ページ

2015年5月11日月曜日

創業家列伝~井植歳男(三洋電機)

 昨日は三洋電機破綻後の三洋電機元社員を追った「会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから」の書評記事を書いたので、折角だから今日はその三洋電機を創業した井植歳男の評伝を書くことにします。別に計算していたわけではなく、なんとなく今日は記事執筆に当たって余裕あるから創業家列伝と思ってネタ捜してたらこうなりました。

井植歳男(Wikipedia)

 三洋電機を創業することとなる井植歳男は1902年に淡路島で生まれます。生家は自作農で比較的裕福だったのですが、歳男の父は船乗りを目指し、田畑を売って船を購入すると回船業を営み始めました。ただその父は歳男が13歳の時に急死し、後を継いだ歳男は乗組員が四人だけの船を回すこととなったのですが、船乗りの仕事は今も大変ですが昔はもっと大変だったらしく、歳男自身も当時を過酷な時代として後年に振り返っております。
 しかしそうして家族を養っていた歳男に災難が降り掛かります。港近くで火事になった倉庫の火が燃え移り、仕事で使っていた船があっさりと燃えてしまったのです。生業の手段を失ってしまった歳男ですが、ここで思わぬところから大きな転機が生まれます。

 この辺の話は有名なので皆さんも知っているかと思いますが、歳男の姉は松下電器創業者の松下幸之助に嫁いでおり、1917年に大阪で独立した幸之助は親類縁者ということもあって歳男を従業員に誘い、これに歳男も応じます。当初でこそ工場作業を手伝うなどしておりましたが次第に営業方面の仕事が多くなり、まだ十代であった歳男のセールストークは営業先でも、「この人の話方はとてもうまいからみんな見習いなさい」と他の従業員の前でわざわざ披露させられたというエピソードまであります。ただこの時の営業先は何も買ってくれなかったそうですが。
 その後も歳男は文字通り幸之助の片腕となって八面六臂の活躍で創業時の松下電器を支え続けます。歳男が松下電器に在籍した期間は30年にもおよび、実は三洋電機の在籍期間の22年よりも長かったほどで、32歳時には松下電器の専務職に就任しています。

 時代が戦時色を深めるようになった1930年代にもなると歳男は軍需産業への進出を目指しグループ会社の松下造船を設立すると、木造船を八段階の工程に分けて同じレールの上で作業するという、いわば造船の流れ作業を考案して戦時中には100隻を越える船を造船したと言われます。元々船乗りだったこともあり船には造詣が深く、また本人も単純に好きだったためか後年にも淡路島と本州をつなぐフェリー会社も設立してたりします。

 このように幸之助の元で商売の才能を発揮し続けた歳男でしたが、戦後になると松下電器はGHQから財閥指定を受け、旧役員は一人を残して全員追放されることとなり、義理の兄である幸之助だけが残る形で歳男らほかの役員が去ることとなりました。歳男はこの時、戦前に軍需系企業の株(戦後はもちろん無価値に)の購入費用として借りた350万円の借金を抱えていたため文字通り途方にくれていましたが、住友銀行で後に頭取となる鈴木剛という人物は歳男の人物を買って、新たに50万円の融資を自ら持ちかけてきました。これに応じる形で歳男が設立したのが、三洋電機でした。

 独立に当たって義兄の幸之助からは自転車用発電ランプの製造特許を譲渡され、このランプを作るためまずは兵庫県加西市の北条工場で生産に乗り出します。続けて生産拡大を図り今度は大阪府の守口市に工場を設立しますが、ちょうどこの時に製品に欠陥がでて回収・修理(リコール)をする事となった上、設立したばかりの守口工場も漏電が原因の火災で完全に焼失してしまいます。
 このように順風満帆のスタートではなかったものの立ち直り方は早く、火災から一ヶ月後には工場再建を果たし、創業二年目で三洋電機は発電ランプの国内シェア6割を獲得するにまで至ります。その後も生産品目を増やし、後に三洋の代名詞ともなる「噴流式洗濯機」を国内で始めて製造するなどして会社は拡大を続けました。
 なお三洋電器は洗濯機にはやっぱりこだわりがあったらしく、ドラム式洗濯機も国内で初めて作ってます。

 歳男は66歳でこの世を去りますが、三洋電機自体は歳男の創業時の精神を強く持っていたようで、破綻に至るするまで「主婦のための家電」を合言葉に新機能を追加した洗濯機や冷蔵庫、また末期のヒット商品であった「ゴパン」など新奇性に富んだ家電を生み続けました。

 昨日の記事でいくらか書きそびれたことをここで書くと、パナソニックは三洋電機を買収してからすぐ、「SANYO」ブランドの使用をやめると発表し、それを実行に移しました。しかし私見ながら申すとこの決断は実にもったいなかったと思え、というのも「SANYO」ブランドは日本国内では「ナショナル」や「SONY」と比べるとブランドイメージがやや弱かったものの、東南アジアなど新興国市場ででは早くから進出していたこともあってその認知度や評価は高かったと聞きます。現在の世界市場は新興国市場が中心といっても過言ではなく、国内の使用をやめるだけならともかく、新興国では引き続き利用しておけばよかったのではないかとつくづく思えてきます。
 もっともそれ言ったら、ソニーの「Aiwa」ブランドも全く同じこと言えますが……。

  おまけ
 ちょっと記憶があやふやな所もありますが、確かうちの実家の洗濯機も90年代後半は三洋製だったような気がします。それ以外だと三洋製の家電はあんま使ったことはなく、テープレコーダーにAiwa製、MDウォークマンにパイオニア製を私は使っていました。当時はソニー全盛期だったから、「ソニー製じゃねぇ、だっせぇ」と言われながらもテレコで磁気テープで音楽聞いてました。

  参考文献
「実録創業者列伝Ⅱ」 学習研究社 2005年発行

4 件のコメント:

  1. 私の地元付近に三洋電機の大きな工場がありました。大阪府の大東市というところです。今は京セラになっちゃいましたが・・・。イナモリズムに染まったのかな?

    返信削除
    返信
    1.  「会社が消えた日」って本にも書かれてましたが、大東工場は部門ごとそのまま京セラに売却されたそうです。京セラに移った三洋の元社員も「アメーバ経営」に感化される様が描かれていますが、少なくともパナソニック系列に居続けるよりかは本人たちにもよかったのではないかなと読んでて思いました。

      削除
  2. キミは三洋電気を買収できますか?今が安い時期とお思いますわ。

    返信削除
    返信
    1.  いや、そもそも株式上場してないから買えないって。

      削除

コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

注:ブラウザが「Safari」ですとコメントを投稿してもエラーが起こり反映されない例が報告されています。コメントを残される際はなるべく別のブラウザを使うなどご注意ください。