先日、「太平洋戦争の前後、ソ連のコミンテルンが日米開戦、日中戦争の長期化を図って陰謀をめぐらしていたのではないか」というテーマについてリクエストを受けたので、当時の日ソの外交と戦略についてまとめようと思います。どうでもいいですが、プロ野球で日本ハム対ソフトバンクの試合だと得点ボードに「日ソ」と縦書きで表示されるので、なんか別の戦いを連想してしまいます。
まず単刀直入に先ほどの陰謀論についてですが、実際にどのような工作をしたのかどうかは別として、希望として持っていたという点についてはもうはっきり「YES」と答えていいでしょう。何故コミンテルン、というかソ連が日米開戦と日中戦争の長期化を期待してたのかというというと実に単純で、バルバロッサこと独ソ戦が開戦したからです。
この後いろいろと時系列に語るので、先に年表を準備しておきます。それにしてもこの年表、そのまま順番入れ替え問題に使ってもいいくらいよくまとまっている気がします。
1939年5月 ノモンハン事件
1939年8月 独ソ不可侵条約締結
1939年9月 ドイツがポーランド侵攻(二次大戦開戦)
1941年4月 日ソ中立条約締結
1941年6月 独ソ戦開戦
1941年9月 ゾルゲ事件で初めての逮捕者が出る
1941年12月 太平洋戦争開戦
まず見てもらえばわかる通りに、1941年6月にドイツとソ連の間で開戦しましたが、この時のソ連の一番の懸念というのはちょうどドイツと反対側の国境を接する日本の動向でした。というのも仮に日本側が攻撃してくるのであれば東側にも防衛兵力を割かねばならず、逆にその気がないのであれば全兵力をドイツのいる西側に傾けることが出来ます。
そのためこの時のソ連は、っていっても別にこの時に限らず崩壊するまでいつもそうでしたが、世界各国にスパイを送って日本側がどのような戦略なのかを必死で探っており、その諜報員として活躍したのが上記にある「ゾルゲ事件」の名の元となったリヒャルト・ゾルゲです。このゾルゲはスパイ教本にも引用されるくらいに多大な成果を上げた諜報員で、日本側がソ連と開戦するつもりがないことはおろか独ソ戦の正確な開戦日まで調べ上げて本国に報告しております。ただその報告をスターリンが信じずに対応が後手後手になったというオチが付きましたが。
このゾルゲ事件で注目すべきは、諜報活動に関わってゾルゲと共に死刑となった尾崎秀実の存在です。彼は近衛文麿のブレーンにも入っており、近衛に助言をすることで政策に大きな影響を与えていたとされているのですが、雑誌に寄稿した論文では日中戦争の拡大方針を唱え、長期化もやむなしという主張を展開していました。
恐らくこの意図は、日中戦争を長期化させることで日本をソ連に向かわせないようにするのと、さらに言えば日本と国民党を戦わせて中国共産党に再起の機会を与えるという目的からだと思われます。この尾崎はゾルゲと共にコミンテルンの指導で動いており、彼らの行動からコミンテルンが日本をソ連に攻め込ませないように中国やアメリカといった別方面に目を向かわせないよう動いていたといって十分でしょう。
ここで筆を止めても別に問題はないのですが、敢えてもう一つ問題提起をすると、では一体何故日本はこの時期にソ連に攻め込まなかったのでしょうか。はっきり言って分析すればするほどいろいろ情けなくなるのですが、ちょっとこの辺で持論を展開することとします。
まず当時の国際状況ですが、私に言わせれば日本がアメリカと戦う方が不自然で、ソ連と戦う方がある意味で自然な姿だったように思えます。確かに当時の日本はアメリカから経済制裁を食らうなどしておりましたが、普通に考えれば戦って負けることははっきりしているし、またよくハル・ノートがアメリカ側の最後通牒で開戦に至ったという解釈が強いですが、私は和訳文面を読む限りだと最後通牒と呼べるのか、また日本側が主張しているように「返還すべき中国領土に満州も含まれていた」という説には疑問があります。はっきり言って、これでアメリカと開戦することを決断したと言われても、「えっ、なんで?」と思ってしまいます。
逆に、ソ連についてはどうして1941年に日本は攻撃しなかったのか、非常に不自然に感じます。当時の日本とソ連は日ソ中立条約を結んで一応はお互いに攻め込まないという約束をしておりますが、その一方で日独伊三国軍事同盟も結んでおり、事実ヒトラーは対ソ戦を考慮して日本と同盟を結んだようです。
しかしヒトラーもがっかり100点満点なくらいに日本はソ連に攻め込みませんでした。あまり仮定の話は好きではないのですが、独ソ戦の戦況を見返すにつけてもし日本が日ソ中立条約を破棄してソ連に攻め込んでいれば、また攻め込むと言わずとも攻撃する素振りを見せるだけでもしていれば、最低でもドイツはモスクワは落としていたでしょう。さすがにモスクワが落ちたらアメリカもやばいと思って参戦して最終的には連合国が勝ったでしょうが、二次大戦の終戦時期は確実に伸びただろうと断言できるくらいに日本がソ連に攻め込むかどうかは全戦局を左右するターニングポイントでした。
どうして日本は後ろが完全がら空きで、また同盟国であるドイツへの支援を放棄してまでソ連に攻め込まなかったのか。最も妥当な理由は当時の日本の戦略は資源獲得を狙って南方に向いていたためでありますが、私が思うにそうした戦略以前にノモンハン事件の惨敗が影響しているのではないかとにらんでいます。
このノモンハン事件について簡単に説明すると、当時の満州とソ連の間で起きた国境紛争ですが、わずか5ヶ月間で日本側の戦死・戦傷者数が1万6千人を超えるなど実態的には戦争です。近年になってこれまで考えられてきた以上にソ連側の被害も大きかったことがわかりますが、ソ連側が本格的に反撃に出てきた後半戦は完敗と言っていいくらいの大敗北を喫しております。なおこの時に日本側では以前の「陽月秘話」時代に自分も取り上げた宮崎繁三郎が善戦しており、またソ連の指揮官は後の独ソ戦におけるスターリングラード戦で勝利に導いたゲオルギー・ジューコフでした。結果論ですが、ジューコフ相手に勝てるわけないだろという気がします。
これが日本の対ソ戦略にどう影響したのかですか、はっきり言ってトラウマになったと言っていいくらいにソ連を怖がるようになったように見え、事実ノモンハン事件以降の日本は何が何でもソ連との衝突を避けようとしています。根拠としてはこれ以降、首尾一貫してソ連との戦争を忌避するかのような行動が目立つ上、戦争末期には講和交渉の仲介を依頼するなど、終戦に至るまでもはや盲信と言っていいくらいに「ソ連は攻め込まない」と日本が信じ切っているからです。
この辺について何度も引用して悪いような気がしますが半藤一利氏は、「最悪だと思えるケース(ソ連が攻め込んでくる)が起こる可能性を頭から否定しようとする、もしくは現実を直視しようとしない」と評してましたが、自分もそうとしか思えません。それくらいソ連を怖がっていたのではないでしょうか。
さらに言うと、仮にそうだったら日本が日独伊三国軍事同盟を結んだ理由はなんだったのかということにもなります。この同盟はドイツとイタリアの間ならともかく、日本と両国の間では「共同してソ連に攻め込む」からこそ価値がある同盟で、初めからソ連と戦う気がなかったのなら一体なんで結んだのか理解に苦しむどころじゃありません。しかもこの同盟締結を機にアメリカの経済制裁が強まっていますし。
何度愚痴ったってしょうがないですが、この時期の日本の外交戦略はすべてを裏目に出させるという、芸術的と言っていいくらいの無能ぶりを発揮しております。やろうったってこれだけの失敗は狙ったってできないでしょう。この記事に限らずかねがね私は主張していますが、日本は追い込まれて第二次大戦に参戦したわけではなく、頓珍漢な行動を繰り返した挙句に自ら突入していったというのが真相に思えてなりません。
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