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2026年3月27日金曜日

つげ義春の逝去

【訃報】漫画家のつげ義春さんが逝去 88歳

 ストーカー殺人に猟銃許可取消裁判の判決といい気になるニュースが今日もたくさん出てきていますが、やはり一番インパクトあったのはこちらの漫画家のつげ義春の逝去です。かねてから大分お年を召されていることからいつかこういう日が来るとは思っていたものの、水木しげるの時と同様にとうとう……という感傷を覚えました。

 私自身はつげ義春の作品をそれほど読んではいないのですが、水木しげるを含め多くの漫画家がその漫画の中で彼を登場させているのを見ています。恐らく実在の人物として自伝マンガなどで登場する回数で言えば手塚治虫に次いで多いのではないかと思うくらいあちこちに頻出しており、そのどれもで「憧れの漫画家に会えた」というような感じで登場しています。
 一般読者の間でも高い人気を得ていましたが、どちらかと言えばつげ義春は同業者である漫画家にこそ最も高く評価された漫画家であった気がします。水木しげるは自らアシスタントとして指名しており、水木のアシスタントにやってきた池上遼一氏からは水木以上になつき、水木邸を訪れた矢口高雄からは「あのつげ義春がいる!?」みたいに見られたりと、とにもかくにもいろんな漫画家が彼のことを口にし、その偉大さを物語っていました。

 それ以上にすごいと言えるのは、つげ義春の場合は日本国内以上に海外での評価が高いという点でしょう。フランスでも熱心なファンがいて国から賞をもらっており、時代と文化を飛び越えてその価値が認められる点でほかの同時代の作家を大きく凌駕しています。ついでに言えば、いまだにパロディ作品がつくられるなど、その世界間の独自さでも突き抜けているでしょう。

 上に引用したまとめ記事でも書かれてましたが、日本漫画史に大きな影響を残した漫画雑誌ガロの主役級の作家が本当にいなくなってしまったというのを、今回のつげ義春の逝去で感じました。つげ義春の場合はちょうど活動期間がガロがあったころに被っていて主要作品もここで発表されていたことから、尚更ガロを代表する人物であったように思え、彼が亡くなって本当にガロの姿形が薄くなってしまった気がします。

 私見ながら、現在の日本漫画界の最高大御所はちばてつや氏だとかねてから考えており、それに同格または次ぐ存在がつげ義春とみていました。その一つ下が、本宮ひろ志氏と永井豪氏で。
 そんなつげ義春が亡くなり、本当に昭和を代表する、というよりジャンプ、マガジン、サンデーの三大少年漫画誌体制が固まる前の漫画雑誌群雄割拠時代の人がいなくなり、完全に歴史の時代へと入った気がします。元号も昭和から平成、令和と移っているので当然ですが、展開していく時代の流れを大きく感じさせる人物であったと改めて思えます。

2026年3月25日水曜日

名前を憶えていた研究者

クローンは無限に作れない マウス58世代目で限界(共同通信)

 上のニュース記事はクローンを永続的に作れないという内容も十分面白いのですが、この発表をした山梨大の若山照彦教授という名前を見て、「もしかしてあの人では?」という気がしました。調べてみたら案の定というか、あのSTAP細胞論文の共著者でした。

 もはや大分隔世の感がありますが10年以上前に起きたあのSTAP細胞事件は決して誇張ではなく、日本のアカデミック界における不正としては考古学界における旧石器捏造事件に並ぶ最強スキャンダルの一角であると考えています。
 その事件の当事者ともいえる若山教授ですが、こんな前振りしながらも実は前からかなり好感を持っており、今回の発表をみて「やはりこの人は優秀で凄い人だったんだな(´∀`*)ウフフ」という納得感と満足感を持って読んでいました。


 一体なんで若山教授推しなのかというと、上のインタビュー記事でも書かれている通りなんでもこの人、学校の成績は滅茶苦茶悪かったそうです。とても研究者なんて目指せるレベルじゃなく、特に英語が壊滅的だったため、英語科目の影響を受けにくい受験先を選んで大学行ったというほどだったそうです。
 ただこのインタビューとか聞いてても凄い素直というか自分の負の一面を割と大っぴらに話しているうえ、何となく研究者特有の「上から目線」を一切感じられず、直接会ったわけじゃないにもかかわらず凄い素直な人なんじゃないかと思っていました。ただこれは私の見立てに過ぎないものの、実際の人柄もやはりそうじゃないかと思わせるのがあのSTAP細胞事件の時の対応です。

 前述の通り、若山教授はSTAP細胞事件の元となったSTAP論文の共著者でした。しかし共著者でありながら、「この論文は間違いではないか、撤回すべきではないか」と最も早く提言したのも彼でした。その疑念は彼の推論が含まれていたものでしたが、その後実際に再現実験はメイン著者の小保方氏(マッドシティ出身)を含めて誰も成功せず、十年以上経た今になっても「やっぱりあの論文は正しかった」という人も出ていないことから若山教授の主張は結果論で言えば正しかったこととなります。
 この自らも当事者ながら早期に論文に疑念を呈するというのは、普通なかなかできるものじゃないと思います。ほかの人だって自分が過去に主張した内容を否定するというのはプライドからなかなかできないというのに、研究者という評価にも影響するのにそれを率先して行ったという点で、この人は只者じゃないという印象を当時から覚えていました。こんな素直な人だからこそ、こうして新たな研究成果も出すなど研究者としてやっぱ一流なんだとまた自分の中で評価をこの人は上げてきました。

 一方、若山教授と対照的だったと思うのが、最後までSTAP細胞論文の正当性を主張し続け自殺した笹井芳樹だったように思えます。故人を悪く言うのは若干よくないとは思うものの敢えて正直に書くと、あのSTAP細胞事件はこの笹井が一番強く関与していたのではという疑念を私は持っています。
 根拠としては戦術の通り、誰も再現実験に成功しないにもかかわらず正当性を主張して小保方氏をかばい続けたこと、発表の場で小保方氏以上にSTAP細胞の有用性を饒舌に語り続けていたこと、そして最後に自殺した点です。

 自殺に関しては批判の槍玉になってメンタルを病んだと言われますが、小保方氏本人ではなく何故彼がメンタルを病んだのかで少し奇妙さを覚えます。小保方氏の指導者として当時確かに批判こそされてはいたものの、メディア報道では小保方氏に比べればその批判度合いは非常に低く、むしろ小保方氏のせいで彼のキャリアは傷ついたなどと同情的な声の方が多かったように覚えています。
 それが何故ああして自殺に走ったのか、それ以前に何故ああも小保方氏をかばい続けたのかという点で腑に落ちない点があり、動機という点で探るなら彼こそが一番あの捏造に関与していたからこそではないかという疑念をどうしても覚えてしまいます。

 以上は自分の勝手な憶測に過ぎず明確な根拠もないのですが、それでも敢えてここに書き記すのはそうした憶測であってももっと議論すべき事件であったと思うからです。前述の通りにこの事件は二本学術史に残る大きな捏造事件であり、何故起きたのかやそれを防ぐ方法をもっと考える必要があるスキャンダルでした。そのためには一定の人格批判に踏み込んででも真相を追求する姿勢が必要だと思え、恥知らずながらこうして書くに至っています。
 逆にというか研究倫理として、若山教授のあの時の姿勢はもっと世の中評価すべきじゃないかと思います。当時、若山教授自身も責任を感じて山梨大での役職辞任なども申し出ていたそうですが、山梨大側が引き留めて留任させたと言われています。こういう謙虚な姿勢こそ後世に伝えるべきで、今回の成果発表を見て改めて記事にしようと思ったわけです。

2026年3月22日日曜日

最近の外務省は凄い(;´・ω・)


  昨日早朝にまた近くの公園行ったらすっかり春めいて花がよく咲いてました。関係ないけど上の銅像写真はいい感じに光差した。




 話は本題ですが先日の高市、トランプ会談については世間の評価通りに自分も高く評価しています。媚びているという批判も出ていますがそれを言ったら日本の首相はこれまでもみんな媚びており、それでいて結果を得られなかった首相もいたわけで(鳩山など)、きちんとホルムズ湾派遣をきっぱり断りつつ不興を買わなかったことは日本外交としては十分な結果でしょう。
 またイランとも交渉を続けていたのか、ホルムズ湾通過について先日イラン当局から日本艦船の通貨について前向きな発言が出てきました。実現するかはまだ未知数であるものの、米国への追従姿勢がイランの態度を硬化する可能性もあったことを考えると、米国とイランの双方で一定の外交的成果を出したというのはかなり驚異的です。

 今回の成果といい、このところの日本の外交というか外務省の活躍っぷりは目を見張ります。先のトランプ関税外交でも以前に書いた通りあの状況で最良ともいえる結果を出しており、対米外交は批判する点を見つける方が難しいです。またウクライナ戦争の立場主張や韓国との関係改善なども理想的であり、中国に関してはひたすら悪化し続けていますがこれに関しては私ですら中国側の問題だと思え、少なくとも日本が独自に動かせる範囲内では成果を出し続けています。
 かつて日本の外交は対米追従しかなく、南アからは「名誉白人」などと馬鹿にされたりして、ムネオハウス事件では醜聞を騒がせましたが、この5、6年くらいの日本外交はマジでなんでこんなに優秀なのと驚くばかりです。高市総理自身も外交が上手というのもありますが、その舞台セッティングをしている外務省についてももっと称賛してあげてもいいのではないかと本気で思います。

2026年3月21日土曜日

部屋に置いているプラモの数

 かねてからこのブログに書いているように、週末はマジでプラモばかり作っています。なんでこんなに作っているのかというと単純にやることがないのと、戦闘機や戦車のプラモなんかは直接形を学ぶという軍事研究的という崇高な目的で行っています。ただかれこれ10年近く上海で作り続けて既に製作数もヤバい量になってて部屋に置く場所もないのですが、果たして今部屋の中にどれだけ飾ってあるのかが気になり、カウントしてみることとしました。

パソコンデスク:6体

 よくこんな狭い場所に色々置くなという気がします。なお左上の黄緑色した宏光MINIは完成品の合金モデルでカウントしていません。

引き出し1:3体

 なんでルーターの上に2体も置いているのか意味わかりません。

引き出し2:3体

 ベッド横で目に入りやすいので、お気に入りのインプ、プロボックス、ゲパルトを選定して置いています。

冷蔵庫上:12体

 ちょうど目線の高さにあって飛行機模型が映える場所なのと、平面で安定しているためがっつりおいています。

食卓下:6体

 下の箱は物を入れるためではなく、プラモ置くために買いました。

食卓:10体

 眺めながら飯食うのにいいのを選んでおいています。何故か英国機が3体と充実してます。

キッチンパイプ棚:3体

 真ん中左に見えにくいけど飛燕が入ってます。っていうかむしろ現場猫の主張が強い。

洗面鏡上:4体

 最初置いたときはよくここに置こうと思ったと感心しました。ちなみに窓開けてると外から見える。

洗面所タオル棚:4体

 独立したスペースででかめのロシア機2機を置いています。奥のインプはおまけ。

トイレ脇:1体

 出来にあんま納得いかなかったハチロクを置いています。手入れしてないから割と埃まみれ。

合計設置数:52体

 自分でやっといてなんですが、本当にバカなんじゃないかと言いたくなります。なんでこんなにプラモ置いているのか、っていうか52体も作るっていい歳こいて何やってんだと言いたくなります。まぁ実際作ったのはその倍以上あるけど。

 昔、中国の航空博物館で世界の戦闘機の模型を置いているコーナーがあって「いいなぁ、家もこんな風にいつかいっぱい並べてみたい」とか思っていたら、実際負けないくらい置くようになってました。人間継続は大事だけど、必要以上に継続するのはよくないなと思うと同時に、マジもう置き場所ないから今後は少し自粛しなければと思っています。

作ってる途中で殺意湧いた(´・ω・)


 例によって今日も家にこもってプラモを作っており、頭文字Dの須藤京一仕様のエボ3を作ってました。


 このエボ3は自分がプラモを作り始めたことからずっと作りたいと思っていた車種で、インプと比べるとエボはキット化があまりなされておらず、過去にエボ5は作ったことがあるものの念願のエボ3は機会がありませんでした。


 それが今回、接着剤不要の楽プラでエボ3が出ていていつも買っている上海のお店にも並んでいたので、迷わず購入することとしました。っていうかプラモに関しては本当に値段見ずに買う癖がつきました。


 そんで今回こうして作ってみたわけですが、いつもの楽プラは1/32に対しこちらは1/24サイズでやや大きいです。前回作ったR34と比べると一目瞭然ですが、サイズは違うとはいえ接着剤不要のキットのため1時間で仕上がるだろうと思ってやり始めたら意外や意外に、3時間もかかってしまいました。なんでこんなに時間かかったというと、ただ単に自分の力量不足なだけかもしれませんが、個人的にはキットに少し問題があると感じました。

 具体的にはいつものアオシマのように説明書の説明が微妙に悪く、リアウィングの最後の最後につければいいのにシャシーとボディを嵌め込む前につけろと謎の指示があるなど、ところどころで疑問に感じる指示がありました。実際、嵌め込み時にこのウィング邪魔で何度か外れたし。
 ただそれ以上に問題だったのが寸法が合っていないことで、具体的に挙げると内部にはめ込む窓のクリアパーツです。指示通りの順番で嵌め込んだにもかかわらずきちんと固定されず、シャシーとボディを嵌め込んだらその衝撃で外れる始末でした。しかも二度も。

 もっともこちらはボディを外して窓を嵌め込みなおしたら固定できたのですが、左右の窓で明らかに寸法があっておらず、片側を嵌め込むともう片側はきちんと嵌め込み切れず、やや浮くような感じになってしまいました。このためサイドミラーをつけようとすると窓が内側に動いてしまって固定できず、結局またばらして付け直す羽目となりました。
 ただいくらやっても嵌め込み切れず、最終的にサイドミラーは固定できるように窓の前側をしっかり固定し、後ろ側がやや浮くというか嵌め込めない状態で組み上げました。たまたま引きが悪く合ってないパーツのキットを買ってしまったのか、元からこうなのかはわかりませんが、こういうことはタミヤのキットでは一切起こらないけどアオシマだとよくあります。

 またこの嵌め込み不具合は最後のボディーとシャシーをくっつけるときにも問題起こしました。恐らく内側にやや膨らんだ窓パーツとキャビンのパーツが干渉し合い、片側のみ嵌め込み切れないというどえらい問題が起こって、これにかなり時間取られました。マジでこの時、「マジ殺す!(# ゚Д゚)」などと怒鳴っては殺意覚えました。
 この嵌め込み問題は最終的に、ボディ側をやや広げるような形でシャシーを入れることで最後はどうにかなりました。最後の最後で起きたからマジ苛ついた。

 このほかサイドミラーの鏡部分も光沢メッキパーツを嵌め込むしようとなっているのですが、何故か左側のみ穴がガバガバなのか嵌め込んでも固定できず、つけるそばからぽろぽろ落ちていきました。仕方ないので最後は接着剤で固定して難なく終えましたが、鏡部分を独立したパーツにするのではなく、普通にシールを貼り付ける形にすりゃいいのにとげんなりしました。
 楽プラなのに全然楽じゃなく、むしろ接着剤使うキットの方が楽でした。完成した見栄えはいいんだけどさ。


 あとなんか発売記念として上のおまけシールがついていました。下の方も妙な擬音のシールがあってジオラマ用だとは思うのですが、「これをどう使えと(´・ω・)」と少々扱いに困るシールです。


 なので仕方ないのでパソコンに貼ることにしました。天板には別のSUICAのシールとクロミのシール貼っててこれ以上貼ると異常者見たいに見えるためキーボード部分に張ることとしましたが、この擬音だとなんかパソコン壊れたように見えたりします。

認知症者には指紋登録を原則化すべきでは?

ニコニコレンタカー、極小の飛び石で8万8千円請求が炎上したので請求を取り止め(ガハろぐ)

 本題と関係ないですがこのセコセコレンタカーの事件は部外者ながら見ていてマジむかつきます。ビッグモーター同様に反社認定してもいいレベルでしょう。会社のプレスリリースも「慎重な判断を要する事案だった」と無駄に上から目線だし、まともとは思えません。こんな一目でわかる詐欺案件に慎重もくそもない。


 話は本題ですが先日出た上のニュースですが、夫婦と思しき男女二人がともに認知症で、自分が何者かもわからないそうです。記憶では千葉に関連する者が多いことから千葉に縁があるのではとこうして千葉日報も記事化しているわけですが、仮に親類縁者がいたとしたらお二人は行方が分からない状態にあることとなり、とても不幸な話であると思えます。


 今回の事件に限らず認知症となって徘徊し、行方不明となる人はかねてから多くなっています。上のFNNの記事でもそうですが、行方不明となって生きているかも死んでいるかもわからないまま親類は待たされることとなり、その心労は小さくはないでしょう。また仮に保護されたとしても、自身に関する情報を失っていた場合は施設に入ることとなり、生きているのに親類に会えないという不幸が重なります。

 こうした不幸を防ぐ上でも、この際だから認知症と診断された時点で即その人の指紋を登録する制度を設けたらどうかと先日思いました。指紋と身分情報を登録して警察の指紋照合システムに共有してさえおけば、徘徊後に保護さえすればすぐに本人情報を引き出し、親類と引き合わせることができるようになります。中には指紋登録を嫌がる人もいるでしょうが、そういう人には無理強いをせず、あくまで原則的には登録という形で今からでもやっておけば、親類のみならず社会の負担も激減させられるのではないかと思います。

 なお本音を言えば私はこの際、日本国民全員が指紋を登録し、マイナンバーカードとも紐づければいいと考えています。こうすることで空き巣などの犯罪が起きた場合も速攻で犯人を捕まえられるし、生体認証機能と結びつけることでいろんな確認作業も一瞬で不要となります。
 もっとも先ほどの空き巣の例で、たまたま過去にその家を訪れていた際につけた指紋が検出されて犯人扱いされる冤罪案件も過去にあり、すべてがすべてプラスになるとうぬぼれてはいません。それでも一般の国民にとってメリットがデメリット遥かに上回り、監視カメラも昔は抵抗があったものが今では歓迎されるようになっていることから、全国民指紋登録化をまじめに議論してもらいたいです。その嚆矢としてまず、認知症者の指紋登録から始めるべきというのが私の意見です。

2026年3月19日木曜日

科挙の史上最年少合格者

莫宣卿(百度百科)

 なんか日本語で「科挙 最年少合格者」と検索してもこの人の名前が日本語ページからは一切見つけられないので、自分が紹介することにします。この人がどういう人かというと、中国の科挙を史上最年少で合格した人で、しかも状元こと首席合格者だったりします。

 莫宣卿(日本語だったら「もせんげい」?)は唐末期の834年、日本だったら平安時代初期に広東省で生まれた人物です。父親はまじめな農民だったらしいですが莫宣卿が生まれる前に亡くなっており、いきなりシンママとなった母親は生活のため別の男性と再婚します。
 再婚相手の継父は比較的裕福な家の人物で、莫宣卿にも邪険にすることなく接していたようです。こうした家庭で育った莫宣卿ですが7歳にして早くも詩を詠み始め、その非凡さが早くから周囲に知られるようになります。継父も連れ子の底知れぬ才能に期待をかけ学問の師匠をつけて教育を施したところ、その期待に応え莫宣卿は12歳で科挙の地方試験に合格してのけました。 その後、莫宣卿が17歳となるこの年に、科挙の本試験が行われました。

 ここで補足しておくと科挙の本試験は毎年実施されるわけではなく、天下一武闘会のように3年に1回しか行われず、このサイクルは最後の清代まで続きました。交通の発達していなかった時代ゆえに当時は本試験を受けるため首都(唐の時代なら長安)まで行くのも大変ですし、手紙などの通信をするのも一苦労でした。そうした地理的要因と3年に一度というペースから、本試験に落ちた学生は落第したことを隠すためその後も首都に残ってバイトしつつ、3年後の試験まで浪人生活を続ける人も多かったそうです。もっとも浪人生活が3年で済めばまだいい方で、そのまま死ぬまで受験し続けたという人も珍しくはありませんでした。

 話を戻すと17歳で科挙本試験に打って出た莫宣卿ですが、なんと一発合格、しかも冒頭で述べたように首席となる状元で通過してのけました。当時としてもこの年齢での合格は異例中の異例であり、しかも状元となったことから宮廷でも有望な人材が入ってきたと大いに期待されたそうです。その期待に応えるように莫宣卿は順調に勤務を続けましたが、34歳となった868年に故郷の母に尽くすため、郷里に近い南方での勤務を願い出ます。
 この転勤願いは問題なく受理されて早速任地に向け出発したのですが、その道中で莫宣卿は病気にかかり、そのまま亡くなってしまいました。その故郷では伝説的な人物とあって今も記念する碑文とかが残されているそうです。

 彼の一生を見て感じたこととしては、紛れもない天才であり天才らしい早世の仕方だと思いました。もしかすると34歳で郷里に帰るため地方勤務を願い出たのも、体調の悪化など自分の死期をすでに悟っていたからかもしれません。
 実際はどうなのかはわかりませんが、自分が中国のネットで見る限り科挙の史上最年少合格者は彼だとされています。実際、十代での合格者は自分も彼以外知らないし、16歳以下となるともはや受験資格的にも引っかかるような年齢である気がします。さらに状元という条件も含めるなら、間違いなく莫宣卿が最年少であるように思え、多分日本だったら合格祈願の神社が建てられているでしょう。

 なお日本では科挙のような採用試験は明治に至るまでとうとう実施されなかったものの、江戸時代の寛政の改革の時に学問吟味という旗本の知能試験が実施され、この試験の優秀成績者は出世の糸口をつかむことはありました。主な優秀成績者はリンク先にありますが、意外な人物としては遠山の金さんの父親である遠山景晋が首席として表彰されて遠山家の出世基盤を築いています。
 明治以降となると日本の学問エリートというと年齢を偽って東大最年少合格となった森鴎外、そして昭和の陸軍統制派を率いた永田鉄山(英語試験の前に中国語の本を読んでたが成績はトップ)が代表格と思いますが、平成以降でこれはという学問エリートが見られないというか目立たなくなったように思え、医師と弁護士両方の資格を取った米山隆一氏がまだそういうカテゴリかなと思うものの、この人見てると賢さと社会への貢献程度は一致しないと思えてきてしまうのがまた不思議です。