鎌倉時代はいろんな意味で面白い時代ですが、いまいち人気がないためにそれぞれのエピソードもどうも埋もれがちです。そこで今日は自分が鎌倉時代で特に気に入っているエピソードの、源頼朝の娘、大姫の話を紹介しようと思います。
頼朝の子供というと二代目将軍の頼家と三代目将軍の実朝は知られていますが、妻の北条正子との間にはそのほかにも子供がおり、中でも長女のこの大姫はその後の歴史を左右しかねない存在だったと私は考えております。
大姫は1178年に生まれるのですが、わずか六歳にして許婚が出来ます。その許婚の相手というのも源義仲こと木曽義仲の息子、源義高という大姫より六歳年上のこちらもわずか12歳の少年でした。父親を見てもらえばわかる通りにこれは平氏打倒の途上にあった頼朝と義仲の政略結婚で、義高が頼朝の下へ人質として送られる形で決められました。
ただ政略結婚とはいえこの二人は子供同士ながら仲が良く、将来の関係についてもそれぞれで理解しあっていたそうなのですが、残念なことに頼朝と義仲は平家物語にも書かれてあるように対立し、最終的には源義経によって義仲は討伐されることとなります。
義仲の討伐後、父親の死をまだ知らない義高を将来の禍根として殺害を企てるのですが、これをひょんなことで聞いてしまった大姫は義高を女房に扮させて逃亡させようと行ったそうです。ただこう書いておきながらですがこの辺の記述は吾妻鏡に書かれている限りで、まだわずか六歳の大姫が義高の逃亡を積極的に支援するとはちょっと考えられず、義高とその取り巻きが逃亡を図ったのは事実かもしれませんが大姫がそれを支援したというのは脚色ではないかと私は考えています。
話は戻りますがとりあえず逃亡を図ったものの義高は追っ手に捕まり、敢え無く討ち取られることとなりました。吾妻鏡ではこの義高の殺害は子供にはショックが強すぎるということで大姫には内緒にして行方不明だと説明しようとしていたものの、討伐した藤内光澄が帰ってくるなり大声で、「義高、討ち取ったりー!(゚∀゚)」と言っちゃったもんだからすぐにばれてしまい、あまりのショックに大姫は気絶までしたそうです。これに怒ったのが日本史上でも多分一、二を争う烈女の北条正子で、藤内のことをデリカシーのないやつだと再三頼朝に抗議したために藤内は敢え無くさらし首にされたそうです。
その後大姫は、元からかもしれませんがめっきり体が弱くなり、何かにつけて義高のことを口にし、頼朝が持ってくる縁談に対しても、「だったら身を投げるっ!(# ゚Д゚)」と言っては強く拒否し続けたそうです。しかしそれでも武士の娘の運命からか頼朝は平氏打倒後の朝廷工作の秘策として、この大姫を後の承久の乱で主役となる後鳥羽天皇に輿入れさせようと工作を始めたのです。ただこの工作が実る前に、大姫は20で病からこの世を去ることとなりました。
過分に話が出来すぎな気もしますが、大姫は不幸といえば不幸な人生だったと思います。ちなみに日本人は何かと「三大○○」と言うものを作るのが好きですが、敢えて「三大不幸姫」を私が作るのであればこの大姫と、戦国時代の武将である最上義光の娘の駒姫、あとちょっと微妙ですけど徳川秀忠の娘の千姫あたりが無難かと考えます。まぁこの中だと、駒姫がダントツで可哀相なんだけど。
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