この週末の二日間、自分でも呆れるくらいにKindleの電子書籍をダウンロードしておりました。というのもここ一ヶ月くらいずっと、一切全く何もダウンロードできなかったからです。あくまで私個人の主観で理由を予想すると、恐らく中国では11月11日(双十一)が「独身デー」といってインターネット通販の大幅値引きキャンペーンが毎年各社で行われているため、この前後の期間でサーバーへの負担を軽減するために国外の一部ネットサービスに制限をかけていたのではないかと睨んでいます。現に双十一が終わってまた復活しましたし。
この間に購入はできてもダウンロードの出来なかった新刊を始め、無料キャンペーンで配信されていた漫画などもあらかじめ購入クリックしていたため、ダウンロードが復活するや一挙に十冊近くダウンロードし始めてしまい、また途中途中で読んで気に入った漫画をさらに追加で大人買いしたりしたもんだからなんかずっとタブレットを片手に持ってた様な二日間でした。なお読んだ中で予想外に面白かったのは金田一蓮十郎氏の「ライアー×ライアー(「ハンター×ハンター」っぽいタイトル)」でした。
話は本題に入りますが。今回無料だからといってダウンロードした中には押見修三氏の「悪の華」の1~2巻もあり、この漫画は既に一回通しで呼んでいるものの久々に読み返したところ相変らず面白いと感じると共に、「この作者はこの作品で燃え尽きたのかな」と思う節がありました。
この「悪の華」は全11巻で構成されており中身は主人公が中学生の頃と高校生の頃とで大きく前後編に分かれているのですが、私を含め後編の「高校生編」はあまり評価が高くありません。逆に前編はヒロインこと「仲村さん」という超絶エキセントリックなキャラクターが口を開けば「クソムシが、クズネズミが」という毒舌をまき散らし、今回読み返した際も既に内容を把握しているにもかかわらず毎回強く圧倒されます。
私はこの「悪の華」の後に押見氏が描いた「ぼくは真理のなか」、「ハピネス」も読みましたが、単純に嗜好の違いだけかもしれませんが「悪の華」に感じた圧倒的な迫力は全く感じられず、はっきり言えばどっちもあんま面白くありませんでした。しかもエキセントリックなヒロインがぐずぐずした男性主人公を引っ張り回すというような構図がずっと続いているし。
逆に、「悪の華」が連載される直前に押見氏が描いた「漂流ネットカフェ」はまだ面白く、「悪の華」程ではないにしろやはりそれなりに作者の持ち味が出ていて読んでて迫力も感じられて個人的に高く評価しています。それだけに、やはりこの作者は「悪の華」前編終了時に少し燃え尽きてしまったのかなと今回感じたわけです。
なにも押見氏を貶す目的でこういうこと書いているわけじゃなく、やはり漫画家なり作家なりには表現する力のピークというか波というものは確実に存在します。以前に取り上げた週刊少年ジャンプの編集長をしていた鳥嶋氏も、対談で話した「ベルセルク」という漫画の作者である三浦建太郎氏に対し、「ベルセルク」の前半終了部における「蝕」という場面を名指しして、「あそこで君は一回燃え尽きた」というようなことをはっきり述べ、言われた三浦氏もその通りと認めていました。
複数の作品を長期に渡って書く場合でも、長期連載作品の場合であっても、やはりどこかしらにその作者の表現にはピークがあります。しかもピークを一旦迎えてしまうと大きく調子を落とさない限りは読者は依然と面白さは感じ続けられるものの、段々と面白さが増していき盛り上がっていくというような臨場感はどうしてもなくならざるを得ず、「今も面白いけど前のあの辺りの方がすごかったよなぁ」なんて言われてしまいます。私が子供の頃だったらやっぱり「ドラゴンボール」のフリーザ編最終盤がまさにこうして挙げられる例の筆頭でした。
逆の例としては、「ハンター×ハンター」でヨークシン編が非常に面白く、もうこれ以上この漫画は面白くはならないだろうと思ってたら、その後のグリードアイランド編、キメラアント編はもっと面白くなっていきこの作者すげぇと心底思いました。
話は戻りますが、やはり早くにピークを迎えてしまうとどちらかといえば不便です。確か「ジョジョの奇妙な冒険」の作者の荒木飛呂彦氏が連載漫画で人気を維持する上で段々と面白さというか熱を高めていくことが大事で、基本的には右肩上がりの展開を維持するべしと言ってましたが、私の言わんとすることもこれと同じです。しかし意図的にそういう風な右肩上がりの話を作っていくならともかく、作者個人のセンスなり感覚なりがピークを迎えちゃうと、まぁちょっと言い辛いですがあんま良くないです。
場合によってはそこからスランプに入り、「ブラックジャック」など大人向けの漫画を描くようになった手塚治虫や、昭和史を始めとした歴史、伝記、自身の戦争体験漫画を主軸に置いた水木しげるなど新境地を切り開き復活する漫画家もいますが、こういうのはどちらかといえばレアでしょう。
小説に関してもそうですが、やはり話作り、文字表現などはどこかしらでピークを迎え、そこから段々と落ちていくものだと私は考えています。無論ピークを迎えたからと言ってその後の作者は即無価値になるというわけではなく、その後は作り上げたキャリアや経験を使った表現活動を行って行けばいいのですが、ピークを迎えるまでと迎えた後でどのように心境を置くかで物事がいろいろ変っていくのではないかという気がします。
ここで私個々人の話になりますが、地味に文章表現に関してはとっくにピークを過ぎており、具体的に言えば2009年に連載していた「文化大革命とは」の記事を書いてた頃がピークで、この連載記事を読み返すたびによくこれだけ難しい内容をここまで小ざっぱりまとめたものだと我ながら呆れると共に、同じような表現を再現しろと言われたら無理だという本音が出てきます。昔から難しい内容をわかりやすく説明するという表現には自信があったものの、多分もうあの頃以上にこうした表現を駆使することは永遠にないでしょう。
一方でその後、表現手法を色々学んだこともあって新聞記事としての表現、アジテーターっぽい表現、分析レポート的な表現に関しては間違いなく今の方が上で、野球に例えるならかつて猛威を振るった縦に大きく割れるフォークこそ失ったものの、カーブやチェンジアップなど他の変化球を習得して使い分けが上手になったというような感じです。ただ欲を言えば、昔みたいなフォークを「┌(`Д´)ノセイヤッ」とばかりにもう一度投げたいという願望は常にあります。
文章表現に関しては上記の通り、器用さは増したものの一点突破的なパワーではピークを越してしまいましたが、ことセンスというか観察力、判断力、分析力に関しては未だピークを越えておらず、毎年確実に凄みを増してきているという実感はあります。どうしてそう感じるのかというと単純に、同じ風景を見ているにも関わらず以前は気づかなかった違いやポイントを今だと簡単に気づけるようになっており、また一つのニュースを見てもそこから導き出される次の展開予想の数が毎年増え続けているからです。最低でもあと二年くらいはこの方面の成長は続くようにも感じているのですが、ただでさえ歩いている最中も常に何か考えててボーっとしており周囲に気が付かないことが多いだけに、二年先以降もピークを迎えなかったら逆にヤバいのではないかと一人警戒しています。
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