具体例を挙げると、
新しい靴を履いてみた→いつもより歩くのが遅くなった→いつもより遅い電車に乗った→乗った電車が脱線した→脱線事故に巻き込まれて死ぬ直前に異世界へ転生した
こんな感じで、あれさえなければああはならなかったのに見たいな過程のスタートとしてよく使われるのですが、日本人的には「わらしべ長者効果」の方がすんなり来るんじゃないかと思います。あと「バタフライ」と英語使って言うのもあれなので、見出しみたく「てふてふ効果」と日本人は言うべきじゃないかと思います。
以上のように解説しておいてなんですが、私自身はこのてふてふ効果はこじつけが強い概念だと思っています。大きな結果に対して後付けで「あれさえなければ」的に過去の小さな行為を見つけ出すような作業に見え、大抵ループ物ですが、SFとかに用いるのも内心どうかなぁという気がします。むしろその逆というか、
新しい靴を履かなかった→いつもと同じ速度で歩いた→いつもと同じ電車に乗った→と思いきや乗る列車を間違えた→乗った電車が脱線した→脱線事故に巻き込まれて死ぬ直前にインドへ転生した
のように、過程が異なっても同じ結果に収束していくという流れの方がお話し的にも好きだし、現実的にもこっちの方が多いのではないかと思います。このように考える一つのエピソードして、以前に病院での赤ちゃん取り違え事件が発生し、裕福な家庭で育てられた人がほかの兄弟から「本当に同じ家族なのか」と疑問をもたれ、DNA調べてみたら親類でないことがわかって取り違えが発覚するという事件がありました。
この例だと遺伝子の違いというでかい要素はあるものの、同じ過程で育てられても兄弟として認識されず、結局他人であったという運命に引き戻されていく過程のように見え、こんな感じでいくらか過程が分岐するとしても、最終的な結果は因果要素の強い結果に収束していくように思えるわけです。
そういう意味では「運命って信じる?」というラノベみたいな問いかけに対して「ある程度は」という風に私は答えるのかもしれません。一見すると消極的な価値観に見えるかもしれませんが、ほんの些細な出来事で運命がひっくり変わるというてふてふ効果を信じるのもまた自力に対する意識が弱いように見え、それであればある程度の運命は固定されていると考える方が現実的だし、また外部要因に対する妄信的な影響がないだけマシだとも思うわけです。
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