これも専門じゃないし適当な事を書いていると思うのですが、みていてどうも最近の考古学は以前とステージが変わった気がします。というのも、邪馬台国についてです。
昔から邪馬台国のあった場所は近畿説と北九州説の二つがあり、そのまま京大学派と東大学派が言い争い、文字通り日本一の歴史論争として名高いものでした。ですが、新書などでいろいろ読んでみると、最近ではもうほとんど近畿説が一般化しており、論争はその前後へと向けられているような気がします。
その前に何故近畿説が強くなったかですが、ここ数年で近畿の遺跡から大量に「三角縁神獣鏡」が見つかり、これが魏志倭人伝に書く、魏が卑弥呼へ送った鏡だと言われ、近畿説の根拠となっているからです。古来より文献では近畿、地理的には北九州説が当てはまるといわれ、今回も文献での根拠となっています。
この説から発展し、現在の考古学会ではどうも、「邪馬台国から大和朝廷はどう繋がったのか?」というのが論争の的となっているようです。言うまでもなく、邪馬台国も初期大和朝廷もどちらも近畿にあるならば、邪馬台国からそのまま大和朝廷へと政権は続いたのか、それとも邪馬台国を滅ぼして、新たに大和朝廷が近畿で台頭したのかと言う風に、その連関がどうなったのかという点について、古事記や日本書紀の記述と比較されるようになっています。
もちろんこの論争に北九州が全く無関係というわけではありません。北九州説の邪馬台国は元々、後漢から金印を受けた奴国に当るのか、それならば大和朝廷は邪馬台国とは関連がなく、後から朝鮮半島などからきた連中に潰され、大和朝廷になったのかというように、やはりその前後に論争が起こっています。ちなみに、私の親戚は福岡県に滞在している際、やはり邪馬台国は北九州だと地理的に感じたらしいです。
私の意見だと、まず最初の「三角縁神獣鏡」ですが、これだけで一気に近畿説につなげるにはまだ無理があると思います。言ってしまえば、その鏡は送られたのではなく強奪されたのなら……北九州から近畿に運ばれても無理はないと思います。
そしてこの論争にケリをつけるやり方ですが、DNA鑑定なんか面白いと思います。縄文、弥生、大和時代それぞれの死体の骨からDNAを取り、どの段階でどのように人種が変わってくるのかを調べれば、征服が行われた年代なんかはかなり正確に求められるのではないでしょうか。
実を言うと考古学にはある思い出があり、小学生の頃に読んだ論文で、
「古事記の中にあるスサノオのヤマタノオロチ退治の話で、スサノオが川を歩いていると川上から箸が流れてくる描写があるが、箸は中国で2世紀に発明されたものなので、少なくともこの伝説が成立したのは2世紀以後ということになる。このように考古学をやる上では、考古学だけにとらわれない幅広い知識が必要になる」
と書かれており、この話を真に受けて分野を問わずに知識をやたらと求めたがる、今の私の性格が出来た気もします。
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