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2009年3月15日日曜日

格差と情報 後編

 前回の記事にて私は格差そのものの存在より、格差が見えてしまう状態にこそ問題があると主張しました。私が何故こんなことを言い出したのかというと、いくつか過去の文献や話を聞いている限り、明らかに戦前から戦後直後にかけて時代の方が現代より生活格差が大きいにもかかわらず、当時の人間はそれほど気にしていなかったということを示唆する話があるからです。

 まず最初に私がそんな内容を聞いたのは、今も活躍なされているイギリス人学者のロナルド・ドーア氏が戦後直後の上野に来て、そこに滞在しながらまとめた論文でした。その論文は外国人の目から見た日本の様子が描かれており、言われてみるとそうだったと思えるような日本の特殊な事情などが書かれていてそれだけでも面白く、「欧米と比べて日本の社会保障制度は充実しておらず、大半の家庭では有事に備えて貯蓄しているものの、夫が突然病気などをしたら対応のしようがない状態である」などと、今の日本にも通じるようなことが書いていてドキリとしたこともあります。

 それで肝心の今回のネタの内容ですが、まず生活者における貧富の格差についてはそこそこ大きいものがあるとしていながらも、

「住民同士はイギリスのようにお互いにそうした格差を気にすることはなく、同じ町内であれば互いに気軽に接しあっている。しかしある主婦が言うには、以前に比べればそうした収入の違いなどを気にするようにはなってきているらしい」

 という風に書かれています。
 今もそうですがイギリスでは社会的に家格というものが大きく、アッパークラスとロウアークラスでは世帯間で交流はあまりなされず、その世帯がどの家格に属しているかで社会的地位を始めとした生活態度が大きく変わってきます。そうしたイギリスの状況から比べたことからドーア氏が日本は格差に分け隔てなく交流がなされているように思ったのかもしれませんが、それでも最後の主婦が言った、「以前はもっと気にしなかった」という発言が私には気にかかりました。

 ここで話は変わってうちのお袋のはなしですが、うちのお袋は鹿児島の阿久根市というところの出身なのですが、一言で言ってしまえば相当なカオスな社会だったそうです。
 なんでも当時に在日朝鮮人の方が鉄屑屋をやっており、子供でもなにか鉄屑を持って行けばお金に変えられたそうなのですが、その鉄屑屋をやっていた人自体はあまり裕福ではなく厳しい生活を強いられていたそうです。それでも当時はそうした貧乏だとか金持ちだとかそういったものの間に壁はなくみんなで分け隔てなく交流がなされて、よくドラマとかでやっているような貧乏な家だからといって周囲から馬鹿にされるという風景もなければ、今のようにそういった生活水準の差を互いに気にすることもなかったそうです。

 そして極めつけが、「かじどん」の話です。
 当時のうちのお袋の家は割と裕福で自家用電話もあったそうなのですが、当時は電話器が少なかったことからお袋の周囲の家に用があって外から電話がかけられる際はお袋の家が一旦電話を取り、その周囲の家の人を呼びに言ってつないでいたそうです。それでかじどんの家も電話はお袋の家からの呼び出しではあったものの、お袋の家から離れてて山の中にあったので、お袋は電話が来るといつも山登りをさせられて凄い嫌だったそうです。なのでなんでもってかじどんは山の中に住んでいたんだと私が聞いたら、「そりゃ多分かじどんの職業が泥棒だったからだろ」となんでもないように答えてきました。

 別にはっきりとした証拠はないものの、なにか決まった仕事をするわけでもなく生活していたのでお袋を始めとした周囲の家はみんなかじどんは泥棒で、この辺りから盗んだものを売って生活していたのだろうと認識していたそうです。かじどんは泥棒だとわかっていつつも、警察に届け出ることもなく同じ共同体に居続けさせる神経にまず私は驚いたのですが、当時はそうした雑多な雰囲気と言うか、共同体の中でも慣用性が強くあったのだなと思わせられた話でした。

 ここで話は現代に戻りますが、ぶっちゃけこれから出かけなくてはならないので急いでまとめてしまいますが、現代は若者同士だとほんのちょっとの収入の差や生活水準の差に非常に敏感になっているように私は思います。言ってしまえばこういうのは気にしなければ気にしないに越したことはなく、もっと距離的な結びつきなどで共同体が成立しないのかといろいろと考えるネタはあるのですが、何よりも私が気になるのは、いつから日本人は現在のレベル位に格差と言うか、他人との生活水準の差を気にするようになったかです。適当に仮説をあげるのなら資本主義が浸透したからとか、逆に社会主義が平等という概念を作ったからだとか、果てには横並びの昇進が日本の企業で行われていたからだとかとも言えますが、「よそはよそ、うちはうち」という位に、何かしらこう割り切らなければならないものもあると思います。

 かといって一時期のように「セレブ」という言葉が流行したように、格差を強く意識させるようなマスコミ等の報道には正直辟易してしまいます。結論を一言で言えば、格差を際立たせる、意識させるような外部の情報はあまり人間関係上、よくないものなのではないかということです。

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