ページ

2011年12月16日金曜日

日本に影響を残した外国人~レオ・シロタ

レオ・シロタ(Wikipidia)

 今日紹介するレオ・シロタはその「シロタ」という名字から一見して日本人ハーフかと思われるかもしれませんが、この人はれっきとしたユダヤ系ウクライナ人で親類に日系人関係者はおりません。幕末にイギリス人外交官としてもっと名前が知れ渡ってもいいくらいに活躍したアーネスト・サトウも出生自体は日本と全く関わりがありませんが、世界は広いもので日本語の発音に近い苗字を持った外人は意外に多いようです。

 早速解説に入りますがシロタの職業はピアニストで、5歳からピアノを弾き始めると幼少時から神童とも呼ばれ、19歳になってウクライナからウィーンに留学してからはめきめきと腕を上げていき「リストの再来」とまで呼ばれトップクラスのピアニストとして名を馳せました。
 そんな世界的ピアニストがどうしてまた日本と関わるようになったのかというと、こちらもまた日本が誇る偉大な音楽家の山田耕筰がシロタのハルビン公演の際に日本への招聘を行ったことがきっかけでした。シロタはこの誘いを快諾して1929年に妻と既に生まれていた娘を伴い日本へ訪れ、当初は半年間の講演旅行で終えるつもりだったところを、山田耕筰の依頼を受けそのまま東京音楽学校ピアノ科教授に就任して日本に留まり続けました。

 勘のいい人なら既にお判りでしょうがこの時期には既にドイツ、オーストリアでユダヤ人迫害が始まりつつあり、オーストリアに本拠を持つシロタもそうした背景があって日本滞在を選んだのかと思われます。かくして日本は世界トップレベルのピアニストを指導者として招くことに成功したわけですが、当時はシロタ以外にも東京音楽学校には世界有数の外国人教授が集まっていたようで、日本の音楽史において大きな発展に貢献したと言われております。

 その後、日本を含め世界は徐々に戦争期に突入していくわけですが、シロタは延々と日本に滞在し教鞭を取り続けました。ただ1939年に16歳となった娘だけが進学のためにアメリカの女子大へ留学したことになるのですが、太平洋戦争開戦直前の1941年に娘に会うため渡米したシロタは娘から「戦争が始まっては別れ離れになる。このままアメリカに留まろう」と説得を受けることとなります。
 たまにゾルゲ事件を取り上げては開戦直前まで日米の一般民衆は戦争が起こるとは考えていなかったと書く奴がいますがこれは明らかな間違いで、むしろ日本側は世論に押されて政府が開戦を決めた節があります。現に情けなさすぎてあまり書きたくありませんが、何故開戦となったのか半藤一利氏の取材で当時の陸軍幹部は「いや、なんとなくそういう空気だったから」と証言してます。

 話はシロタに戻りますが、この時の情勢はまさに娘の言う通りと言ってもいい状況であったにもかかわらずシロタは、「東京音楽学校で私を待っている生徒たちがいるのだから戻らないといけない」と言い残し、その年の11月に日本へ帰国しました。なおこの時にシロタが乗った船は、アメリカから日本行きの船としては最後の便となりました。そしてこの1ヶ月後、日米は開戦して親子の間の通信は途絶えます。

 アメリカに残された娘はシロタからの仕送りがなくなったことを受け、数ヶ国語を操るほどの才能を持っていたことから通信社でアルバイトを開始したのを皮切りに、最終的には戦争情報局で対日プロパガンダ放送を担当する仕事を受け持つようになります。これらの仕事の中で得られる日本側の放送から両親の安否情報を捜していたそうです。
 その後、日本が1945年に降伏し、当時働いていたタイム誌の日本特派員から両親は無事で軽井沢にいるという情報を得た娘は何とかして日本に渡ろうと手を尽くし、1945年の12月24日、GHQの民間人用員として厚木に降り立つこととなります。

 法学部出身者限定となってしまいますが、勘のいい人なら既にお分かりの通りにこのレオ・シロタの娘こそ日本国憲法草案作成の過程において非常に重要な役割を果たし、現在も存命されているベアテ・シロタその人です。
 今回この記事を書くに当たり、非常に情けないのですがほとんどウィキペディアのページから引用しております。本当ならもっといろいろ調べたり、毎日新聞社が「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」という本を出しているからこれを読んだ上で書くべきなのですが、非常に興味深い内容の上に可能な限り早くこのブログでも紹介したいと思ったことから見切り発車でもう書くことにしました。私自身、ベアテ・シロタ氏については法学の授業で習い、子供の頃に日本にいたという事実自体は知ってはいたものの、どうして親子が日本に来たのか、そして別れ離れになったのかについては全く知らなかっただけに強い衝撃を受けたとともに、その父親のレオ・シロタのその功績と人となりについても感動を覚えました。

 最後にこの親子の戦後の帰結ですが、当時レオ・シロタ夫妻は軽井沢に強制疎開されており、八方手を尽くした娘からの連絡を受け1945年内に無事再会を果たすことが出来ました。それにしても父親は音楽界、娘は憲法において日本に多大な功績を残してくれたとのことで、真面目にこの親子には感謝で頭が上がりません。憲法に関して一言付け加えておくと、当時において日本国憲法はアメリカの憲法以上に人権、平等思想が強く反映されており、間違いなく世界屈指の憲法に仕上がり、現在にまで機能するというとんでもない代物なだけに、こんなええ娘さんをよう生んでくれたとレオ・シロタに対してしみじみ思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿

コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

注:ブラウザが「Safari」ですとコメントを投稿してもエラーが起こり反映されない例が報告されています。コメントを残される際はなるべく別のブラウザを使うなどご注意ください。