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2010年12月4日土曜日

西南戦争における日露戦争のキーマンたち

 以前に征韓論について取り上げましたが、今日は西南戦争についてちょこっと書きます。
 西南戦争というと日本最後の内戦、士族による最後の武力反抗として位置づけられ、この後士族らは自由民権運動など言論による反抗を行っていくようになると中学レベルでは教えられます。この説明に問題がないわけじゃありませんが、私としてはこの西南戦争はもっと後世に強い影響を与えているのではないかと睨んでおり、できればもう少し研究とか進まないものかと考えています。

 それはさておき、実はこの西南戦争に関わった人間のうち後年の日露戦争においてキーマンとなる人物が数人おります。
 まずその中でも有名なのは203高地で有名な乃木将軍こと乃木稀典で、らしいといえばらしいですが鎮圧のための官軍を率いて九州に乗り込むも西郷軍に散々にやられて軍隊としては絶対になくしてはならない連隊旗を失くすという大失態を犯してます。本人も後年に至るまでこのことをえらく気にしていたそうですが、それにもかかわらず日露で前線指揮官になるというのはやっぱりミスキャストな気がしてなりません。

 そうやって鎮圧軍に乃木がいた一方、西郷軍の当初の攻撃目標で初期から中期にかけてずっと攻撃を受けていた熊本鎮台こと熊本城に篭城していた中には、こちらも日露戦争にて陸軍を率いた児玉源太郎がいたそうです。当時から児玉は将来が渇望されていた人材だったらしく、西郷軍の撤退の後にはわざわざ無事かどうかが政府から確かめられたそうです。

 そしてこちらは西南戦争には参加していませんが、「もし自分も鹿児島にいたら西郷さんとともに戦った」と語ったのが日本海海戦で海軍を指揮した東郷平八郎です。東郷は当時イギリスに官費留学に出ていましたがそもそもその留学を叶えてくれたのはほかならぬ東郷と同じく薩摩出身の西郷で、非常に恩に感じ入っていたそうです。

 乃木はともかくとして、仮に西南戦争で児玉、東郷の両名が戦死していたらと思うとその後の歴史には思わず寒気を感じます。こういったところから西南戦争を見てみると、もっと議論の価値がある気がするのですが……。

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