それでこの漫画を読んで自分もこれまで知らなかった事実を大いに学び、高野長英とかにも興味持ったりするなどかなり影響を受けているのですが、改めてこの本読んで気になったというか腑に落ちなくなったのが見出しに掲げている坂本龍馬の脱藩理由です。
なお「風雲児たち」の中では恐らく作者のお気に入りなためか龍馬に関するページ数は多くなっています。ただお気に入りが過ぎているというか龍馬が出てくる下りはほかのページと比べ扱いが必要以上に大きく、且つ脚色も強くなされていて読んでて「なんじゃこりゃ?」というような違和感を強く覚える構成になっています。特に龍馬の評価がダダ下がりしている現在からすると、かえって史実から遠ざかる描き方のようにも見えました。
話は戻しますが、坂本龍馬は桜田門外の変から2年後の1862年に土佐藩を脱藩して浪士となっているのですが、一体どんな理由で脱藩したのか、これまであまりその点について追及する解説をついぞ見たことがないということに気が付きました。これは「風雲児たち」でも同じで、龍馬に関するページ数は多いのに脱藩シーンについてはほとんど何も書かれておらず、この点に違和感を持ったことが自分が気になったきっかけでした。
それで改めてこの点についてほかの人の主張なり解説を見てみようとネットで色々検索してみたのですが、元々フィクションというか脚色濃く語られることの多い人物なだけに、脱藩理由についても複数の説が展開されています。言い方を変えると、これという定説が定まっていないという印象を受けました。
そんな展開されている説をいくつか挙げると以下の通りです。
1、藩を超えて日本という国単位での憂国意識に目覚めたから
結論から言えばこれはあり得ない説だと思います。後の大政奉還の提唱などから龍馬は日本という国単位で物を考えていたと思われがちで、その延長からかこの脱藩も土佐藩という枠を超えて行動するため動きやすくなることを目的としたものだったとする説です。
しかし、そもそも龍馬の脱藩は単独犯ではなくほかに同じ土佐藩士数人と一緒に行われており、またこの時点でそう言ったビジョンを彼が持っていたかとなると正直疑問です。これはほかの説にも言えることですが、自分が把握する限り龍馬自身が脱藩理由について自ら説明する文書などは残されておらず、仮に憂国意識からの脱藩であれば何かしらその考えを書き残したり、ほかの人に伝えていたのではと思うとやや不自然に感じます。
2、武市半平太とそりが合わなかった
これは有力な説として語られることの多い説ですが、当時の土佐藩では重役は公武合体を指示していたのに対し、下位の若手藩士の間では公武合体などもってのほか、尊王攘夷(+倒幕)を徹底すべきという思想が強く、特に若手藩士の首魁で土佐勤皇党のトップであった武市半平太はかなり過激な思想を持って尊王攘夷を訴えていたそうです。
この武市が龍馬の脱藩直前に企んでいたのが、土佐藩の重鎮である吉田東洋の暗殺でした。これ以降も武市は手下の岡田以蔵を使って関西地方で暗殺を繰り返すテロ活動に従事していますが、自分が所属する藩においてもこうした暗殺を平気で手段としていた当たりその過激さが際立っています。こうした武市の強硬路線に土佐勤皇党に入っていたとはいえ拒否感を示し、袂を分かつために脱藩したというのがこの説です。
またこの説にはほかにも龍馬自身が吉田東洋の暗殺を指示された、または巻き込まれそうだったから逃げたという説も見られます。時期的には龍馬が脱藩したのが3月、吉田東洋の暗殺が4月と近くあり得ない説ではないと思うものの、これという根拠もなく、あんま声高に主張する説ではないなという気がします。
3、土佐藩の指示で隠密活動を行うため脱藩を装った
これもその後の龍馬の行動的にこれはあり得ないのでいちいち解説しません。小説のネタとして使おうにも無理があるでしょう。
4、寺田屋事件のきっかけとなった京都蜂起(伏見義挙)に参加するため
1862年のこの年、薩摩の島津久光が兵を挙げて京都に来ていました。これは武力を示しつつ天皇から勅をもらって、その勅を幕府に報じる形で薩摩藩が政治に参画し、幕府に改革を促すことが目的でした。この改革方針は基本的に公武合体路線で、久光に倒幕の意思はありませんでした。
しかしこの久光の出兵について過激派浪士らは意図的に、「薩摩藩は朝廷から倒幕の勅を得て、そのまま倒幕するつもりだ」と吹聴し、久光の意思を無視してそのまま強引に蜂起して倒幕戦争を始めようとしていました。この首謀者はのちに新選組のもととなった浪士組を作る清河八郎だとされてますが、浪士組結成時も嘘八百並び立てて行っているあたり、やりかねない人間だなと私も感じます。
ただこの清河らのデマはかなり効いて、当時京都には真に受けた過激派浪士が大量に集まり、久光の到着と号令とともに京都所司代を襲う計画を立てるなど、一斉蜂起する気満々でした。結果的にはこうした過激派の動きを問題視して未然に暴発を防ぐため、薩摩藩自らが蜂起首謀者らを粛清(寺田屋事件)したことで事なきを得るのですが、龍馬が脱藩したのはこの京都蜂起に参加するためだったのではという説を唱える人が多いです。
というのも龍馬の前に脱藩した吉村虎太郎が脱藩の直前、使いで長州の久坂玄瑞に会った際にこの京都蜂起の計画を聞き、ほかの土佐勤皇党メンバーにも伝えていたそうです。吉村はまさにこの京都蜂起に参加するために脱藩しており、彼に続く形で土佐勤皇党からはその後も脱藩者が相次ぎ、これに続く形で龍馬も脱藩しているのですが、時期的にも状況的にも確かに龍馬も京都蜂起に参加するために脱藩したように私も思えます。
もっとも、龍馬が京都に辿り着く前に寺田屋事件が起こって京都蜂起はおじゃんとなったわけですが、恐らく龍馬本人もこの時肩透かしを食らったような状態だったと思います。必死の決意で脱藩までしたのに蜂起そのものがなくなってしまい、土佐に戻ろうにも脱藩したので戻れないし、何か活動しようにも支援者もおらず、この時からしばらく彼の動静は見えなくなっています。最終的に行く宛てもなかったのか8月になって江戸に入り、かつて通った千葉道場に居候するようになるのですが、この点一つ取っても彼の脱藩には何かしら明確な目的がないように見え、それは京都蜂起が流れてしまったためというのなら得心が行きます。
また同時に、彼が後に文書などで脱藩理由について一切触れなかったこともこれなら納得がいきます。まさか蜂起に参加しようと脱藩したら蜂起自体なくなってしまって放浪状態となったなんて、格好悪くて書き残すことなんてできないでしょう。仮に以上の通りなら、結構冴えない理由で龍馬は浪人になってしまったのだと思います。
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