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2008年2月29日金曜日

生きる気力が湧かないのは その二

 昨日の続き。前回はただ自分の趣味を語っただけで終わっちゃいましたが、今回はちゃんとまとめます。

 それでいきなり結論ですが、現代の子供から若者まで生きる気力が少ないのは、どうも生死の生の部分しか説明されてないからだと、個人的に思います。
 これは自分が一番よく使う持論ですが、基本的に人間は比較対象がなければ対象を認知することは出来ません。たとえば今回の例だと、子供にひたすら生きることの楽しさ、素晴らしさだけを教えても、素晴らしいという「生きる」ことと比較する何かが語られないため、結局は理解に至らないということです。

 もひとつ例を出すと、たとえばおいしいりんごとまずいりんごがあるとします。今まで一度もりんごを食べたことのない人にこのうち片方だけ食べさせても、そのりんごがりんごとしておいしいかどうかは解らないでしょう。先においしいりんごを食べていたとしたら、もう一つのまずいりんごを食べて初めて、先に食べたりんごはおいしいりんごなのだとわかるはずです。私なんか実際に、毎回バカ高い紅茶を友人に飲ませていてもその味がわからないというから、わざわざ市販されている安物の紅茶を飲ませて普段の紅茶が如何に良い物かを教えたことがあります。

 とまぁこんな感じで、片っ方に偏って物事を教えても結局はわからないんじゃないのかというのが私の意見です。それこそ昔の人なんかは戦争の体験や、今ほど医療技術のなかった時代で、今の時代よりは死がまだ身近にあったのだと思います。実際に昭和中期のエッセイなどを読むと、病死した死体を野焼きしてその匂いに辟易するという話や、急な落盤で炭坑夫が一度に多くなくなる話など、今と比べるとサバイバルな時代だったように思えます。それが一転して飢えがなくなり寿命も長くなり、平和になった日本で生きることの理由だけを話して、死ぬことについてはまるで忌避するかのように誰も触れたがらない世界じゃ、生きてるありがたみなんて誰もわかりっこないでしょう。それが生きる気力のない状態を作っている主要因だと、私は考えています。

 じゃあどうすればいいかというと、言っては何ですが人が死ぬエピソードをバンバン教えるのが手っ取り早いんじゃないかと思います。もしくは二日くらいメシを抜いて、ただ食べて生きることがどれだけ大変なことかを教えたりするのが効果的だとは思いますが、まぁ本気でやる人はほとんどいないでしょうね。
 唯一、子供相手にも出来るのは怪談だと思います。あれなら人が死んだり苦しんだりする話でも問題ないし、なかなかにリアルな話なんかはいい教育になると思います。というよりも、私自身怪談話が小学生の自分から好きな性質でしたが、それはやっぱりこういったことが関係していたのかもしれないとも思います。

 以前に友人がこんなことを話していたのですが、子供時代、どんな美辞麗句を並べ立てた美しい物語よりも、誰かが死ぬような悲劇的な話の方が今も強く心に残っていると言ってましたが、私も同感です、今の時代、喜劇よりも悲劇の方が価値は重要なのかもしれません。

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