何か歴史の話をと考えて既に数日間、思い悩んだ挙句に思い付いたのは、「そうだ、あいつがいたじゃん!」でした。そこで今日はちょっと変わり種というか、大岡忠光を紹介しようかと思います。
・大岡忠光(Wikipedia)
大岡と聞いてまず真っ先に思い浮かばれるのは「大岡裁判」で有名な大岡忠相かと思われますが、今日紹介する大岡忠光はその忠相の遠縁の人物です。遠縁と言っても勤務先は同じく江戸徳川家で旗本の一人なのですが、忠相が徳川吉宗に仕えたのに対し忠光は吉宗の息子、9代将軍の徳川家重に使えていました。
徳川家重というと有名な吉宗の後ということでともかくするとちょっと目立たない人物ですが、実はこれにはわけがあり、最近になって大分マシにはなりましたが以前は家重が障害者であったとされる説からどうも率先して取り上げられなかったという面がありました。またその障害の程度も取り上げる媒体によっては様々で、もうはっきりと「思考もできないほどの暗君」と書くところもあれば、「言語不明瞭(発音が不良)ではあったが思考はまともだった」とするのもあって程度にばらつきがあります。どうも十年くらい前あたりから段々統一見解が持たれてきたようで、生前に囲碁の解説本などを出していることから言語不明瞭ではあったものの一般的な思考はあったとされる見方が強くなっております。ただ生来からか、それとも言語不明瞭で意思が伝わりにくかったことなどから、癇癪持ちであったのも間違いなさそうです。
そんな徳川家重に仕えた大岡忠光ですが、何がすごいかというと誰も聞き取れない家重の発音を何故か彼だけが聞き分けられたそうです。しかも用事があって傍についていなかった時も、
「なにかこうこう言ってるような感じなんですけど」
「それは多分、寒いということだから上着を渡してあげなさい」
と、直接聞いているわけでもないのに的確に翻訳し、しかもその通りだったというのですから末恐ろしい限りです。
大岡忠光が勤務している間は親戚の忠相がやったような目覚ましい功績はなかったものの、在世中の評判は悪くなかったようです。ただ彼が1760年に死去すると、もしかしたら意思伝達に齟齬が起きるようになったのか徳川家重も将軍職を辞して翌年には早くも死去しています。先程の大岡忠相と徳川吉宗も同年に死んでおり(こっちは吉宗が先)、徳川家の将軍は大岡家の人物と二代にわたって生死を共にするという奇妙な関係が続きました。別にこれだからというわけじゃないけど、徳川さんは大岡さんとは仲良くやった方がいい気がする。
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