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2019年8月5日月曜日

皇道派と統制派の源流

排除された長州閥、昭和陸軍のえげつない派閥闘争(JBpress)

 というわけで全く受けなかった歴史連載の三本目ですが、自分としては割とこの記事は気に入っています。というのも、旧日本陸軍の歴史を揺るがす派閥抗争の主役である皇道派と統制派について、どうして成立したのかという過程がうまく書けている気がするからです。

 皇道派と統制派は、大学受験で日本史を先行した人間、並びに戦前軍事史に興味がある人間にとって忘れたくても忘れられない用語といっていいでしょう。陸軍内で生まれた両派閥の抗争は永田鉄山の斬殺(相沢事件)、そして二・二六事件の勃発にまで発展しており、特に後者は日本近現代最大のクーデター事件としてその歴史的価値も重いです。
 ただ、この皇道派と統制派がどうして生まれ、何をもって争っていたのか、一体どういう基準で派閥が生まれたのかという経緯については、大学受験時の私はいくら調べても全く理解できませんでした。皇道派がその名の通り尊王意識が強い集団なのかというと、統制派も決してその方面の意識が弱いわけではなく。皇道派は若手将校が多く統制派が中堅より上の軍幹部が多かったといいますが、皇道派も軍の要職にいた幹部は少なくありません。

 またかつて作家の佐藤優氏はこの両派閥の抗争について、単なるポストをめぐる世代間抗争だと評したことがありましたが、これもやはりしっくりこないと言うか、確かに皇道派が若手将校が多いものの、そんな軍内の世代抗争はどの時代、どの国にも普遍的なもので、何故戦前の日本においてこれほどまで抗争が先鋭化したのかという点で疑問でした。
 そもそも、両派はいつどうやって生まれたのか。各歴史本でも突然生まれた、もしくは始めから底にあったかのように説明しているものが多く、このほか統制派だった元軍人は「自分たちで統制派とは名乗ってなかった」、「皇道派の連中が勝手にそう呼んでいた」、「後世になってから呼ばれ始めた」などと証言しており、本当にこういう構想というか派閥が分かれいたのかという点でも疑問でした。

 最後に、両派閥の区別と言うか主張の違いは何だったのかという点において、日本の防衛構想でソ連を仮想的にして北に備える派(皇道派)と、中国を先に叩いておいてからソ連に備える派(統制派)という違いがあったという説明もありました。しかしその後の経過を見ると、皇道派に属すと思しき軍人が結構満州事変に関わってたりして、方針と行動に一致しないようにも感じました。ならなんでこいつら争ったのか、このへんでますますわからなくなりました。

 そうした疑問を長年に渡り抱えて来たのですが、最終的には意外なところからこの両派閥のルーツを知り、なんであそこまで憎悪し合ったのかが一気に合点が行きました。その経過を説明したのが、今回の記事です。

 実際に記事を読んでもらえばわかることですが、皇道派も統制派も、元々は反長州閥のために結託した同じ穴のムジナだったということです。最初のきっかけは「バーデン・バーデンの密約」に集まった岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎(のちに東条英機が合流)の面々が陸軍内の要職を占める長州閥を追放しようと連盟を組んだことに始まります。このメンバーが中心となって非長州系の荒木貞夫や真崎甚三郎を陸軍内で盛り立てつつ、賛同者を集めて徒党を組んで出来たのが一夕会でした。
 この一夕会は事実上、反長州閥連合といってもいい派閥で、かなり執拗な嫌がらせなどの運動もあって長州出身者の勢力を陸軍内から追い出し、一夕会メンバーで要職を占めることには成功しました。これで話はめでたしめでたしとなればよかった所、発足メンバーだった永田鉄山と小畑敏四郎が前述の防衛方針を巡って意見が対立するようになり、これにより一夕会が分裂したことで、皇道派と統制派が成立するに至ります。

 以上の通り、皇道派も統制派もそもそもは「反長州閥」という思想で共通していました。それが主導権を握るや、さらなる実権を狙って対立して分裂した、というのが私の理解です。ですので防衛方針の食い違いが対立の端緒とはなったものの、実際この方針の違い自体はそれほど大きな思想的対立理由ではなく、それ以上にむしろ「元同志間の権力闘争」という点のほうが互いの憎悪を高めたのではないかと見ています。
 説明するまでもないと思いますが、初めから敵だった相手よりも、元は仲間だったのに今は敵という相手の方が人間、激しく憎悪を持つものです。この皇道派と統制派の場合、なまじっか共同で実権を握った後だったから余計に始末が悪かったのでしょう。

 ここまでの流れを把握して、ようやく私の中で両派の抗争がストンと理解できました。流れとしては、

反長州閥で結託→長州閥追い出しに成功→実権握った、さてこれからなにしよう→微妙に内輪で意見が合わない→マジムカつくんですけど!

 こんな具合で、血で血を争う内部抗争へと発展したと見ています。もっとも二・二六事件に関しては、賄賂の横行や大不況という外的要因が、若手将校の多かった皇道派をより刺激することになったとも思え、統制派との対立だけが理由ではないでしょうが。

 なお統制派は永田が斬殺されてからは東条とその取り巻きが主導するようになるわけですが、どうもネットの声とか見てると、こうした継承を経ていることから永田と東条が混同されているフシが見られます。具体的に言えば東条は非常に賢かった、だから「カミソリ東条」と呼ばれたなどと書かれていることですが、「カミソリ東条」と呼ばれたことは間違いないものの、東条が賢かったというのは実際は違うでしょう。
 というのも、東条は陸大を卒業しているので十分エリートと呼べる存在ではあるものの、陸大受験では何度か落第していて挑戦可能なギリギリでようやく合格し、卒業時の席次も下から数えた方が早いです。

 一方、永田は陸大卒業時に次席(主席は梅津美治郎)で文句なしのエリートの中のエリートだっただけでなく、その頭の良さは陸軍内でもトップと誰も疑わなかったそうです。あるエピソードによると、試験前にも関わらず私見と全く関係のない中国語の本を読み耽っているのを見た同級生が、「やる気なくすから俺の前でだけはちゃんと試験勉強している振りしてくれ」と言われたという話が伝えられています。
 こうした永田の伝説が、一部東条のものと誤解されて伝わっている気がします。まぁ逆を言えば、海軍と違って陸大の成績順に出世が決まらないあたりは陸軍は現場重視だったということの証左ですが。

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