そんなルネサンスが始まったのは言うまでもなくイタリア半島ですが、これは教皇権の強いエリアではあったものの、当時のイタリア各都市国家は神聖ローマ帝国やフランスなどの圧迫も受け、思想や価値観で揺れ動いていたということが大きかったように思えます。
このルネサンスは前述の通り、実証主義、合理的価値観への目覚めともいうべき動きですが、ふとこの前日本ではなぜ起きなかったのか、否、日本でも起きていたけど誰も気づいていないのではという考えがもたげました。結論から述べると私の考えは後者で、日本でもルネサンスのような実証主義が立ち起こっていたものの現代日本ではあまり注目されていないだけではという風に考えています。ではそれはいつ起きたのかというと江戸中期で、いわゆる蘭学ブームこそが日本版ルネサンスだったのではないかと考えています。
江戸中期、具体的にはマツケンサンバでおなじみの八代徳川吉宗の時代に、それまでの鎖国政策の延長で禁止されていたオランダからの洋書などの輸入が医学をはじめとする実学に限り解禁されました。これをきっかけにオランダ語を通して西欧の進んだ技術を取り込もうとする蘭学ブームが起こり、その代表格はこれまた言うまでもない杉田玄白らによる解体新書でした。
この解体新書が嚆矢となって蘭学もとい洋学が日本でも一気に広まり、オランダ語の辞典も出版されるなどそれまで長崎に限られていた蘭学の波が日本全国にも広がります。それに伴い実証主義的な価値観も強まり、現実を見据えロシアなどの侵略に危機意識を持つものや、より進んだ技術を取り込もうと開国を主張する者も現れていき、のちの明治維新へとつながっていきます。
また体制側も、蘭学ブームによってやや軟化していったというか、江戸中期以降はかなり厳しい身分制が残っていた時代ながら、技能や知識を持つ者を採用するなど、合理的な方向へ舵を切っていきます。具体的には最上徳内、間宮林蔵、二宮尊徳などで、彼らは元々は平民でありながらたぐいまれな能力から直接武士に取り立てられて成果を挙げており、合理主義へと江戸時代の世の中が移り変わっていた証人であるように思えます。
ここまで考えが回った段階で蘭学ブームがやはり日本版ルネサンスともいうべき流行で、巡り巡ってこれが幕藩体制を崩壊させる遠因になったということに確信が付いたのですが、その始まりというか最初の最初のきっかけは何だったのかが次は気になっていきました。
前述の通り、全国に蘭学ブームを巻き起こした解体新書がそれにあたるといっても過言ではないと思いますが、私はそれ以上に、平賀源内の存在の方が大きかったのではと思うようになりました。一体何故かというと、初期の蘭学ブームにおいてはまさに彼が中心人物だったからです。
平賀源内は杉田玄白や前野良沢といった当時の主要な蘭学関係者と交友があったのは周知のことですが、そのほかにも日本初の銅版画に成功する司馬江漢も元々彼の弟子でした。そもそも彼自体が長崎への遊学をきっかけに持ち前の好奇心から様々な西洋知識を取り込み、多くの洋書も入手するなど代表的蘭学者であり、時の老中である田沼意次とのパイプもあって、当時の江戸における蘭学サークルの中でも中心人物であったように見えます。
特に解体新書に関して、その挿絵を描いた秋田藩士の小田野直武は源内の直弟子で、彼の推挙により挿絵を執筆しています。その小田野直武に源内は秋田藩へ鉱山開発指導へ赴いた際に出会っていますが、彼に洋画を教えていたらある日、「俺にも教えろよ(´・ω・)」と秋田藩主の佐竹義敦も自ら弟子入りを志願してきたと言われています。
この時、佐竹義敦は一介の浪人に過ぎない源内に対し師匠としての礼儀を取り、また配下の一藩士に過ぎない小田野直武とも全く身分差がないかのように、肩を並べて指導を受けてたそうです。この身分なく交流する姿こそ、ルネサンス精神が最も濃い情景であるように私は思います。
そもそも源内自身が、元々は最下級の高松藩士でしたが自らの研究時間を優先するあまり、その職を辞して浪人となっています。幕末であれば脱藩した人は珍しくないですが江戸中期においては非常に珍しく、如何に源内が当時において古臭い権威主義から脱却していたことをうかがわせるエピソードです。
もっとも、後藤又兵衛よろしく奉公構(他藩への転職禁止措置)を食らうとは源内も思ってなかったようで、ほかの人にも話していないあたりかなりショックだったようです。
話を戻すと、初期蘭学グループの中心にあり、尚且ついち早く合理主義に目覚めて身分差を打破するなど周囲の人間にも影響を与えた点から、平賀源内は日本版ルネサンスこと蘭学ブームの旗手とみてもいいのではと私は考えています。その上でよく平賀源内はその万能ぶりから「日本のダビンチ」に例えられることが多いですが、むしろその著作「神曲」にてルネサンスを牽引したダンテの方がより実像に近いように思え、「日本のダンテ」と呼ぶべきじゃないかと思うに至りました。
割と何度も書いていますが、私はこの源内に対して昔から妙な親近感を覚えて止みません。私自身、比較的なんでもできるけど飽きっぽくて大成しない器用貧乏なところがあり、その点で源内に強いシンパシーを抱いていると思うのですが、今回こうして彼を「日本のダンテ」に例えた際、なにか源内に対する自分の思いに一区切りがついたように感じました。