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2018年7月29日日曜日

忘れられない議論

 今をさかのぼること数年前、日本に帰国していた私は関西で友人と会っていました。その友人とは学生時代を含め散々議論をした仲で、自分が一番苦手とするタイプでした。
 単純な議論中の頭の回転の早さや論の鋭さもさることながら、議論のスタイルが私と真逆と言ってもいいタイプであり、私からすれば一番相手にする上で不利なタイプであったと言っても過言ではありません。具体的には将棋でいうと防御陣形を組立て一切自分から攻めてこない完全な防御型で、防御を完全に無視して攻めに特化したような私からすると、一撃で向こうを突き崩せなかったらもう後は負けるだけでした。っていうかこの友人、議論の途中で論点を敢えてずらす振り飛車戦術も、「それ関係ないでしょ」と言ってピシャリと封じてくる唯一の人間でした。

 そんな友人と久々に会ったその夜、なんかの拍子に話題が雇用、特に日本人が海外現地で採用される現地採用について触れたところから議論に発展しました。私が現地採用を代表してその権利向上を主張する立場となり、

・現地採用者は能力的にも本社派遣の駐在社員より高く、その勤務の貢献度も高いことが多い
・っていうか現地語しゃべれない社員はむしろお荷物
・にもかかわらず収入は駐在社員の数分の一、下手すりゃ十分の一

 であるという点を挙げ、離職率も高いことからもっと給与待遇を引き上げその地位を向上させる必要があると主張しました。これに対し友人は、

・安い給与で高い効率を求めるのは企業にとって当たり前
・あらかじめ契約時に提示した給与額で雇っているのだから不当ではない
・待遇に不満があるのなら辞めてもらって結構、また次の人を採ればいいだけ

 という反論を提示し、大体それぞれ三つの論点を軸に小一時間ほど議論し続けました。私としては自分が現地採用の立場で、逆に友人はどちらかというと現地採用者を日本から使う立場であったという立場の違いもあるから、認識が異なってくるのも自然だと考えていました。なので議論でねじ伏せるということより向こうの考え方を、「現地採用もたまには大事にしないとね」くらいにこっち側へ少し引き寄せられたらベターかと考えながら議論していました。
 段々と議論が平行線となり始め私自身も攻めあぐね感を覚え始めた段階、友人が「労働内容と給与が見合わないのは当然。会社は利益追求のために安く雇っているんだ」と相変わらず血も涙もない言葉を言った直後、言わないだけマシかと思って私が以下の言葉を口にしました。

「ならなんで使えない、働かないおっさんどもを日系企業は高い給与で大勢雇ってるんだ?」

 私自身はそんなに意識した言葉ではなくむしろ苦し紛れな一言に近かったのですが、これを口にするや友人の顔色は一瞬でリアルに変わりました。そしてしばらく口ごもると、「それは……確かに花園君の方が正しい」と、急に態度を軟化させて私の主張に傾きました。そして先ほどの労働貢献と賃金額の一致に関しても理解しはじめ、確かになるべく一致させるよう心掛けた方がいいという風に主張を転換してきました。
 正直に言って、私としても非常に驚くくらいの態度の変わりようで、それこそまた将棋の例でいうなら苦し紛れに手許の歩を置いたら投了を取ってしまったような感覚で、自分の意見が勝ったとかそういう実感は全くありませんでした。同時に、何故彼があの一言でひっくり返ったのかを直後から分析しており、恐らくそういう「おっさん」どもに囲まれ苦しんだ経験があり、その問題の深さをしっかり認識していたからこそあの一言で動いたのでしょう。さすがに直接指摘するのは非礼だと思え、その場で友人には指摘しませんでしたが。

 この議論だけでも十分忘れられない体験となったでしょうが、実はこの話には続きがあります。
 友人と議論をした確か二日後くらい、うちの名古屋に左遷された親父とも同じテーマで少し議論になりました。親父の主張も友人とほとんど同じであったことから内心、先の議論をなぞるような感じで敢えて議論を進めていき、最後の段階でまさに友人を揺り動かした一言を全くそのまま口にしたところ、「それは……確かにそうだ」と、ほぼ全く友人と同じように一瞬で態度が軟化しました。
 正直に言って、この一言に何故そこまで威力があるのか、使っている本人である私にすらいまいち実感がつかめませんでした。ただこの一言以前に、友人も親父も主張の仕方がほぼ完全に一致しており、「なんかのドッキリ?」と話しながら思うくらい似通っていました。だからこそ最後の一言で刺せるという確信もあり、時間を見計らいつつ狙っていた議論段階まで持ってきたところで出したので、将棋で言えば完全に読み通りの展開を再現した気分でした。

 親父との議論を終えた直後に私が何を考えたのかというと、「使えない高給のおっさん」以前に、何故友人も親父も全く同じ思考と主張を私に見せたのかという点です。結論から言えば二人とも大企業しか経験していないということが何よりも大きく、給与と労働貢献の一致、あと内と外の概念というかプロパーと中途採用者の見方が全く同じだったからではないかと思います。ついでに言えば働かないおっさんに囲まれていたのも同じでしょう。
 それ以前からも漠然と持っていましたが、やはり最初の新卒から大企業しか経験していない人というのはこの種の弱さを抱えているのではと強く感じました。具体的に言えば視野の狭さで、いくらか仕方がないとはいえ、自分の見える「大企業社員の生活」が当たり前の世界であり、それ以外の世界は存在しないという見方です。言ってしまえば現地採用者が給与が低いのも、彼らが自ら行った選択でありまた本人の努力不足と切って捨てるように見ていた節があります。そういう面も確かにないわけじゃないですが、努力をしていない人間が高い給与を得ることに抵抗を感じていた辺りはまだ友人も親父もまともで、だからこそあの一言で自分のスタンスが矛盾していることに気が付いたんでしょう。

 無論、大企業の人でも広い視野を持つ人もいないわけじゃなく、逆に中小企業しか経験していない人で視野の狭い人もいますが、こと社会全体の視野で言えば、中小企業勤務者の方がバランスがいいと私には思えます。理由は簡単で、大企業の世界は何もしなくてもメディアが報じ、その逆はないからです。
 内心、こういう職業における身分制に関しては自分は極度にバランスの取れた視野を持っていると自負します。私自身が現地採用でやや枠から外れた存在であることに加え、派遣業界調べたり、日中間の労働環境などよく比較しているだけに、それぞれの環境の違いについて体験込みで話すことが出来ます。ただこの場合、私の方がイレギュラーであるだけなので、結論としては大企業経験者は意識的に、自分たち以外の世界に目を向ける努力をしないと視野が狭くなりやすいというところを書いて終わりにします。

6 件のコメント:

  1.  自分の見たいものしか見ないのはしょうがないことかもしれませんが、
    そんなに、選民思想のようなものが普通になるものなのでしょうか。正社員でなければ、奴隷でも構わないということですか。
     そういった方は、自分が病気や事故で満足に働くことができなくなった時にどうするのでしょう。自己責任だからこの状況はしょうがないと割りきれるのか・・・。
     ある程度人を受け止めるバッファが必要だと思うのは、甘っちょろい考えですが、もう少し想像してほしいです。

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    1.  この議論をした当時、親父は経営側の人間になっていたためやはりこういう視点が強かったんだと思います。一方、友人の方は昔っからまさにこんな選民主義者みたいな価値観で、「クズが死ぬのは自業自得。自分はクズに落ちることないから死ぬことはまずない」と断言しかねないくらいひどい奴です。もっとも、こうしたプライドを支えるだけの努力家ではあり、薄い考えだけでこうした発言しているわけじゃないので、話をしていて非常に楽しく頼りがいのある友人でした。
       逆に自分なんかは弱者への共感がやや強すぎると、その友人と話していて自覚するようになりましたね。全く共感しない人も問題ですが、自分のように共感しすぎる人も一歩間違えたらやばい奴なんだと、この友人に会わなかったら気が付かなかったかもしれません。

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    2.  少し、記事に対してかっとなって書いてしまいました。申し訳ありません。
      結局、欺瞞が入るかもしれませんが、機会の均等を目指すほうがまだやりようがあるように思えますし、結果の均等を目指すのは難しいと考えるようになりました。
      しかし、最初のチャンスの数を増やせば上手くいくようになるでしょうか。難しいです。

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    3.  いやまぁこの記事で紹介している友人の性格はまさしくクズだと思うので気にしないでいいですよ。ただクズなりに変に一本芯が通ってて、口では厳しいこと言いますが実際には面倒見のいい奴です。
       機会の均等ですが、かつて私もこれを目指していたものの、機会の均等を保証しても世の中そう好転しないのではと疑問に感じています。たまに記事に書いていますが、むしろ組織内の出世・昇進プロセスにこそ問題があり、組織内の優秀な人間が上に上がってこれないことが今の日本の低迷を招いているのではないかと見ています。この辺もぼちぼち、思い当たることが出てきたらまた書いてきます。

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  2. おそらく昔の日本は、今よりも「ここまでやったら一生安泰」というラインが明確だったので、大学受験とか就職活動で一定の成果を挙げればそれだけで勝ち組だったんだろうと思います。
    その意識があるから、「自分は若い頃に頑張ったから今のポジションにいるんであって、その時に頑張らなかったのが悪い」という発想に至るんだろうなと。
    少し前に勝ち組負け組という言葉が流行ったのも、こういう共通認識としての勝ち組ラインが不明瞭な世の中になったので、自分はどっちなのか確認したいという願望があったからなんだろうなぁと思います。
    そもそもそのような勝ち組意識があること自体が、負け組という概念を作り差別的な扱いを生む元凶なのだと思うのですが、人間誰しも他人を見下したいという願望は持っているので、とりあえずある人にとっての負け組が、他の人にとっての勝ち組であることもあるという、個人の認識の違いへの理解が進むことを期待するしかないんでしょうね。

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    1.  最近はなんだか全業種で給与の低下が続いているから依然と比べて「勝ち組・負け組」の論争は聞こえづらくなってきましたね。この辺のテーマは一番華やかなりしころに学生だったこともあり、自分もよく社会学の中で議論しました。
       見下したい感情が芽生えるのは仕方がないのですが、やはりそれを露骨に出すか出さないかはある程度人間が測られるところでしょう。まぁ「勝ち組」の人は「負け組」の立場に一回なってみたらいろいろ考え変えてくる気がしますが。
       なおこの構造で一番自分が腹ただしいのは、「負け組」の側の人たちが何も自分たちの権利拡大・向上活動をやらないということです。派遣マージン率のデータとか折角私が作ってあげたのにあまり活用せず、やはりどっかしら「誰か強い人に助けてもらいたい」という依存心が強く感じられ、全員が全員とは言わないものの、負け組に陥る人にはそうなる理由が少なからず存在すると一連の活動を通して感じました。

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コメント、ありがとうございます。今後とも陽月秘話をよろしくお願いします。

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