よくいろんなところで、交流の幅が広いと人間の幅も広がるから良い、どんどんと人と知り合いになれと日本社会は強く勧めますが、ひねくれ者の私はというとこの意見には真っ向から反対です。というのも、やはり社会の中にはどうしようもない人間も数多くおり、そういった人間と付き合うことによって返って自分の視野を狭めてしまうことも少なくないと思うからです。友人の数が多くとも、その友人すべてが均質な価値観を持っていた場合は結局のところ均質な価値観にしか触れることが出来ず、その価値観とは違った価値観や見方というのは徐々に淘汰されていくようにも思えます。
こんなことを言うのも、実は私の実体験からです。
現在都市部の学校ではクラス児童の約四割強が行うらしいのですが、当時としては珍しく、私は小学生の頃に中学受験を行って中高一貫の私立中学に進学しました。中高一貫のために言うまでもなく、中学校から高校まで基本的に人間関係は変わらず、ほぼ六年間同じ人間とばかり学校生活をしてきました。それでこの青春時代ですが、はっきり言って今でもあまり思い出したくないほどつまらない時代でした。学校の外では相当むちゃくちゃなことをやって楽しかったのは楽しかったのですが、
まず人間関係が変わらないということから、社会学的に解釈すると固定的な価値観が徐々に強化されていったように思えます。たとえばうちの学校では月初めの全校朝礼の校歌斉唱の時には皆面倒だから校歌を一切歌わず、ただ前で指揮する音楽の先生一人が頑張って声を張り上げているのが常でした。さすがに中学一年生はまだ歌おうとするのですが、上級生が一切歌わないのを見て大体二学期ごろからは歌わなくなってきます。
そんなもんだから高校の段階で新たに募集して入ってくる公立中学校から来た外部生なんかは最初、すごい驚いたと皆言ってました。しかし内部生の私たちからするとそれが当然で、他の公立中学校では斉唱がきちんと行われていると言われると逆にびっくりします。
まぁこの程度なら学校のスクールカラーということで笑って過ごせますが、結構致命的なところまで固定的な価値観が根付いた例もありました。その最大のものが、進学への価値観です。
基本、中学校から私立中学に入る時点で両親、さらにはその生徒にとっても大学進学をして当たり前という価値観を持っています。そのため大学に入って何をするのか、何を学びたいのか、果てには大学を卒業して何になりたいのかということを無自覚なまでに全く考えようとしません。ただ考えるのは偏差値の高い大学に入り、そこで将来を決めるという漠然な価値観しかありませんでした。
なので私が意地悪く、「日本の四年制大学進学率はいくらだと思う?」と聞いたりすると、まず間違いなく「八割は越えているでしょ」という回答が帰ってきていました。ちなみに当時の進学率は大体43%くらいで、この数字を挙げると、「日本人は希望すれば誰でも大学にいけると思ってた」とか、「残りの半分の人は大学にも行かないでどうするの?」と言い出す奴までいました。彼らの価値観からすると、行こうと思えば行けるのに大学に行かない人間は怠け者だ、というような価値観を直接的とまでは言いませんがあいまいな形で持っていたように思えます。実際には学費の問題や家庭の事情によって大学にいけない、行き辛いという方もたくさんいるのですが。
そのため、何かしら専門職を目指して大学に行かずに専門学校や、その道の訓練を受けようという考え方ともなると一切持ち合わせていませんでした。この時点で、青年期の選択という視野が極端に狭くなっていると言えます。
で、そんな連中が大学に行ったとします。そしたら大学でも似たような境遇のものどうした集められてくるのでまた同じような価値観が共有されてしまい、私の場合ですと、まぁ私は自分で満足できるレベルの大学に進学し、そこで非常に賢い友人らとも巡り会う事が出来たのですが、その友人たちはというと大抵その大学より上位の大学の落第者たちで、こんなしょうもない大学に進学してどうするんだよ俺……ってな具合で、大体入学から半年くらいはみんな劣等感にさいなまされていました。
現実的な比較だと、私のいた大学は全国でもそこそこ上位の大学にいると思えるのですが、彼らの価値観からすると下位に分類され、私の大学より下位の大学ともなると「行くだけ無駄」と、全国的には中位の大学でも地方の弱小私大と同じ扱いしかしませんでした。
まぁ私が面倒を見切れる範囲なら「お前の価値観は間違っている!」とばかりにこういった価値観を矯正していったのですが、それでも周囲は常にこういった固定的な価値観というか、「上しか見ない」人ばかりに囲まれていました。上を目指す上昇志向は悪いわけではないのですが、こうした価値観だとどうしても視野が狭くなりがちで、話す意見もどこか浮世離れしたものばかりになっていくように私は思えます。
私としては大学ではあまりその必要はなかったのですが、中学高校時代はこのままじゃまずいと感じ、ある日を境に必要最低限の人間としか交流しないようにして、その他の人間とはなるべく接触を持たないように一人鎖国をするようになりました。何故この一人鎖国が大学では必要なかったかというと、大学と違って中学高校ではクラスが分けられるので、その狭い範囲で嫌が応にも相手側から接触されるということが多かったからです。逆に大学ではクラスも何もないので、初めから自分が選んだ人間とだけ付き合うことが出来ます。
しかしそうは言いながらも、私も結局のところ似たような価値観の人間同士で生活していないかという不安が常にありました。もしそうであれば知らず知らずのうちに自分の視野は狭くなる、ならばどうする?
そうして悩んだ末に行ったのが、人材の捜索と確保です。私の場合は比較的に上ばかり見てる人が最初からいたので、大学内で狙いをつけたのは下から這い上がってきた人間でした。まず最初にとっ捕まえたのは四国の田舎から二浪をして這い上がってきた友人です。この友人なんかだと高校卒業当初は全然私たちのいた大学など狙えるレベルではなかったと自ら言うだけあり、学力の上位と下位の差をよく理解していました。また田舎から来ているので地方格差の問題にも関心が強く、よくこの点でお互いに実のある議論が出来ました。
またもう一人、これはそれこそ去年に知り合った友人ですが、彼の話に至っては何もかもがエキセントリックでした。彼も一浪して大学に進学してきているだけあって上下両方の事情に精通しており、貧乏トークで有名な芸人コンビ「麒麟」の田村の話に及ぶと、
「でも俺の子供の頃の友人で、ようパン盗んどるやつおりましたよ」
と、今思い出しても面白い話をよく聞かせてくれました。
このように人間の幅を広げようというのなら数多くの友人と付き合うよりも、自分とタイプや境遇の違う人間を選んで付き合う方がずっと効果的だというのが私の主張したい意見です。逆に似たような価値観、それも偏狭な固定観念に固まった人間と数多く付き合うのはまずもって視野狭窄に至らせるので、きわどい意見ですがそういった人間とはなるべく関わらないことを私はお勧めします。
私自身の経験から言うと、どうも私と同じ私立の中高一貫校の出身者ほど固定観念が強く、視野が極端に狭い人間が多い気がします。またそういう人間に限って性格の悪い奴が多くて、同族嫌悪かもしれませんが、私は非常に苦手としています。
なるほど、納得です。僕は、全国的に観て中程度の私立大にいますがいまだに「こいつの価値観面白い!」という人にあったことがありません。まあ、自分がそんなに変わった価値観がないのであまり人のことばかりせめられませんが。だから、昔から一度自分を変わっている人間のいるところに送りたいと思うことがありました。そんないきさつから、オタクのところに居座るようになりました。笑 しかし、彼らは趣向が変わっているというだけで価値観、人間性などはまるっきり普通でした。泣 そんなこんなで今でもどこに行けばそういう人に出会えるのかわからないままでいます。
返信削除しかし、逆にいいところもあります。コミュニケーション能力が高い人が多い気がします。なので、友達を作ることには苦労しませんでした。
かく言う私も、中学高校時代の周囲の人間の視野の狭さから、そいつらと距離を置いてることから一時オタクな連中とつき合いましたが、そいつらはそいつらで別の狭い視野を持っているのが途中でわかり、今では全く付合いがなくなりましたね。
返信削除何も特別な価値観の持ち主でなくとも、自分が今いる状態からあまり関わることのない価値観の相手だったらそれでいいと思います。なるべくなら視野の広い人間が望ましいですが、私も何年間も探してまだほんの数人しか出会えていません。でも苦労した分、彼らはとても重宝する友人たちです。
ちなみに、サカタさんの兄さんは最初会ったときは視野の範囲が極端に狭いくせに、奥ゆきが果てしなく広い顕微鏡のようなタイプでしたね。よくこんな人間がこれまで生きてこれたなぁとすら思いましたよ(;゚Д゚)
そもそも交流の幅とは人数ではなく関わる人間の性質の多様性だと思っていた、と少しひねくれて発言してみる。やはり同じ考えの人間が集まっても視野は広がらないだろう。
返信削除私はそこまで個性的な人間ではなかったし、積極的に交流の幅を広げようとはしなかったのだが、なるべく自分の立ち位置を確認するようにはしていた。
前提として同じ人間はいないはずなので、同じ意見でもそこに至る経緯やら背景やら違うはずである。もちろんそもそもの選択肢が少ないとか、道徳などの大きな規約的な強制力なんかもあるだろう。ほかの人間は何かしら(本人なりの)理由があってその結論なのだろうが、それを知る術はない。しかし自分の経緯なら可能である。それを考えることで自分が自分であることを確認していた。
実際幼いときから母との対比をしていたが、遺伝子を受け継いでも所詮似ている程度である。ましてや赤の他人とまったく同じ考えを持つなどありえないだろう。
そもそも自己が確立できている人間には対比によって自分を見出すなんてのはナンセンスなのだろうが、自分の肥やしになるという点ではどんな人間でもそれなりのメリットはあるのではないかと思う。
まあ、食べ物はよく噛んで食べましょうってことで。
ぱぁむさん、コメントありがとうございます。ってか、まだ読んでてくれたんですね。
返信削除何気に自分が暗に伝えたかったことをきちんと受け取ってもらっててうれしいです。記事の中では、「自分にはない価値観を持つ人間となるべく交流せよ」と主張していますが、これは裏返して言うと、「自分の価値観に何が不足しているのか、きちんと自分を分析せよ」という意味になり、実は自己分析の必要性を暗に主張していました。
ぱぁむさんの言うとおり、自己の思考に至る経緯などを分析する方がずっと価値は高いです。ただ普通の人にそれをいきなりやれというのはやっぱり難しいので、記事の中では先ほどのような主張で終えることにしました。
ばぁむさんと花園さんのお二人のやり取りを見ていて、自分の考え方と違う人と対比することによって、自分はどういう人間であるのかを判断し、自分の考え方に何が足りないかを発見し、どうすれば自分は満足するのかということを分析することにつながるのだと自分なりに理解しました。だから、なるべく多くの価値観の違う人にあう、もしくは少数の人とよく議論することによって、たくさんの自分の改善点を見つけ、自分の満足のいく生き方を正確に理解することが、自分の幸せにつながるのだろうと感じました。
返信削除そのためにも、価値観の違う人と出会うことは幸せのための第一歩というところなんでしょうね。
うん、大体サカタさんの解釈で私の言いたいことは合っています。誰かさんみたいに客観的に自分を見れるのならともかく、私はやはり自分を再発見するには他人の力を借りないといけないと思います。更に言えば他人の価値観を取り込むことによって、事実上二人分の価値観を持つことによって視野っていうのはぐっと広がる気がします。
返信削除そして出来れば、その広げた視野を使って今度は他の人の視野を広げてあげる手助けをしてあげてください。皆が皆で教え合えば、きっと良い世界が出来ると私は信じています。
まぁこんな小難しいこと書いててなんだけど、深く考えずになんとなくそうなんだろうなぁって理解で十分ですよ。無理して細かく理解しなくとも、ソフトバンク風に言うなら「頭で考えるな、感じろ」ですね。
【視野を広く持つ意味って?】
返信削除なるほど。みなさんそれぞれの考えをお持ちですねー。僕は皆さんとは少し違う考えを持っています。結論から言うと、「無理に視野を広げる必要はない」。
人間は自分が知覚する世界しか知りえません。外界からの情報を自分の脳みそで分析することで物事を認識するのです。ということは、どれだけ外界から情報を摂取しようが、それを分析し、解釈する能力を持たなければ物事をうまく認識することはできません。外界に目を向ける前に、自分の分析能力なり、物事を解釈する能力なりを身につけなければ、せっかく外界から貴重な情報を得たとしても意味がないです。この能力を身につけるには、常日頃から考え続けることしかないでしょう。考える対象はなんでもいいんじゃないかと思います。今後の世界情勢でもいいし、マニー・ラミレスの通産本塁打がどこまでいくかでもいいし、甲殻機動隊のバトーのセリフを一つ一つ分析してみるのでもいいし。大事なのは、人間と出会う経験ではなくて、考える事でしょう。
この「考える」ということは、自己の内側に意識の網を張り巡らせ、自己の内側をどんどん深く掘り下げていくということです。この姿勢は、自己の外界に目を向けるとは正反対の行為です。てなわけで、僕は人間はもっと内向きであるべきだと思っています。
そもそも、外の世界なんてものは、存在しないでしょ。人間等の認識の主体の数だけ世界があり、客観的な世界は存在しない。個人個人が自己の主観に基づいて世界を好き勝手に認識しているだけであり(僕は多いに結構なことだと思ってるけど)、外の世界だと思っているのは、実は自己だけが認識している世界であり、自己の内部にしかない世界であると明確に認識するべきでしょ。それを認識せず、いたずらに視野を広くしようってのは、英文の基礎も分かってないのに、NYタイムズを読もうとするのと同じような行為だよね。
僕の経験上、自己の肥やしになるような人間はほとんどいない。確かに、仕事等、実務的な処理で参考になる人はたくさんいるけど、生き方というか、物事の考え方でこれは!と思う人はほぼいない(これまでの人生の中では2人だけかな)。
この二人は特別で、自分の言葉で自分の価値観を話すことができる。それも、それぞれの考えがかなりユニーク。こういう強烈な個性こそ、僕が考える際の材料を提供してくれるのであり、その存在を認識するだけで刺激を得ることができる。
視野を広げ、多くの世界を知り、多くの人と出会い、多様性を知る必要などまったくない。必要なのは、自分の頭で物事をユニークに捉え、自分の言葉で物事をユニークに表現し、どこまでも奥深い自己を持った一握りの人間だけだ。
あと、自分の興味のある分野の知識も必要かな。考える材料としてね。
そろそろ食いついてくるんじゃないかなぁと期待してましたよ。
返信削除最初に私は継ぐ者さんみたいに、「内向きに思考」することで自己昇華できる人間は実際にはほとんどいないんじゃないかと思ってましたが、ぱぁむさんもこれまでそうしてきたと言ってますし、案外そっちをもっと強く記事に書いといた方が良かったかもしれません。
ただそれでもなお主張するなら、自己分析をして自分がどっちの方向を向いているのかを確かめ、自分の目が向いていない世界をはっきり認識し、そっちの世界を率先して見るために相手を選んで交流していく価値はあると思います。そうは言いながらも、流行のファッションとか音楽関係の話題からは未だに私も逃避し続けてるんですけどね。
>そもそも、外の世界なんてものは、存在しないでしょ。
返信削除まったくもってその通りだと思う。結局自分の頭が処理を行うのだから、考え出される結論はいつも自分のものだと思う。
人と関わることで楽しいのは「相手の行動は自分とは違う人間が考えた結果」なところだと考えている。
一緒に飯を食べて私がうまいと思うものをまずいと一蹴されたとする。このとき、飯の味は相手というブラックボックスを通してまずいという情報を持つ。この飯はまずくも旨くもあるわけだ。そういった食い違いを集めることで他人との違いを認識していき、外から見えているであろう「本当の自分を部分集合にもつ自分の像」を削りだしていくのが面白かったり。
私としてはユニークである必要はない。その意思が自分の物であると認識することが肝だと思う。たとえその意見が受け売りでみなが共通に持つものだとしても、それこそが自分であるといえるならきっとそうなのだろう。……根拠のない盲信は困りものだが。