まだなかなか終着点の見えないこの連載ですが、前回は朴正煕の死後、軍部内での権力争い(粛軍クーデター)で機先を制することによって全斗煥が実権を握ったところまで紹介しました。軍部内で実権を握ったことによって取り立てて政権基盤を持たない当時の崔圭夏大統領に対する全斗煥の影響力は強まり、この時点でほぼ傀儡政権化しておりましたがそれでも飽き足らず、全斗煥は本命の大統領就任に向けて行動を開始します。この過程で起きた民衆運動こそが1980年の光州事件で、今日はこれを紹介します。
・5.18光州民主化運動(Wikipedia)
事件の発端となったのは軍部を握った全斗煥が新たに施行した戒厳令がきっかけでした。朴正煕政権時代も夜間の外出を禁止するなど厳しい戒厳令が敷かれておりましたが、朴正煕の死後に大統領に就任した崔圭夏はそれまで行動を制限していた金泳三や金大中など民主派活動家の行動制限を緩めたことにより、韓国では一時民主化ムードが立ち込め「ソウルの春」という時代がありました。しかしこうした流れを止めたのは全斗煥でした。彼は自分が立候補する大統領選に際して敵となると見た金泳三、金大中らをこの戒厳令によって逮捕・拘束し、政治活動を著しく制限しました。
これに怒ったのは金大中の出身地域に当たる全羅南道にある光州市の市民。現在はどうだかわかりませんが当時の韓国は地域意識が非常に高く、政治も地元出身の議員が熱烈に応援される状況だったらしく、一連の金大中への制裁に激しく起こり、反対運動デモが頻繁に実施されました。こうした動きに全斗煥も黙っていません。早速軍隊を光州市に差し向けてデモ鎮圧に動いたのですが、これに対して光州市民側も態度を強行化させ、大きな暴動へと発展していくこととなりました。
ウィキペディアの記述を引用すると、当時人口75万人だった光州市に投入された総兵力は2万人と、非常に大規模と言ってもいい数字です。鎮圧部隊は群衆に向かって一斉射撃を行ったほか、光州市をぐるりと包囲して情報を完全にシャットアウトし、市民側代表者と武装解除に向けた交渉を行ったと言われております。この間、韓国国内では光州市で何が起こっているのかが全く報じられず、この時の事実はそれからしばらく中国における天安門事件よろしく口伝てでしか伝わら中たようです。
むしろ逆にというべきか、海外では重大な政治弾圧事件だとして大きく報じられ、アメリカの当局関係者も関心を持ったと言われております。私自身は今回の連載開始に向けた勉強でこの事件を始めて知ったのですが、名古屋・広島に十年以上も左遷され続けてとうとう東京本社に戻ることなく会社を退社したうちの親父は事件を覚えており、一定の年齢層以上は多かれ少なかれ日本での報道を見聞きしていたようです。
最終的に武装した市民の指導者らが射殺されるなどして、包囲は約10日間を以って終わりを告げます。事件の死亡・負傷者については未だはっきりしておらず今後の研究が待たれるのですが、ウィキペディアが引用している「518記念財団ホームページ(リンク切れ)」の発表によると死者数は240人、行方不明者数は409人、負傷者数は5019人と、どれも大衆運動の鎮圧事件とみるには大人数です。
こうした政治弾圧を行いつつ全斗煥は崔圭夏に大統領を辞任するよう圧力をかけ、彼を引き摺り下ろします。そして行われた大統領選挙で当選したことにより念願の大統領職に就任することとなるわけですが、その際の施政はソウル五輪の招致などなかなか見るべき点が多いので、次回でまたゆっくり解説します。
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