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2014年2月27日木曜日

進む石田三成の再評価

 このところ疲労が溜まっているのか仕事中にリアルに、「ファッキン、死ねクソっ」っておびただしい作業の合間にツイッター感覚で呟くようになったので、今日はリラックスすることを願い自宅で半身浴を試みました。半身浴と言ってもただ単に湯船いっぱいにお湯貯めるとガス代と水代がもったいないので底の方に少しだけ貯め、左腕を枕にしながら左半身だけを無理やりお湯につけるという入浴の仕方で、耳の中とか鼻の中に水が入ったりしながら数分間その姿勢を続けました。果たしてこれが効果あるのか非常に疑問ですがあしゅら男爵みたいな感覚に陥りつつ、「半身浴って下半身浴と上半身浴で別れるのかな。後者だとただの犬神家だけど」などと考えるあたりほんと疲れてるんだなって気がします。

 話は本題に入りますが、大分以前に「信長の評価の再逆転」という記事で近年になって信長の評価像が変わり始めており、歴史というものは時代によって変わるということを述べましたが、今日も疲れているので似たようなネタとして、関ヶ原の合戦の主役とも言っていい石田三成に対してこのところ、信長同様に従来唱えられていた評価が変わりつつある気配を感じるので、疲れていてもどうとでも書ける歴史ネタなので今日はこれで済まそうと思います。それにしても左目の焦点がマジで合わないし、本当に疲れてるなぁ(ーー;)

石田三成(Wikipedia)

 石田三成がどういう人物だったかはほとんど言わずもがなで、豊臣政権下の能吏として日本全国の度量衡の統一という大事業を成すなど日本史における代表的なテクノクラートの一人です。しかしそんなテクノクラートとしての側面よりも関ヶ原の合戦で実質的に西軍を率いたものの徳川家康に敗北したという事実の方が有名で、三成というと「敗軍の将」というイメージが一般的だと思います。

1、三成は戦下手だったのか?

 この三成に対する評価ですがまず第一に多いものとして、「内政能力は高いものの戦下手」というものでしょう。こうした評価は関ヶ原の戦いで敗北したことに加え、豊臣秀吉による関東の北条家征討戦において忍城攻撃軍を指揮したものの、水攻めをかけるなど大規模な作戦を実行したにもかかわらず忍城をなかなか陥落させることが出来ず、最終的に開城させられたのは北条家の本拠である小田原城が陥落した後でした。なお北条家の支城で最後まで陥落しなかったのは忍城で、十分な兵力を与えてもらったにもかかわらず城一つも落とせなかったとして長らく三成の否定的評価の材料となっていました。

 しかしこの忍城への攻撃ですが、水攻めの実行を決断したのは三成ではなく総大将の秀吉で、むしろ三成は水攻めを実行することに反対していたと近年では言われております。水攻め自体が過分なデモンストレーション的戦術とされており、実際の戦術的価値以上にかつて毛利家の高松城で秀吉が実行したことを再現するという目的で実行されたと見られており、三成はむしろそんな無理な作戦に付き合わされてメンツを失っただけだと、まるで無茶なプロジェクトに付き合わされた中間管理職だったのではという分析がこのところ広がってきています。私としても秀吉の性格からすると水攻めという派手なデモンストレーションをやりかねないと思え、この説を支持する立場であります。

 このほか敗北を喫した関ヶ原の戦いでも徳川軍の行軍ルートを予見した上で関ヶ原で陣を敷いて待ち構えるなど、戦略面では実に手堅い決断を三成はよく取っております。また以前にもこのブログで紹介したエピソードですが、関ヶ原の戦いの後に藤堂高虎から、「私の軍は如何だったでしょうか?」と問われて、「鉄砲隊が悪うございます。隊長に自信がないためとみられる故に替えさせるべきでしょう」と答えており、この答えに高虎も、「自分もそのように考えておりました。ご指導ありがとうございます」と述べて満足そうに帰っていったそうです。この話の通りだったら細かい部隊に対してもその運用の仕方をしっかり理解しているように見え、戦上手だったかはまだ疑問ですが、少なくとも戦下手ではなく軍隊の運用知識やその分析に関しては人並み以上にあったのではないかとも思わせられます。

2、人望無き酷薄な吏官か?

  戦下手だったという見方とともに三成に対しては、「頭はいいけど性格に難があり気遣いが出来ず、人望はなかった」という見方も強いのですが、この説に対しても完全にひっくり返るほどまで行かないまでも、このところやや見直しがされてきているように見えます。

 三成に人望がなかったと言われるのは関ヶ原で小早川秀秋や吉川広家、脇坂安治など多くの武将に裏切られたことや、そもそもの関ヶ原の合戦の原因となった福島正則や加藤清正といった豊臣家の武功派との折り合いの悪さなどからですが、衝突する人間が多い一方で三成には周囲の人間によく慕われていたエピソードも非常に多くあります。

 そんな三成を慕っていた人物の筆頭は島清興こと島左近で、主君とケンカして厳しい浪人生活中だったところを若い三成が雇用し、「三成には過ぎたる家臣」と言われるほど真摯に仕え続け、関ヶ原でも東軍相手に大いに奮戦しております。同じく関ヶ原で戦った仲間には大谷吉継もおり、彼等は敗戦することを予期していながらも親友三成のために参戦を決断しております。
 また遠隔地でも佐竹義宣が三成との信義を優先し、家中の反対を押し切り西軍入りを決断しており、所領である近江の領民も三成の死後ですらその治世を讃え、実際の関ヶ原の合戦でも兵士らは奮闘していたと伝えられています。こうした話からすると人付き合いが下手だったとも思えず、ただ単に豊臣政権武功派とだけ折り合いが悪かった、しかもそれは対人というより文治系と武功系という派閥対立という側面もあり、たまたま文治系の筆頭であった三成に憎悪が向いたのではないかとも考えられます。

 マジで疲れているのでそろそろ締めますが、最後にこのところちょっと思うところとして三成の人となりが悪かったというよりもそのケンカ相手こと、福島正則の方が人格的に問題があったのではないかという疑いがもたげます。というのも正則は最も激しく三成打倒を主張していた人物であるのですが、関ヶ原の合戦の後には部下同士の諍いから徳川家の家臣に対して強硬に切腹を求めたり、大阪の陣の最中には大坂方として参戦こそしなかったものの兵糧米を大阪城に運んだりと、いまいち空気を読めない人物像が見えてきます。正則は最終的に勝手に城の補修を行った門で徳川家から領地を没収されますが、もしかしたらこいつが言うほど落ち度のない三成を勝手に嫌い、豊臣家臣団に亀裂を作った張本人ではないかと思えてきました。この辺りのくだりもまた今度書こうっと。

2 件のコメント:

  1. はじめまして。
    忍城のくだりは今年の真田丸でもそのように描かれてましたね。
    ええかっこしいの秀吉が言いそうなことですね。

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    1.  和威さん、コメントありがとうございます。
       忍城の件は2000年代に入ってから急に三成を擁護する意見が増え始めており、現在では大河ドラマで書かれたような姿がもはや定説となりつつありますね。秀吉はパフォーマンスを重視するタイプなだけあって、確かに今の説の方が真実味も感じられます。
       大河ドラマは生憎見てはいないのですが、一回だけ日本帰国中に瓜売りの回だけは見ました。「あ~じ~よ~し~の~う~り~」って自分も真似して一発芸にしようとも考えましたが、中国だとこのネタわかる人が少なかったため結局諦めました。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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