先日の記事で私は、日本の教育は基本的に自我を奪い従順な人間を量産する方向に異常に特化しており、結果的に自己判断力が極めて低い国民を量産していると指摘しました。文字に書くと結構過激な文言に見えますが、これまでこうした傾向を説明していて誰一人として否定する人はいません。
その上で、別にこうした教育は国家目線でいえば従順でまとまりのある国民を作るうえでは悪くはないものの、あまりに特化し過ぎているため、結果的に自己判断力に富み、大衆を引っ張ることのできるエリートを生むことができなくなっており、それが日本全体のやや歪な人材構成を生んでいるという考えを呈しました。また以上のような人材構成を軍隊に例えて、「指示待ちの兵隊がたくさんいるけど指揮官が一切いない状態」と評しました。
またその記事で私は、「東大にエリート教育はない」と書きました。この辺について少し解説すると、東大が日本最高の教育機関であることは間違いなく、その排出する人材は実際に社会から評価されるなどブランドもあり、また数多くの首相も輩出するなど政財界に重きをなしています。
ただ、特に政治エリートにおいては顕著ですが、東大での政治エリートは東大の教育が良かったから政界で活躍したというよりかは、東大以前の家庭教育がその能力に及ぼす影響が大きかったように感じます。
前回記事で例に挙げた竹下登をはじめ、昭和期の首相の多くの実家は酒造家や地主など、地元の名士たる家が非常に経歴として多くありました。こうした家庭では周辺の人々や繁忙期に大量に抱える労働者などの管理がごく身近にあり、そうしたところでエリートに必須の集団への指導力や統制力、いうなればカリスマ性を磨いたのではないかと伺われます。
近年においては東京一極集中もありこうした地元名士出身者が減っていますが、その代わりとして増えているのが二世政治家です。この点でもやはり、バックボーンのない東大出身者というよりかは政治家の家で育ち、政治家である親類の党員や秘書、運動員らの動かし方を学んでカリスマ性を磨いていると思われ、たとえ東大を出ていようとも、東大の教育がエリートに求められるカリスマ性に影響を与えたようにはあまり見えません。
では東大の教育は何なのか。そもそも東大は官僚育成校として創設された経緯があり、現代においても中央官僚(理系は国家級研究者)への登竜門としてはっきり認知されています。結論から言えば、実務能力の育成にやや特化しているきらいがあり、社会におけるエリートを育成、輩出する校風もなければ、そういう教育を行っているという様子も見られません。
現代においてはどうかはわかりませんが、昭和期における東大法学部の授業は最前列の座席が取り合いになって、最前列に座った人間は講師の発言を一言一句ノートに書き残すという授業風景が当たり前だったそうです。というのも、省庁入庁後もある程度東大時代の授業評価が出世に左右されたそうで、基本的に講師の言うことの完コピが授業形態であったと聞きます。このエピソードを聞くにやはり東大の授業は自己判断力、集団指導力を育成するような要素は見られず、言っては何ですがやはり言われたことを確実にこなす「従順さ」を大学としても求めているようにしか見えません。
それでも日本社会で東大は「エリート」として見られていますが、上記のような見方から自分としては欧米で言われるエリートとはやっぱ違うという風に感じます。それこそ先の軍隊のたとえでいえば、命令遂行能力が極めて高く、目標達成に向けた現場判断(=戦術)などの一定の裁量権が付与されるという点で、現場指揮官に当たる少尉とか大尉と呼ばれる尉官級の人材に相当するのではないかと思います。少なくとも、日本の官僚に関してはそうした立場が実際に求められるし、実際そうなっているでしょう。
そういう意味でやはり、戦略を立案、指示して軍団を率いることができ、自己判断力(=自我)を持つ将軍クラスの人材は、少なくとも東大の教育でほとんど育成されないし、実際輩出されていないように見えます。東大に限らず、京大などほかの国立も同様で、少なくとも「この高台にいる敵兵1000人を移動させるにはどうする?」といったような指導をする学校はないでしょう。
唯一、エリートを構成する要素であるカリスマ性という点では、早稲田や慶応などの学生数の多い上位私大であれば、サークルをはじめとした大学内の団体活動の中で集団に対する指導力を磨くチャンスがあり、もともと高い実務能力を持っていて自己判断力も持ち得ていたら、エリートが発生する可能性があると思います。そういう意味で前回記事で私は、エリート輩出という点ではむしろ上位私大の方が確率として高いと主張しました。
しかし総じていえば、日本の公教育機関においてはエリートを育成し得る教育体制や方針を備えている学校は一切存在しないというのが自分の見方です。その上で日本はエリートの自然発生を待つだけで必要な数を揃えられないばかりか、自然発生したエリートに対しても相応しい地位を用意できず、活用もできていないのではないかとみられます。そういう意味でも、エリートを育成する教育機関がやはり日本には必要じゃないかということになってくるわけです。
ではエリートを育成する教育機関とはなんぞや。結論から言えば英国のイートン校といったエリート校がモデルとなりますが、日本国内にも過去の歴史では有力となるモデル校が存在したと考えています。その辺はまた次回で。
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