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2010年12月9日木曜日

悪法は守るべきかどうか

 昨日は「お上と法律」といって、市民に法を従わせるためにはお上がある程度率先して法を守らねばならないという事を私は主張しましたが、この法律を守るか守らないかの議論において一番重要な議題となるのは、「悪法といえども守らなければならないのか」という事だと私は思います。そしてこの根源的な議論に最初に挑んだというか象徴的に取り上げられるのは、今日取り上げるソクラテスでしょう。

 ソクラテスについては詳しくここでは話しませんが、彼は当時の人間からしても明らかに不当な裁判によって死刑判決を受け、それに同情する人々から逃亡を薦められるもそれを拒否し、「悪法といえども、法は法」といって自ら毒杯を煽って死しています。このソクラテスの言った「法は法」という言葉と彼の行動、ひいては「ソクラテスは生きるべきだったのか死ぬべきだったのか」に対して文系の学生なら一度は議論しておいてもらいたいものなのですが、果たしてどれくらいいることやら。こういうからにはもちろん私も議題に上げて議論をしたことがあるのですが、根源的な内容なだけに画一的にこれが正しいという結論は求めず、確か友人と意見が分かれたままで終えた気がします。

 それで私の意見を紹介すると、結局どっちつかずでした。確かにソクラテスの言うとおりに間違っていると分かりきっていたとしても法を破れば間違った法を運用する人間らと同じになってしまうというのも分かりますが、死んでしまったらその法を改革する事もどうにもする事も出来なくなる事を考えると、恥を忍んででも生きて世の中をよりよくするために活動していくべきだったのではという、どちらかといえば「生きるべき」論の側に至りました。

 ただしこれはソクラテスのように命が懸かった場合に限る話で、それ以外の軽微なものであれば私は悪法といえども従うべきだと考えています。
 今現在においてもやれ法人税を下げろとか規制を減らせという様々な法律改正の意見はありますが、その意見を発信する人間はどんな人間かと辿るとほぼ間違いなくそれらの法律改正によって利益を得る人間ばかりです。法人税の減税主張者は経団連の人間で、規制解除論者も新規参入を図る人ばかりで、こう言ってはなんですが自らが不利になるといえども公益のために法律改正を叫ぶ人間はほとんどいません。

 まぁお互いに利益を追求する事で成り立つ資本主義社会なのだからそれはあながち間違いではないのかもしれませんが、時たまこういった法律改正を叫ぶ人間を長く見ていると、時間の経過によって全く反対の意見を言い始める人間も中にはいます。何故その人間が従来の主張をひっくり返したのかと言うと、これまた言ってしまえば以前の案だと自分の不利益になってしまうように状況が変わったことに他ならないでしょう。

 最近はモンスターペアレンツなど堂々と果たすべき義務も果たさず法律が悪いという人が表にはっきりと出てくるようになりましたが、私は恐らく、彼らが悪いと言っている法律が自らに利益をもたらす立場となれば全く逆の事を言うと思います。そういった事を考えると、最低限法律を変えるべきだと主張するからには悪法といえども従うような、最低限の節度というか公益性を持つ必要があると考えます。
 ただこれも突き詰めてしまうと政府の言論統制に何でも従うべきだという意見にもなってしまい、ノーベル平和賞で揉めてる中国なんかを見ていると法律破ってでも思想や報道の自由は守らなければとも考えてしまいます。

 そういうわけで結局この議論はケースバイケースで、画一的に出せるものじゃないということになってしまいます。ただ日本においては命まで取られる様な事態はそれほど多くないと思うので、変な法律でも私は守りつつ改正を主張するべきだと思います。
 ちなみにこれまで日本の年金について私もいろいろ言ってきましたが、今度から海外で暮らすために支払いを止めたのでこれからは文句言わない事にします。

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