事のように話すのが特徴的だと感じます。普通、こういう苦労話は多かれ少なかれ自慢めいて苦労したことが強調されるのですが、各雑誌などに寄せられるインタビュー記事を読んでも全くそうした話し方はせず、淡々と語っているのが非常に不思議に感じます。
そうした淡々とした、というよりは拘泥しない姿勢は経営引継ぎにも現れており、株式上場を決めた1998年に社長から会長に移った際の後釜の社長には奥さんがなりましたが、2002年には二号店のオープン時に19歳でアルバイトで入ってきた現社長(浜島俊哉氏)に社長職を引き継がせ、完全に経営から身を引いています。普通こういう会社の場合、自分から子供へ直接引き継ぐパターンが多いのですが、実際の行動としては全くそうした行動はとられておらず、上にも書いた通り全くこだわりというものがこの人には見えません。
経営者としては上でも少し書いたように、桁違いの体力とスピード感はまさしく昭和の一代創業型経営者の典型といえるものでしょう。高度経済成長期に出発しているとはいえ不動産やから喫茶店、喫茶店からカレー屋へと至る過程は非常にスピーディで、なおかつ店舗拡大の速度も明らかに異常です。更に言えばその後の90年代以降の不況期にあっても競争激しい外食業界の中で着実に成長を続けたその手腕は見事というよりほかありません。
なお家族についてですが、なんでも一昨年に知らない司法書士から連絡があり、遺産相続放棄を求められたそうです。その時になり実の父親が死んだことを初めて知ったそうですが、言われるままに放棄したそうです。
最後にどうでもいい余談ですが、ココイチは中国でも出店しておりますが以前に記事で書いたように中国でも味は全く同じでかえって不気味さを覚えます。最近は行っていないのですが、日本で最後にココイチ行ったのは2013年の7月辺りで、当事無職でプータローしてたので自転車で行ってなんとなくいつもより店内で居心地悪かったのを何故か覚えています。頼んだのは野菜カレー(3辛)だったと思いますが、味はやっぱり上海の店と同じだなー、早く職見つけたいとか思いながら食ってました。
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