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2018年12月27日木曜日

広州と孫文

 友人から「広州ネタはよ(´・ω・`)」と急かされたので仕方なく書きます。

 先日にも書いた通り、先日広州にいる友人を訪ねる形で旅行してきました。これまで中国の南方都市は香港に割と長く滞在し、その間に深圳とかも尋ねてはいましたが、これまで広州は中国の主要都市でありながら一度も訪れたことはなく、どんな感じなのかなと興味はありました。
 ただ訪れるに当たってあまり前準備はせず、都市としてのイメージも工業都市であってあんま歴史とかないかなと思っていましたが、本当に行く前日になって調べ始めたら辛亥革命以降の時期は文字通り革命の中心地であったことから、国民党関連の史跡とかが残っていることがわかりました。特に孫文の出生地である中山市と広州市は接していることもあり、孫文関連については盛り沢山でありました。


 上の写真は市内中心部、具体的には広州市政府官庁の目の前にある孫文記念館です。この日はたまたま地元の小学生の何らかのイベントがあったせいで敷地内は小学生でごった返していましたが、とりあえずでかい施設であることはよくわかりました。

記念館敷地内にある孫文の銅像



 記念館のほかに、「第元帥府」というかつて孫文が臨時大総統であった頃に広州市に置かれた政庁跡地があり、こちらの方がパネル展示などが充実していました。


大元帥府近くの住宅。こんなんありなの?


 この大元帥府内の展示には孫文ゆかりの品物も多くあり、中でも目を引いたのはこの手紙でした。下に見える解説文によるとこれは孫文が日本の犬養毅に送った手紙だとのことで、孫文率いる国民党、中華民国を日本側からも支持してほしいという意思を伝える者だそうです。
 文字がやや古く達筆すぎることから細かくは読めませんでしたが、よくよく子細に見てみると「頭山先生」、「渋沢先生」といった単語が出てきており、これはそれぞれ頭山満と渋沢栄一を指しているとみられます。

 知ってる人には早いですが孫文の日本政財界におけるコネクションは強く、上記の二人以外にも孫文を熱烈に支援した日本人は多いです。ただ残念ながら、現在の日本市ではこの時期、具体的には辛亥革命による清朝崩壊から中華人民共和国成立までの時代が取り上げられることは少なく、この時期の日中偉人同士の交流はあまり知られていません。
 もっとも、この自分をもってしてもこの時期の中国の流転ぶりにはついていくのが難しく、それほど理解していないのが本音です。今回広州を回って一部キーワードとかは頭に入れてきたから、腹くくって今度調べなおすのも手ですが。


 同じく大元帥府には、意外と日本ではお目にかかることの少ない若い頃の蒋介石の写真があり、珍しいのでわざわざ写真に撮りました。なんていうか髭がないと「誰こいつ?」と、元プロ野球選手の小笠原選手みたいな印象を覚えました。


 同じく展示されていた上記写真の人物は馮玉祥(ふうぎょくしょう)という革命期から二次大戦終結まで活躍した軍人ですが、こちらは一目見て、「あれ、クロちゃん?」と思って思わず写真撮ってしまいました。つぶらな瞳がやけに印象的ですが、実際この人は牧歌的な人物で部下たちからはすごく慕われた人物だったそうです。
 っていうか最近こういう歴史人物の写真見ると、どのお笑い芸人に似ているのかとか考えてしまうことが増えてきました。

2 件のコメント:

  1. 昔、孫文の義士団という映画をみて孫文のことを少しだけ勉強した覚えがあるのですが、暫定政権を倒し、西欧列強に追い付こうとしている姿が日本の明治維新時の桂小五郎や西郷隆盛に被ってみえるような感じでした。また、機会があれば知りたい人物の一人ですね。

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    1.  孫文の革命から現在の中国に至る歴史が始まるのですが、そこに至る過程が非常に複雑で、ガチで1900年代前半は三国志時代よろしく各地を軍閥がそれぞれ取り仕切る時代になるなど複雑ゆえ、あまり孫文本人についても解説や紹介がなされない傾向があります。面白い人物と人生なのですが。
       時間あれば自分がやってもいいけど、来年は毛沢東やる予定なので、その次かなぁ。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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