決戦という単語を聞いて私の中で浮かぶのはワーテルローですが、日本においてはやはり関ヶ原が一番多く思い浮かべられることだと思います。実際に戦国最大規模の大兵力同士の野戦であって、参加兵数で言えば後の大阪の陣の方が上であるものの、日本史のその後の趨勢を決めた戦であることを考えると日本史上最大決戦といっても間違いないと思います。
その関ヶ原の帰結ですが、知っての通り石田三成率いる西軍は小早川秀明を筆頭とする西軍参加武将の相次ぐ裏切りを受けて瓦解し、わずか数時間で東軍勝利の結果を迎えています。この結果について多くの解説などでは、「石田三成に人望がなく、また徳川方の激しい切り崩し工作を受けたことによって裏切りが相次いだ」と評することが多いように思えます。書いてある内容に間違いはないと思うものの、少し見方が違うというか「謀略」の下りについて言えば、実際には西軍側も激しく工作を行っていたことを考慮に入れるべきだと思います。
上記に書いた通り関ヶ原の合戦ではあらかじめ徳川方から内応の約束を受けていた武将らが相次いで離反したことによって西軍は瓦解しましたが、その西軍の側でも実際には東軍側の武将に内応を求める謀略を手広く行っていたのではないかと思います。実際に何人かの武将にははっきりと西軍参加を要請する書状が届いていたことが確認されており、関ヶ原の直前においても東軍同様に頻繁な密書のやり取りがあったのではと私は考えています。
しかしその時に西軍との間でやり取りされた東軍武将の密書は恐らく、大半が世に出ることなく処分されたことでしょう。というのも仮にそういった密書が残っていて徳川家に見つかりようものなら謀反の疑いをかけられお家取り潰しにも遭う可能性があり、日の目を見る前に内密に燃やされた密書が実際には相当な量があったのではないかと思います。
これは三国志の話ですが曹操と袁紹が争った官渡の戦いが曹操側の勝利で終わった後、袁紹側の野営地から袁紹側への寝返りを約束する大量の手紙が見つかったそうです。実際には袁紹側から曹操側へ寝返った人間が多かったのですが当時の情勢ではどっち勝つかわからず、むしろ曹操側が圧倒的に不利に思われていたこともあり、曹操側でも多くの武将が身の安全を求め袁紹側とコンタクトを取っていたそうです。
ただ曹操はそうしたきわどい状況であったことを口にして、「みんなもいろいろ大変だったと思うから今回は不問にする」といって折角見つけた手紙を中身を改めずに全部燃やしたそうです。もっとも、私が思うに曹操の性格からしたら既に中身は改め終っており敢えてデモンストレーションとして見てない振りして燃やしたのではないかと思いますが。
話は関ヶ原に戻りますが、当時の日本の情勢もどっちが勝つか全く予見できない状況で、恐らく多かれ少なかれこの日本を二分した戦いに参加した武将は身の保全を考え、冷静にどちらが勝つのかを分析した上で、どっちが勝っても生き残れるような保険をかけていたと私には思えます。親子間で東軍西軍それぞれに参加した真田家のような例もありますが、他の武将も東軍に参加しつつ西軍にも連絡を取ったり、その逆に西軍に参加しながら東軍と連絡をみんな取っていたと考える方が自然な気がします。
そしていざ本番の関ヶ原に至るわけですが、こうした「勝ち馬に乗る」という戦略であったためか関ヶ原の序盤は非常に局地的な戦闘にとどまっています。西軍側では宇喜多隊、島左近隊などほぼ三成の直参部隊だけが戦っており、東軍側もこちらは徳川家直参の井伊隊のほかは福島隊、藤堂隊くらいしか真面目に戦おうとせず、東軍の側にもどうも日和見のような姿勢を取っていたと感じる武将がちらほらいるように感じます。もっとも家康もその辺を知ってか、そうした裏切る可能性のある武将を敢えて前面には出さず後ろに控えさせたのかもしれませんが。
結果的には小早川隊の離反を口火に西軍で続々と願える部隊が現れ崩壊したわけですが、それこそほんの少しのかけ違いによってはこれと同じことが東軍にも起こっていた可能性があると思います。少なくとも石田三成、徳川家康の両大将はその辺りをあらかじめ認識していた節があり、味方の武将が事と状況次第では裏切る可能性があると考慮した上で戦闘に臨んでいたと私には思えます。ただ西軍にとっては、小早川隊の離反はある程度想定していたものの毛利隊が全く動かなかったというのは誤算だったでしょう。
そうした点を考慮すると徳川家の直参でないにもかかわらず積極的に戦闘に参加した福島正則、藤堂高虎の二人の存在は東軍にとっても非常に大きかったことでしょう。藤堂高虎は恐らく家康が勝つ方にブックして臨んだ結果でしょうが、福島正則について言えばやはり三成憎しで動いた結果だったと思います。加藤清正については近年、猪武者ではなく理知的な人物でもあったという評価が広がりつつありますが、福島正則は未だ猪武者然とした評価が続いているのもわけありです。
曹操の 内通文書の焼却処分は、光武帝劉秀の真似をしたという説がありますね。
返信削除小早川秀秋は今でこそ『裏切者』と呼ばれていますが、秀秋本人に『裏切った』という
意識があったかどうかは不明です。この件については知合いと議論になりました。
秀秋は、西軍や石田三成、さらには秀頼や淀殿を裏切っているという知合いに対して、
私はこう反論しました。そもそも秀秋は秀頼の兄(秀吉の養子)である。主君の意に
背く行動をとったのなら裏切りといえるが、三成は秀秋の主君ではない。秀頼が生まれ
なければ秀秋が三成の主君となっていた可能性もある。名目上は西軍の大将は三成だが
、秀秋は(元々養子とはいえ秀吉の子という出自もあり) 三成の事を同格の人間と
見ていたかもしれない。だから秀秋には『裏切った』という意識はなく『喧嘩別れ
した、戦況をみて有利な東軍に味方したという程度の意識』しかなかったのかもし
れない。
秀頼や淀殿(大きくは豊臣家)に対しても、『もともと身内なのに冷遇しやがって、
この鬱憤を晴らしてやる』という感情があったかもしれないのです。元々家族なだけ
に、『裏切った』とは思っておらず、『身内同士の喧嘩だ』と思っていたかもしれない
のです。
もちろん小早川秀秋が何を考えていたかは 秀秋 本人にしか分かりません。上記の内容
も私の推測にすぎないのです。
あと、、秀秋は秀吉の養子であり、実際の立場はともかく心情的には三成を同格(あるいは
格下)に見ており、豊臣家に対しても身内意識があった という私の推測は、 知合いには
ある程度納得してもらえました。
久々に楽しくなるコメントありがとうございます。
削除小早川秀秋はおっしゃる通り三成を格下に見ており、上から目線でいろいろ言われるのに反感を持っていたことでしょうね。ただ大谷吉継からは「人面獣心の輩め」と罵られただけあって、その行動に伴う結果はいろいろとあれですが。
秀秋を裏切り者(ウラギラー)とすることには確かに議論の余地がありますね。それを言ったら合戦に参加しようとしなかった島津もウラギラーですし、単純にお家のために取った行動の結果であり、片倉さんの言う通りそもそも秀秋は三成の部下でもないですし。もっとも、それだけに部下でもない同格の友人であるにもかかわらず玉砕するまで奮戦した大谷吉継が目立っちゃうわけなんですが。