最近狙っているわけじゃないけど歴史関係の記事が多いので、久々に抽象的な事でも書こうかと思います。
よく「○○は芸術性が高い」と芸術作品に対して評論家は述べたりしていますが、そもそもの話として芸術性とは一体なんなのかが一般人からすると分かり辛いです。恐らく絵画なら絵画、陶器なら陶器でそれぞれ芸術性を示す指標なり何なりがあるとは思うのですが、今では最大級の評価がなされているゴッホが生前には二枚しか絵を売る事が出来なかったことを考えると、それらの指標というのは時代ごとの評価基準ではないか、言い変えるならその時代の品評家が如何に評価するかで決まってしまうほどあやふやなものではないかという気がします。
では形を変えて文学作品ではどうでしょうか。日本の文学界における賞としては芥川賞と直木賞が一番有名で、前者が文学性を重んじるのに対して後者は娯楽性、要するに売れる本がいつも選ばれていますが、はっきり言って芥川賞作品はそれほど知名度もなくよっぽどチェックしている人でなければ五年以上前の作品ともなると誰も覚えていないでしょう。
これと関係するかどうかは微妙ですが、「明日のジョー」などの原作で有名な梶原一騎は川端康成についてこう言っていたそうです。
「川端康成がノーベル文学賞を取ったらしいが、俺の方が原稿料は上だ」
梶原一騎の主張を敢えて意訳するなら、芸術性云々より売れる物を書いたほうが勝ちなんだといいたかったんだと思います。この主張は他の芸術界においても一部通っている所があり、どこそこのオークションでどれだけの値段がついたかで芸術家としての序列が決まるということもあるそうです。
となると資本主義の論理よろしく芸術性というのはその時代ごとの金銭的価値で決まるのでしょうか。
あまりもったいぶっていてもしょうがないので私の意見をもう書いてしまいますが、私は作品としての芸術性は、その魅力が及ぶ範囲、量、永続性の三点にあると考えています。
例えばダビンチの作品群を例に取ると、彼が生きていた時代はもとより製作後数百年経った今でも世界中の数多くの人間を変わらずに強く惹き付けており、同様にシェイクスピアの文学作品も未だに世界中で読まれては演劇にも使われております。
このように芸術作品の芸術的価値というのは、時代の流行や文化の影響を受けずにどれだけ幅広く受け入れられるか、まさに音楽でもあるように「クラシックさ」によって価値が決まるものだと私は考えているわけです。ですので単年度でどれだけ売れたかや、限定されたグループの人達の間でだけで熱狂して受け入れられているといった事実は芸術性を見るに当たってあまり当てにならないかと思います。
そういったことを踏まえて考えると、私が何よりも残念に感じるのは日本文学です。もう十年以上前の話になりますがある書評にて、「今出ている本の中で十年後も読まれる作品といったら『少年H』くらいしかない」というものがありました。その「少年H」も未だに読まれているかといったら微妙ですが、明治や大正の文豪作品に比して現代の文学作品はどれだけ足が早いのか、語り継がれる作品がどれだけ少ないのかを考えるにつけ日本文学はここまで落ちたかと落胆してしまいます。
個人的な趣味を言わせてもらえば、三浦綾子氏の作品はもう少し現代でも評価されていいと思います。「氷点」は数年前にドラマ化しましたが、なんかこの人の評価って文学者ではなく流行作家として扱われてて、多分まだ現国の便覧にも載せられていないんじゃないかな。因みに私は「銃口」が一番お気に入りですけど。
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