家の近くのあるお店のドアに、「当店は観賞用の魚販売店であってレストランではありません」と書いてあってなんか笑えました。さすが中国。
それで本題ですがちょこっと前に書きましたが1997年発行の村上春樹氏による「アンダーグラウンド」という本を先日購入しました。この本は前から興味を持っていながらなかなか手を出さなかったもののようやく購入する決断ができたのですが、一体どういう本かというと小説ではなくルポルタージュで、その内容というのも地下鉄サリン事件被害者への直接インタビューしたものです。まだ読み途中ですが冒頭にて村上氏は、「事件後に様々な報道がなされたが、どれも自分が見たい内容の報道ではなかった」と述べ、自身が見たかった、聞きたかった内容こと事件の直接の被害者へのインタビューをわざわざ行って書いた本であると述べています。
この村上氏の心境ですが実は私も全く同じ考えを持っており、むしろ私の場合はオウム事件の被害者報道には偏りがあるという風に見ていました。どのように偏りがあるのかというと、オウム関連報道では地下鉄サリン事件以前のオウム事件の被害者ばかりがしょっちゅう取り上げられ、地下鉄サリン事件の被害者については全くないとは言わないもののその比重が極端に軽いという風な印象を覚えました。具体的に言えば坂本弁護士一家殺人事件をはじめとした、サリン事件以前の教団が関わった拉致殺害事件が中心です。
一体何故このような報道の偏りがあったのかというと理由は単純に、オウムの被害者団体がこれら事件の遺族らが中心となり、またオウム関連のジャーナリストや支援者たちもこれらの被害者団体と行動を共にすることが多かったためで、恐らく報道側にはそれほど意識はなかったものの結果的に被害者報道ではこちらへの比重が大きくなってしまったのではないかと思います。
その上で地下鉄サリン事件に関しては、この事件が発生して以降は一連のオウム事件がようやく明るみに出たため徐々に地下鉄サリン事件自体がフェードアウトし、またこの地下鉄サリン事件で被害者となった方々もあまり取材に応じなかったなどの要因も考えられます。この取材対応については「アンダーグラウンド」の中でも、メディアに誤った報じ方をされて警戒心を持つ被害者が多かったことなどが書かれてあります。
こうした前提があるだけに、この「アンダーグラウンド」は事件発生から約1年半後に当事者たちへ直接インタビューした、しかも余計なバイアスや質問をかけずに自由に被害者へ語らせているため、資料的な価値としては非常によくできた本だと思え、よくぞこうした記録を残してくれたと村上氏には感服させられるような内容です。実際そのインタビュー内容も同じ場面にいながら証言者によって内容が変わったり(駅員の対応や反応など)、各者の視点で語られてあって微妙な違いが事件当時の現場の状況について考えさせられます。
さてこのまま「アンダーグラウンド」について語り続けてもよいのですが、この本を手に取って自分がようやく手にしたものの紹介について話は移らせてもらいます。その手にしたものというのも、オウム事件を語るには複数、最低でも三つの視点が必要だということです。
本を取る前からなんとなくはイメージできていたものの、先ほど挙げた同じ現場にいながら微妙に異なった状況を証言するという個所を見てようやく文字化できるほど意識するようになったのですが、単純にオウム真理教と言ってもその構造や経歴、そして性格と犯罪は非常に複雑であり、現実に今の今に至るまでこの事件を総括したというか分析しきった解説はまだ出ていません。何故エリートたちがオウムに走ったのか、何故国家転覆を企てたのか等々、納得のいく説明や分析があったら私が教えてもらいたいです。
どうしてオウムの分析が難しいのかというと既に述べた通りに内包する要素が非常に多く且つ複雑であるからです。またその要素によっては、互いに相反する内容も含まれてあって理解や分析を妨げるものになりうるもの少なくありません。
グダグダ説明してもしょうがないのでもう述べますが、私はオウムを分析する上では少なくとも以下の三つの視点、それぞれで見る必要があるのではないかと思います。三つの視点と、それに含まれるキーワードのまとめは以下の通りです。
(視点:キーワード)
宗教:ヒンズー教、キリスト教、救世、創価学会、選挙立候補、終末論
カルト:土地取引、マインドコントロール、マハポーシャ、個人崇拝
テロリスト:国家転覆、毒ガス、犯罪、指名手配、教団省庁制、ロシア
(視点:被害者)
宗教:修行中の事故死者
カルト:坂本弁護士一家など非教団関係者
テロリスト:サリン事件被害者
(視点:その視点でオウムを語る記者や著名人)
宗教:島田裕巳、吉本隆明
カルト:江川紹子、小林よしのり
テロリスト:佐藤優、田原総一郎
上記はあくまで暫定的な分類ですが、このように一口でオウム事件とは言ってもその見方や分析の仕方は上記のように三つの視点で分かれており、その三つの視点で語るべき内容を無理やり一つの「オウム事件」として語るから訳が分からなくなるのではないかというのが私の仮説です。もっともこれを見る方には「宗教とカルトは一緒ではないか?」と思われる人もいるかもしれませんが、それを敢えて分けて見る試みが必要なのではないかと主張したいわけです。
例えば実際に、この三つの視点をごちゃまぜにして上記キーワードを当て込むとこうなります。
「オウム真理教はヒンズー教を柱に終末論を掲げた新興宗教で、次第に信者のマインドコントロールや個人崇拝を進めて土地取引に絡む事件を起こし、さらに国家転覆も企みサリンなどの毒ガスを使って都内で大規模な無差別殺人事件を起こした」
これを見てオウム真理教がどんな団体か、事件をあまり知らない世代の人に見せたらどんな反応を示すでしょうか。これを敢えて三つの視点で分割するとそれぞれこうなります。
「宗教としてのオウム真理教はヒンズー教を柱に終末論を掲げた新興宗教である」
「カルトとしてのオウム真理教は信者のマインドコントロールや個人崇拝を進め、土地取引に絡む事件を起こした」
「テロリストとしてのオウム真理教は国家転覆を企み、サリンなどの毒ガスを使って都内で大規模な無差別殺人事件を起こした」
こうなるわけですが、やはり視点を分割して各事件、特に被害者や実行犯を見なければ見えるものも見えなくなるのではと思います。そしてさらに言えば、それぞれの視点でそれぞれの結論も必要ではないかと思え、一緒くたにした結論というのは本当は存在しないのではないか、あってももう訳が分からないものになるのではと言いたいわけです。そして地下鉄サリン事件の実行犯に関しても、「宗教」と「テロリスト」の間に横たわるズレを見ることで、今までにないものが見えてくるような気がします。逆を言えば、視点を分けなかったことがこれまでのオウム分析における最大の躓きだったのではというのがこの記事の結論です。
最後に、もし私がこの三つの視点の中からどの視点を中心に据えるのかと、自分の属性に最も近いものをやはり選ぶことになるでしょう。
お久しぶりです(^^)多忙につき連日ではありませんが、
返信削除すべて楽しみに拝見させていただいております。
1Q84もオウム事件が元ネタでしたね。
今回、当時の現場を知る凡人のオッサンとして、
コメントさせていただきますが、
元々船橋になったオウム神仙の会時代は、
単なる風変わりなオッサンがやってるヨガ教室でしたが、
途中から荒唐無稽なホラ話をクソ真面目な若い連中に
語ったら、
まんまと催眠術にかかってしまったということかと。
勉強ばかりでしかも富裕層の家庭に位置していた彼らは、
己の肉体について思春期になっても、
正しく認識することができず、
大川興業がネタで出来るような空中浮遊を、
真剣に取り組んだものの、
ついにできず教祖を神と思い込んでいった
経緯があります。
人に騙されたという経験だとか、
貧しい側の金銭感覚を磨くといった、
少年少女時代の経験不足が原因だったかと、
思います。
地下鉄サリン事件の被害者サイドの見方については、
以前当方でも書きましたが、
近年ではマスメディアがプライバシーの問題だとか、
放送倫理を盾に被害者について報道したがらない、
傾向にありますが、
被害者たちは今だ後遺症の被害に苦しんでいます。
こういうことを報道できないというのも、
如何なものか?と個人的には苦々しく思います。
最近の若い人たちが「あれは革命的だった」、
というようなことをネットに書き込んでいることは、
非常に嘆かわしいことです。
PS.中国都市部の他民族性について、
ちょっとお伺いしたいと思います。
「中華」の称号を持たない出稼ぎ組との、
極端な差別は本当にあるのでしょうか?
彼らは「国歌」を歌わないというウワサなど、
今さらながらの愚問ですが、
改めてお伺いしたいと思います。
機会ありましたら一筆お願いいたしたく存じます。
いつもながら個人的にどストライクなコメントありがとうございます。
削除オウム事件は自分が小学生の頃の事件で未だに当時の記憶が強く残っていますが、今の若い世代というか平成世代からすればもう完全に過去の話となっているという事実は自分もちょっと戸惑う点があります。もっとも、「革命的」と捉えられてしまうのは分析や総括が不完全であるからではと思え、いつかライフワークにしようと思っており、派遣マージン率ももう役割は果たしたと思うのでこっちの方へこれから比重をかけてこうと思っています。
リクエストの中国都市部の多民族性についてですが、こちらに関してはある程度状況を把握しており、また具体的なエピソードも持っているので明日か明後日には記事を書いて出します。いつもながらいいネタ振りありがとうございます。