久々の連載記事だ(*゚∀゚)=3ハァハァ
さて前回までは主に経済的に、失われた十年の間で行われた政策を中心に解説していきました。実際にこの失われた十年(最近だと一部で「失われた十五年」と言う人も出てきている)は経済学的な意味合いで使われることが多いのですが、社会学士の私からすると経済的というよりは、日本の社会史上における一大転機として取る場合の方が多いです。
そういうわけで今回からようやくこの連載の主題である、この時代における社会的価値観の変容について解説していこうと思います。最初に一回目は、もはやほとんど話題にすら出ることがなくなった「日本式経営」です。
先にこの後に解説するネタを紹介すると、この時代に社会の見方が一気にひっくり返ったのはこの「日本式経営」、「左翼」、「フェミニズム」、「スポーツ」といろいろあって程度も様々ですが、どちらかというと強い権威を持ったものが悉く失墜していく一方で、代わりに力をつけた権威というものはあまり多くない気がします。何かあるのならこの後の記事も非常に書きやすいのですが、
それで日本式経営ですが、この中身というのは言ってしまえば60年代から80年代まで日本の企業で行われた雇用、経営慣行のことを指しています。具体的な中身を言うと「終身雇用」、「年功序列制」の二本柱で組む雇用体制を指しており、ちょっと細かい点を上げると「株式持合い制度」の元で企業投資を社会全体で非常に抑えて内部留保を蓄え、自社投資を繰り返すという経営方法も含まれます。もしリクエストがあるのならこの中身も詳しく解説してもいいですが、長いので今回はちょっと割愛します。
この日本式経営もバブル崩壊までは「これが王道だ!」といわんばかりに世界でも持て囃され高く評価され、アメリカ人経済学者に至っては「ジャパンアズナンバーワン」とまで評していたのですが、バブル崩壊が起きると、「やはり日本のローカルなやり方だった」とか、「いつかこういう日が来ると思ってた」などと、特に株式へと全然投資しない閉鎖的な体制を指摘されて今度は逆に世界から批判されるようになりました。
そこで日本人がいつもの悪い癖で、自分では正しいと思うことでさえ他人に批判されると途端に自信をなくしてしまう癖が出てしまい、この失われた十年の間に日本人の中でも日本式経営について激しく非難するものが次々と現れていきました。
当時を回想をするにつけ思いますが、子供だった私からしてもあの時代の日本式経営への身内からの批判振りは異常過ぎるほどでした。しかも、それらの批判の大半は理論的にどこがどう問題なのかという点は無視して、どちらかといえば感情的な意見が主で、「こんな古いやり方では世界についていけない」など、他国と協調することが一番大事と言わんばかりの批判でした。
中でも私が最も呆れるのは、子供の教育現場にすら「日本式経営は駄目だ!」ということを当時に教えていることです。これなんか私の実体験ですが、中学校の公民の時間で、「年功序列制では、実力ある社員のやる気をそいでしまうから成果主義に変えろ」とか、「終身雇用ではなく、様々な生き方にチャレンジを促すべきだ」などといった言葉を使っては、日本式経営の欠点を教えられました。さらに極端な例だと、私の友人は授業の作文にて日本式経営が駄目だということまでも書かされたそうです。
では何故これほどまでに日本式経営は叩かれたのでしょうか。それにはいくつか考えられる理由があり、まずはなんといってもバブルで浮かれすぎた反動で、急に景気が悪くなったもんだから非常に自分らのやってきたことに対して自信をなくしてしまい、さらにこの時の日本人の後ろめいた気持ちは、物事に対して「どうすれば良くなるか」よりも、「何をしてはいけないのか」ことばかり考えるように思考を持って行ったのではないかと私は睨んでいます。そういうのも、当時のビジネス書のタイトルを思い出すと、「○○が悪い!」とか「××経営の弊害」といったタイトルばかり思い浮かび、ポジティブな本だと大抵が「欧米式△△経営」、「アメリカ人の戦略」などと海外の成功体験ばっかでした。
こうした状況を踏まえてか、かなり昔に(2004年ごろだと思う)読んだ誰かのエッセイでは、「当時の日本人は失敗の理由ばかりを探して成功する方法を探そうとしなかった」とかかれていましたが、この意見に私も同感です。
そうやって日本式経営をたたき出した後に持て囃されたのが、既にもう述べた成果主義です。まぁこれについては賛否両論いろいろあり、特に早くにこれを導入した富士通に至っては元富士通の城繁幸氏に激しく批判されており、私としてもこの成果主義がうまく機能することはほとんどないと思います。何気に最近読んだ、クロネコヤマトの生みの親の故小倉昌男氏も自著にて、とうとう個人ごとに成果を評価する制度だけは最後まで作ることが出来なかったと述べています。
これなんか社会学やってたから私もいろいろ思うところがあり、元々社会学は本来比較し辛い、出来ない人間の心理や行動といった対象を出来るだけ現実にあった形で数値化して比較する手法を持っていますが、これは言うは安しで行なうは難しです。私が去年やった調査なんか、2ちゃんねらーは朝日新聞が嫌いなのかを測ろうと大学生に調査票配ってやりましたが、200人に配ったところで2ちゃんねるをよく閲覧するのは10人にも満たなくて、客観的に足る必要サンプル数が集まらずに断念しました。
成果主義においても、単純な個人売上で測ろうとしてもこの数字も周りの景気の影響やらで簡単に変わりますし、一概に導入すればかえって運のいい人、リスクをとらない人ばかりが評価されて、積極的に仕事をしてリスクを抱える人などは逆に評価が下がりやすくなるので、私としてもこの成果主義には疑問を感じます。それでも当時の日本人からすると、日本式経営と対極にあることからこういった評価制度をどんどんと導入していきました。
しかもなお悪いことに、日本式経営でも部分的に見れば非常に優れた経営方法といえる点は数多くあるのですが、この時代に標的にされて潰されていったものはほとんどがそういった優れた点で、逆に日本式経営で非常に問題な点、たとえば無駄に会議が多くて決断や動きが鈍い点は何故だかよく残ってしまい、実際に会社員の方から話を聞いたりするとまるで成果主義と日本式経営の駄目な点が見事にハイブリッドされているのが今の状況のような気がします。
ここで話が少し変わりますが、確か96年か97年頃に「世界まる見えテレビ」という番組において、あるアメリカの企業が紹介されていました。名前は失念してしまったが、いわゆるIT系の会社で、その会社には社内に託児所から個人用のオフィスまで備えらた、社員にとっては至れり尽くせりという雇用環境で、これについて社長はこうした環境が社員のモチベーションを引き上げるのだと言い、実際にその会社は多くの利益を生み出しているとして紹介が終わりました。見終わったゲストからは、自分達が持っていたアメリカの企業イメージと全然違っていたなどと互いに感想を述べ合っていました。
90年代後半からアメリカの多くの企業は優秀なIT系技術者を囲い込むために、かつての日本よろしく社員への好待遇を行う企業が増え始めてきていたそうです。もちろんそれは一握りのエリート社員だけで、かつての従業員は皆家族という日本式経営とは異なるものでしたが、キャノンの会長であり経団連の会長もやっている御手洗富士夫などはこうした例を挙げては知った振りをして、日本が日本式経営を捨てている頃にアメリカは日本式経営を取り込み成長し、終身雇用制を守ったキャノンやトヨタが今では日本で勝ち組なのだということを言っていますが、ここで反論させてもらうと、キャノンもトヨタも初めから正社員が少なくて非正規雇用が多かっただけに過ぎません。キャノンに至っては会長が社員は家族といいながら、偽装請負までしているのだから盗人猛々しいとはこの事でしょう。
しかし現在の日本のSEことシステムエンジニアの現状を見る限り、先のエリート社員に高待遇を与えるというアメリカのやり方も一理ある気もします。日本でも成果主義が導入されているとは言われながらも、実際に優秀な人間は今でもかなりはじかれているように思えてならないからです。
最後に非常に皮肉な言い方をしますが、日本は失われた十年の間に日本式経営を非難する事によって、企業が社員をリストラできる大義名分を得たのは一つの収穫だったと思えます。それまではリストラは非人道的だと非常に批判されて企業もやり辛かったのですが、成果主義の名の元で不要な人員の解雇が行えるようになり、結果的に経営を一時的に立て直すことが出来たのは事実で、そういう意味ではこうした日本式経営への一連の批判はそれ相応の役割を果たしたといえると思います。
日本という国は社会保障が不十分であったのを民間の終身雇用、年功序列という制度で補っていました。それが崩壊し、成果主義になりつつありますが、しかし、その競争システムから落ちこぼれたものを救うシステムは確立していません。新卒採用はそれを象徴しています。このどっちつかずの体制がだめだなぁと思うんですよ。
返信削除その辺も前から書こうと思っていた内容なのですが、日本というのは日本人すべてが正社員として働くことを前提に社会制度が作られており、ろっくまんさんの言われる通りに正社員の道から一度外れると社会保障は愚か、世間体からも永遠に排除される仕組みになっております。
返信削除もっとも、こうした施策が徐々に通用しづらくなった、もとい社会保障の役割を大幅に担うはずだった企業がそれを放棄したためにいろいろ問題が表面化していると私は考えており、こうした状態を解決するための方法論について、週末にかけてちょっとまた気合の入った記事で紹介しましょう。