ページ

2024年11月1日金曜日

コミュ障は何故増えているのか?

 前に書いた記事でコミュ障キャラの漫画を紹介しましたが、これ書いた後でなんでコミュ障が増えているのかという点が少し気になりました。実際にコミュ障が増えているのかに関してはそんな統計もないので断定できないものの、少なくとも20年くらい前には「コミュ障」という単語がなかった(出始めた頃だったと思う)ので、ここまで一般化する辺りは増加と断定はできないものの、「こういう人がいても珍しくない」程度に普及したとは思います。
 ちなみにコミュ障の普及によって、「人見知り」という単語は駆逐されつつあるような。

 話を戻すとこのコミュ障増加の背景について軽くネットで検索したところ、SNSなどコミュニケーションツールの増加に伴うものと指摘しているものがありました。ただこの意見について私は疑問で、携帯電話メールの登場時にも同じようなことが言われましたが、実際にはこれら新たなコミュニケーションツールの登場によってコミュニケーションの頻度や量は確実に増加しています。
 かつては夜間なんかは家族以外とはコミュニケーションがなかったものの、現代は24時間国境すら関係なく対面でリアルタイム動画でほぼ無料で話せるようになっており、質、量ともに昔と比べて現代の方が優っていると断言できます。

 っていうかこの手のコミュ障議論は、コミュニケーションツールに軸足を置き過ぎるきらいがあります。初めて電話が登場した時も、なんか同じような議論があったんじゃないかな。

 そこで社会学士らしく、敢えてひねくれた目でこのコミュ障増加の背景について考察した場合、私から出てきた意見としてはむしろ「共有体験の減少」が主原因ではないかという結論でした。
 コミュニケーションに関して色々ハウツー本とか議論とかありますが、私個人の考えで述べると、突き詰めるとコミュニケーションというのは共有体験がすべてのベースにあると言えます。単純な会話一つとってみても、同じテレビ番組を見ているか、共通の知り合いを持っているか、同じプラモを作ったことがあるかはいずれも、両社の会話やコミュニケーションで果たす役割が大きいです。以上の例は話題(トピック)に過ぎませんが、これが文化という単位になると、同じ日本人であるかもコミュニケーションの発展を占う上で言うまでもなく重要です。

 突き詰めれば、同じ文化や価値観、知識を持っているかによってコミュニケーションの発展させやすさは非常に大きく左右されます。もちろん何も共有しない者同士、具体的には外国人同士の場合でも、共有しない者同士の交流方法ともいうべきものがありその関係を深めることは可能ですが、共有体験がある者同士と比べるとやはりその難易度はやや高まると言えるでしょう。
 まぁ共有体験がない者同士だと、数少ない共有体験を互いに軸にしようとするので、そのような数少ない接点が強く結びつけて一気に関係を深めることもありますが。

 話を戻すと、それこそ昭和から平成初期くらいの昔であれば娯楽も少なく、アニメ番組の放送数も少なく、そうした少ない娯楽に対して多くの人が集中して消費していました。そのため現代と比べると当時は共有体験が非常に多く、誰でも野球の話題で盛り上がり、スラムダンクの話題で盛り上がり、「東京ラブストーリー」で盛り上がることができました。
 然るに現代は娯楽種類が非常に多様化しているというか激増しており、動画一つとってもテレビだけじゃなくYoutubeなどでもたくさん配信されており、アニメ番組も四半期ごとに何十作も新作が作られる時代です。漫画作品も主要雑誌がウェブサイトでも別作品を連載するようになっており、「同じものを見た、体験した」という人と社会で出会うことの方が逆に難しい時代かもしれません。

 前述の通り共有体験があるかないか、多いか少ないかはコミュニケーションの発展に非常大きく影響します。共有体験がない、少ない場合、自然と話せるトピックも少なくなってくれば価値観も異なっている可能性もあり、誰にとってもコミュニケーションは取りづらくなるでしょう。
 もちろんこれまた前述の通り、共有体験がなくてもコミュニケーションを取る方法は確実に存在します。しかし私が見る限り、日本の教育現場や社会はそうした「共有体験がない者同士」のコミュニケーション法を教えないし、体得していない人が元から多いうです。そのため日本では上の年代の人間が自分の趣味や価値観を押し付けるというコミュニケーションを強制することが多く、以前までならまだかろうじて存在した若者世代とも共有できる体験(野球や歌手など)がつなぎとめていたものの、現代においてはそれすらなくなってきたことから、完全にコミュニケーションが破綻して相手を「コミュ障」と罵るようになってきているのではないかという気がします。

 なおこの辺で言えば、まだ中国人の方がコミュニケーションの取り方がうまい気がします。というのも中国は少数民族も多く、「俺とあいつらの文化や価値観は異なるかもしれない」という前提をみんな持っており、共有する体験や知識、文化がなくても、そうした相手とコミュニケーションを取る方法をきちんと体得しています。まぁ端的に言えば、相手の知識や文化に耳を傾ける努力なのですがそれは。

 以上を踏まえて言うと、現代の若い世代がコミュニケーションが下手というよりかは私は共有体験が少ないこと、そして共有体験がない者同士のコミュニケーション方法を日本人のほとんどが体得していないことが、コミュ障が増え続けている原因ではないかとみています。改善策としては何度も書いている通り、共有体験がない者同士が交流する方法を会得するに限り、もっとそうした交流方法をきちんと教育するとか、異文化体験を通して学ばせるべきでしょう。

 なお今の職場に来る日本人は海外に来るとあって、この辺のコミュニケーションがやっぱみんな上手というかまともだと思います。一番駄目なのは自分のやり方を押し付ける人間で、そうではなくまず最初に向こうのマナーなり価値観なりに耳を傾け受け容れる人間が総じて「コミュ力が高い」といえると私は思います。

6 件のコメント:

  1. 男子校でヤンキーとオタクが仲良くなりがちなのは、男子校という特殊な閉鎖的環境であることに理由があるのはさもありなん、しかし共有体験が少ないからこそ、物事の捉え方の違いと共通の部分を認識する愉快さがあるからだと思います。
    もっとも、多くの人は自分と違う価値観に触れるだけで居心地の悪さを感じてしまうのかもしれません。自分に自信がないやつが増えているんでしょうか。

    返信削除
    返信
    1.  共有体験がないことに気後れする人が増えているというのなら、このコミュ障が増えているというのも当てはまるかもしれません。個人的に思うのはその手のタイプって、こっちから相手に合わせようと色々話を振っても取り合ってくれないことが多く、この辺マジ教育でどうにかしてほしいのが本音です。

      削除
  2. 昔は全員共通の共有体験として、最近の流行というものがあったのだろうと思います。それこそテレビで取り上げられてるような内容だけで会話を成立させていたというか。
    ただそれは各々の共通の趣味でも感想でもなく、相手に合わせるために仕方なく身につけた雑談技術なので、より濃い趣味を楽しんできた下の世代には全く通用しなくなり、コミュニケーションが上手く成立しなくなったのかなと。
    体育会系な世界だと、流行の話に頼らず、内輪の人間関係の中でイジり役を作って笑いを取るという技術が洗練されていて、芸人なんかがその最先端にいる感じですが、これも内輪の外の世界の人間には通用せず、純粋な共通体験のない相手とのコミュニケーション能力は、そもそも日本人は苦手なんじゃないかと思います。

    田舎の近所づきあいのような、気心を知れた集団と一緒にいることに慣れすぎていると、相手が何を考えていて、何を言いたいのかを類推する習慣が磨かれないんだろうなと思います。
    ただ近所付き合いが減っても家族内に引きこもるだけでコミュニケーションの絶対数が減っているので、昔よりもさらにコミュ力が落ちているように感じるのでしょう。

    その意味では、絶対的に他者と接する経験の少なさが問題で、現代でそれをカバーするには、ネットで様々な人と知り合うしかないのかなとも思います。

    返信削除
    返信
    1.  イジリは確かに、共有体験のない場合に日本人が唯一行使できる交流手段になりつつありますね。普通に相手の話聞いたり、どちらも体験したことないことを一緒に体験するとか、ほかにも手段はいくらでもあるというのに。
       おっしゃられている通りいろんな人と触れ合う、知り合うというのがコミュニケーションに上手になる最良の手段ですが、最近の日本だと同じ趣味の人間とだけ付き合いを広げる傾向があり、むしろ以前よりも人としての幅が狭くなりつつある気がします。可能な限り、文化的にも感覚的にも自分とは異なる人間に意識して触れる努力を、もっと教育現場とかで教えてもらいたいものです。

      削除
  3. ぱっと見たら、ゴミ障に見えました(笑)。

    返信削除
    返信
    1.  もうちょいおもろいこと言おうや。そないなこと言っても誰も何も得るものがない。

      削除

コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

注:ブラウザが「Safari」ですとコメントを投稿してもエラーが起こり反映されない例が報告されています。コメントを残される際はなるべく別のブラウザを使うなどご注意ください。