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2019年12月28日土曜日

不登校者に対する第三者という意見

 本体半額の上にポイントもつくという二重の割引セールがやっていたので、懐かしいこともあって「機動戦士ガンダム戦記(PS3版)」の漫画四冊をまとめ買いしました。ゲーム版はクソみたいな映画「デビルマン」のようなストーリーで、決してシャレじゃなく全ガンダム関連作品の中でも最低と断言しうるカスみたいなストーリーですが、漫画版は「撃つなラリー!」である意味伝説となった夏元雅人氏が非常に上手く料理しており、原作にあった数々の矛盾点をうまく整合させて見応えがありました。
 なお夏元雅人氏は最近、「ガンバード2」という彼がキャラデザした彩京のシューティングばかりしていることもあって、その絵柄には親近感を覚えます。ただそれ以外にも、ガンダム系の漫画って割と元アニメーターなどの作家が描くこともあり、コマ割が悪くちゃんとMSが動いているように見えない、静止画の連続の様な漫画を描いてくることが多い中、夏元雅人氏はちゃんと動いているように描く上、ミリタリー色のある画風もあって評価できます。

 逆にこの方面でひどいと感じたのは美樹本晴彦氏で、「エコール・デュ・シュエル」読んだ時はこの人、漫画なめてんじゃないのかと本気で思いました。

不登校にも効果!子育てに不可欠「第三者」の力(JBpress)

 話は本題ですが、自分が書いたわけじゃないものの上の篠原信氏の記事は非常に納得感がありました。概要を簡単に説明すると、今と昔の日本における青少年の大きな環境の違いは「無関係な第三者」がいるかいないかだと指摘し、この第三者をきちんと取り巻くことが不登校者の復帰などにも大きいと指摘しています。

 この無関係な第三者とは具体的には、近所のおじさんとかよく通う商店の人々などです。面白いのは友人の両親とか学校の先生などが含まれていない点で、必ずしも必要ではない生活活動の中で会う大人たちを指しています。実際に篠原氏もこうした「第三者」となって不登校などで悩む青少年を自宅にいれ、何もしないでいることがあるそうで、こうした行為の意味と効果について強く語っています。

 実際というか昔と今とで無関係のおっさんが地元の小学生らに注意することは少なくなってるでしょう。またよく通うお店の大人たちとどれだけ会話があるかと言ったら、恐らく私がこどまった時代でもそれ以前の時代と比べれば非常に少なくなっていた気がし、今の時代はそれ以上にさらに少なくなってきている気がします。
 ちなみに私は何故かこの方面の関係づくりは割と得意で、この前も年に4回行くか行かないかの仲良しの床屋にわざわざ中国土産のお茶を持っていきました

 篠原氏はこうした第三者の接触が何故重要なのかという理由について、大人になったら否が応でもそうした第三者たちと数多く交わらざるを得ないためと書いており、これに関して私も同感します。私自身が思うこととしては、第三者の中でも頼るべき人、頼らざるべき人の見極めが子供の頃はまだ不十分で、こうした感覚が養われるにつれてどういった第三者と付き合っていくか立ち回り方を覚えて行った気がします。逆を言えば、こうした感覚が養われていない若者などは第三者すべてに対し交流を避けるところが見えます。

 で、また繰り返しになりますが、篠原氏の言う通りに無関係だからこそ乗れる相談て言うのは実際多いでしょう。医者やカウンセラーなどの専門家はその専門的立場からアドバイスをしてくれますが、結局それは問題を直視する方向にしかならず、問題を避ける、さばく方向には発展しづらいです。無関係且つ全く別の視野を見せてくれるような第三者であれば、家族以上にある意味そういう方向のアドバイスが可能だと言え、篠原氏の言う通りに第三者がより介在する社会の方が私は健全だという気がします。

 もっとも、今後を含めてそんな風にならないと信じ切っているからこんな風に書くわけです。日本の社会性はプライバシーやセクハラパワハラの概念がもはや一線を越えており、実質的には第三者との交流は避ける方がリスクが少ない時代となっています。先日も同僚と、拳骨一つ加えただけでクビが飛ぶ時代にあっては、我々旧人類はそっとその姿を潜ます以外にないなどと、ファンタジーの少数種族みたいな会話をしていました。
 なお余談ですが、私の中学の教師は教科書を忘れた生徒に毎回拳骨一発を食らわせており、この行為に対して私は自らに責があるとわかっており特に不満などは感じませんでした。ただ一回殴られた後、「お前、頭固いな(;´・ω・)」と、妙な誉められ方されたのは素直には喜べませんでした。

2 件のコメント:

  1. 問題はどっちかというと、完全無関係の第三者じゃなくて、「近所の人」っていう概念かなぁと思います。
    日本社会は赤の他人には非常に厳しい社会で、田舎ほど余所者が引っ越してきても受け入れない傾向にありますが、実際は都会に引っ越してきた地方人と「地元の人」の溝も深くて、近所の人との関わりが減ったのはその辺に理由があると実感しています。
    「余所者」は関わっちゃいけない人で、「近所の人」なら気を許してもいいという価値観の国で、周りに「余所者」しかいない社会になっちゃったのが問題かなと。
    政治が民意から離れがちなのも、選挙が「近所の人」つながりで決まるものなので、「余所者」がなかなか政治に介入できないところにあるんだろうなと思います。

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    1.  敢えて社会学的な表現を持ち出すと、現代の人間関係は共通の仕事や趣味によって結び付けられる「機能的接触」が非常に強い一方、生活圏や所在地の近さなどに起因する「距離的接触」が非常に弱くなっています。自分も引っ越し直後に手土産もって挨拶行ったら居留守使われたり、邪険な態度取られたりしたことがあり、もはや距離的接触そのものを排除しようとする人も少なくない気がします。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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