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2025年10月6日月曜日

曹操はいつ変節したのか?

 今日の上海における予想最高気温は35度で湿度も80%超となっており、実際朝起きた段階でこれはやばいと感じたほどでした。多分自分の人生の中で、最も暑い十月の一日だと思います。


 そんなわけで自宅からの避難を兼ねてまた午前中に映画を見てきましたが、中国語ですが上のリンク先にある「三国的星空」というリアル寄りなフルCGの三国志映画を見ました。内容は主人公が曹操で、その挙兵から官渡の戦いまでを描いています。内容はめちゃ面白い、って程ではないけど十分楽しむに足るもので、続編は赤壁の戦いまでやるそうなので多分見に行くと思います。

 そんなこの映画のシーンとして、董承が曹操に対し「お前の誅殺命令を献帝から受けた」と言われて曹操がめちゃ動揺する場面があります。映画の中ではこれは董承のスタンドプレイで献帝は曹操を警戒しつつもまだ信頼していたように描かれています。
 ちなみにさっき「曹操」と検索しようとしたら検索候補に「曹操のフリーレン」が出てきました。

 このシーンというか解釈は見ていて自分も考えさせられ、描き方が見事だなという風に感じました。この映画で曹操は尊王の志が高いさわやかな青年風に描かれているのですが、実際史実でも前半生の彼はまさにそのような人物でした。
 三国志演義では初めから後漢に見切りをつけて自分が新秩序を作ろうとするような野心家として描かれていますが、実際の史実では董卓が長安に逃げた際、誰も追撃しようとしない中で曹操のみが追撃に出ています(惨敗して帰ってくるが)。また献帝が長安から脱出した際、呼びかけに誰も応じなかったのに曹操のみが真っ先に応じて献帝を迎え入れています。こうした後漢皇室に対する強い貢献意識を見たからこそ、荀彧をはじめとする当時の知識人たちも曹操に味方しています。

 しかし後に曹操は朝廷を軽んじるようになり、本来皇室にしか許されない特権を要求して取得しています。こうした素振りを見せたことから皇室復興を目指していた前述の荀彧なども距離を置くようになるものの曹操はそうした反発すら意に介さず、最終的な簒奪の一手は撃たなかったものの実質的に皇室を潰す方針を後半生においては明らかに持っています。

 この後半生のイメージが強いため曹操は簒奪心溢れる野心家のように描かれることが多いのですが、私自身、「三国的星空」で描かれたように当初はそれこそ本気で皇室復興を曹操も目指していたような気がします。だとすれば曹操はいつ、どのタイミングで変節し、皇室復興をあきらめ新秩序の構築を目指すようになったのかが論点となります。
 そのタイミングとしてはやはり前述の董承らによる暗殺未遂が最有力候補となってくるでしょう。仮に曹操が本気で尊王心を持って行動していたとしたら、献帝から暗殺指示が出されていたとなると本人としてもかなりショックでしょう。それこそ自分が保護してきた人に裏切られるようなもので、実際に献帝が指示を出していたのかは議論の余地がありますが(史実の董承はかなり黒い人物)、この件をきっかけに曹操は価値観を変えたと言われれば納得します。

 それにしても三国志関連でこのブログに記事書くのも本当久しぶりな気がします。関係ないけど「好きな三国志の人物は?」と聞かれると「王平」だといつも答えています。現場判断がしっかりしている点などが好みなのですが、その名前の読みから勝手に横柄な性格だったんだろうと勝手にキャラ付けしています。

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