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2008年1月2日水曜日

時間に対する一つの概念

 基本、このブログでは日常では役に立たないけども、覚えておくと物事を考える足しになるような、普遍的かつ抽象的な概念をよく紹介しています。何故こういうことをやるのかというと、やはり自分の周囲の若者が知識こそ覚えているものの、物事を考えることができないという状況に辟易しており、実際にこういった概念を教える機関が少ないとも感じることから、一種の使命感を感じてやっています。

 そこで、今回は多分今までの中でもかなりスタンダードとなり得る概念を紹介します。結論から言って、文明は時間とともに必ずしも進化しないという概念です。

 いきなり例から出しますが、これは藤原正彦氏が以前に言っていた事ですが、10世紀のヨーロッパの数学のレベルは紀元前の古代ギリシャ時代に劣るらしいです。そこで藤原氏は、「時間の経過とともに何でもかんでも文明は進化することはない、むしろ退化することすらある」と言っております。
 私の周りだけかもしれませんが、やはりこの概念とは真逆の概念を支配的なまでに持っている人が多いような気がします。子供の頃より大人の考え方、昔より今のやり方、前の人より今の人など、例をあげれば枚挙に暇がありません。

 特に、科学の世界ではこれが顕著に思います。私が子供の頃、私の母はみかんの背にある食物繊維を消化されないものだからといっていちいちはがしてみかんを食べていました。実際、食物繊維は消化されずに体から排出されます。当時、消化されないものは体に害をなさないまでも、摂るべきではないという考え方が少なからずあったような気がします。時代は下って現在、食物繊維はそれ自体は消化されないまでも、他の食物の消化を助ける効果が発券され、転じてダイエットの目玉ともなる栄養素として現在の地位を築いています。

 この例でもわかるように、下手な科学の裏付けがなかった頃には気にせず摂っていたものを、消化されないという科学的な裏付けによって、体にとって有益な食物を摂らなくなるといった歴史がここ数十年の間にたくさんありました。何も食物に限らず、人間にとって本来は有益であるものが、新しく入ってきた概念によって次々と潰されて行ったのが、19世紀以降の歴史だと私は思っています。

 このように、科学は中立かつ絶対的な価値観というのは基本的には間違いです。その概念を主張するのならば、科学が完全に解明されてあるという前提がなければなりません。逆に温故知新のような、以前は風習、迷信と呼ばれていた行為も有益なものであったという可能性があるのです。
 もっとも、その風習や迷信の中には明らかに不条理なものも少なくありません。平安時代にあった、女性は顔を見られたらその男性と結婚するなどや、生贄を捧ぐといったものなどは現在のように廃止されてしかるべきでしょう。一番肝心なのは、その行為や考え方が本当に有益なのか、必要なのかを自らで考えることです。そして無益だからといって、無害なものをとやかく捨てるべきでもないと、やや保守主義的な自分の主張をしておいて、新年一発目の投稿を終えます。

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