ページ

2011年1月29日土曜日

猛将列伝~鈴木貫太郎

 私は現在中国メーカー製のシャンプーを使っているのですが、使い心地は悪くはないものの今ある分を使い切ったら日本にいた頃から使っているLUXに切り替えようと思っていたところ、旧正月前ということで会社から社員全員へ今私が使っているのと全く同じシャンプーが配られました。ありがとう、総務部長よ。

 この猛将列伝は陽月秘話時代からずっと続く企画記事ですが、当初は中国古代史の武将を取り上げるだけ取り上げてすぐ終わりかと思っていたところ現在に至るまで続いてて書いてる本人もビックリな企画記事です。内容にもそこそこ自信があり、陽月秘話時代ではあまりよそでは取り上げられない宮崎繁三郎などの記事を取り上げたことからアクセスゲッターとして十二分に活躍し、名実ともに私のブログのキラーコンテンツでありました。そんな猛将列伝ですが先日はちょっと珍しく中世ドイツのヴァレンシュタインを取り上げましたが、今日も今日でちょっと異色というか、終戦時の内閣総理大臣鈴木貫太郎を取り上げます。

 鈴木貫太郎と聞けばその名前を知っている方からすれば恐らく終戦時、つまりポツダム宣言受諾時の総理大臣として記憶しているかと思います。総理大臣と言えば軍人もなったりはしましたが名目は文官職、それがどうして猛将になるのかですが、実は鈴木貫太郎は元々は海軍軍人でした。

 彼は関宿藩士の家に生まれて海軍軍人となり、日露戦争にはあの日本海海戦にも駆逐隊を率いて従軍しております。この日本海海戦の折、これは鈴木の部隊に限るわけではないですが日本海軍は司令長官の東郷平八郎自身が晩年に至るまでも、「一撃必殺の砲よりも威力は小さくとも百発百中の砲がよい」と言ってただけあって狙撃精度の向上のため決戦を前に猛訓練を重ねていました。この訓練では確か前に読んだ本によるとあらかじめ決戦用に取っておいた弾薬を訓練で三回くらい使い切り、その度に本土から補給を受けたほどだったそうです。
 その訓練時、鈴木は自身が率いる部隊に対して特別厳しい訓練を課してそれゆえに「鬼貫」という異名までついたそうなのですが、いざ決戦が始まるや鈴木の部隊は目覚しい活躍を見せ、戦艦三隻、巡洋艦二隻を撃沈するという大戦果を上げ、参謀の秋山真之から一隻はほかの艦隊の手柄にしてやってくれとまで言われたほどだったそうです。

 海軍では最終的に最高位の軍令部長にまで出世しますが、その後鈴木は昭和天皇の要請に応える形で天皇の側近中の側近こと侍従長に転任します。一般的にはこの侍従長時代の姿が鈴木の姿として認知されていますが、この頃の昭和天皇の鈴木への信頼は絶大で、元々鈴木の妻のたかが幼少時の昭和天皇の教育係をしていたこともあって何事に付けても相談を受けるほどの間柄だったそうです。

 ただこの侍従長就任は鈴木に対して厄災も引き寄せ、鈴木は天皇を惑わす君側の奸として右翼軍人らに見られたことから二・二六事件の際には決起軍人らによって自宅にて襲撃を受けました。その襲撃の際に鈴木は銃弾三発を受け、そのうち二発は左頭部と左胸に命中しているのですが、なんとこれほどの大怪我を負いながらも鈴木は何とか一命を取り留めております。
 聞けば鈴木が撃たれた直後、決起軍人らは当初鈴木に止めを刺そうと一旦は軍刀を抜いたのですがその際に妻のたかが咄嗟に、「もうこれほどの怪我を負っているので夫は助からないでしょうに。それでも止めを刺そうというのならば私が致します」と軍人らに訴えかけ、これを聞いた軍人らは軍刀を鞘に納めて引き上げていったのですが、彼らが引き上げるやたかは鈴木を急いで病院へ運びその命を見事救いました。この時に鈴木は心臓も一旦停止したとのことで賢妻のたかの機転がなければまず間違いなく生き残ることは出来なかったでしょうが、銃弾三発を受けながらも生き残るというバイオハザードのゾンビも真っ青な鈴木の不死身ぶりには目を見張ります。

 これ以前にも鈴木は子供の頃に暴れ馬に蹴られかけたり釣りをしてたら川に落ちたり、海軍時代も夜の航海中に海に落ちるなど何度も死にかける経験をしているのですが、日本版ダイ・ハードとも言ってもよい驚異的な生存力と奇跡的な幸運によってどれも無事に生還しております。
 またこの二・二六事件の際に昭和天皇は鈴木が襲撃を受けたという報告を受けるや憤慨し、即座に決起軍人らを反乱軍と認定して自ら出陣して鎮圧するとまで意気込んだそうです。私が知る限り感情表現を常に抑えていた昭和天皇がこれほど強い感情をほかに見せたのは張作霖爆殺事件後の報告を行った田中義一に叱責を行った時くらいで、それだけ昭和天皇と鈴木の関係が密接だったことが伺えます。

 この二・二六事件後に鈴木は枢密院議長などの役職を経て、1945年4月から終戦時まで総理大臣の役職に就きます。この鈴木の総理就任は昭和天皇の強い意向と、木戸幸一を始めとする終戦工作派の根回しがあって実現したとされ、これが事実だとするとこの時点で昭和天皇は終戦を希望していたと考えられます。総理就任時の鈴木の年齢は77歳。これは現時点においても総理大臣としては最高齢の主任年齢で当時の時局を考えると明らかに異例な人事です。だが鈴木は老齢ながらも昭和天皇の希望の通りに終戦工作を行い、最終的に御前会議を持ち出すことで見事日本を終戦に導くことに成功しました。

 生前に松本清張は、たとえ東条英機がいなくとも誰かが代わりとなって太平洋戦争は起こった(その代わりヒトラーの代わりはいなかったとも述べている)だろうと述べており、私も当時の日本陸軍を見るにつけこの松本清張の意見に賛同します。その一方、では鈴木の代わりとなって日本を終戦に導けた人間は当時ほかにいたのかとなると、こちらは少し思い当たる人間が出てきません。敢えて挙げるとしたら鈴木同様に昭和天皇からの信頼も厚くそれ以前に総理大臣を経験している米内光政がおりますが、果たして米内であれほどスムーズに終戦にまで至れたかとなるとなかなか考え物です。一部で玉音レコードを奪取しようと襲撃こそ起こりましたが、はっきり言えば出来過ぎなくらいに日本は八月十五日を終えています。
 それだけに仮に鈴木が二・二六事件の際に死去していたら、私は日本の終戦の形は大きく違っていた可能性があると思います。私も一応日本人ですから、よくあの時に生き残り終戦という大仕事を成し遂げてくれたと鈴木貫太郎に対しては強い尊敬の念を持っております。


  おまけ
 鈴木の出身地は現在の千葉県野田市関宿町なのですが、去年の夏に実家から近いことからうちの親父と久しぶりに関宿城を見に行こうとドライブに行った際、たまたまこの地域にある鈴木貫太郎記念館を見つけて訪れました。右手指と両足の指がしもやけになるくらいこのところ寒くて去年の馬鹿みたいに暑い夏のことを思い出してたらこの時のことを思い出し、今回の記事を書くきっかけとなりました。
 これに限るわけじゃありませんが私の記憶は突拍子もなく何かを思い出すことが多く、そもそもこの時に関宿城に行こうと思ったのも私が中学三年生くらいの頃にその時もまた親父と車で行ったのを思い出したのがきっかけでした。

0 件のコメント:

コメントを投稿

コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

注:ブラウザが「Safari」ですとコメントを投稿してもエラーが起こり反映されない例が報告されています。コメントを残される際はなるべく別のブラウザを使うなどご注意ください。