もう今日は病院に斬られる覚悟で行ったからこの記事の書評は書けないだろうと思ってましたが、生憎とばかりに切除手術という話にならなかったので書けます。この記事も以前にこのブログで書いた歴史記事の焼き直しで、年末なのでのんびりしたいという思いからさっと仕上げた記事でした。記事内容はそんな悪くないとは思うけど生憎とアクセスはあまり良くなく、この辺、戦国時代と幕末明治でかなりアクセス量が変わってくるなとこのところ思います。
ただ、ヤフコメを見るとそこそこのコメント数はついており、歴史マニアの方々に議論の種は提供できたのかなと思います。そのコメントで、「乃木より奥だろ」というコメントが多いので何のことかと調べてみたら、奥保鞏(おくやすたか)という人物のことのようで、情けないながらこの人物については今まで知りませんでした。まぁこれも、歴史記事を書いたからこそ分かったわけだから、無駄ではないはず、きっと。
この記事について補足すると、ひとつ前の「神風連の乱」までは「~の乱」扱い、つまり武力放棄であるけれども内戦という扱いはされていません。なお現代における最後の「~の乱」は、読売新聞の絶対的権力者に一記者が歯向かった「清武の乱」であり、なんとなくこの事件を見るにつけ勝てるわけないだろって巨大な相手に歯向かうことを「~の乱」っていう気がします。
話を戻すとそれに対しては「西南戦争」とはっきり書いており、実際日本歴史史上における最後の内戦、米国で言う「南北戦争」みたいな言われ方がなされています。一体何故内戦扱いされているのかというと、単純にぶつかり合った双方の兵力規模もさることながら、明確な思想の対立、具体的には保守と革新のぶつかり合い的な要素も含まれているからじゃないかと思います。
実際この西南戦争以降、日本国内で明治政府に対する武力闘争の芽は完全に摘まれ、この後は言論闘争が主となっていきます。そういう意味も考慮すると、密かに私は真の意味での明治真の達成はこの西南戦争の終戦時じゃないかと考えています。
天皇を中心とした国家体制という目標に関しては、幕末の大政奉還時に一応達成はされています。そしてその徳川幕府を支持する佐幕派との戦いは、五稜郭の戦い決着時に達成されています。これらに対し西南戦争は、旧武士団の一掃と徴兵軍の優位を決する意味合いの強い戦いで、「武士の時代」の終焉という意味では、この西南戦争がまさにその瞬間であり、且つ社会体制の転換という意味合いで明治維新の達成期でもあるのではと考えています。故にこの後の言論闘争は、社会体制の転換を終えた後の、新たな体制のプラン、構築プロセスともいえるでしょう。
何気にこの西南戦争に関する評価は非常にややこしいところがあり、その大半は総大将となった西郷が本当は何を考えていたのかが全く読めないからです。単純に時代に取り残された武士たちに死に場所を与えようとしたと言われることもあれば、京都までは進軍するつもりだったとか、今も評価が定まっていません。
ただ、結果的には次の時代に至る大きな契機となっており、そういう意味で「日本最後の内戦」という呼び方はこれ以上ない呼び方だと自分は考えています。
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