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2026年8月29日土曜日

中国の皇帝の正当性

 以前に歴史のわかる中国人の同僚と皇帝談義した際、日本では永楽通宝の影響とその事業の壮大さから明の永楽帝は認知されていると話したところ、「僕は彼嫌いですね(´・ω・)」といきなり否定してきました。なんでかと聞くと、彼には正当性がないからだと説明してくれました。

 永楽帝は明朝の二代目皇帝ですが、その継承は父の朱元璋(洪武帝)に指名されたものではありませんでした。元々、後継として指名されていたのは洪武帝の長男でしたが早世したため、洪武帝は長男の息子、つまり孫を二代目として指名していました。構図的には本能寺の変の後に信長の長男である信忠の息子である三法師が継いだような形です。
 にしても三法師は成人後の名前より幼名の方が通りがいいという稀有な存在な気がします。

 そして洪武帝の死後にその孫、永楽帝からみて甥っ子が継承したのですが(建文帝)、北京にいた永楽帝は反乱を起こしてこの甥っ子を追い出し(行方不明となったが殺害されたとみられる)、自らが帝位に就き、首都も南京から自分の本拠地である北京へ移しました。その後、明の最盛期を築くなど皇帝としての手腕は確かでしたが、以上の簒奪行為から中国人の同僚は正当性を欠くとしてあまり評価していませんでした。
 以上のやり取りを通じてたまたまその同僚だけなのかもしれませんが、意外と中国人は正当性というか大義を大事にするのだなという風に感じました。日本なんか明治維新をはじめ昔から「勝てば官軍」的なところがあり、天皇制も「南朝が正当」などと北朝系で続いた天皇家を自己否定するような主張を平気でする当たり、中国人と比べてこの辺の正当性に対する意識が緩いのかもしれません。ぶっちゃけ血筋さえつながっていれば「ヨシ!」としている気がする。

 興が乗ってきたこともありその後もその同僚と中国の皇帝について議論を重ねたのですが、その同僚が最も正当性が高くて且つ優秀だった皇帝として挙げたのは、後漢の光武帝(劉秀)でした。
 光武帝についても知ってる人には早いですが、ぶっちゃけ少年漫画の主人公みたいなキャラです。先祖は確かに漢室の皇帝の血筋ですが彼の代には完全に庶民に落とされており、三国志の劉備と同じような立場でした。それが兄貴とともに漢朝を簒奪した王莽に反旗を翻し、緑林軍という軍閥に加入したものの、実力と人気を兼ね備える兄が同じ緑林軍の幹部に謀殺されます。にもかかわらず光武帝は謀殺を非難せず黙々と働き、緑林軍で内部抗争が始まるやうまいこと出し抜いて中国を再び統一します。光武帝に関してはこのほか部下に締め出されるなど色々エピソードが多いのですが、確かに正当性という点では漢室の血筋を引き、誰も裏切ることなく世の中の混乱を正した点でピカイチでしょう。

 次に正当性が高いとして挙げたのは、先ほど出てきた洪武帝です。当時はモンゴル系による元朝が支配する時代で、政治がおかしく世の中が混乱しており、そうした悪政による支配を正して漢民族による支配を復活させたという点で評価されてました。この点について私も納得で、その同僚自身は支配層がモンゴル族でも満州族でも気にしないが、閥族政治による混乱の責任があるとして洪武帝に追いやられたのはいいことだと言ってました。
 このほか自分の方から宋朝を立てた趙匡胤はどうかと聞いたら、彼も先代皇帝の遺児から簒奪しているとしてきちんと非難していました。もっとも趙匡胤はその遺児を殺さず保護していた点はちゃんと評価していましたが。

 日本、中国に限らず歴史の移り変わりは突き詰めると簒奪の繰り返しですが、改めて上のやり取りを経て正当性というのをちゃんと意識するのは大事だなと当時思っています。現在の日本の政権は民主主義で主権在民であり、特定の一族や団体に支配されているわけではないため簒奪は起こりにくいですが、やはり簒奪を認めてしまうと世の中が不安定になるような気がします。そういう意味では日本ももっと正当性という観点で秀吉、家康の行為についてもう少し議論した方がいいかもしれません。

2026年7月31日金曜日

中国の対倭寇戦闘マニュアル

 最近ずっとブログに仕事の愚痴ばかり書いていますが、逆を言えばそれまでの仕事はかなり恵まれていたんだろうなとこのところ思います。まぁ日本の仕事もようやく要領分かって自分のペースで進められるようになってマシにはなってきてますが。

 それで話は本題ですが、数年前より個人的にまとめようと倭寇について密かに研究を続けています。その倭寇ですが知ってる人には早いですが室町時代前半の前期倭寇と、後半の後期倭寇でその系統や成り立ち、活動内容は大きく変わってきます。日本人が歴史の教科書で習うのは基本的に前期倭寇ですが、中国側の歴史で語られる倭寇としては後期倭寇の方が存在感が大きく、今でも後期倭寇との戦いをテーマにしたドラマとかも作られるくらいです。

 基本的に後期倭寇は中国人が主体だったと言われますが、頭目に関しては間違いなくそうです。ただ構成員に関しては中国沿岸部や日本の長崎県出身者などかなり混在していたのではないかと思え、具体的にどの国の人だったかと断定すること自体が間違っていると思っています。よく言われる境界人という言葉が一番合っているように思え、中国と九州の海の民の一部というくらいがいいと思います。
 ただ国籍は断定できないものの、その戦闘方法はほぼ日本式だったそうです。具体的には槍よりも刀をメインウェポンに使用し、特に日本刀は中国でも倭刀と呼ばれ、その切れ味の鋭さから戦闘の際には非常に警戒されたと言われています。
 なおちょっとここで突っ込んでおくと、明代でも中国は日本のことを倭と呼ぶ習慣が残っていたと倭刀という表現から伺えます。

 話を戻すとこの倭寇対策の責任者として中国で一番有名なのは威継光という将軍で、彼は中国沿岸部を荒らしまわっていた倭寇の討伐で大きく功績をあげ、今でも倭寇退治の英雄として中国でも知られています。といっても、多分歴史好きの間だけでしょうが。
 その威継光なのですが、彼が倭寇討伐で名を挙げたのは自らが訓練した部隊が活躍したため、その訓練では倭寇相手の戦闘対策がなされていたと言われています。具体的には狼筅という、枝葉が付いたままの竹を柄にした槍を集団で用い、倭刀で切りかかられないよう接近戦を避ける戦術を採用しています。この狼筅を使った陣形を「鴛鴦陣」と称して、大きな戦果を叩き出したと言われています。

 このエピソードからみても、当時の中国にとって日本刀はかなり脅威となる武器だったようです。もっとも日本国内での戦闘で日本刀はほとんど使われず、合戦のメインウェポンはやはり弓矢だったという声もあるので日本刀の凄さに関しては若干尾ひれがついているのではと思う節があるのですが、外国の目から見てこのような話があることもある程度考慮が必要でしょう。

2026年6月16日火曜日

三国志で不当に評価が低い武将

 最近松戸ネタばかりで歴史ネタ書いてないので、かなり久々に三国志について記事書きます。

 さて三国志というと一般的にも知られている通り歴史としての正史、物語としての演義に分けられ、一般で認知されているのは講談となった演義の方です。その演義の影響で実際の歴史では活躍したのに不当に評価が低い武将がたくさんいます。結論から言えば敵役となる魏の武将の面々で、引き立て役とされるため負けシーンばかり描かれてしまい無駄に誤解されている節があります。

・曹仁
 一番演義によって不当に評価を落とされた被害者ナンバーワンとくればこの曹仁において他ならないでしょう。中盤で徐庶に八門金鎖の陣を破られて敗退するところがピックアップされると、その後も南軍争奪戦をはじめ撤退シーンばかり描かれ、関羽との決戦の樊城の戦いでも包囲されて慌てふためる処ばかり描かれています。
 しかし実際にはかなり有能な武将で、同じ一族ということもあって曹操から信頼されて重要拠点を任されており、先の樊城の戦いも曹仁が粘ったからこそ関羽に逆転勝利を決められたとも言え功績面でいえば魏の中でもぶっちぎりです。彼に勝ると言ったら、それこそ張コウくらいになるのではないか。
 なお中国では曹仁はなんか人気で、関連グッズもよく作られています。この点はさすが中国人はわかっていると思います。

・曹真
 三国志演義の被害者ナンバーツーとくればこっちの曹真でしょう。というより、曹仁以上に悪く書かれているのでひょっとしたらこっちがナンバーワンかもしれません。
 曹真が出てくるのは諸葛亮の北伐時で、魏軍最高司令官として諸葛亮と対峙するも演技では諸葛亮に翻弄されて敗北を重ねます。横山光輝版「三国志」では「もう戦うのが嫌になった……」みたいなセリフも言わされ、周りからも無能扱いされて病気となり、司馬懿が気を使って指揮権限を穏便に継承するように描かれています。
 しかし実際の曹真は第一回から第三回目までの北伐に対する防衛責任者として、諸葛亮を紛れもなく抑えた最高功績者です。演技では何故か彼の活躍が郝昭の陳倉配置を含め司馬懿による功績にすり替えられ、ひたすら無能に描かれ続けています。彼の場合、蜀の引き立て役というより司馬懿の引き立て役にされている感すらあります。

・王朗
 三国志のゲームでは会稽を治める太守でおなじみのこの王朗ですが、演技では山賊まがいの厳白虎を匿う形で孫策と対立し、虞翻をはじめ家臣にも馬鹿にされて案の定孫策に敗退し、その後突然北伐中の諸葛亮の前に現れて論戦を挑むも恥かかされて憤死するというあんまりな役割となっています。
 実際の王朗は孫策と戦って敗北したところまでは同じですが、敗北後しばらくは孫策に従った後、曹操の招きを受けてその側近となり、要所要所で適切な助言を行っています。曹丕の代になるとますます徴用されて司空という要職を占め、皇位簒奪でも活躍しつつも贅沢や狩猟ばかりにかまける曹丕に諫言するなど非常に潔白な性格を貫いています。
 ぶっちゃけ自分も「まず真っ先に会稽で落とされる雑魚君主」というイメージでした。っていうかこのイメージは演義というよりコーエーのゲームによるものだけど。

2026年5月8日金曜日

地域によって差のある地元大名への意識

 このGW中はなんか電子書籍をはじめやたらと金を使い過ぎました。どうする(;´・ω・)

 話は本題ですが以前に福岡市を訪れた際、この地を長く治めた黒田家に対するお土産なりグッズなりがあんま見当たらないなと感じました。実際に福岡出身の人に黒田家の話を聞くと、「あんま意識してない(´・ω・)」と返事され、そんなに地元に浸透していないなという印象を覚えました。
 反対にというか同じ九州の熊本県では、現在に至っても加藤清正を神の如く崇めており、関連グッズもくまモンには負けるけどたくさんあります。まぁ加藤家が熊本治めてた期間は実は短く、逆に長く治めた細川家に対する意識は低かったりもするのですが。

 こんな具合に江戸時代までその地を支配したり輩出した各地元大名への意識は地域によってかなり変わります。千葉や埼玉のように主に旗本が支配して支配者も変わりやすかった地域に関してはこの手の意識は全くないのですが、熊本以外にも石川県なんかは今でも加賀百万石を強い誇りとしており、何かにつけて百万という単語をお土産につけてきますし、前だけに対する意識も外から見る限り強そうに感じます。
 また江戸時代に佐竹家が支配した秋田県でも、こちらも外から見る限り佐竹家当主が県知事になったりと今でも現地には強い影響力が残っているように見えます。あと岐阜県は江戸時代は天領だったところも多いですが、戦国時代にこの地を支配した信長への関心が高く、お土産も信長グッズが中心です。

 マムシの道三も輩出してんだから、マムシ酒も出せばいいのに……。

 このほか九州に戻ると、鹿児島県の島津家に対する意識も高いものがあります。何気に鎌倉時代からの守護大名で最後まで生き残ったのは島津、伊達、佐竹の三家のみで、このうち伊達、佐竹は江戸時代初期にお国替えで出身地から動いているため、鎌倉時代からずっと同じ場所を支配し続けたという意味では島津が一番長かったりします。
 ただ鹿児島の場合、西郷隆盛が島津家を上回るほどの尊敬を集めているため、島津家に対する意識もその分弱まっている感があります。まさか身内に追いやられるとは……。

 一方、徳川家が支配した水戸や紀伊はなんか外から見ている限りだとそれほど地元民の意識が強くない気がします。明治維新で徳川家が追放されたということが大きいように思えるのですが、名古屋のみ尾張徳川家に対する意識や信頼が例外的に未だ強いと感じ、実際関連グッズもよく見ます。
 この辺、熊本もそうですがお城が残っているというのが地味に大きな要素である気がします。名古屋も徳川家への意識の半分以上は名古屋城というシンボルの影響であるように思え、やはり城が残っているとそれが街のシンボルとなり、そのまま地元大名への意識向上につながっている気がします。まぁ和歌山城も残っているんですがね。

 最後に山口県に関しては、毛利家よりも幕末に輩出した維新志士の方が数も多くて有名で、現代にも直接影響を残しているため、鹿児島同様に若干割食っている気がします。こうしたライバルの存在やお城などのシンボリックな遺産の有無が、地元大名への意識を決定づけていると言っていいでしょう。

2026年5月2日土曜日

自分の祖父、父が会った歴史人物

 連休二日目の今日のスケジュールは以下の通りでした。

・8時半:起床、その後ゲーム
・12時:昨夜作ったカレーを食べる
・13時:ゲーム
・14時:お昼寝
・17時:ゲーム
・19時:カレー、その後スタバ
・今に至る

 昼寝しすぎたせいか若干肩こりと頭痛がするのですが先ほどスタバで「松吉伝」という漫画を読んできました。この漫画は「風雲児たち」の作者のみなもと太郎がその祖父について書いた漫画で、その本によると祖父は甘粕正彦と憲兵時代に交友があり、甘粕が満州に連れてきた溥儀を最初に匿ったのもこの祖父だったなどということが書かれていました。それ以外にも面白い話がたくさん書かれていたので興味ある人は手に取ることを勧めます。

 これ読んで思ったこととして、「うちは児玉誉士夫くらいやな」という感想でした。これは何かというと、自分の祖父が直接会ったというか見たことのある歴史人物だからです。児玉誉士夫の来歴についてはここで細かく語りませんが、戦前に朝日新聞の駐在社員として祖父は今自分が住んでいる上海に来ており、ここで毎日中国人と麻雀売ったり、牛肉食べたりと楽しく過ごしていたそうです。
 そんな楽しい上海ライフを送っていた祖父が朝日新聞上海支局内で、「よく児玉誉士夫が来ていた」と話していたそうです。この時期、児玉は大陸浪人として自らの組織(児玉機関)と人脈を活用し、軍の請負を受けて中国国内での物資や人員の調達を請け負っていたとされるのですが、そんな人物が朝日新聞内をうろついていた当たり、当時の新聞社と軍の癒着ぶりが垣間見えます。

 残念ながら祖父は自分とあまり話をする間もなく亡くなっており、もしまだ存命なら現在の上海と比較を含め色々聞きたかったものの、父を通して聴いた話はこれくらいしかありません。でもってその父に関しては、何でもなんかの仕事で伊藤忠の役員をしていた瀬島龍三と話す機会があったそうです。その際に父は、

「終戦時とのソ連との密約の話は本当なのか?」

 という質問が喉まででかかったそうですが、さすがにこれ言うとマジギレさせるという懸念から飲み込み、当たり障りのない会話で終えたそうです。瀬島の死後も父は度々、「あの時聞かなかったことをいまだに惜しんでいる」とよく自分に言ってきますが、身内贔屓かもしれないけどこれは聞かなくて正解でしょう。記者や学者ならまだしも取引先としての立場なら、さすがに分を過ぎている。

 これ以外で自分の父と祖父があった歴史上の人物は特になく、私に至っては一人もいません。将来歴史に残りそうな人もおらず、歴史好きなのになんかそういう機会に恵まれません。私自身、子供の頃は歴史の教科書に載るような業績を作ってやろうと息巻いた時代もありましたが、最近は分をわかってか、あとむやみやたらに責任を負いたくない気持ちが強くなりそういった青雲の志も失いつつあります。どっかでこのブログが再評価されたりすればいいけど、まずそれはないだろうな。

2026年4月22日水曜日

浅井長政は何故信長を裏切ったのか

 先日の朝倉義景の記事は最近の大河から浅井長政が何故信長を裏切ったのかという特集を見ることが増えたことで気になったため書きましたが、改めて長政は何で信長裏切ったのか気になり、ここ数日色々調べてました。これまでは単純に朝倉家との関係を重視したこと、特に長政の父である浅井久政の意思が大きいと思っていたのですが、今回改めて調べてみて少し考え方が変わりました。結論から言うと長政と信長の価値観の違い、言い換えれば戦国性のすれ違いが原因なんじゃないかと思えてきました。


 この考えに至るきっかけとなったのは上の記事なのですが、ちょっと長いですが織田家と浅井家の関係、特に浅井家の成り立ちについてかなり深くまとめられています。これを読んで一番感じた点としては、浅井家は領土拡大に対しあまり積極的ではなかったのではという疑念です。

 浅井家は元々近江にいた六角家から下克上するような形で独立した家なのですが、大名というよりかは有力国人という立場に近く、単独で生き残ることは難しいことから背後の朝倉家をよりどころにして独立していました。ただずっと六角家と対立していたわけではなく、浅井久政の代には従属的な立場を取ることで友好関係を結んだ時代もありました。ただこうした久政の態度は浅井家家臣の反発を受け、引きずり降ろされる形で長政に家督を譲る羽目となっていますが。

 異常のように浅井家は独立元である六角家とは対立していたものの、隣り合う朝倉家、あと美濃の斎藤家とは誼を結んでいましたが、その外交方針を見ると領地拡大よりもお家安泰、つまり自領の維持が最大目的であったように見えます。実際、浅井家の領土的野心が低かったと思える行動はほかにもあり、織田家と結んだあとの行動なんかかなり顕著な気がします。
 信長が足利義昭を奉じて上洛を開始した際、真っ先に敵対したのはほかならぬ六角家でした。しかし浅井家は信長の上洛作戦にあまり協力していたように見えず、進軍ルートこそ自国領を素通りさせたものの、徳川家などのように援軍を出すわけでもなく積極的に支援していません。自分の感覚ならこれまで対立してきた相手なだけに、織田家も出向いてくれるというのならアタックチャンスとばかりに一緒に出陣して領土拡大を図るものだと思うのですが、この時の浅井家を見るとそのような行動は見られません。

 ついでに書くと、浅井家は信長を裏切った後もその本拠地であり距離的にも近い岐阜に攻撃を仕掛ける素振りすら見せていません。さすがに国境の防衛は強化していますが、全体的に軍事行動に関しては朝倉家同様に鈍重である印象があります。

 話を戻すと、浅井家としては小谷城を中心としたこれまでの領土のみを維持さえできればそれでいいという方針だったのではないかというように見えます。自分たちの食い扶持を荒らされるには困るけど、かといってそこまで拡大意欲はなく、本領安堵さえされればそれで良し的な考えだったのではないかと思ったわけです。
 実際に近江こと滋賀県は戦国時代の当時においても物流などが盛り上がり、行商などでそこそこ豊かな地域だったそうです。領土を奪わなければ生きていけないような地域ではなく、現状維持の方に考えが傾くのも考えらえると思います。

 そもそも戦国時代を見ると、領土拡大よりもこうした現状維持を優先する大名の方がむしろ多かった気がします。信長や信玄、あと後年の伊達政宗のように領土拡大に積極的だった大名の方がむしろ異端で、現状で食っていけるのならそれでいいという大名の方が多数派であったと思います。そしてそんな考えだったからこそ、長政は異端な信長の行動についていけず裏切ったんじゃないかというわけです。

 浅井家からすれば織田家の領土拡大意欲と速度は理解を超えたものだったように思え、敢えて現代企業で例えるなら商売敵(六角家)を牽制るため提携したところ、その提携先(織田家)はあっという間に商売敵を追い込んで潰してしまったどころか、これまで共存共栄関係にあった別の提携先(朝倉家)も「生意気だから」という理由で潰しにかかってきたような感じなんじゃないかと思います。浅井家としては今の商売で十分食っていけるから商権さえ維持できればいいのに、織田家と組んでみたら拡大にやたら熱心で、周辺の商圏を全部取ってしまいそうで、このままだと浅井家も取り込まれるのではないかという風に懸念するのも無理ない気がします。
 そもそも六角家を下し、朝倉家も下したとなると、東は信長の本拠地である美濃にあたり、浅井家が領土拡大のために進出する方向は完全になくなります。となるとその後は大名とはいえ行動の自由はなくなり、信長にいいように使われてしまう可能性も高いわけで、この辺の懸念も影響したかもしれません。

 以上の通り、長政と信長で領土拡大に対する意識で大きな隔たりがあったからこそ、織田家の急激な躍進や軍事行動に懸念を覚えたというかついていけないと思い、あのタイミングで長政は裏切ったのではないかという結論に至りました。浅井家からすれば、あそこで朝倉家を見捨てたとしてもその後に口実をつけられて潰されるかもしれないという風に思ったかもしれず、実際この辺の浅井家側の懸念をほぐすような行動を信長は取っておらず、その危機感を煽っていた節があります。
 敢えて例えるなら、織田家は領土拡大に積極的な中国だとすると、現状維持できればいいけど中国が何してくるかわからないと懸念している日本の立場が浅井家に近かったように思えます。実際、浅井家の領土は安土や岐阜といった信長の本拠地に近過ぎており、あのまま織田家に従ったとしても最低でも転封で飛ばされていたでしょう。

 ただやはり腑に落ちないのは裏切り後の浅井家の行動で、もっと信長の本拠地の岐阜に迫るなど牽制してもよかったのではないかと思います。そう考えると軍事面でもあまり才能がなかったのかもしれません。

2026年4月19日日曜日

急に朝倉義景が気になってきた



 先週遊びに行った天津の公園に何故か戦車が置かれていたので写真撮りましたが、二枚目の写真の看板には「軍用機械危険 立入禁止」と書いてますが大人も子供もガン無視していて誰もとがめません。This is 中国。

 話は本題ですが先日ふと、朝倉義景が気になりました。朝倉義景というと浅井長政とともに北陸方面で信長と長く戦った勢力の一角で、事実上、信長包囲網の最前線を担った人物であり、彼らの敗北によって信長は中部から近畿の覇権を確立して事実上天下を射止めたとも言えます。
 そんな朝倉義景ですが世間一般の評価は高くない、というよりほぼ無能という評価で一致しており、信長包囲網が失敗に終わったのは朝倉義景の戦略ミスや判断ミスに起因するとまで言われています。実際に武田信玄をはじめ、「なんでお前肝心な時にばかり撤退すんの?(# ゚Д゚)」と、冬が来るたびに越前こと福井県に引き返すことに詰問した大名は数知れません。そもそもそれ以前に信長が上洛するきっかけとなった足利義昭を最初に保護していたのは朝倉義景でありながら、上洛する意思を見せようとしなかったことから信長の元へ走らせてしまっており、信長と戦うきっかけはここに起因するというのもなかなか味なものがあります。

 どうして朝倉義景が気になったのかというと、少なくとも上記の通り足利義昭が最初に亡命先に選ぶなど、当時としては一定の勢力を持っていたという点です。実際、浅井長政も朝倉家との同盟関係を頼りに六角家と戦っていたともいわれ、当時の滋賀、福井においては大きな勢力を保っていたと考えられます。
 その上で、一体何故浅井長政が信長を裏切り朝倉家についたのかという点でも気になりました。従来は朝倉家寄りである長政の父親の久政によるゴリ押しという説が強かったものの、近年になって長政自身が旗印を変えたともいわれるようになり、この辺の外交というか浅井家にとって朝倉家はどんな存在だったのかという点でも興味を持ちました。

 改めて調べてみたところ前述の通り軍事行動については弁護の余地がなく、姉川の合戦をはじめ戦場ではさしたる戦績は見せず、また牽制として信長に圧力をかけるための軍事行動も本当に肝心な時で勝手に抜け出して包囲網の崩壊を招いています。ただ内政に関してはかなり評価されているようで、当時の敦賀市周辺は京都よりも栄えていたという声もあり、義昭が亡命してきた点からもその通りだったという気がします。
 また失敗の多い軍事行動に関しても、朝倉家家中があまり統一されていなかったという負い目もあったという分析がされています。従兄であり最後に裏切って義景に引導を渡している朝倉景鏡をはじめ、分家筋の勢力の独立心が強く命令にもあまり応じなかったり、義景自身に跡取りとなる息子が夭折しておらず、家中の統制が弱かったことが軍事面の弱点であったと指摘されています。まぁ同じ条件の上杉家では謙信ががっちり統制していたのと比較するとやっぱ義景は無能ってことになりますが。

 あともう一つ弁護するなら、義景の敵勢力であったのが一向一揆だったということでしょう。いまの福井県、石川県に跨るエリアには一向一揆の総本山である本願寺があり、そもそも一向一揆自体が越前から始まっています。この勢力には朝倉義景もかなり手を焼いており、上杉家と組んで挟撃を仕掛けたりもしていますが鎮静化できず、宿敵である信長同様にかなり手を焼いています。もっとも信長包囲網の時に足利義昭の仲介によって和睦していたそうですが。

 以上をまとめると、確かに軍事面での失敗が目に付くものの家中が統一されていなかったなど負い目もあり、また内政に関しては文句なしに大した指導者であった節があります。そう考えると乱世ではなく治世であればそこそこ功績を残せたかもしれない人物で、実際に義景自身も文化振興に対する意識の方が強かったそうです。そういう意味では生まれた時代をやや間違えてきてしまった不幸を彼に対して同情的に覚えます。
 最後に関係ないけど、同じクラスに浅井、朝倉という名字の二人がいたらいいコンビになるような気がしてなりません。音読み順でもかなり近いし。

2026年4月4日土曜日

評価の逆転した徳川親子

 昨日書いた記事と内容が重なるのでついでに書くと、この20年間で徳川秀忠とと徳川家光の評価も大きく逆転してきている気がします。

 徳川秀忠は昔、大体90年代くらいまでは関ケ原の遅参などの影響もあり「典型的に無能な二台目」、「親の意向で将軍になれただけ」という評価が非常に強かった気がします。特に春日局が家康に直訴して家光を後継者に据えたという偽エピソードがまだ真実だと根強く認識されていたこともあり、後継車もまともに選べない人物のようにも描かれていました。また「影武者徳川家康」や「あずみ」をはじめ、権力奪取のために実の父である家康すらも暗殺しようとするギレン・ザビみたいな描かれ方も多くなされていました。

 しかし00年代に入ってきた辺りから、それまで家光の功績とされてきた事業のほとんどが秀忠時代に確立されていたという見方が広がり、その治世能力、特に幕藩体制を固めた点について評価が当たるようになってきます。反対に家光に関してはその業績が実は秀忠のものであり、家光自身はそれほど何か主導して達成した業績はほとんどないばかりか、あるとしてもそれは当時の幕閣がなしたもので家光としてのリーダーシップはあまりなかったという評価へとどんどん下がっていきました。
 また家光時代の幕閣に関しても、土井利勝をはじめ秀忠時代に育てられた遺臣が多く、知恵伊豆こと島原の乱を鎮圧した松平信綱こそ家光の小姓出身ですが、家光時代の側近に関しても秀忠の功績とみる向きが広がっています。

 逆を言えば後藤新平じゃないですが、人材を残したという点で秀忠の功績は素晴らしいと私自身も感じます。

 こんな感じで株が下がりっぱなしの家光ですが、この10年くらいに別な意味で評価が高まってきています。

兎図(Wikipedia)

 近年公開され始めてきましたが、家光自身は意外と絵が趣味で結構残しているものの、その公開される絵がどれも「(;´・ω・)?」というようなものが多かったりします。いわゆる「ヘタウマ」系と評価されており、このところ呼ばれるあだ名も「画伯」で、将軍としてよりもヘタウマ画家としてなんか評価が爆上がりしています。
 っていうか「画伯」って最近、もはや蔑称として使われることのが多い……。

 自分の目から見ると、何となくヘタウマ系の代表とされる吉田戦車氏っぽい雰囲気を感じます。カワウソの絵とか残っていたらめっちゃそっくりかもしれません。

2026年4月3日金曜日

三国志で最も評価が逆転した武将

 以前JBpressで、石田三成や田沼意次など昔と今とで評価が逆転した人物をまとめた特集記事を出したことがあり、そこそここう評価を得ていた気がします。この時は評価がマイナスからプラスに転じた人物をまとめていたのですが次は反対にプラスからマイナスに転じた人でもまとめようと思っていたら連載が終わり、その機会を失ったままとなっています。
 ただ仮にこのネタで三国志をやるとしたら、恐らく真っ先に描いていたのは馬超になるかと思います。

馬超(アニヲタWiki)

 馬超というと父や兄弟などの家族をみんな殺されたことから近隣の豪族らとともに反乱を起こして、曹操を大いに苦しめるも敗北し、落ち延びた先で劉備の軍門に下った悲劇の猛将として知られていると思います。ゲームの三国無双では何かと正義、正義と叫ぶので、いかにもバカっぽいキャラになっていますが実際知力はどのゲームでも低く設定されています。
 上記のようなバックグラウンド、そしてあの張飛とも互角に渡り合う強さから非常に人気のある武将なのですが、以上の話は創作の演義での話であり、実際の馬超の姿は実はこれとはかけ離れています。

 上のアニヲタWikiのページなんかその実態をかなり細かく書いているのですがここでも簡単に説明すると、まず馬超が反乱を起こしたのは都(洛陽)で父や兄弟が殺された後ではなく、実はその前だったりします。家族が都に居るというのになぜか地方で突然馬超が反乱を起こしたため、都にいた父や兄弟はそのまま都で殺されることとなり、家族が死ぬ原因を作ったのはほかでもなく馬超本人だったりします。

 その後は演義同様に曹操と一戦を交えるも敗北して落ち延びますが、行き着く先で自分をかばってくれたり支援してくれた人たちをしょっちゅう裏切っては殺し、挙句には占領した都市で虐殺を行って恨みを買ったりと、なんかやることが滅茶苦茶野蛮だったりします。最終的に匿ってくれた漢中の張魯も、「むむむ」と言うような説得なんか受けず、「あっちの方がなんかよさそう」という口実で劉備の勢力へ入るため裏切っています。
 なおこの時、漢中には馬超の家族やその股肱の臣であるホウ徳らが残されていたのですが、こうした親類縁者のことを丸まんま無視して劉備の元へ走っています。こうしたムーブを繰り返しているから上のページでも「呂布にも劣らぬ不義理ぶり」という風に書かれていますが、実際その通りだったりします。しかも劉備軍に入ってからはさして活躍もしておらず、そのままフェードアウトしてしまいます。

 私の見解ですが、史実の馬超は上記の通り不義理極まる悪漢そのものです。そんな彼が何故現代では人気あるのかというと、最後に劉備側に着いたことから劉備人気の影響を受ける形で脚色され、演義で復讐に燃える貴公子として描かれるようになったからだと思います。もし仮に劉備の元に走らなかったらきっと呂布や袁術みたいな恩知らずの暴れん坊みたいな感じで描かれていたと思え、そういう意味では最後の彼の決断は間違いじゃなかったのかもしれません。

 以上のような馬超の本当の姿は大体20年くらい前辺りから徐々に知られ、10年前くらいからは一般にも大分浸透するようになってきた気がします。現在においては結構知られるようになり、少なくとも以前のように悲劇の貴公子として同情されることはかなり減ってきており、その評価の逆転ぶりでは三国一の武将と言えるのではないかと思います。

 なおもう一人評価が逆転というか乱高下が激しい人物を挙げると、徐栄が当てはまるのだと思います。徐栄は知名度こそ低いもののの董卓軍の武将で、反董卓連合が攻め寄せたときには曹操と孫堅を完膚なきまで撃破しており、呂布と並ぶ董卓軍随一の猛将だったりします。

 ですが演義とかだと彼の活躍は呂布や華雄に取られ、また董卓死後にあっさり戦死していることから地味な扱いとなっていました。それでも曹操を撃破していることからコーエーの初代三国志ではかなり高い能力値に設定されていたものの、シリーズを経るごとに何故かどんどんとナーフされて凡将扱いされてくようになり、「董卓と使えない武将たち」として扱われるようになっていきました。
 それが近年はやたら再評価が進み、コーエー製を含む三国志関連のゲームでは再び高い能力値に設定されていき、史実通り董卓軍を代表する猛将という扱いへと戻されてきています。その評価の乱高下ぶりは最近の原油価格相場のようです。

 なお私が昔三国志のゲームで遊んでいた際、ドラクエの王様キャラがよく死に際に「ぎょえーー」ということから、徐栄が死ぬ時は「じょえーー」っていうのだろうかと思いながらよく徐栄を処刑してました。同じような理由で、王平を使ったり出くわしたりした時は「横柄な奴め(ΦωΦ)ククク…」というセリフをほぼ毎回口にしてました。

2026年3月19日木曜日

科挙の史上最年少合格者

莫宣卿(百度百科)

 なんか日本語で「科挙 最年少合格者」と検索してもこの人の名前が日本語ページからは一切見つけられないので、自分が紹介することにします。この人がどういう人かというと、中国の科挙を史上最年少で合格した人で、しかも状元こと首席合格者だったりします。

 莫宣卿(日本語だったら「もせんげい」?)は唐末期の834年、日本だったら平安時代初期に広東省で生まれた人物です。父親はまじめな農民だったらしいですが莫宣卿が生まれる前に亡くなっており、いきなりシンママとなった母親は生活のため別の男性と再婚します。
 再婚相手の継父は比較的裕福な家の人物で、莫宣卿にも邪険にすることなく接していたようです。こうした家庭で育った莫宣卿ですが7歳にして早くも詩を詠み始め、その非凡さが早くから周囲に知られるようになります。継父も連れ子の底知れぬ才能に期待をかけ学問の師匠をつけて教育を施したところ、その期待に応え莫宣卿は12歳で科挙の地方試験に合格してのけました。 その後、莫宣卿が17歳となるこの年に、科挙の本試験が行われました。

 ここで補足しておくと科挙の本試験は毎年実施されるわけではなく、天下一武闘会のように3年に1回しか行われず、このサイクルは最後の清代まで続きました。交通の発達していなかった時代ゆえに当時は本試験を受けるため首都(唐の時代なら長安)まで行くのも大変ですし、手紙などの通信をするのも一苦労でした。そうした地理的要因と3年に一度というペースから、本試験に落ちた学生は落第したことを隠すためその後も首都に残ってバイトしつつ、3年後の試験まで浪人生活を続ける人も多かったそうです。もっとも浪人生活が3年で済めばまだいい方で、そのまま死ぬまで受験し続けたという人も珍しくはありませんでした。

 話を戻すと17歳で科挙本試験に打って出た莫宣卿ですが、なんと一発合格、しかも冒頭で述べたように首席となる状元で通過してのけました。当時としてもこの年齢での合格は異例中の異例であり、しかも状元となったことから宮廷でも有望な人材が入ってきたと大いに期待されたそうです。その期待に応えるように莫宣卿は順調に勤務を続けましたが、34歳となった868年に故郷の母に尽くすため、郷里に近い南方での勤務を願い出ます。
 この転勤願いは問題なく受理されて早速任地に向け出発したのですが、その道中で莫宣卿は病気にかかり、そのまま亡くなってしまいました。その故郷では伝説的な人物とあって今も記念する碑文とかが残されているそうです。

 彼の一生を見て感じたこととしては、紛れもない天才であり天才らしい早世の仕方だと思いました。もしかすると34歳で郷里に帰るため地方勤務を願い出たのも、体調の悪化など自分の死期をすでに悟っていたからかもしれません。
 実際はどうなのかはわかりませんが、自分が中国のネットで見る限り科挙の史上最年少合格者は彼だとされています。実際、十代での合格者は自分も彼以外知らないし、16歳以下となるともはや受験資格的にも引っかかるような年齢である気がします。さらに状元という条件も含めるなら、間違いなく莫宣卿が最年少であるように思え、多分日本だったら合格祈願の神社が建てられているでしょう。

 なお日本では科挙のような採用試験は明治に至るまでとうとう実施されなかったものの、江戸時代の寛政の改革の時に学問吟味という旗本の知能試験が実施され、この試験の優秀成績者は出世の糸口をつかむことはありました。主な優秀成績者はリンク先にありますが、意外な人物としては遠山の金さんの父親である遠山景晋が首席として表彰されて遠山家の出世基盤を築いています。
 明治以降となると日本の学問エリートというと年齢を偽って東大最年少合格となった森鴎外、そして昭和の陸軍統制派を率いた永田鉄山(英語試験の前に中国語の本を読んでたが成績はトップ)が代表格と思いますが、平成以降でこれはという学問エリートが見られないというか目立たなくなったように思え、医師と弁護士両方の資格を取った米山隆一氏がまだそういうカテゴリかなと思うものの、この人見てると賢さと社会への貢献程度は一致しないと思えてきてしまうのがまた不思議です。

2026年3月15日日曜日

気になっていたユーゴスラビア紛争

 子供の頃、見ていて全く背景がわからず非常に印象に残った出来事として、1999年に起きたドラガンん・ストイコビッチ氏(和名:須藤彦一)のシャツアピール事件があります。この事件はJリーグのピッチ上でストイコビッチ氏が「NATOは空爆を止めよ」という文字の書かれたシャツを見せ機構から厳重注意を受けた事件なのですが、NATOが何故空爆をしているのか、そしてストイコビッチ氏はどの国に対してこんなことをアピールしているのかが当時全く分かりませんでした。
 その後、ストイコビッチ氏はJリーグで監督としても活躍するなど長く携わり続けるのですが、彼の名前をニュースで見るたびにあの時の事件は何だったのかが常に頭で気になっていました。ユーゴスラビアが絡んでいるとはわかってはいたものの、それがどう関わっているのかに関してはちんぷんかんぷんでした。

 そのまま時を経た現在、ふとしたことからまたこの事件を思い出す機会ができました。それは傭兵の 子供の頃、見ていて全く背景がわからず非常に印象に残った出来事として、1999年に起きたドラガンん・ストイコビッチ氏(和名:須藤彦一)のシャツアピール事件があります。この事件はJリーグのピッチ上でストイコビッチ氏が「NATOは空爆を止めよ」という文字の書かれたシャツを見せ機構から厳重注意を受けた事件なのですが、NATOが何故空爆をしているのか、そしてストイコビッチ氏はどの国に対してこんなことをアピールしているのかが当時全く分かりませんでした。
 その後、ストイコビッチ氏はJリーグで監督としても活躍するなど長く携わり続けるのですが、彼の名前をニュースで見るたびにあの時の事件は何だったのかが常に頭で気になっていました。ユーゴスラビアが絡んでいるとはわかってはいたものの、それがどう関わっているのかに関してはちんぷんかんぷんでした。

 そのまま時を経た現在、ふとしたことからまたこの事件を思い出す機会ができました。それは傭兵の高部正樹氏のインタビューマンガで、傭兵時代のユーゴスラビアで活動していた時のエピソード見たからでした。
 なお高部氏はクロアチアの傭兵部隊に所属していたようで、そのエピソードでは占領した村の井戸に鹿の死体が投げ込まれていて「ファッキン敵軍!(# ゚Д゚)」とみんな罵り合っていた中、知り合いのクロアチア正規兵が、「実はあの鹿、俺が投げ込んでたんだ(;´・ω・)ナイショダヨ」と話すという内容でした。


 この漫画を読んで改めて当時のユーゴスラビア内戦を学ぼうとみていたのが、上の動画です。ややハイテンポながら独裁者チトー亡き後にユーゴスラビアがどう分裂していき、どのような経緯でスロバキアやクロアチアなどの旧ユーゴ諸国が独立していったのかが解説されており、非常に参考になりました。

 恥ずかしながらこれまで「ユーゴスラビア」というのが「南のスラブ人連合」という意味の言葉であることすら知らずにいました。というか、あの地域の民族系統がスラブ系だったというのも初耳でした。音から察するに、「セルビア」も「スラブ人」という意味だろうし、「スロバキア」、「スレバニア」というのも「スラブの」といった意味の単語なのではないかと類推しています。
 またこのユーゴ紛争を主導した現セルビアの大統領であったミロシェビッチについても訴追、拘束されいたという事実も知りませんでした。またこれによりストイコビッチ氏はセルビア側に立ってああした主張行っていたということもようやく理解できました。

 最低限当時の段階で持っていた知識としては、コソボでは特に激しい虐殺が行われていたというものでした。これについても地理的要因からやや孤立無援な状況で、セルビアの激しい弾圧と攻撃を受けたこともやっと理解できました。当時、世界にほとんど戦争はないと誤解していましたが、この時代のユーゴはまさに内戦に次ぐ内戦でひどい状況にあったことをいまさらながら知りました。
 逆を言えば当時、あまり学校やニュースとかでこのユーゴの状況を詳しく解説したり教えてくれる人は皆無だったという気がします。日本からすれば遠くの地域の戦争でしかなかったのかもしれませんが、いま世界はこうなっているという一例としてもっと教えてくれる人がいてもよかったのではないかと思います。今のイラン情勢についても、教育現場なんか過去の経緯を含め、現代の子供たちにちゃんと教えてくれるのかが見ていて不安です。

2025年12月20日土曜日

漫画化したら売れると思う歴史人物



 今日今まで一度も言ったことなかったため上海植物園(無料)行ったけど、冬だからかめっちゃ寂しい風景しかなく、なんか写真撮っても「寂しい風景選手権」みたいなのしか残りませんでした。あと今日昼過ぎまでめっちゃ暑かったけど、四時過ぎから急に冷え込み始めた(;´・ω・)

 話は本題ですが漫画大国なだけあって日本には多くの歴史人物の伝記漫画が既に存在しています。学習向けもあればエンタメに振った作品も多く、著名な人物なんかほぼ確実に何かしらで作品化されている状態です。ただ中には、凄い面白そうなのにあまり取り上げられず、描いたら売れるのになと思う人物もいるので早速上げていきます。

・福沢諭吉
 学習用の伝記漫画こそあれど商業誌の漫画で福沢諭吉が描かれることはほとんどなく、脇役としても出てくることがほとんどない気がします。自分も知ったのは最近ですが実際の福沢諭吉はかなりファンキーというかユーモアある人物で、咸臨丸で米国に渡ったことばかり有名ですが、その後の遣欧使節の船にもまんまと乗り込み、非常に早期に米国と欧州の両方を見て回るなどキャラ的にかなり面白いです。
 また明治以後は文字通り日本のオピニオンリーダーとなり、彼の脱亜論は明治維新以後における日本の基本方針となったことも考えると、もっといろんな人が漫画化してもいいと思います。けど今のところほとんどなく、慶応の連中は何やってるんだとちょっと持ったりします。

 大分前にもこのブログで取り上げましたが、戦国時代の熊本にあった阿蘇家の重臣である甲斐宗運なんか漫画化したらかなり化ける人物だと思います。というのも、主家のためには実の息子すら手に掛ける日本人にしては珍しい苛烈な忠誠心もさることながら、彼のいた時代の九州は主導権が目まぐるしく移っており、そのほぼ全てに甲斐宗運は外交官としてかかわっています。
 具体的には、大内→大友→龍蔵寺→島津といった具合で主導権が移るのですが、弱小勢力の阿蘇家は主導権が移るたびに同盟相手を変えることで、甲斐宗運の生きていた間は命脈を保ち続けました。彼を描くことで、これまた取り上げられる機会が少ない戦国時代の九州も追えるので、漫画家志望の人なんか彼を描くのをマジおすすめします。

 同じ九州地方、それも南北朝時代も何故だか取り上げられる機会が少ないですが、その渦中においてほぼたった一人で圧倒的逆境から主導権を取り返した今川了俊も、漫画化したら凄い面白いと思う人物です。
 簡単に解説すると、南北朝時代の初めは賢い息子に恵まれた後醍醐天皇の子息の中でも最優秀と名高い懐良親王が勢力を広げ、幕府が九州探題として派遣した人物が九州に入れないくらい席巻してました。そこで東海地方の今川家で家督を継げなかった今川了俊が来るや、山口県の大内氏と連携してあっという間に九州をまくり、南朝勢力を劇的に衰退せしめています。こうした武功面だけでなく文化面でも非常に優れた人物だったと言え、脚色しやすい所もあるだけに、上の甲斐宗運同様に手垢がついていない歴史分野でもあるので描き方によっては売れるという気がします。

・ジョン万次郎
 はっきり言って、めちゃくちゃエピソードが多い。漂流してアメリカ船に拾われただけでも面白いのに、その後ゴールドラッシュのサンフランシスコに行って金を貯めて日本に帰って来たり、米国の知識を買われて土佐藩士になったかと思えば、幕府に引き抜かれ旗本になるも、スパイと疑われて命まで狙われたりと波乱万丈が過ぎます。
 ただ本当に彼については「この時代にいてくれてよかった……」と思うほどの人間で、その功績もあまり評価されていないと思う節があるだけに、有り余るエピソードをうまく消化して面白い漫画にする人が出てきてくれないかなと密かに願っています。マジで彼がいなかったら、日本の歴史はまた違ったのではと思うくらいだし。伝記漫画はあるけど、商業誌の方が彼は映える。

 以上ざっと4人ほど上げましたが、その気になればまだまだ探せるでしょう。逆に漫画化されることが多い人物を挙げるとしたら、多分トップは坂本龍馬で、その理由は知名度と脚色しやすい経歴だからじゃないかと思います。次に来るのは多分信長で、彼に至っては脇役を含めると龍馬よりも多いでしょう。戦国タイムスリップ物ではほぼ確実に登板してくるので、やや登板過多じゃないかという気がしますが。

2025年12月3日水曜日

歴史に人間臭いエピソードを挟む価値

 「ようけん」と言っても、多分普通の日本人で誰を指すのかわかる人はまずいないでしょう。ただ「隋の煬帝のパパ」と言えば、反応できる人は増えると思います。煬帝は言うまでもなく日本の聖徳太子が送った小野妹子を含む遣隋使に対応した皇帝で、その影響もあって日本でも知名度が高い人物です。もっとも中国でも彼は知名度が高く、暴君として名高いのですが。
 そんな煬帝のパパの楊堅(隋の文帝)は隋朝を切り開き、長く混乱の続いた五胡十六国時代を終わらせて数百年ぶりに中国全土の統一王朝を築いた偉大な皇帝で、その優秀さから歴代皇帝の中でも特に評価が高い人物です。大運河や大遠征を繰り返して金遣いの荒い煬帝とは対照的に、非常に質素で自ら倹約に努めて清廉さで知られています。

 そんな楊堅ですが、彼に負けず劣らず有名なのがその夫人の独孤伽羅という人です。男顔負けの胆力を持っていたと言われ、旦那の政治を横で聞いてはガンガン口を挟んでくるのですが、自分の従兄が法を犯し処刑されることとなり、さすがに妻に悪いと思った煬帝が罪を許そうとしたところ、「そんなことしたら示しがつかなくなる」といって、逆に従兄の処刑をプッシュしたそうです。ただ単にその従兄が嫌いなだけだったかもしれませんが。

 こんな具合に横から口を挟むけど判断は比較的的確だったことから、当時の宮廷には「皇帝は二人いる」とまで言われたそうでした。ただそんだけ気が強いこともあって嫉妬心もすごく、旦那の楊堅に「よそで女と遊んで来たら殺す(^ω^)」とマジで常日頃から言ってたそうです。
 実際、楊堅が内緒で別の女性と浮気したことがばれたことがあったのですが、独孤伽羅は刺客を差し向けてその浮気相手の女性を殺したそうです。さすがにこの処置には楊堅も怒ったのですが嫁には逆らえず、やり場のない怒りからなんと一人で家出して、山の方に行ったことがあったそうです。多分、在任中に家出した皇帝はこの楊堅くらいでしょう。しかも迎えに来た家臣が「一緒に謝ってあげるからそろそろ帰ろうよ(´・ω・)」と諭してようやく帰ってきたそうです。

 自分はこの楊堅の家出エピソードが好きで、彼がどうして隋朝を開いたかは覚えてないけど「家出した皇帝」としてははっきり覚えています。なんでこんなに覚えられるのかというとやっぱり人間臭いエピソードだからで、このエピソードから楊堅のことを一人の人物として捉えられるようになったからだと思います。

 前回の記事で私は伊能忠敬が17歳にして年上の子連れシンママと結婚したエピソードを紹介しましたが、多分こういうエピソードがある方が歴史上の人物について覚えやすくなると思います。偉人についてただ功績だけ書き連ねたとしても、学ぶ側からすればそれはただの記号に過ぎず、教科書の上に乗った文字の羅列にしか見えません。しかしひとたび人間臭いエピソードが入り込めば、その瞬間から歴史人物は人格が形作られ、記憶にも定着しやすくなるものだと私は考えます。
 そういう意味では歴史の授業においてはこういう人間臭いエピソードをどんどん盛り込む方が、情報量が増えるけどもかえって覚えやすくなること間違いなしでしょう。ただ実際にこれをやるとなると教師の負担は増えるし、授業時間も足りなくなることから、現実的ではないと私自身思います。

 それならば歴史人物のなるべくくだらない、人間臭いエピソードを箇条書きにした副教材とかを用意してみるのもありかもしれません。1人1ページくらいで何らかのエピソードを読み物風にまとめ、暇な時間に読んでおけという風に渡せば教育効果も上がるんじゃないかという気がします。それこそ時間があれば私が書いてもいいですし。

 仮に戦国武将で書くなら、

徳川家康:三方ヶ原の敗走中にうんこ漏らした
武田信玄:「浮気してごめん、でも本当に好きなのは君だよ」と高坂昌信に手紙送ってた
日笠陽子:ゴムホースでカレーうどんを食べたことがある

 こんな具合でエピソードを紹介していくことでしょう。

2025年12月1日月曜日

伊能忠敬の結婚がカオス過ぎ(;´・ω・)

 大分昔にタモリが好きな偉人はと聞かれた際に伊能忠敬と答えて妙に渋いなと感じましたが、あまりまとまりのない千葉県の中で唯一胸張って出身偉人と呼べるのはこの人くらいだったりします。実際、自分も小学校の頃に千葉出身の偉人として社会科で教わっており、「なんで武田信玄みたいな戦国大名はいないんだろう」と当時不満に思ったのも覚えています。

 そんな伊能忠敬について今日通勤途中にまた「風雲児たち」を読み返してたら、彼の結婚に至る過程がかなりカオスだったことに気が付きました。伊能忠敬は元々伊能家の出身ではなく別の有力町人の一族だったのですが、少年時より聡明であったことから親戚を介して紹介される形で、伊能家に婿入りすることとなりました。ただ、その婿入りの経緯がかなりカオスだったりします。

 というのも伊能家では何故か男ばかり次々と亡くなり、先代の一人娘のミチが迎えた跡取り予定だった婿も結婚後にすぐ亡くなりました。そこで新たな跡取りとして白羽の矢が立ったのが忠敬だったわけですが、その指名時の忠敬の年齢はなんと14歳という、現代では中二という年齢でした。
 しかもお気づきでしょうがその相手はミチで、この時は忠敬より三つ上の18歳でいて未亡人という設定てんこ盛りな相手でした。ところがこれだけではなく、なんとこの時ミチは前の夫の子供を身ごもっていたということでした。

 以上のような経緯から、さすがの忠敬も「いやこれ無理だって(;゚Д゚)」と言ったこともあり、結婚自体は3年置いてから執り行うこととなりました。そのため、忠敬が17歳、ミチが21歳、でもって前の夫の子供が2歳半くらいの時に正式に結婚して伊能家の跡取りとなりました。っていうか17歳で子連れの年上シンママ娶るなんて、この時点で忠敬は偉人じゃんとか思ってしまいます。

 その後、忠敬は周囲の期待に見事にこたえて伊能家の事業を拡大させ、飢饉が起きるや迅速に食料を買い集めて周辺に安く供給し、あまりにも有能で地域の顔役にもなったことから名字帯刀も許されるなど完璧超人かのように活躍します。その後、妻ミチとは死別し、二人目の妻を取るもその人もすぐ亡くなり、三人目の奥さんも迎えていますが、生前のミチとは非常に夫婦仲が良かったと伝えられています。

 伊能忠敬というと「老いてますます盛ん」とばかりに年取ってからのことばかり取り上げられていますが、若い時からも地元佐原で多方面で活躍しており、そこら辺を取り上げられないのは若干不公平な気すらします。そもそも、上記の結婚の経緯そのものの方が面白く、もっとこういうエピソードをみんな発信すべきでしょう。

2025年11月18日火曜日

ブルネイと木村強

 つい最近Youtubeの動画で、東南アジアのブルネイでとある日本人がその発展に大きく貢献していたという話を知りました。その人物の名は見出しに挙げてるように木村強という人で、二次大戦の最中、英国の植民地だったブルネイを日本が占領した際に知事として派遣されてきた人でした。

 木村は現地に着くとブルネイ国王に通訳兼秘書として現地人を一人つけてもらうと、自ら精力的に動いてブルネイを観察したそうです。観察を終えた木村は、ブルネイにはゴムなどの多くの天然資源がありこれらを現地で採集、加工することによって大きな利益が得られると見込み、さっそく現地で工場を作りました。工場で作った製品は木村の予想通りに輸出競争力を持ち外貨が得られるようになったのですが、木村はこの外貨を惜しみなく工場従業員に給料として分け与え、それまで英国に酷使されるだけだった現地民からは驚きとともに受け止められたそうです。

 また木村は指定された物資を最低量で日本に送り、残りの物資はそのまま輸出して利益を得ると、その利益をブルネイ国内の道路をはじめとするインフラへと使いました。また王室とは距離があり関係が険悪だった少数民族の居住地にも自ら赴いて開発への協力を訴えたりもしていました。当初は相手にされなかったものの、彼らの居住地近くにもインフラを整備していったことから信頼を得て、最終的には協力を勝ち取ることに成功しています。

 このような活動でブルネイ国民から大きな支持を得た木村でしたが、物資を最低限しか日本に送らず、ブルネイ国内の開発を優先する態度が本国に嫌われ、その在任期間はわずか1年で本国引き戻されることとなりました。木村本人もブルネイでて手がけた事業は印象深く、戦後も折に触れて思い出していたそうですが、ある日ブルネイで勤務していた日本の商社員がブルネイ国王から木村を招待したいという伝言を持ってきました。
 この招待を受けて木村が20数年ぶりにブルネイを訪れたところ、出迎えたブルネイ国王はなんとかつて自分の通訳兼秘書をしていた人物で、そばで見ていた木村のやり方を手本に国内の開発に取り組んできたなどと話してその再会を喜び合ったそうです。ちなみに現国王はこの時木村と再会した国王のお子さんだそうです。

 私は以上の話を知った時、まず思ったのは「ブルネイにも今村均はいたのか……」という感想でした。今村均については何度もこのブログで触れていますが、水木しげると並んで自分が最も尊敬する人物であり、彼もまた占領地のインドネシアで日本本国の要求を突っぱねながら現地に仁政を敷いて高い支持を得るとともに、その後のインドネシアの独立に大きく貢献したと言われる人物です。彼自身、本国の物資上納要求を突っぱねる際に「現地を無視することは大東亜共栄圏の方針に背く」などと主張したとされています。

 この大東亜共栄圏のヴィジョンですが、言うまでもなく日本がアジア方面に戦線を拡大するための方便にしか過ぎず、提唱した軍本部はもとより日本国民も誰もが植民地解放など本気で実行に移すつもりはないものだったでしょう。ただ今村均にしろ今回取り上げた木村強にしろ、本気であの理想をやろうと思って実際に実行し、しかも成果を上げていた人物がいたということには驚きを感じるとともに、きちんとやっていたら本当に素晴らしい理想だったんだなという気持ちにさせられました。

 私はかつて、米国のヒーローと比べて日本のヒーローは理想を持たず、日常を守ることを最優先に戦うと指摘しました。ヒーローに限らず、日本人は概して理想というかヴィジョンを持つ人がおらず、それこそ1960年頃に池田隼人が提唱した経済優先の理想像に未だにしがみついている感すらあります。
 何でもかんでも理想を持てばいいものではないですが、目指すべき価値観や状況をもっと視野に入れ、それに向かって努力する姿勢こそがずっと日本にかけているものじゃないかと木村強の話を見ていて思います。

2025年10月31日金曜日

不安定そうに見えた米沢市の歴史的アイデンティティ

 先日東北を旅行した際、山形県米沢市の歴史博物館を訪れました。米沢市は江戸時代に上杉家が支配した地域でもあるため資料館も上杉家で目白押しだった……というわけではありませんでした。
 というのも、米沢というのは元々伊達氏の本拠地で、伊達政宗もここで生まれています。ただその伊達氏は江戸時代にお国替えで仙台に移りそこを本拠とし、代わりに後から上杉家が入ってきて治めることとなったのですが、その影響からか歴史博物館もちょっとアイデンティティがあいまいになっているような展示をしてました。

 前述の通り、伊達政宗が生まれた土地でもあることから伊達家に関する紹介もあるものの、やはりメインは近い時代を治めた上杉家となっています。その上杉家と言ったら多分戦国時代の武将としては好感度でトップクラスの上杉謙信が代表格ですが、上杉謙信が生きてた頃の本拠地は新潟県にあり、米沢と彼は縁もゆかりもありません。また引っ越してきたときに国造りとかで中心となった直江兼続も、彼の代で直江は消滅していて後には何も残っていません。
 にもかかわらず博物館では上杉謙信について細かく説明や展示をしているのですが、なんか見ていて凄い不安そうというか自信なさげな説明になっているように見えました。ただ江戸時代に藩財政を立て直した上杉鷹山に関しては、正真正銘の胸を張って米沢を代表する人物であることから熱の入った説明の仕方をしており、米沢市の歴史的アイデンティをしっかりと固めていました。

 以上はあくまで私の主観ですが、その土地と偉人がしっかり結びついていないとやはり紹介の仕方が変わってくるというか、胸を張って地元の偉人だと言い切れなくなってしまうところがあります。米沢市については東北最強のビッグネームである伊達政宗が仙台の名物キャラなため故郷であるものの強く主張できず、また上杉謙信に関しては上杉家つながりであるものの米沢と無関係で、川中島の合戦とか説明されても「(。´・ω・)?」って感じになってきます。
 この点、小田原城の展示はここを本拠とした北条氏の歴史を胸を張って主張できることから、自信に満ち溢れた展示であったのを強く覚えています。真面目に歴史博物館の展示としては自分が行った中でも小田原城は特によく、まだ行ったことがない人にはぜひ行って北条家の歴史を学んできてほしいです。

 なお逆に最も疑問を感じたところは和歌山城で、徳川吉宗についてまるで忌避するかのように一切触れていないのがすごい疑問でした。

 話を戻すと、米沢のように国を開発した人とその後支配した人が江戸時代のお国替えで異なるという地域はほかにもありますが、地域によって信望を集める偉人には差があります。例えば大分県中津市では最初は黒田官兵衛が入ってお城も築いているものの、彼自身はあまり地元民には好かれておらず、後に入ってきた奥寺氏、ひいては中津藩出身の福沢諭吉の方が愛されています。
 もっとも福沢諭吉は大阪生まれで、中津に帰ったら田舎で凄い嫌ってたそうですが。

 反対に熊本県に関しては熊本城を築いた加藤清正が圧倒的な人気で、その後江戸時代にわたって支配した細川家に関してはなんか熊本の人はそっけなく感じます。中津と熊本を比べると、ランドマークを築いたか否かで地元民に愛されるかは決まるというわけじゃないようです。そう考えると、この歴史的アイデンティティというか地元に愛される偉人の条件というのは思ったより複雑なのかもしれません。

 なお松戸出身の偉人ときたら私の中ではやっぱり小保方氏が真っ先に浮かんできました。

2025年10月24日金曜日

東北出身の三大ドクズ偉人

 昨日まで東北に行ってましたが、立ち寄った先に宮城県松島のみちのく伊達政宗歴史館がありました。伊達政宗の生涯については既に熟知してはいたものの、ここでの展示はその生涯をわかりやすい文章のパネルと人形で説明しており、自分の目から見てもいいと感じる展示でした。また館内には伊達政宗以外にも東北出身の偉人の人形が所狭しと飾られていたのですが、その人形を見て、

「なんか東北ってクズな偉人多いな」

 という感想を持ちました。何も東北人に偏見を持っているわけじゃなく、英雄の多くはそれぞれクズな面を持ちがちではあるものの、たまたまそこで目に入った偉人の中からすぐにクズだった奴を何人も見つけられたため上記のような感想を持つに至りました。なので今日はその中でも選りすぐりのドクズ偉人3人を紹介しようと思います。


エントリーナンバー1 石川啄木

 現在の岩手県盛岡市を出身とする石川啄木ですが、彼の死後に金田一京助らが出版した「一握の砂」、なかでも「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」という詩の影響もあって、才能に溢れながらも貧窮の末に若くして亡くなった不運な人物と長年にわたり認識されていました。
 しかし平成に入り、とりわけ関川夏央氏と谷口ジローの漫画「坊ちゃんの時代」が出版されてからは、「彼が生活に困窮したのはドクズゆえの自業自得である」という認識に改まり、それ以前と比べて同情を買うことはほとんどなくなりました。

 具体的にどれほどドクズだったのかというと、元々寺の住職の息子で生家は裕福であり、成人後も当時としては高給な朝日新聞に勤めるなど収入面ではむしろ同時代の成人男性を遥かに上回る立場にありました。にもかかわらず何故生活に困窮したのかというと単純に彼の金遣いが荒く、金があればすぐ遊郭に通い、「おごってやるよ」と言っては知人と飲んで代金を知人に払わせるなど放蕩の限りを尽くしていたためでした。
 さらには職場では無断欠勤や遅刻を繰り返し、俳句仲間などに会うと失礼な放言を言っては顰蹙を買い、挙句には同郷出身で居候先にもなっていた金田一京助に金を無心し続けるなど、クズと呼ばれる行為は一通りすべてやっています。なお金田一京助は啄木の無心にこたえるため女房の着物までも質に入れたそうで、啄木死後に生まれた金田一春彦はそうした逸話を聞くだに「石川啄木というのはきっと石川五右衛門の子孫だったのだろう」などと子供心に思っていたそうです。


エントリーナンバー2 野口英世

 福島県猪苗代町に生まれ我らがドクター野口こと野口英世ですが、彼については以前からも「偉人だがドクズ」と幅広く認識されていました。具体的にどうドクズなのかというと、小学生の頃は自分ちは貧乏だなどと理由をつけて同級生から文房具をせびっていたほか、援助してもらった米国への留学支度金を宴会で留学前に全部使い切り恩師に穴埋めを無心したりしています。ちなみにこうした支度金を使い果たしたのは一度や二度どころでなく何度もやっています。
 またその支度金について、渡米費用を得るために婚約持参金目当てに資産家の娘である斎藤ます子という女性とも婚約しています。野口はこの持参金を懐に入れるやます子との婚約を自ら破談となるように動いて実際に破談とさせた上、斎藤家への返金も恩師の血脇守之助に払わせています。これらを含め一切の費用を野口が後に弁済したという話は聞きません。

 またこれは野口自身の責任ではないものの、彼の研究成果は後の時代になって「実はそうじゃなかった」と否定されていることもやや印象を悪くしています。実質的に野口が後世に残した研究成果はほぼ1件のみで、この点もやや彼の印象を悪くさせているような気がします。まぁドクズであることに変わりはないけど。


エントリーナンバー3 高野長英

 上記の二人と比べやや知名度に劣る高野長英ですが、先に書いておくと彼は正真正銘のドクズであり、江戸時代後期において最も面白い人物です。

 現在の岩手県水沢市で生まれた高野長英の生家は現地を治める留守家の藩医の家系で、男児のいなかった叔父の家に養子で入り将来は家督を継ぐ立場でした。彼自身は男三人兄弟の次男ではあったものの、子供の時点で非常に賢かったため本家跡取りとして選ばれています。実際、その聡明ぶりは頭抜けており、その将来に期待した祖父の指導を受けあらゆることを学びつくし、弱冠12歳で私塾を開いて大人相手に講釈するほどでした。
 しかし賢過ぎたともいうべきか、青年になるとその探求心から蘭学を学びたいと思い、養父を騙すような形で江戸へ遊学に出て蘭学を学びだします。また当時長崎にシーボルトが滞在していることを耳にするや江戸在住の同郷人から金を無心して長崎にわたり、シーボルトから直接蘭学指導を受けます。

 このシーボルトが運営していた鳴滝塾において長英の才能は群を抜いており、先輩を押しのけ最優秀な生徒として君臨していたそうです。ただ性格は非常に悪く、自分より劣ると先輩をからかったりしていたほか、シーボルト事件でシーボルトに捜査の手が迫るやあっさり見捨てて逃亡しています。
 なお最後までシーボルトを守ろうと弁護していたほかの弟子たちは捜査対象となり、幕府から激しい拷問などを受けてたりします。

 長崎を出て江戸に戻った長英でしたが、この間に帰郷を促していた養父がなくなります。なので親類からは養父の娘であり、長英の許嫁でもある従妹と早く結婚して家督を継ぐよう促されますが、長英はまだまだ学び足りないと帰郷を拒否したうえ、その許嫁を自分の養子にした上に他家から婿を取って自分の代わりに家督を継がせるというドクズムーブをかましています。
 こうして家督からも逃れた長英は江戸で医者として開業し、好きな蘭学を学び続けました。もっとも開業した医院は長英の性格が悪すぎて流行らなかったものの、医者仲間が診断で病名や治療法がわからなくなると必ず長英を頼り、長英も症状を聞くだけで的確に回答を出すので、こうした医者仲間からの付け届けで生活していたそうです。

 そんな長英ですが彼が出入りしていた蘭学グループの尚歯会がモリソン号事件を巡って幕府より弾圧、いわゆる「蛮社の獄」を受け、同じ会のメンバーである渡辺崋山とともに投獄されます。この際の取り調べべで幕府の役人は長英に対し、「行ったこともない外国の事情なぞわかるはずもないのに知った風な口して流言を流し、人心を迷わせた」などと批判したのですが、これに対し長英は、

「ではお役人様、幕府の天文方の人間を今すぐここにひっ捕らえてきてください(^^)」
「は?なんでやねん(# ゚Д゚)」
「あいつら、行ったこともない月とか星々について知った風な口きいてますぜ(・∀・)」

 などと役人をからかうような返答したそうで、これに記録係の役人も笑っていたら「笑うな、あと記録に残すんじゃない!(# ゚Д゚)」などと取り調べ役が言ったことまで記録されています。

 こうした軽口も影響してしまったのか長英には無期懲役の判決が下ったものの、牢屋の中で医術に明るいことから重宝され、数年経ったら長英は牢名主となり、あろうことか老の外にいる手下に命じて牢屋を放火させます。この時、緊急避難的に囚人は牢屋から出されたのですが、長英は期限までに牢屋には戻らずそのまま逃亡してしまいます。
 逃亡後は故郷の老母を訪ね、亡くなった元許嫁の墓を参ったりしたほか、その卓越した知識を見込んだ宇和島藩に雇われて砲台を建設するなどしていましたが、江戸で家族とともに潜伏中に幕府の追手につかまり、捕縛の際に暴行を受け亡くなったとされています(自殺説もあり)。なお長英の死から3年後、長英がかねてより警戒していたようにペリーが浦賀に姿を見せることとなります。

 以上の経緯を自分は漫画の「風雲児たち」で知りましたが、蛮社の獄の関係者としか知らなかった高野長英がこれほどまでに面白い人物であるとは全く知りませんでした。何となく「風雲児たち」の作者のみなもと太郎も長英はお気に入りだったのか詳しく解説したうえ、若干ルパンっぽい顔したキャラで描いています。

 にしても野口英世といい高野長英といい、なんか東北出身の医者は「腕はいいけどドクズ」な奴が多いような……。

2025年10月13日月曜日

早死にしてよかったのではと思う維新志士

 最近歴史に関してはどこまでが一般的なのかマニアックなのかがわからなくなってきて記事書くことも減りましたが、今日のネタはあまりほかに同じこと言う人いないのでかなりレアというか自分の妄想入った内容である気がします。

 明治維新直前にその革命の成就を見ることなくこの世を去った維新志士は何人かおり、その代表格とくれば坂本龍馬が代表格ですが、もう一人挙げるとしたら恐らく高杉晋作の名が多くなってくるでしょう。その高杉晋作ですが、個人的に彼は維新前に早死にしてある意味幸福だったのではと思う節があります。

 かねてから書いているように、明治維新は武士とも呼べないような下級武士たちが中心になって起こしており、だからこそ彼らは元々武家社会に対し何の帰属意識もなく、明治政府設立後に廃藩置県をはじめとした武家社会そのものの破壊も躊躇なく行えたと指摘されています。
 それに対し高杉晋作ですが、ほかの主要な維新志士と比べると彼だけ例外的に非常に位の高い、家老すら務めてきた家の出身です。維新志士の中でも間違いなく最上級の武家の出身で、それもあってから彼の行動を見ていると、主家そっちのけで日本の改革を進めようとしていた大久保利通や桂小五郎らと比べ、どことなく主家たる毛利家のために精力的に活動していたような節があります。

 その言動を見る限りだと攘夷の実施は早い段階で不可能とあきらめ、開国、そして吉田松陰を殺した徳川幕府の討伐という方針こそほかのメンバーらと共有していたように見えますが、武家社会の破壊に関しては私は彼の出身とその言動からみていると猛反対し、徹底的に抵抗したのではないかという気がします。
 また彼の創設した奇兵隊事態、維新後に真っ先に反乱を起こす部隊となっています。何となくこういう現場に愛着もつような感じに見え、もし高杉晋作が生きていたら一緒に反乱を起こしていたのではという風にも見えます。それどころか、史実では萩の乱は前原一誠が起こしていますが、もし高杉が存命なら彼が首謀者になってたやもとまで考えています。

 そのように考えると、無念だったろうとはいえ維新直前に高杉が亡くなったのはある意味、歴史的評価においては彼にとって幸いだったのではと思う節があります。西郷隆盛も同じですが、乱世の英雄は概して治世においては反乱者となりがちで、高杉もそういう気配を覚えるだけにその早すぎる逝去は天の采配によるものかとも見えてきます。

2025年10月6日月曜日

曹操はいつ変節したのか?

 今日の上海における予想最高気温は35度で湿度も80%超となっており、実際朝起きた段階でこれはやばいと感じたほどでした。多分自分の人生の中で、最も暑い十月の一日だと思います。


 そんなわけで自宅からの避難を兼ねてまた午前中に映画を見てきましたが、中国語ですが上のリンク先にある「三国的星空」というリアル寄りなフルCGの三国志映画を見ました。内容は主人公が曹操で、その挙兵から官渡の戦いまでを描いています。内容はめちゃ面白い、って程ではないけど十分楽しむに足るもので、続編は赤壁の戦いまでやるそうなので多分見に行くと思います。

 そんなこの映画のシーンとして、董承が曹操に対し「お前の誅殺命令を献帝から受けた」と言われて曹操がめちゃ動揺する場面があります。映画の中ではこれは董承のスタンドプレイで献帝は曹操を警戒しつつもまだ信頼していたように描かれています。
 ちなみにさっき「曹操」と検索しようとしたら検索候補に「曹操のフリーレン」が出てきました。

 このシーンというか解釈は見ていて自分も考えさせられ、描き方が見事だなという風に感じました。この映画で曹操は尊王の志が高いさわやかな青年風に描かれているのですが、実際史実でも前半生の彼はまさにそのような人物でした。
 三国志演義では初めから後漢に見切りをつけて自分が新秩序を作ろうとするような野心家として描かれていますが、実際の史実では董卓が長安に逃げた際、誰も追撃しようとしない中で曹操のみが追撃に出ています(惨敗して帰ってくるが)。また献帝が長安から脱出した際、呼びかけに誰も応じなかったのに曹操のみが真っ先に応じて献帝を迎え入れています。こうした後漢皇室に対する強い貢献意識を見たからこそ、荀彧をはじめとする当時の知識人たちも曹操に味方しています。

 しかし後に曹操は朝廷を軽んじるようになり、本来皇室にしか許されない特権を要求して取得しています。こうした素振りを見せたことから皇室復興を目指していた前述の荀彧なども距離を置くようになるものの曹操はそうした反発すら意に介さず、最終的な簒奪の一手は撃たなかったものの実質的に皇室を潰す方針を後半生においては明らかに持っています。

 この後半生のイメージが強いため曹操は簒奪心溢れる野心家のように描かれることが多いのですが、私自身、「三国的星空」で描かれたように当初はそれこそ本気で皇室復興を曹操も目指していたような気がします。だとすれば曹操はいつ、どのタイミングで変節し、皇室復興をあきらめ新秩序の構築を目指すようになったのかが論点となります。
 そのタイミングとしてはやはり前述の董承らによる暗殺未遂が最有力候補となってくるでしょう。仮に曹操が本気で尊王心を持って行動していたとしたら、献帝から暗殺指示が出されていたとなると本人としてもかなりショックでしょう。それこそ自分が保護してきた人に裏切られるようなもので、実際に献帝が指示を出していたのかは議論の余地がありますが(史実の董承はかなり黒い人物)、この件をきっかけに曹操は価値観を変えたと言われれば納得します。

 それにしても三国志関連でこのブログに記事書くのも本当久しぶりな気がします。関係ないけど「好きな三国志の人物は?」と聞かれると「王平」だといつも答えています。現場判断がしっかりしている点などが好みなのですが、その名前の読みから勝手に横柄な性格だったんだろうと勝手にキャラ付けしています。

2025年8月30日土曜日

日本は崇高な目的で二次大戦を戦った

 最近よく思うこととして、日本は二次大戦を本当に崇高な目的で戦っていたという気がします。戦後はあんまり語られることがなくなりましたが、「少年H」などによると中学校の面接試験などでも「何故日本は中国や欧米と戦っているのか?」が聞かれ、きちんと答えなければならなかったそうです。
 では具体的にどんな戦争目的だったのかというと、「日本はアジアを欧米の支配から救うために戦っているとして、中国については欧米と戦うために一時的に占領するだけなのに、中国(国民党)は日本の真意を理解せずに抵抗を続けている」という風に主張していました。

 上記の主張について元外交官の佐藤優氏に言わせると、「中国の立場からするとふざけるなとしか言いようがない主張」だそうです。頼んでもないのに「お前らを救いたいんだ」と言って欧米(主に英米)と戦争をはじめ、しかもその戦いに必要だからと中国の占領を主張するなんて当事国の中国からすれば噴飯ものです。それ以前に、英米と戦争を開始する前から満州以外の中国占領も開始している点について触れないというのもポイントが高いでしょう。

 とはいえ、アジアを植民地支配から解放させるという日本の主張は本当に崇高に感じます。そもそも一体何故日本はこんな崇高な目的で戦い始めたのか、結論から言ってしまうと、どれだけ戦争を続けても日本にとって何もメリットがなかったからこんな崇高な目的を掲げるしかなかったのでしょう。

 仮に日本が二次大戦で大勝して欧米に「参りました」と言わせたところで、そこでどんな結果が末弟いるのでしょうか。中国一つとっても日本より国土も人口も遥かに膨大で、満州ですら馬賊の掃討に相当苦労していたというのに、日本人が中国全土または一部を植民地ように支配しようったってできるはずもなく、その大義ももちろんありません。ほかのアジア諸国についても言わずもがなで、親日的な政権をいくつかの地域で設立させることは可能だったかもしれませんが、それでも多大な兵士や国家財政の損耗に見合うかと言えば到底見合いません。

 言うなれば、日中戦争の時点で日本は戦争をすればするほど国として損が大きくなる状況に陥っていました。勝利を前提としても戦争を続ければ続けるほど損をするような状態で、誰も得しないのに何で戦争を続けたのかと言えば、多分当時誰もたこ足食いな状況であることをわかっていなかったからという気がします。ただ少なくとも、二次大戦を続ける、勝利したとしても日本は国として一切何もメリットがないということには若干気づいていた節があり、だからこそその戦争目的は国家としての利益追求ではなく、むしろ国家としては自己犠牲にしかならない崇高な目的を掲げざるを得なかったのだと思います。

 少し言い回しが面倒なので言い換えると、要するに二次大戦は日本にとって何の合理性もメリットもない戦争でした。だから日本は「この戦争に勝てばこんないいことがある」と国内外に主張することができませんでした。でも軍部と途中からの政府としては戦争を続けたいため、合理性から戦争継続を説明できないことから、「日本はアジアのみんなのために戦っている」という理想主義に走った崇高な目的で主張するよりほかなかったわけです。
 もっともその崇高な目的を掲げた本人らも実際に実行する気は皆無で、今村均を除く占領国での過酷な圧政をみるに、眉唾な主張であったことは明白でしたが。

 この二次大戦期の日本に限らず、行動理由にやたら崇高な理由を挙げる人というのを自分はあまり信用しないようにしています。というのもそうした理想主義的な主張が掲げられるのはその行動に何もメリットがないことの裏返しであり、巻き込む人を損させるだけにしかほぼならないからです。
 逆に言い方悪いですが功利主義的で打算に満ちた主張をする人間というのはある意味信用できます。というのも、損にしかならないとわかったらすぐに手を引くし、メリットがもたらされるということを理解してもらえれば共闘に持ち込むこともできるからです。

 先の二次大戦期の日本も本来あるべき打算的な国家経営に努めてさえいれば、日中戦争が日本に何のメリットももたらさないとすぐ気が付いてその戦闘拡大をすぐ防げたかもしれません。米国との開戦前も、石油供給が止められた時点で「これじゃあなんもメリットがないじゃん」という判断に至れていれば、ああいう無謀な戦争に至らなかったでしょう。
 実際にというか当時の軍部は戦争目的がないまま開戦したことをほぼ認めています。半藤一利の巣鴨プリズンなどでの取材によると、対米開戦理由に着いたらほぼみんな「……なんとなく」、「そういう空気だったから」と答えたそうです。例えるとしたら、買っても払戻金が購入額を下回る競馬の馬券を買うようなものが、日本の二次大戦だったと思います。

 この辺、戦後に総理になった石橋湛山なんかが人道主義的な観点ではなくまさにこうした功利主義的観点から反戦を主張していました。こうした例を見るについて、国家運営で理想主義的なことを口にする人間というのはかえって信用ならないし、マキャベリズムじゃないけど功利主義的な姿勢を堅持することで、かえって反戦や人道主義にもつながるという気がします。