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2008年12月30日火曜日

労働問題は左翼の専売なのか?

 割と時間があるので、書く前からしんどくなりそうな気合のいる記事を書こうと思います。
 これは戦後のアメリカ統治時代のマッカーサーの逸話ですが、ある日こんなことを彼は周りに漏らしたそうです。

「一体何故、日本では労働争議が何でもかんでも社会主義系の政治運動と結びつくのだろうか」

 この言葉を聞いて、多分ピンと来るのは私の知り合いの中でも一人くらいだと思います。本当はその人とこの話についてしっかり議論をしてからこの記事をまとめるのがベストなのですが、ちょっと気合入れて一から十まできっかり書いて説明して見せましょう。

 このマッカーサーの発言ですが、これは彼の行った日本への政策の反応を受けて漏らした言葉です。日本に着任するとマッカーサーはすぐに戦前に治安維持法などで逮捕された共産、社会主義の左翼の運動家を監獄などから釈放しました。資本主義国を代表するアメリカがこんなことをするなんて驚かれるかもしれませんが、そこら辺は一応自由を標榜する国でもあるので、またアメリカ本国でも当時はまだ赤狩りが行われていない時期だったので思想や運動の自由を守るためということで実行しました。もっとも後年になって社会主義運動が大きくなり始めてくるとまた運動を制限し始めてますけど。
 そしてこうした左翼の運動家を開放する一方、マッカーサーはこれは教科書にも載っている財閥解体と共に、各企業の労働組合の結成を促す政策も実行していきました。

 何故労働組合をどんどんとマッカーサーが作ったのか、ちょっと素人意見で申し訳ないのですが、これは財閥の解体と共に戦前に有り余る力を持った財界人への対抗勢力を作るためだと考えています。これは最近だとめったに議論にもならないのですが、戦後にアメリカが日本が何故二次大戦であんな行動に出たのかという分析理由に、現在定説となっている軍部(官僚)の独走と共にそれを支援し続けた財界にも責任があるという報告をしています。この辺はあまり詳しくはないのですが、確かに戦前は今とは比べ物にならないほど財閥や企業経営者の力が強く、また労働組合という存在自体戦前には非合法とされ、一般労働者の権利は非常に弱いものでした。

 こうした状況を受け、労働者の権利を保持、確立させるためにマッカーサーは労働三法の制定といった諸政策を実行したのだと思います。そもそもマッカーサーは農地改革にて零細農民にも手厚い政策を取っていることから、同じく力の少ない労働者に対しても同様の政策を取ろうというのも自然な行動でしょう。
 だがそうして労働者の権利を守る傍から、最初の発言のようにマッカーサーは手痛いしっぺ返しを受けることとなりました。先のマッカーサーの発言のように、どうも当時は労働組合ができる傍から社会主義政党の影響を受ける集団となっていき、現在に至るまで左翼政党の票田となっては社会主義勢力が力を蓄えていったそうです。もちろんマッカーサーとしても労働者の権利向上はともかくとして冷戦体制に移行する最中のこうした動きに黙っているわけでなく、かの有名な「二・一ゼネスト」にて労働組合の活動を制限する方向へと方針を転換するに至ってます。

 ここまで言えばわかると思いますが、日本では労働問題は初めから左翼系の政治集団が扱うもの、というより労働組合自体が左翼組織の下部組織、またはそのものという認識が強いのですが、私やマッカーサーはこの認識に対して「なんでそうなっちゃうの?」と欽ちゃんばりに不思議に思うのです。
 実は世界的に労働組合が強い国といえばドイツやフランスに加え、アメリカでも最近よくニュースに出る自動車系労働組合を中心に非常に強い国とされています。しかし言わずもがなアメリカは資本主義の国で、社会主義系政治集団が全くないというわけではありませんが、基本的に政治は資本主義勢力の独壇場です。結論をここで言うと、私は労働問題は左翼や右翼に関係なく政治に携わる上で欠くことのできない重要な課題だと認識しており、少なくとも主義や勢力でどうこう言う分野ではないと思います。

 にもかかわらず、日本では労働問題や労働者の保護というと恐らく大多数の人はすぐに左翼という言葉や集団に結びつけるでしょう。何故こうした風になったかといえば、それは前述の通りに戦後の結成期に社会主義勢力の影響を強く受けるようになったということに尽きます。ここで私が強く言いたいのは、「労働組合は必ずしも社会主義の影響を受ける必要はない」ということで、資本主義下でも労働者の権利や地位が向上することで国力の増進が初めて図れるので、右翼や資本主義勢力にとってもまた労働者の権利や地位を守る必要性があるのです。なので本来なら、天皇制保持や自民党シンパの労働組合があっても全然おかしくはないのです。実際、高度経済成長期の自民党は労働者に結構優しかったし。
 更に言うと、憲法やなんだといった政治方針を一切もたずただ愚直に労働者の保護を訴えるだけで、政治勢力と一切つながりのない労働組合だって存在してもいい、ってかそういう風な労働組合の方がむしろあり方として自然だと私は思います。

 私は以前にも非常に恥ずかしい出来の文章となってしまった記事でも主張しましたが、労働というのは人間にとって生きる上で摂食と同等なくらいに必要性が高く価値深いものだと考えています。その労働に対して政治信条や方針がどうのこうのというのは恐ろしくくだらない議論で、本来あまり重ね合わせて議論するべきものではなく労働単体で議論するべきものと考えています。
 ともすれば左翼の専売と思われがちな労働問題ですが、今問題化している派遣難民やニートの問題といい、本来このような問題は右翼も左翼も関係なしにどう保護、分配するかを考えねばならない課題なのです。それを労働組合は左翼系な組織だと考え、また実際に左翼政党の組織票となっている労働組合ばかりという現状というのはもう少し考え直すべきではないかと思います。
 第一これを言ったら、

・左翼=社会主義、労働組合、革新派、フェミニズム
・右翼=資本主義、資本家、保守派、男尊女卑

 などどといった風に、何でもかんでも二項対立形式に各要素を一つの言葉にまとめ上げるというのは大きな問題です。差し当たって私が分離させたいのは、再度の主張となりますが「労働問題に右翼も左翼も関係ない」ということです。

田母神論文再考

 昨日のテレビ朝日の番組「テレビタックル」にて、アパグループ主催の懸賞論文に当時空幕長という航空自衛隊のトップでありながら政府見解と異なる、二次大戦時の日本の行動は侵略に当たらないなどという主張が書かれた論文を投稿した旨で更迭された田母神俊夫氏が出演し、それを見た感想を以下まとめようと思います。

 前段階として、いわゆる「田母神論文」への私の評価は「田母神氏の参考人招致について」で書いた通りで、この中で書いてある評価は現在を持ってもなにも変更する点はなく、やはりこの論文については疑問視しております。
 それでまず番組を見て私が感じた田母神氏の印象ですが、非常に真面目すぎる人間だと素直に感じました。
 登場時に他のゲストから問題化した当初は大変だったのではないのかと言われると、「(批判などで)叩かれてももうこれ以上私も小さくなれませんから」と、自分の背の小ささをかけて冗談から始め、ちょっと前の週刊文春の記事に書かれていた通りに隙があればいくらでもダジャレや冗談を言うという情報の通りでした。なお、「叩かれても小さくならない」というフレーズは相当あちこちで使っているらしいです。

 それで問題の本質へと議論が移ると、この論文を出したことについて思うことはないかという問いに対して一切後悔する気持ちはないと言い放ち、その後も自説の正当性を主張するとまでは行きませんでしたがあくまで一個人の意見に対してこれほどまで世間が反応するのはおかしいのではと主張し、その上で自衛隊のおかれている現状の問題性を終始強く主張していました。

 細かい発言などはこの際省きますが、田母神氏が更迭されたことや政府の処置については一切不平を言わず、投稿した論文の内容でも一切譲ろうとしない態度を見て、この人は少なくとも公の場で嘘はつかない裏表のない人間だと私は思いました。しかし裏表がないといえば誉め言葉ですが、どんな状況においても自分の考えや言葉を正直に述べてしまいかねない人間で、そのために今回の問題もいろいろ大変になったのだと思います。

 討論を見ていて一番印象に残ったのは、やはり田母神氏の言う自衛隊の現状でした。
 それこそイラクなどで命がけで自衛隊員は活動しているにもかかわらず、政治における自衛隊を存否を巡る法整備は一向に進まないため、自衛隊の側からこうした現状の改善や議論の声を挙げる必要があるという田母神氏の主張には私も納得しました。田母神氏の言うとおりに、現在国会などで自衛隊の存在や法規定についての議論はほとんどなされないにもかかわらず、この前のイラク派遣や対北朝鮮問題など自衛隊が行う活動の範囲は広がっています。番組内で確か三宅氏も述べていましたが、敵に銃を撃たれてから出なければ銃が撃てないのにイラクに行くなんてそもそも間違っており、こうした活動範囲の議論から存在などを正式に認めるべき時期はとうに過ぎており、番組内でも言われていましたがこの点については政治家のサボタージュと言っても間違いないでしょう。

 ちょっと他にもいろいろ田母神氏のこの討論であれこれ書きたい内容があるのですが、ちょっとまとめ切れてないので機会があれば別の話題と合わせてまた紹介しようと思います。
 最後にこの論文に問題性があるのかどうかという議論で、どうもこの論文がメディアに大きく注目された背景には自衛官こと背広組と自衛隊こと制服組の防衛省内の対立があり(出張所の方で、背広組も制服組も同じ「自衛隊員」であるとのご指摘を受け、この箇所の表現は「背広組こと内局の事務官(キャリア)と制服組こと自衛官の防衛省内の対立」と修正させていただきます)、実際にはこのような戦前の旧日本軍の行動について書いた論文はこれまでにもたくさんあったにもかかわらず田母神氏の論文だけがこうして問題化したのは、背広組の中でどうもどこかにチクッた奴がいるのではという話が示唆されていました。田母神氏はこの点について口では否定してましたが、この人は嘘がつけない人なのか、顔にはしっかりと肯定しているように私は見えました。

 背広組の代表格といったら、この前汚職事件で有名になった守屋前事務次官が有名ですが、こういった点も含めて防衛省へは今後も注視が必要でしょう。なんにしても、これで終えてしまうことが一番問題です。

2008年12月29日月曜日

失われた十年とは~その十六、ゆとり教育Ⅱ~

 前回の連載記事ではゆとり教育の概略について大まかに解説しました。思ってた以上に長くなって自分でも結構驚いているのですが、この記事では現状での結果、評価、見直しにおける各所の混乱と、このゆとり教育の何が問題だったのかをいくつか提唱します。

 まずこのゆとり教育の結果ですが、今年の日本国内の全国調査では以前よりもマシな結果が出て学力低下も下げ止まったと言われましたが、それ以前はというと如実に日本の子供の学力低下は国際学力テスト、通称PISAにて現れています。
 まず2000年度の調査では一位だった数学が03年には六位、06年には十位にまで下がりました。さらに、ゆとり教育のそもそも目的は詰め込み型教育から応用力をつけさせるのが目的で、数学能力が下がることは織り込み済みなのですが、数学力の低下と引き換えに強化を図った読解力の方でも00年度が八位だった日本の順位は03年度には十四位、06年度は十五位とこちらでも低下をし、言ってしまえば全下がりという最悪な結果となっております。
 ついでに書いておくと、日本と比べて明らかに授業時間数の少ないフィンランドでは毎回どの分野でもトップクラスの順位にランクしております。

 こうした結果に加え、前回にも書いた教育現場での指導者側の苦労話からゆとり教育に切り替えたことによって明らかに日本の学力は低下したといってもいいでしょう。この学力低下の原因がカリキュラムの削減によるものか、はたまた前回に書きそびれた総合学習などの取り入れによる授業時間数の減少が原因なのかまではここではいちいち分析しませんが、少なくともこのゆとり教育はもっと早く見直しを図るべきでした。既にゆとり教育が導入し始めた頃からこうした懸念が強く叫ばれた上に明確な傾向も見え始めていたにもかかわらず、日本人お得意の問題の先送りによって明らかにこの問題への議論は先延ばしにされてきています。

 一応ゆとり教育に完全に移行して二年後には、それまで指導要領以外の内容を教えることを厳しく制限してたのを教科書以上の内容を教えても構わないとくくりをわずかに緩めていますが、ゆとり教育自体に初めてメスを入れたのは安倍政権でした。安倍政権によって教育再生の名の下に「教育再生会議」が集められ、恐らく安倍元首相はこの教育制度を抜本的に変えるつもりだったのでしょうがいかんせん本人が教育改革を行う前に先に倒れてしまい、教育再生会議も行き場を失って次の福田政権時に申し訳なさげに「とりあえず改革した方がいいよ」という報告書を出して解散してしまいました。なお当時のメディアはこの教育再生会議に対して散々金を使ったくせにこの程度かという報道をしていましたが、ちょっとあんな報告書では言われても仕方がないと私も思います。

 ただこの再生会議をめぐる動きの中で、いくつか奇妙なやり取りが見受けられました。そのやりとりというのも、ゆとり教育に舵を切った文科省の元幹部の発言です。
 もうこの人は退官しておりテレビなどでどうしてこのゆとり教育を実行して日本の学力をわざわざ低下させたのだという厳しい質問を受けるとその元幹部は、国民がゆとり教育に変えろと強くせがんだからだと言い返していました。
 この元幹部の発言を官僚特有の責任逃れ体質と言い切れば簡単ですが、私自身、この元幹部の言うようにゆとり教育への移行が90年代前半に一部で強く主張されていたような気もしないでもありません。無論この移行を強く主張していたのは自民党と仲の悪い日教組などの集団ですが、少し記憶が曖昧ですが、なんかのテレビ番組で日教組の幹部とその文科省の元幹部がどちらも、「ゆとり教育への移行には反対していたが、お前らが強くやれやれ言うから」とお互いに言い合っているのを見た気がします。

 こう言ってはなんですが、前述の通りに日教組と自民党は昔から仲が悪いので日教組に言われたくらいで自民党の影響力の強い文科省の人間がその要求を呑むとは俄かには信じられません。じゃあどっから、誰がこの移行を行おうとしたのか、本当に国民はゆとり教育の移行を望んでいたのかということですが、細かい過程を省いて結論を言うと私は官僚が独自に始め、独自に実行したというのが本当のところではないかと思います。一部の関係者の話を人づてに聞いた内容では、どうも文科省の役人は敢えて国民の総白痴化を狙っていたという話を私も聞いたことがあり、案外それが真実なのではないかと思います。

 更に言うと、このゆとり教育の移行がどこから、そして本当にどんな目的で始められたかが全くわからないために現在に至るまで見直しや建て直しが行えずにいるのではないかという不気味さを私は感じています。じゃあ具体的にどう立て直すかですが、まずは今遡上に上っていますが教科書のページ数の増量、土曜日授業の完全復活、暗記や詰め込みの奨励など、言ってしまえばゆとり教育以前にまずすべて戻すことから始めるべきだと思います。その上でこれまでやってきたゆとり教育との比較を行い、よかった点は残したりするのが手っ取り早い気がします。

 最後にこのゆとり教育によって本当に子供たちがゆとりを得たかについてですが、私が小学六年生の頃に中学受験をして私立中学に進学しましたが、当時は三十人以上のクラスの中でわずか四人しか行わなかった中学受験が現在、都市部の学校では約半数もの子供が受験をしているそうです。たとえ学校のカリキュラムが下げられたところで入学テストのレベルは下げられるわけでもなく、結局以前に比べて明らかに塾通いをする子供の割合は増えているそうです。そのため、所得の大きい家庭は塾で学力を維持する一方、所得の低い家庭は下げられたカリキュラムの授業を甘んじて受けるより他がなく、学力の差が一段と広まっているそうです。私の恩師も、ここ数年で入ってくる学生の優劣の差が大きくなっていると述べています。

2008年12月28日日曜日

来年度予算の雇用対策に一言

 もう国会は閉会してしまいましたが、ちょっと書かなければならない記事が多いために書き残したいくつか思い当たる点を羅列しておきます。

 まず渡辺喜美前行革担当大臣の民主党解散決議に賛成した旨についてですが、どうやら民主党と前もって打ち合わせがあり、渡辺議員が賛成するということを表明させるためだけに民主党も解散決議を提出したとの事だったようです。この情報元は本日のテレビ番組サンデープロジェクト内で、田原総一朗氏が山岡民主党国会対策委員長にこの件で問いただし、山岡議員は否定をしたものの、「でも鳩山(民主党幹事長)さんは(渡辺議員に)FAXしたって認めてたよ」と田原氏がばらしちゃって、社民党の辻本清美氏もこのタイミングでの解散決議を提出するには何か裏があると思ってたら渡辺氏が賛成したのを見て、こういうことだったのかと述懐しています。

 敢えて当て推量をすると、自民党としてもこの段階で内輪もめをする様子を国民に見せられないというお家事情があるので、民主党も渡辺議員も除名処分まで自民党は行えないことを目算に入れての行動だったのでしょう。それでもし除名処分が行われるとしても、民主党側からその際は次の選挙で民主党の公認を出すと渡辺氏に伝えて、それを受けて渡辺議員も賛成に回ったのだと予想します。
 まぁ私個人的には渡辺議員がやろうとしていた行革がすべて台無しにされ、前の記事で私も取り上げた雇用能力開発機構も結局所管が移転するだけで残されるようですし、あれだけ現政権に怒る気持ちもわからないでもありません。
 なお渡辺議員は今日のサンデープロジェクトに出ないかと誘われていたそうでしたが、「決心がつかない」との事で遠慮したそうです。

 この渡辺議員の解散決議の話ともう一つ、私が個人的に非常に不満だったのが来年度予算の雇用対策の中身です。先週に来年度予算の概略が麻生内閣から発表されましたが、これもちょっと前の「派遣難民への住居対策について」の記事で取り上げたように、「契約の切れた派遣、期間社員を寮に住まわせ続けたら4~6万円を税金から企業に支給」ときちんと明記されて」ました。

 本来、このような難民を生んでしまったのは派遣を多く雇用しておきながら中途で契約を解除する企業の側にも責任がないとはいえ、そんな企業に対してタダでお金を与えかねないこの政策については私は徹底的に反対です。それならばホームレスの方を含めて、定住する住居のない方へ仮住民票の発行と合わせて直接家賃補助を行うか、災害対策用の仮設住宅を開放、もしくはすぐに建築できる集団住宅のようなものを作る方がずっと有意義でしょうし余計な出費も抑えられる気がします。
 
 また私がこの政策で一番懸念しているのは、かつての雪印や日ハムの国産牛肉偽装事件のように、実際には派遣社員などを雇っていない、もしくは住まわせ続けていないにもかかわらず補助金を受け取る企業が続出しかねないという一点です。言い方は悪いですが数十社くらいはこういうことをやるのがでてきかねないですし、またそういった事態を防ぐためのチェック体制を作るにしろそっちでもまた費用がかかっててんてこ舞いになりそうです。
 確かに雇用対策は喫緊の課題ですが、何でもやればいいというわけではありません。急がねばならないからこそ、クールな判断が必要となってくるのです。

失われた十年とは~その十五、ゆとり教育Ⅰ~

 失われた十年の間、日本は一貫して初等教育、特に小中学校での指導内容を削減していきました。
 削減の目的は毎年過熱する受験戦争によって青少年の心身の育成がうまくはかどれないということからで、それまでの詰め込み教育に変わって今回の記事の題となっているゆとり教育が90年代初頭より徐々に導入されていきました。ですが2008年現在、このゆとり教育は旧安倍政権にて槍玉に挙げられて以降、目下見直しの必要があるとの見解で官民一致している状態で、あと数年もすれば死語となるのではないかと私は考えています。

 まずそれ以前の詰め込み教育についてですが、言っちゃ何ですけど結構優秀でした。当時の国際学力テストで理数系の日本の成績は常にトップクラスで、誰が言っていたかは忘れましたが、当時のアメリカの小学校に日本人の小学生が転校してくると、算数が非常に出来るので者を教わるのに重宝されたという話も聞いたことがあります。
 しかしこうした知識をどんどんと詰め込んでいく教育では基礎や計算が強いものの、応用という分野では呆れるくらいに弱くなるという指摘が当時からされていました。結果論から言うと、私は日本人は応用分野は日本の国民性ゆえに弱いんじゃないかと思いますが、当時は詰め込み型教育の知識偏重が原因だとされ、また詰め込み型教育ではカリキュラムが厳しいゆえに落ちこぼれた生徒がなかなかカムバックが効かない学力格差の解消などの目的も加えられ、80年代の後半からゆとり教育へのシフトが文部科学省を中心にして行われていきました。

 まずゆとり教育のそもそもの目的ですが、一言で言えば子供たちの受験戦争からの解放でした。もうこれなんか大分死語になってきたのですが、90年ごろは公然と「学歴社会」という言葉が世間を通っており、今の中国や韓国のように学歴が社会上の地位に今以上に強く影響していた時代でした。まぁ現在も学歴は強いとされながらも今じゃ「職歴」の方が強く影響する時代ですがそれはおいといて、この学歴社会ゆえに子供たちは幼少時より勉強に駆り立てられ、その挙句いじめや校内暴力(実際に70年代は率で言えば非常に高い)が横行するのだとされ、多分内心的には「もう学力では世界トップなのだから、もう少し中身を求めていこう」という勢いから始まったのだと私は推測しています。

 具体的な政策目標としては、ちょっと記憶が曖昧なのですが大体こんな風なことを言っていたと思います。

1、平均学力が多少低下してでも、もっとゆとりを持って教育して応用力をつけさせるべき
2、理数系に比して当時から世界的にも遅れがちだった読解力といった文系学力の充実化
3、授業時間を削減し、親子や友人間といった人とのつながりを充実化させる

 ま、大体こんなもんでしょう。こういった目標の元にまず行われたのは三番目の授業時間の削減です。これは92年に第二土曜日、95年に第四土曜日を原則休日として、02年にはすべての土曜日を休日化することで行ってきました。今の小学生たちからすると驚かれるかもしれませんが、私など子供の頃は毎週土曜日は三ないし四時間の授業が設けられていました。
 たかが半日と思われるかもしれませんが冷静に計算してみると、まず一年間が約52週間あるとして夏、冬、春休みが大目に見て14週間あるとして、祝日などをこれまた大目に見てさらに2週間を差し引くと一年の間に授業が行われるのは36週間となります。この36という数字に4時間の授業数をかけると、実に144時間もの差が土曜日授業のあるかないかで生まれてくることになります。こういっちゃなんだけど、144時間も勉強したら相当いろんなことを覚えられそうです。

 こうした授業数を削減する一方、授業科目についても一部の変更が行われました。まず、これは私なんかも体験していますが92年度より小学校の低学年においては社会と理科の科目を廃止し、新たに「生活」という科目が加えられました。私などはちょうどこの変更が行われる年に低学年だったため、一年生の頃にあった社会と理科が二年生から突然「生活」にまとめられ、三年生になったらまた社会と理科になったので不思議に思ったりしていました。

 さらにこうしたことに加え、各科目の指導量もどんどん削減されていきました。
 これは私の体験ですが、従兄弟の家に遊びに行って従兄弟の小学生の子供の教科書を見て、そのあまりの薄さに絶句してしまったことがあります。本来文章をたくさん読ませてなんぼの国語の教科書ですらまるで絵本かのような薄さで、こんなに薄いのでは子供の教育に不安があるのではと従兄弟に話したところ、その従兄弟からすると私が小学生の頃に勉強してきた教科書も従兄弟らの頃と比べたら相当薄くなっていたそうで、今に始まった話ではないと言い返されました。

 実際に、私が大学受験の頃に予備校の教師に何度も、ほんの数年前と比べると私たちの世代は計算力が非常に落ちていると言われ続けました。ただその教師によると、私らはまさにゆとり教育へと移り変わっていく過渡期の世代で、私たちよりまた数年下がるともはや手のつけようがないとも言われていました。
 この教師の予想は見事に当たり、現在予備校関係者はどこも基礎的な力が身についていない子供の指導方法に頭を悩ませているそうです。

 書いててキリがなくなったので、続きはまた次回に。

2008年12月27日土曜日

減給の理由、あれこれ(*^ー゚)b

警察署長“セクハラ”で処分(NHKニュース)

 リンクに貼ったニュースは、いわき中央警察署の署長ともあろう者があろうことか複数の女性警察官に対して何度もセクハラを行っており、その署長が今回正式な処分が発表されるのを受けて自ら願いを出して辞職したという事件を報道したニュースです。まぁニュース自体はよくあるセクハラ事件なのですが、この事件で私がちょっと気になったのはこのセクハラ署長への国家公安委員会からの処分です。結局本人は処分を受けずに退職したのですが、なんと課された処分内容は「減給十分の一、一ヶ月」との事で、これだけセクハラに対して世間が厳しい目を持つ時代になったにもかかわらずちょっとこの処分は甘すぎるんじゃないかと思いました。

 そりゃ一回のお触り程度だったらこの処分でもまだ妥当ですが、報道によると今年四月から数ヶ月の間に何人もの女性警察官にセクハラを行っており、状況と行動から察するに恐らくそれ以前からもやってきているであろうことを考慮に入れ、本来このような事例を取り締まるべく警察署長という身分を考えると一発退場レッドカードでも問題はない気がします。少なくとも、減給処分であれば一ヶ月なんて言わず一年以上は必要ではないでしょうか。

 と、こんな風に言うだけだったらわざわざ記事にしません。実はもう一つ、「減給十分の一、一ヶ月」というキーワードにつなげられる話を仕入れてきていたので、合わせてこのようにして記事にしようと思ったのです。
 これは私の知り合いのいる会社の話なのですが、何でも昨今の不景気を受けてその会社では既に役員報酬が下げられてはいたのですが、とうとう影響は一般社員にも及び、課長級以上は来年度以降の給与が一律10%カットされることが告げられたそうです。まぁこんな時代ですし早めの対応と前向きに見る以外はしかたがないのですが、給料カットが行われる期限については言及されておらず当面は不定期に続けられる予定との事です。

 ここで、最初の例と冷静に比べて見ましょう。
 片方はセクハラをして一ヶ月の減給、もう片方は真面目に働いているが社会的な影響を受けて不定期の減給。減給額はどちらも10%。なんていか、こう並べてみると物凄く後者が不憫に思えて仕方ありません。
 やっぱりいろいろ聞いていると、今どこの会社でもこのような社員への減給は行われており、そう考えると最初の警察署長への処分なんて本当に意味があるのか疑問に思えてきます。そんなだから私はこの処分はちょっと甘いのではないかと思った次第なのですが、結構恐いこといっちゃいますが、現在国の財政は文字通り火の車で私企業はどこも減給をやってるのだから、公務員も全体で課長級以上は給料を一律10%カットとかするべきじゃないのでしょうか。

 ちょっと政治の話にも関わってきますが、もし消費税などの増税を行おうものなら、民間人の側からするとそういった公務員切りをやらないととても納得できないでしょう。田原総一朗氏も首相権限でいつでも公務員のリストラは出来るのだから早々にやるべきだと主張しており、私も業務内容を見る限りでは首切りなりコストカットなり、もっとやるべきことはたくさんある気がします。

 にしても婦警さんのセクハラかぁ。制服好きだろうとやっちゃ駄目だろ(・A・)イクナイ!!

出版不況について思うこと

 今月はせめて投稿記事本数を四十本にしておきたいので、残り五日ですがちょっとスパートをかけていきたいと思います。

 さていきなりですが、「180円」と言われて一体何の価格かすぐにピンと来る方はいるでしょうか。実はこの価格、私が子供だった頃のマンガ雑誌「少年ジャンプ」一冊の値段です。ちょっとウィキペディアで調べてみるとこの値段は1989年頃の価格との事で、恐らくこのくらいの頃に私は初めてジャンプを買ったのだからこの値段をしつこく覚えていたのだと思います。
 それに対し、現在のジャンプの値段はというと実際に店頭で確認していないのですが同様にウィキペディアの記事を読むとなんと「240円」との事で、実にこの十数年で三分の四倍も値上げされていることになります。

 それを言い出すと1970年の発売当初は90円なのでこうした値上げも時代の変遷によるもの、といえば集英社を初めとした出版社は簡単かもしれませんが、私はこの値上げに対して率直に強く疑問を覚えます。というのも70年代から80年代の間は日本が高度経済成長期にあり、また90年度初頭も消費税の導入があったのでこの間に徐々に値段が上げられていったというのは理解できるのですが、90年代の後半は失われた十年の間ともあり、この時代を象徴する経済現象のデフレの影響を受けて様々な物の物価がどんどん下がっていった時代でありました。いくつか例を上げますと、90年代中盤まで三十万円はくだらなかったパソコンの値段は2000年に入る頃には十万円前後にまで下がり、飲食店もさすがに今は落ち着いてきましたが一時期はマクドナルドや牛問屋の値下げ競争が進んで大幅に下がっていました。

 そんな中、私が身の回りで購入する物の中で唯一一貫して値段が上がっていったものというのが先ほどの少年ジャンプも含むマンガ雑誌を初めとする書籍です。
 実際にどれくらい上がっているのかと、ちょっとあまりこういったデータを普段は取り扱わずやや苦手なのですが、国の統計局(社会学をやってたら知ってなければいけない機関)のホームページから年別の消費者物価指数のデータを出して見てみたのですが、正直驚きを通り越して呆れました。この消費者物価指数というのは、「家計を基準に、その商品やサービスを購入するのに必要な支出の割合」を商品ごとにまとめたデータで、簡単に言えばそのモノの物価がどれだけ上がっているのかを調べるデータのことです。

 結果から言わせてもらうと、やはり書籍の物価指数データは異常な数値をはじき出しています。文房具や建築ブロックなどはそれこそほとんど変動がないのですが、家電なんかは見ていて気の毒になるくらい物価が落ちており、その他もやはり生活物資などはどれも低下しています。しかしこれが書籍になると話は違い、少年雑誌で見ると91年の消費者物価指数90.5に対して07年度は99.6と、10%程度も上昇しており、更に書籍全体で見ると91年の69.7に対し07年度は101.8と、なおも上昇を続けている傾向にあります。

 日本では出版不況といわれ始めて既に久しくあります。大体95年くらいから「本が売れなくなってきた」という話がちらほら聞こえるようになってきて、それが現在にまで続いているのでは既に十年以上も言われ続けていることになります。そんな状況なもんだから、「ハリーポッターシリーズ」が出た際には「出版会の救世主」とまで言われたのですが、結果から言えば「ハリポタブーム」の後には何も続きませんでした。

 さてここでクエスチョンです。本が売れないにもかかわらず、何故出版会社は値段を上げていったのでしょうか。出版関係の会社にいる人間とよく会っているうちの親父に言わすと、「本が売れないから利益が出ず、それで仕方なく上げているらしい」と返ってきたのですが、私に言わせると実態は逆で、値段を上げているから本が売れてないんじゃないかという気がします。
 そりゃ高度経済成長期のインフレ真っ只中なら上がっていくのも自然ですが、なんでもってデフレ下で消費者物価指数にもはっきり表れるくらいに値段が上げられていったのかとなると明らかに不自然です。特に少年ジャンプを初めとする少年マンガ雑誌に至っては、毎月の少ない小遣いで購入してくれる小中学生がメイン購読者層なのに値段をこれほどまでに上げていくのは常軌を逸しているのではないかとすら思います。ついでに書くと、単行本のジャンプコミックスもこの前私が買った「クレイモア」の十五巻は420円でした。これも私が小学生の頃はダイの大冒険とか390円だったのに。

07年の一人当たりGDP、日本19位 G7で最下位(NIKKEI NET)

 リンクに貼ったニュースに書かれてあるように、かつてはルクセンブルクに次いで二位であった日本の一人当たりGDPは現在、見るも無残なまでに低下の一途を辿っています。それほどまでに個人の収入が先細っている中で何故出版会社はこれほどの値上げを行ってきたのか、言い方は悪いですが馬鹿なんじゃないかとすら思います。出版不況とかなんとか抜かしては被害者ヅラしていますが、コスト削減などの経営努力を真面目にやってきた姿を私は見たことがないですし、挙句の果てには一部の出版社なんか「最近の日本人は知的好奇心が少なくなってきた」と、暗に日本人の知性が下がったことが原因だなどと言い出すのもいますが、それは体のいい責任逃れな発言にしか思えません。そういった知性の低下にどう立ち向かうのかが、出版社の一つの役割なんだし。

 おまけに、私はどうも最近の書籍は値段の割に中身が異常にくだらない本が多過ぎな気がします。ハードカバーの本を買おうものなら2000円近くは取られますがそのくせ中身はぺらぺらで、それならばまだ実際によく売れている新書の本の方が内容にも優れていることが多々あります。そんなわけで私がよく買うのは新書なのですが、この新書でも必ずしもいい本が手にとれるわけではなく、いい本だったときには素直にラッキーと思うしかありません。前に買った野球の新書なんて滅茶苦茶つまらなかったし……。
 マンガでも同様です。かつてジャンプの値段が200円だった頃に連載されていたマンガに対し、今対抗できる連載マンガはどれほどあるのか非常に疑問です。値段も高くなる一方で質は下がる一方、こんな悪循環で本なんて買う馬鹿いませんよ。

 何も書籍に限るわけではないのですが、最近の一部の商品やサービスに対してどうも値段に見合わないものが多くあるような気がします。その一方でこの前私が買った1TBのハードディスクなんて一万四千円で、「本当にこんな値段で買っていいものか」と、逆に不安になった値段もあります。後者はともかく前者に対しては、もう少し適正価格について調査なり検討なりをするべきだと思います。特に書籍は先ほども言った通りに国民全体の知性に関わる分野なのですから、もう少し使命感を持って企業努力もはっきり見えるくらいにやってもらいたいものです。

  参考サイト
総務省統計局

2008年12月26日金曜日

多様性を壊す存在

 私がよく人にする話に、アッシリア帝国とアケメネス朝ペルシアの対比があります。
 どちらも古代オリエント地方を統一した王国ですが、アッシリアは異民族に対して圧政を敷いて統一後まもなく反乱を招いて崩壊した王国で、後者は逆に異民族に対して融和的な政策を取り自治も認め、マケドニアのアレクサンドロス大王が責めてくるまで数百年もの長い間維持した王国です。

 この話で私が何を言いたいのかというと、歴史的に民族同士の異文化や違いに対して寛容な社会ほど安定し、長持ちするという事実です。何もこの例に限らず歴史的に国民や異民族、異宗教に対して圧政や弾圧を行った君主(ローマのネロや秦の始皇帝など)は批判され、逆に宥和政策を取った君主(アイユーブ朝のサラディンなど)は高く評価される傾向があり、社会的にも後者の宥和政策を取る国の方が反乱も少なく、また治世と呼ばれるほど安定した社会を築いていることが多いです。

 このブログでも私はあれこれ社会問題などをよく取り上げていますが私がそうして訴えていく中で社会や読者に何を一番求めているのかというとずばり、「社会を安定させることへの重要性」で、私は安定した社会において初めて人間は自身の幸福を追求、実現できるものだと考えております。
 ちょっと話が抽象的なのでいくつか例を出すと、たとえば戦争や紛争、法律の形骸化が起きてしまえば大抵の人間は人生設計を行うことが出来なくなります。戦争に至っては、学校で勉強して好きな職業につきたいと若者が願っても男性の場合は無理やり徴兵されたり、女性でもいろいろな面で生活で苦労を強いられることになり、このように社会が安定しなければ人間は自らが望む行為を一切実現出来なくなります。まぁぶっちゃけ、社会が安定していることに越した事はないと考えてください。

 では社会をどのように、またはより安定させるにはどうすれればいいかですが、政治や啓蒙活動をしっかり行うのはもとより個人単位でそれを最も大きく左右させるものはといったら私は「慣用性」、つまり自分とは違うものに対してどれだけ許容できるかという腹の太さが一番影響すると考えています。
 根拠は、と言われたら実は結構曖昧で、先ほどの歴史的事実の例くらいしかありません。ただ皆が皆して似たような人間ばかりで構成される社会に対して、いろんな人間がいろんな意見を持ち合い。共有するといった社会の方が傍目にも活力があるように思え、またそんな社会ほど幸せそうな気がします。

 ちょっと力の入った説明を行いましたが、要するに私は様々な意見、文化を持ついろんな種類の人間が相互に認め合って協調していける社会を理想としており、その理想の社会のことを「多様性のある社会」と称して日々周囲の人間へとその社会の有用性と実現方法の啓蒙活動を行っております。

 この「多様性のある社会」に何故先ほどの「慣用性」が関わってくるのかというと、たとえば日本人の感覚からしたら韓国人が食事中に肘を突くのを「無礼だ」とか思うかもしれませんが、韓国人、もしくは韓国の文化からするとそれはごく自然な行為です。こうした差異に対して、「相手は相手なんだし、自分は自分なんだ」と互いに軽く流し、食事中にそれぞれのマナーを認め合っていられることこそ多様性があると言え、相手に対して自分のマナーや文化を押し付けず、逆に許容する慣用性が必要となるからです。
 まぁさすがに、あからさまに周囲に対して実害を生みかねず、社会に対して害しか生まない「生贄」や「報復」といった文化、悪習までは許容する必要はないですが。

 私が何故こんな社会を目指すのかというと、一つには絶対多数の幸福の実現で、もう一つは私自身が周囲とははっきりとわかるくらいに毛色の違う人間ゆえにこれまで様々な面で差別されてきたと認識しており、自分が有利に生きれる社会に実社会を持っていくためと、自分のように変わっているだけで辛い思いをする人間をこれ以上出したくないとの願いから来ています。

 そんな私にとって、今回の記事の題となっている「多様性を壊す人間」というのは不倶戴天の最大の敵であります。
 この多様性を壊す人間というのは具体的にどのような人かというと、単純に言って些細な違いすらも認めず自らの流儀や価値観を他者に強制的に押し付けようとする人間です。たとえば特定の地方や学校の出身者であるだけでほかの人間と差別したり、特に実生活に影響を及ぼすことでもない意見の違いから徹底的に相手を批判したり実力行使を行う人間のことです。
 私の体験だと、高校生の頃の学級会で文化祭に何を出すのかと案を皆で募集していたので私が一つの意見を出すと、「お前なに言ってんだ!」と怒鳴られたことがあります。これなど、意見を決定する段階でもないにもかかわらず他者の考えを否定する典型的な例でしょう。

 細かい根拠までは言いませんが、このような人間こと固定した価値概念を持ち他者の意見や価値観を認めない人間が増えればまず間違いなく多様性は薄まり、非常につまらなくてまた安定性のない社会になると私は確信しています。そのため、相手の価値観や違いを出来るだけ認めろと言っておきながら我ながらやや矛盾したような意見となるのですが、私はこのような人間を可能な限り排除することこそ自分の使命だと考えています。

 ここでようやく前回の記事の話に戻ります。前回の記事で私はしつこく私に自らの入っている宗教に入信しろという元友人に絶交をしたと書きましたが、私は元友人と最後に会った段階で、「彼はきっと、彼の宗教に入信しないでいる私の存在を許容出来ないのだろう」と認識しました。言ってしまえば、彼は彼の信じるものを信じ、私は私で信じるものを信じ続けることが、お互いの付き合いになにも影響を与えるように思えませんし、この程度の相手の価値観を認め合うことはそれほど難しいことではないと思います。
 しかし元友人はそれが出来ませんでした。こんな瑣末な意見や価値観の違いすら認められず、あくまで自己の宗教を相手に押し付けようとする行為はまさに多様性を壊す存在でしかありませんし、会う度に自己の宗教の正当性を怒鳴られ続けて私ももはやこれ以上相容れることは出来ないと感じ、絶交するに至りました。

 私は別に宗教が何でもかんでも悪いというわけではありませんし、勧誘することも宗教の存在理由上からあってしかるべきだと思っています。
 今はどうだかわかりませんが、京都の東本願寺では門の前に大きな看板に、
「バラバラで一緒」
 という文字が長い間書かれており、私の理想はまさにこの通りです。極論を言えば、宗教家にとって何が重要なのかといったら相手の宗教をきちんと認める態度です。相手の宗教を認めた上で自分の宗教ではこんなだが、もしよければやってみないという具合で勧誘が出来ないのであれば、それは相手の価値観を根本から見下した態度ではないかと思います。元友人に私は、それを感じました。

2008年12月25日木曜日

失われた十年とは~その十四、フェミニズム~

 さていよいよ中盤の山場というか、書いてて敵ばかり作りそうなフェミニズムの項目です。結論から言うと、私は失われた十年に当たる90年代こそ日本で最もフェミニズムが強く、また暴走した時代だったと考えています。

 まずこのフェミニズムですが、スタート的にはやはり女性の権利獲得運動から始まりました。今でも活躍なされている田島陽子氏もこの時期からテレビに出るようになり、90年代初頭は男女同権運動の元で女性の権利、地位向上の名目でフェミニズムの正当性が強く叫ばれ、私自身も小学校時代にその辺を強く言い含められた記憶があります。
 誤解しないでほしい点として、私は当時の女性の権利運動は意義深かったと考えています。というのも確か90年ごろですがヨーロッパでテレビコマーシャルの品評会があり、どっかの国が作った明らかに日本人と思しき飛行機の乗客がスチュワーデスにセクハラをする映像のコマーシャルが大賞を取り、日本のどっかの団体がこれに抗議したところ他国から、「いや、実際によくあることじゃないか」と一蹴されたようです。この例のように、当時はよく文物でも描写が書かれていたようにセクハラが日常的に行われていたと私は考えています。そしてもしそうだとしたら、少なくとも私の目の前で現在セクハラが行われなくなっただけ当時の女性運動は実を結んだといっていいでしょう。

 またこれは私の高校時代の女性教師の話ですが、その先生は生徒時代に勉強もよく出来て本人としては京都大学に進学したかったものの、先生の両親が女性は勉強するべきではないという観念の元に結局御茶ノ水女子大に進学させられたという話をしたことがあり、当時と比べて現在では女性でも好きな職業に就けるのだからもっと女子生徒は挑戦をしてほしいという話をしたことがありました。実際に一昔前の女性は職業選択の面で大幅に制限を受けており、現在でも女性は一般的に男性と比べて就職に不利だとは言われておりますが、それでも当時に比べれば随分と前進をしたと言えるでしょう。

 それが何故、最初に私が表現したように暴走するようになったのでしょうか。
 一つは前回の言葉狩りの記事で書いたように、途中からわけのわからず観念的なものに対して言いがかりのような平等の押し付けが行われるようになったからです。この平等の押し付けですが、一番大きく問題となったのは表現上の問題で、作家の筒井康隆などは自身の小説が癲癇患者の差別に当たると言いがかりをつけられ一時断筆宣言を行っております。
 このように一部の障害者、被差別団体が中心になり文物に対して表現規制を訴えてきました。また出版社の側もこのような社会的批判を恐れ、自主規制の名の元で様々な表現に対して封印を行うという事例も数多く報告されています。

 ここでちょっと注意してもらいたいのは、先ほど一部の障害者、被差別団体と私は表現しましたが、私の見方だとこれらの団体の多くは真っ当に活動を行っていると思いますが、やはり中には自分たちが差別の被害者であることを錦の御旗のようにして不当な要求を行ってきた団体も少なくありません。一例を上げると数年前に発覚した奈良市の被差別団体に属していた市職員が不当な要求を何度もし側に対して行っていた事件があり、非常に悲しいものですがこういった事例は何も奈良市に限らず、全国あちこちで多かれ少なかれ行われているという話を私も聞きます。

 一見すると明らかに不当かつ横暴な要求が何故このように通ったりしたのか、一言で言えば前にも少し書きましたが当時の日本には被害者であれば何をしても許されるというある種ずれた観念が強く渦巻いていたことが原因でしょう。こうした空気が何故醸成されたかですが、厳しい意見、もとい安直な結論かもしれませんがやはり当時のマスコミが何でもかんでも弱者(とされるもの)を祭り上げて不当な要求であろうと被害者側をなんでもかんでも強く応援する姿勢があったことに尽きます。恐らく見ている視聴者の側も内心では、「こりゃこっちの方が悪いんとちゃう」とか思うような報道もあったと思いますが、マスメディアを持つマスコミがある程度情報を押さえつけていた時代であったのでそういった声はあまり出てこなかったのでしょう。

 最初に挙げた女性運動も、90年代の後半に至る頃には当時の私からしても首をかしげるようなおかしな要求を掲げる団体が現れるようになりました。いくつか挙げるとしたら、社会で女性は虐げられているのだから公共施設の使用料を女性には安くしろ無料にしろだとか、母子家庭は大変なのだから現状以上に自治体からの財政補助を増やせなどという要求が公になされているのを私は見ています。後者の要求に至っては、現在も母子家庭には補助がありますが父子家庭にはないという問題があり、明らかに的を外した意見だと考えています。

 何故フェミニズム運動がこのように暴走していったのか根本的な原因を言うとすれば、それはやはり被差別、不平等の是正すべきだという空気を一部の邪な団体が利用し始めたに尽きます。そして社会の側、といってもこれはマスコミとかそういった団体を応援していた左翼政党だけだったかもしれませんが、それらの要求が真に正当性があるのかを考えずに応援し続けたのが更に助長させていったのだと思います。いうなれば、「被害者は何をしても許される」という何度も私が使っているこの観念がこうした物を作ってしまい、自分が被害者を装うことで好き勝手するのフェミニズムが格好の化けの皮と認識されたがゆえに、本来の目的から外れた不当な要求を行う手段となってしまったのでしょう。

 さてここまで言えば察しのいい人ならわかるように、個人が直接情報を発信できるインターネットの登場によってこの流れはせき止められました。前述したようにやっぱり私のように見ていておかしいと思っていた人間は潜在的に多かったのか、今ではネット上で「フェミニズム」という言葉が出てくると中には激しい批判が集まるサイトも数多く、またこれに「左翼」という言葉がついたりすれば大抵は荒れに荒れます。そして実社会上でもフェミニズムへの関心は非常に薄れ、私が見ているところ元々のフェミニズム団体も名前を「ジェンダーフリー」に鞍替えしてこうした批判を避けようとしているように見えます。くれぐれもいいますが、真っ当な団体は真っ当な活動を至極真面目に行っていると私は考えています。

 また同様に、ってかこの辺は前にも書いた私の「ネット右翼」の論文で詳しく分析されているのですが、マスコミの側でもこうした動きに対応してこのような話題を近年はほとんど取り上げなくなった気がしますし、先ほどの奈良市の市職員の事件など、逆に公然と批判や取材をするところも増えてきています。結論としてはやはり、間違ったことをすればいずれ返ってくるといった所でしょうか。

2008年12月23日火曜日

企業内における少子高齢化

 以前に恩師と会った際、こんな話を聞きました。

「よく学部生とかは卒業論文で非常に悩むでしょ。そういう時には教授があれこれ指導をするよりも、ほんの一年や二年前に同じように悩んだ大学院生が指導してあげる方が体験も近いからずっといいんだよ」

 言われて見るとなるほど、確かに人から何かを教わる際には大先輩と呼ばれるような年齢の離れた人よりもまだ年齢の近い人間の方が教わりやすい気もしますし、逆に自分が教える際も、小学生に勉強を教えるのなら自分が中学生だった頃の方がうまく教えられたような気がします。
 実際に今月初めから後輩の卒業論文を私もあれこれ指導しましたが、やっぱり教えてて「自分もここで詰まったなぁ」とかいろいろ思い当たったり気づく点も多かったと思います。

 ここで話は変わりますが、現在の日本企業はどこも社員全体割合で年齢別ピラミッドを作ると、見事に三十台社員の層だけがぽっこりと穴が空くように薄くなります。これはなぜかというといわゆる就職氷河期の間にどの企業も採用を絞ったせいで、この氷河期時代に学校を卒業した世代の多くが企業社会に入ることが出来なかったせいです。 
 そして氷河期が去った現在ですが、再来年度の就職戦線は早くも不安視されていますがそれでもここ数年は売り手市場とまで言われるほど就職率が高まった年代でした。それにもかかわらず新卒就職者の五割は三年以内に辞職してしまうという、なんだか聞いててアンバランスな話がよく出てくるのですが、最初の話を聞いた時にもしかしたらこれが影響しているのではないかと素直に思いました。

 つまりどういうことかというと、現在どこの企業も三十歳前後の社員が不足しているため、いざ新人が入ってきたとしても新人ゆえの悩みを共有、相談できる直近の先輩社員がいないため、そのような悩みが解消されずに若者は辞職してしまうのではないかということです。しいて言うとしたら、これは企業組織レベルにおける少子高齢化問題といったところでしょうか。

 やはり何にましても年齢別人口バランスというのは整っていることに越したことはありません。こうした企業内における少子高齢化の問題を解消するにはやはり、企業体験こそもっていないものの三十歳前後の社員を企業は率先して雇っていくことだと思います。まぁなにも、こんだけ派遣切りが行われている今に言うことではないのですが。

ヴァンパイアハンターとヴァンパイアセイヴァーについて

 前に書いた「ゲームのヴァンパイアシリーズについて」の記事の中で書いたように格闘ゲームのヴァンパイアシリーズが全部入った「ヴァンパイア ダークストーカーズコレクション」を私は買ったのですが、この記事の中でも書いた様にこのシリーズで私は「ヴァンパイアハンター」をセガサターン版で昔に買って一番やりこんでいるのですが、何故だか当時はその後に出た次回作の「ヴァンパイアセイヴァー」にはあまり食指が伸びませんでした。何度かゲームセンターではやったものの、家庭用とかで買ってやろうとかそういう気持ちにはなりませんでした。
 そうしたら案の定、今やってみてその理由がわかりました。

 結論から言うと、「ハンター」と比べて「セイヴァー」は非常に面白くありませんでした。リリスとかバレッタとか魅力的な新キャラが入っていてなんで当時にハマらなかったんだろうとか思ってたのですが、改めてやってみるとやっぱり全体のゲームバランスが「ハンター」と比べてとてつもなく低下しており、なんというかとても同じゲーム会社が作ったとは思えない出来になっています。

 私自身は格闘ゲームについてそんな語れるほどやりこんでいるわけではないのですが、あくまで素人の側からの意見としてどうも「セイヴァー」は「ハンター」と比べてバランスが悪いように思えて仕方ありません。元々このシリーズ自体が各キャラのクセが強くて使い慣れるのに非常に手間取るゲームですが、まだ「ハンター」の時だったらどのキャラでも使い慣れればそこそこ戦っていけるようになったのですが、「セイヴァー」だとこのキャラごとのクセが前以上に強くなり、使えるキャラと使えないキャラの差が歴然としてきています。敢えて例えて言うなら、「セイヴァー」は初代ストⅡのザンギエフのようなキャラばっかで占められて、リュウとかガイルのような万能キャラがほとんどない格闘ゲームということです。

 その上、これはあくまで私の実感なのですが、どうもボタン操作の反応がハンターより鈍い気がします。パンチボタンを押しても即座にパンチを出さず、パンチを出すまでのモーションが遅くて隙が多く、見ていてスローモーションを再生しているような感じで、相手もそんな感じだから見ているこっちの反応からするとイライラします。まだ「ハンター」だったらこういうこともなかったのに。

 そんなわけで、今日ちょっとバレッタというキャラでプレイしていたら滅茶苦茶てこずり、しこたま不平不満を怒鳴ったせいでまだ声が枯れています。あとタンスの角を八つ当たりで思い切り殴ったせいで手首の辺りが裂けて、なんか刃物で切ったような血のにじんだ痕まで出来てしまい、自業自得ですが散々な一日になりました。大体、あのベレッタが使い辛いんだよ。

 でまぁ、最終的にどうしたかですが、ここが一番のミソなのですがどうも「セイヴァー」の対コンピューター戦で一番の攻略法は何かというと、ただ相手の動きに合わせて強キックを出すだけなのです。フェリシアというキャラを使った時なんてほんとにこの強キックだけで全部ストレート勝ちしちゃったし、下手にあれこれ動かすよりよっぽど確実に勝てます。

 なんていうか、2D格闘ゲームが衰退していったのがよくわかったような気がします。

男女が異性に求める理想像のすれ違い

 昨日、一昨日と久々にブログをサボっていました。理由は忘年会が続いて帰宅時間が遅くなり書く暇がなかったのですが、昨日はリンクを結ばせてもらっている「フランスの日々」のSophieさんとゆっくり話す機会があり、非常に有意義な一日を過ごしていました。

 さて本題に戻りますが、今もし仮にお金があるのなら私がやってみたい調査の一つに、「男女は異性に対してどんな理想像を持っているのか?」という調査テーマがあります。何故こんなものを調べたいのかというと、どうも私が見ている限り、男女間で異性にモテる同性像、または好みの異性像というイメージにすれ違いのような隔たりがあるように思えて仕方がないからです。

 この疑問を最初に持ったのは知り合いに勧められて斜め読みしてみた、確か「小悪魔な女の子になる方法」というそこそこ女性に売れた本からでした。この本によると「小悪魔な女の子になって、好きな男の子をめろめろにしちゃえ、キャハッ」ってな感じで小悪魔系ギャルとやらにになる指南が書かれているのですが、その中に書かれている一つの指南に、

「相手のまつげを触りながら話すと、相手の男の子は好感度アップ!」

 という記述があり、なんていうか一見してこんな女は相手にしたくないと私は思いました。普通にまつげなんて触られたら、目をえぐられそうで怖いだろ(;゚Д゚)

 とまぁこんな風に疑問を持って以降、やはり巷で聞いている、言われているいわゆる「モテるイメージ」というのは男女間、ひいては同性間でも大きな隔たりがあり、それが現在のような晩婚少子化を引き起こしているのではないかというわけです。たとえば男性の側に属しますが一般人とはかなりずれている私に言わせると、好みの女性のタイプはやはり地味、素朴、素直の三拍子が揃って浪費癖のない女性で、外見面では化粧の濃い女性など以っての外です。また性格面では素直で優しい性格に越したことはないのですが、いざマウンドに立つと内角をえぐるシュートをガンガン投げ込むような大胆な面もあればなおよいです。実際にシュートが投げれなくともいいから。

 更に言うと、やはり男性陣はネットの掲示板などを見ていると女性に対して純粋さを求める割合が強いと思います。私で言うと先ほどの素直さなどで、逆に言うと最初の小悪魔系は逆に嫌われるタイプのように思えて仕方ありません。にもかかわらず小悪魔系は一つのジャンルとして成立し、先ほどの本も古本屋に並ぶ程度には売れるというから不思議です。

 という具合の内容を昨日にSophieさんに話したら、こうした異性に求めるイメージのずれが起きる原因の一つとして、ファッション系商業界の影響があるのではと指摘がありました。言うまでもなく、化粧品会社は化粧品を使ってもらって売り上げ増やして何ぼです。では使ってもらうにはどうすればいいかといえば単純に、「化粧を多く使えば相手の男性は振り向く」と言うに決まっています。また服のファッションや先ほどの本でも、たとえ男性人の女性に求めるイメージの実態からかけ離れているものであっても、「こうすればモテる」と言って販売促進が行われることは大いに考えられます。もちろんこういった現象が起きるのは女性に限らず、男性の側でも十分に起きていることでしょう……といっても、やっぱり女性の方がこういうプロモーションが強いけどね。

 また、再び男性の側である私の意見を言わせてもらうと、一体どんな男性像を女性が求めているのか、どうも情報が錯綜しすぎてわからない気がします。どうも私が聞いていると、女性が男性に求める条件としてまず年収が一千万あるとか、スポーツをやっているとか、家事をするとかいろいろありますが、中には現実離れしたものもあり一体本当にこんなイメージ像を持っているのか、また何を一番重要視しているのかも判断しづらいです。

 こうした男女間で「モテるとされる同性像」と「求める異性像」に大きな隔たりがあり、言っちゃなんですが互いにちぐはぐなことをやり合って恋愛が生まれず、ひいては社会問題となっている少子化までもが起きているのだと思います。そのすれ違いを起こさせている主犯は先にも言ったとおり、わけのわからないものを流行らせようとするファッション業界の各企業で、こうしたイメージのずれを是正するためにも少子化を解消するためにも、「何をすれば異性にモテるのか」を測る調査というものをやってみたいものです。金のある研究所とかやらないかな。

2008年12月20日土曜日

派遣難民の住居対策について

 既に報道でも皆さんご覧の様に、先月から各企業で派遣社員や期間従業員の契約打ち切りにより、これまでのネットカフェ難民という言葉にかわり突然社員寮から追い出されて住居や生活を一挙に失うという、派遣難民の出現が大きな社会問題化しています。
 この問題の具体的な内容は報道されている通りなのでここでは深くは語りませんが、結論から先に言うと、この派遣難民への一部の自治体などの対策については私は激しい疑問を感じます。

 まず冷静になってきたのか一部でもぼつぼつ言われ始めてた意見で、報道にて突然雇用を契約を切られたために無一文で実家に帰るお金もない、といった内容を述べる方がよくインタビューなどで出てくるのですが、なにも働き初めて一ヶ月目にいきなり追い出されるというわけでもなかろうし、また住居も多少の自己負担はあろうとも社員寮に住まわせてもらっていたことを考えると、何故その人たちは貯金がないのかという疑問を私は感じずには得ません。

 私などは貧乏な頃は光熱費込みでひと月の生活費を二万円以内で生活していたことがあり、その頃にはパンの枚数やお米の分量を毎日計算してはあと何日もつかということを常に考えて生活していました。当時に下宿していたアパートの家賃代は三万円なので、実質当時のひと月あたりの出費は五万円ということで、仮に私のような生活をしている場合はひと月十万円の手取りがあれば毎月五万円は貯金できます。また生活費を二万円に抑えなくとも、五万円に増やした場合でもまだ二万は残ります。報道などで見ていると社員寮の自己負担分は少なくとも四万円を越えるケースは私はまだ確認していないので、少し残酷な言い方をしますが、突然雇用契約を打ち切られたことを考慮しても実家に帰るお金がなくて困っている人というのは自業自得ではないかと思い、あまり同情する気にはなりません。

 もっとも、中には帰るべき実家が既にないという方もいるかもしれません。そのような人の場合は貯金があったとしても住居がなくなることにより非常に困窮するということも理解できるので、個人的にも強く同情します。そういった意味で、あちこちの報道や急遽作られた派遣労働者たちの労働組合が主張している社員寮の立ち退き期間の延長は必要な措置であり適切な要求だと私は思います。
 しかし、私が確認している限りで大分県内の自治体が言い出したことによってなんかあちこちで実際にやろうかと検討され始めている、社員寮に派遣労働者を住まわせ続ける企業への助成金制度というのは本末転倒な話で、やろうとしている自治体には理解に苦しみます。

解雇後も寮貸与の企業に助成金 非正規労働者の住宅確保(asahi.com)

 確か大分県のある自治体がこの制度をいい始めたのですが、リンクに貼った記事のように厚生省もなんだかきちんと法整備してやろうと言い始めているを聞いて、私は激しく怒りを感じました。
 というのも、まず企業側は今回の急激な景気悪化を受けて生産量の減産と合わせて今回の急激な派遣切りを行っているので、今後それらの社員寮に代わりの新たな労働者が入ってくることは予想されません。言ってしまえば今の派遣労働者を追い出した後は空き室になることが確実な社員寮なのだから、そのまま住まわせ続けてもいくらかの管理費がかかるくらいで大きな出費になるわけでないということになり、業務上にもそれほど大きな支障にはならないでしょう。ちょっとこの社員寮がどのように運営されているか細かい所まではわからないのですが、借り上げ社宅のようなものであれば賃貸料が企業に負担されますが、それを推しても派遣労働者をこんだけ切ってコストカットするのとしないのとに比べれば随分安い出費ではないかと思います。

 そして次に、これまで企業は散々派遣労働者を使って経費を浮かし、挙句には去年まで「過去最高利益」と声高にあちこちで主張していました。それらの利益は売り上げが急激に伸びた結果というよりも、派遣労働者の犠牲の上で成り立った利益だったとこの点について私ははっきりと主張できます。
 そんな派遣労働者を苛め抜いた企業らに対して、社員寮を貸し続けるのなら自治体や政府は助成金を出してもいいものかと私は疑問を感じます。しかもその助成金額は厚生労働省はひと月六万円、大分の自治体が最初に出した金額は四万円と、これだけの金額、自前で社員寮を運営しているところでは確実に利益が余る大きい金額です。言ってしまえば、派遣労働者の住居を守らせる名目で企業にただで金をやることになりかねません。

 むしろ私はこれまで派遣労働者から搾取し続け過去最高利益などとほざいてきたのだから、行政命令などで派遣労働者の負担はゼロで、半年なり三ヶ月なり期限を区切って住まわせ続けろと命令すべきだと思いますし、派遣労働者の方たちもそう主張してもよいと思います。少なくとも先の助成金の制度というのは、家に押し入った泥棒が家人を追い出そうとするのをお金をあげるから追い出さないでと警察が泥棒に頼むような行為のようなもので、絶対にやってはいけない制度でしょう。

液晶カルテル、再びか?

 なんか自分でも書いてていい加減しつこい気もするのですが、こういった事例というのは社会的影響に比べてあまり報道されない傾向にあり、また以前の情報とのパッケージも必要なので書くことにします。

任天堂DS液晶でカルテル、シャープに課徴金(YOMIURI ONLINE)

 本当は昨日に書くべきだったのですがリンクに貼った記事の内容は読んでもらえばわかる通り、任天堂のゲーム機のニンテンドーDSに使う液晶部品を任天堂から値下げ要求を受けたことに対し、シャープと日立ディスプレイズが談合を以って100円以上値下げを行わないと約束しあったことを受け、この度公正取引委員会がカルテル行為があったと断定して独禁法のもとシャープに対して追徴金を課すことを決定したことを報じるニュースです。なお日立ディスプレイズは自主的にこの談合事実を申告したため追徴課税を免れることになり、残ったシャープが貧乏くじを引いてしまった構図となります。

 液晶価格のカルテルについては私も以前に書いた「カルテル連続摘発の報道について」で、今年十一月にも米司法省が国際カルテルが行われたとして関係各社に追徴課税を行っており、その際には今回槍玉に上がったシャープも事実関係を認めています。にしても、リンクに貼ったニュース記事はもう削除されてますね。改めてこのニュースを他で調べてみると、

液晶パネルで国際カルテル シャープに罰金115億円(フジサンケイビジネスⅰ)

 ではまだ記事が残っており、なおかつすでにこの時期から今回報道されたニンテンドーDSの問題でもシャープに疑いがもたれていることが書かれてあります。詳しい捜査情報など見ていないのであれこれ言うのは野暮ですが、私個人としては前回の国際カルテルではシャープ側は事実を認めて追徴金を支払っているのに、今回のDSの問題では「独禁法違反はなかったと思っている」と言うのにはちょっと違和感を覚えます。

 こっちの液晶のカルテルもさることながら、こちらも以前に私が記事にしていた鋼板カルテルでも先週に動きがありました。

・鋼板カルテル、3社の計6人を追加告発 独禁法違反容疑(asahi.com)

 実はぶっちゃけ、あんまりこういったことをいつまでもしつこく書くのもなんなので、こっちの報道は朝日新聞紙上で先週に確認していながらも今回はいいやと記事にはするつもりはありませんでした。しかし液晶の方でも動きがあったので、乗りかかった船ということもありまとめて書くことにしました。

 さてこちらの鋼板カルテルも過去の私の記事を読んでもらえばわかるように、公正取引委員会の強制捜査が先月に行われ今回晴れて起訴となったということです。こんだけといえばこんだけで、今後の捜査の詳しい報道を待たねばあれこれまだ書くことが出来ないのですが、既に前回の記事でも書いているように先月を皮切りにカルテルの摘発ラッシュが未だに続いています。そしてこれら摘発、捜査されたカルテル事件のほぼすべてに共通することとして、リーニエンシー、通称課徴金減免制度が適用される企業の存在があります。

 このリーニエンシーという制度は要するに、カルテルをやっていたと最初にチクった、もとい自己申告を行った企業に対しては違反行為に対する追徴金を減額、免除されるという制度です。この制度の狙いはカルテル事件の全容を明らかにするために初期の段階で捜査に協力する企業を捜査機関が確保し、また協力する企業にもその代わりに恩恵を与えて申告を行いやすくさせようという目的で確か数年前から始まった制度です。
 現段階でこれだけカルテル事件の摘発が増えているのは、この制度の運用が効果を示してきたと見てもいいかもしれません。元々この制度は欧米にて目覚しい効果を出したことにより輸入する形で日本でも実施されるようになったのですが、まぁやらないよりはずっといい制度だとは思います。でもこういう談合を摘発するくらいなら、社保庁を初めとした官製談合をまずどうにかした方がいいのですが。

2008年12月19日金曜日

オタク層を相手にする危険性

 以前に書いた「アンバランスな日本の消費構造について」で、私はニートやフリーター層が現在の日本で大きな消費層となっていると主張しましたが、コメントにてそれは大げさではないかという指摘を受け、改めて読み返した今になるとやや表現が悪かったなと私も思いました。具体的にどういう表現が悪かったかというと、「ニートやフリーター層」と書いたところを本来なら「オタク層」とすべきでした。

「萌え米」高齢化の町救う、ひと月で2年分販売 秋田(asahi. com)

 上に貼ったニュースは米袋のイラストを萌え系にしたところびっくりするくらいバカ売れし始めたということを報じているニュースですが、本当にこんな事で急激に売れるなんてバカ売れ以外の何物でもないでしょう。もちろん売れた背景には商品自体の品質が元から高かったということもあり、イラストは一つのきっかけに過ぎなかったと毎月あきたこまち5キロを買い続けて食べていた私が保証しますが、この事例のようにニートやフリーター層改め、オタク層の消費力というものには並々ならぬ爆発力を秘めており、近年の日本の消費形態や経済にも断片的ですが影響力を確実に持っていると私は考えています。

 近年、これらオタク層の爆発的な消費力が原動力となってヒットした商品は数多くありここではいちいち挙げませんが、私はこうしたオタク層の消費力を評価する一方でその危険性にも警戒を払っております。その危険性というのもずばり、オタク層の「飽きる早さ」です。

「メイド喫茶」ブーム終わった 経営悪化で生き残りの道探る(J-CASTニュース)

 こっちのニュースでは、去年あれだけ流行ったメイド喫茶が今年に入り一転して閉店が続出しているというニュースを報じています。元来、オタク層を相手にした商売というのは流行する勢いはすごいもののそのブームが去るのも非常に早く、中長期的に見るならそのどれもが破綻する傾向にあります。何故このようにブームが去るのが早いかですが、これは私の私見ですがいわゆるオタク層(本来、こういう抽象的な表現はするべきではないのですが)には天邪鬼的な行動がよく目立ち、自らの志向に合ったマイナーなものに対して仲間内だけで猛烈な消費を行うものの、それらが報道などで取り上げられ一般化すると、

「前の方が良かったのに……」

 という捨てセリフを残し、途端に消費をやめるどころか、「マスコミが報道しやがったせいで、俺が好きだったあれは駄目になってしまった」と言わんばかりに逆に批判をする例もいくつか、ってかほとんどの例で見受けられます。これは一例を上げると、数年前にブームになった「電車男」が売れてくると、「あれは自作自演の話だ」という批判が一部から上がってきています。
 この辺の動きについては去年に私は本格的に研究して論文も挙げているので、機会があればこのブログで紹介してもいいかもしれませんがどちらにしろ、オタク層を相手に商売をしても大抵は一時のブームに終わってしまうという危うさがあるのは確信を持って私は主張できます。

 森永卓郎氏は、こうしたオタク層を相手にした新たなカルチャーやビジネスモデルを作るべきだと主張していますが、私に言わせればこういうものはこの前流行った「朝バナナダイエット」と一緒で、一瞬の盛り上がりを求めたために自滅する道だと思います。真にその商売でやっていこうというのなら、一日に十個買うけど一年で飽きるような客を必死で相手にするより、一日に一個しか買わないけどずっと買い続けてくれる固定顧客層をしっかりと長い時間をかけて作らないと意味がありません。

 これは政治の世界でも言えます。小泉元首相を語る上で外せないと私が思っているものの、巷にはあまり流布していない言葉で「不動の四割」というものがあります。これは小泉内閣が政権在任中に一度も支持率が四割を切らなかった驚異的な事例を言い表した言葉で、こうした安定的な支持率があったことについてある評論家は、この最後まで支持し続けた四割の支持層の大体は終始一貫として小泉内閣を支持し続けた層で、そうした固定した支持層を小泉内閣は大事に首尾一貫として敵に回さなかったことこそが長期政権を保った要因と分析しています。

 この不動の四割層がどのような支持層かまではここで解説はしませんが、現在の麻生政権が当初、先ほどのオタク層を支持層として取り込もうとテレビなどでも声高にアピールしたことについて当時から私は致命的な失敗だったと見ています。理由は言わずもがなで、こうした層は一時は熱狂的に支持するものの、大抵数ヶ月もすればすぐに飽きるばかりか逆に強い批判層へと変貌を遂げる可能性が高いからです。皮肉な言い方をしますが、一票は同じ一票でも、何回まで投じてくれるかは相手によります。

 最後にオタク層の爆発的な消費力とその飽きっぽさについて、これは今連載中の「失われた十年」にも被りますが、傾向的にはどうもルーズソックスなどで一世を風靡した当時の女子高生ブームに似たものを感じます。

2008年12月18日木曜日

次の選挙後に想定される政局

 選挙選挙と言われながらも、とうとう今年も年を明けそうです。福田前首相は起死回生の策として自分が辞任することによって新たに自民党代表選を行い、その熱が冷めないうちに選挙に持ち込み選挙を制すという手段を取ったのですが、そうして登場した現麻生内閣は当初でこそすぐに解散総選挙に持ち込むと言いながらもずるずると状況を引っ張って支持率も激減し、かえって福田内閣末期異常に事態が悪化しております。

 ここで一つの疑問ですが、何故麻生首相は選挙を先延ばしにしたのでしょうか。この件については様々な評論家がそれぞれの意見を述べ合っていますが、まず共通した意見として発足した当初は確かにすぐ解散を行う意思があったようで、わざわざ文芸春秋上でも「即、選挙だ」と麻生首相も自ら述べていたので私もこれを支持します。
 では何故、それが心変わりしたのでしょうか。一部の人などは「まさに君子豹変す」と評しましたがこれについてはいくつか意見があり、まず麻生首相が自分で言っているようにリーマンショックを受けて急激な不景気が到来したためという意見や、自民党選挙対策本部の調査で当時に選挙に出てもあまり勝算が見えなかったからだとかいろいろあります。

 こうした意見の中で私が最も支持するのは、確かこれは赤坂太郎氏の意見ですが、選挙前に何かしら一つ成果の見える政策を実行して支持を集めた上で解散に打って出ようとしたところ、政策を打ち出す傍から空振りが続き、また打ち出した政策に民主党が反対姿勢を見せたところで「民主党は政策より政局を優先する」
という論拠も得ようとしていたたところ、思っていた以上に民主党が政策議論に協力的だったためにこちらも空振り、そうこうしている内に中山元国交相の失言から麻生首相自身の失言が重なり選挙に打って出ようにももはや立ち直れないくらいの事態に陥ってしまったというのが真実でしょう。

 そういう意味で、今年後半の民主党の対応は見事だったと言わざるを得ません。前述した通りに麻生政権発足当初は非常に議会での議論に協力的で、その甲斐あって異様な速さで経済対策としてまだ有効であった一次補正予算案も通過しました。更にその後も「解散を約束していたからこそ議論に協力したのに、解散がないのではもはや協力できない」として給付金問題で混乱しはじめた時期から今度は一部で審議拒否を行うようになりましたが、これについても世論からあまり批判が起こらず、むしろわけのわからない政策を出しては引っ込め、給付金の配布に必要な二次補正案もなかなか出さすにいた麻生首相の迷走振りから逆に自民党へと批判が増えていきました。これまで民主党が審議拒否をすると民主党が叩かれていたのを考えるとこれはかなり異例な事態で、裏返すとそれだけ麻生内閣の管理が悪かったという意味ですが。

 更に先月、当日になって急遽小沢民主党代表の要請によって行われた党首会談もまた絶妙(中国では絶妙のことをたまにクイズ形式で「黄絹少女」と言う)でした。この党首会談にて小沢代表は二次補正予算案を本当に出すのか出さないのかを問いただし、それに対して麻生首相は話をはぐらかして明言を避け、結果的に麻生内閣が政権の存続理由としていた不景気に対して緊急対策を行うという(恐らく、適当に言っていただけだろうが)土台を根本から揺るがし、これ以降自民党内でも急激に麻生内閣を批判する声が増えていきました。

 私はこれまで同世代の中では誰よりも口汚く民主党を罵って来た人間だと自負していますが、さすがにこれほどまでの迷走振りを見せられると民主党に肩入れせざるを得ません。またこれまで民主党は批判だけで独自の政策を持っていないと言われてきていましたが、官僚キラーの長妻昭氏を筆頭に実行力はまだ未知数ですがそこそこ見栄えもよく理屈も通った政策案を去年から今年にかけて多く提唱するようになり、三宅久之氏が指摘したように現在ではかつてとは逆に自民党が民主党の政策のいいとこを自分の政策にしてしまうというクリンチ作戦を取るようになってきており、民主党には独自の政策がないという批判はもう当てはまらないと考えています。

 という具合の現段階の政局ですが、この状態が今後続くかどうかはわからないまでにしろ次に解散選挙が行われるとどうなるか、予想される事態を議席をベンチマークにしていくつか予想を書いて見ます。


  想定1、自民党が大勝し、三分の二議席を維持する
 まぁ現段階ではありえない想定ですが、もしこうなった場合は現麻生政権がそのまま続くことになり、相変わらず参議院では野党の議席が上回ったままでねじれ国会は続きますが少なくとも世論の支持を得ることによって自民党がイニシアチブを握り、現状よりはずっとマシに国会運営が行えるようになるでしょう。

  想定2、自民党が大敗し、民主党が単独過半数議席を得る
 こうなってしまえば完全に政権交代で、文字通り民主党の天下になります。ただこの場合、参議院で民主党は単独過半数を得ていないので他の野党と連立を組む可能性があります。その場合、前回選挙時にもいろいろ取り沙汰されていましたが国民新党や社民党が少ない議席ながらも大きな影響力を持つことが予想され、自民党内でも造反者が出て民主党に合流するということも大いに考えられます。なお共産党は現段階ではっきりと連立は組まないと主張しているので、この連立に入ってくる可能性は非常に低いでしょう。

  想定3、自民党が単独過半数議席を確保するも、三分の二議席を失う
 はっきり言いますがこれが最悪のケースです。現在の自民党が十議席を失うことでこの三分の二を割ることになるので最悪ながらもなかなか可能性の高いケースなのですが、こうなると自民党が法律案を出しても参議院で民主党が反対することによって簡単に否決されるのはこれまで通りですが、否決された場合にこれまでは衆議院での三分の二の大多数可決によってどんどんと通していったのですが、このケースになるとこの三分の二可決が使えなくなるのでねじれ国会の弊害がますます進み、ただでさえ滞りがちな国会がさらに滞るので日本にとって悪影響が強まる可能性が非常に高いでしょう。

  想定4、自民、民主共に単独過半数に届かない

 こちらもなかなか可能性の高いケースですが、これだと自民党、民主党のどちらが内閣を作ったところでまともな国会運営も出来ず、一見すると「想定3」以上に深刻な事態に陥るように見えますが、恐らくこうなった場合は民主党を中心にして非自民連立政権が作られるか、自民党内で造反者や新党が結成されて政界再編が一挙に起こる、というより再編が起こるのにおあつらえ向きな状況だといえます。恐らく現在の衆議院議員の多くはこの状況を想定しており、その際にどうするか、誰やどこにつけば上手く乗り切れるかを必死で分析している最中でしょう。
 私としても閉塞した今の状況を打開し、官僚の問題などを解決するにはこの政界再編が必要だと感じており、多少リスクはあれどもこのような事態になるのを最も望んでいます。

 
 と、いくつか今後起こりうる事態を四つにまとめて挙げましたが、やはり現時点で私は自民党が今のような状態で勝つことは考えづらく、政界再編を含めて次の選挙で大きく山が動くと考えています。だが敢えて自民党が次の選挙で勝つにはどうすればいいかと問われるならば、いろいろ取り沙汰され始めてきた現民主党国対委員長の山岡賢次氏とマルチ商法会社との癒着問題を今はじっと黙って見過ごし、選挙直前に証拠やら糾弾を強く行って取り上げる方法を選びます。前の記事で私も書きましたが、この問題は現在の民主党にとって最大のアキレス腱です。逆を言えば今の段階でこの山岡氏を前に切られた前田氏の様に切れば、民主党は完全に死角をなくし、次の選挙での勝利を確信してもよいと思っています。まぁ、出来ないと思いますが。

2008年12月17日水曜日

労働の意義

 以前にローマ史作家の塩野七生氏が大分以前に書いた話ですが、王室に対して強い忠誠心を持っているあるイギリス人男性が選挙のたびに毎回労働党に投票していると聞いて、王室に忠誠心があるのなら何故保守党に投票しないのかと尋ねたところ、こんな答えが返ってきたそうです。

「人間は労働を通して初めて人としての尊厳を得られる。だから私は雇用や労働を第一に考える労働党に投票するのであって、この点に王室は関係ない」

 言われてみると確かに、人間は労働をして初めて尊厳というか、自分に対して誇りを得られるような気がします。敢えて自分流に解釈すると、労働をして社会に対して何らかの働きかけを行うことで人間は自分は社会の一員であり、また社会を担う存在だと自覚できるようになるように思えます。逆を言えば、もし労働を行わなければ自分に対して自信が持てないばかりか、社会に対して疎外感を強く覚えるのではないかとも思います。そうした意味で人間にはただ安楽にパンだけを与えても意味がなく、生活が保障された上で労働こそが最も必要なもので、雇用というものを広くわけ隔てなく国民に与えるということは政府にとって非常に重要な仕事だということになります。

 今日は非常に文章のノリが悪く、これ以上書く自信がありません。はっきり言ってこの段階だけでもこのブログ始まって以来の最低最悪のクソくだらない駄文でこのままモニターごと叩き潰してやりたいのが本音ですが、将来の自分への戒めとして敢えてこのままアップすることにしました。お見苦しいものをお見せして、誠に申し訳ありません。

2008年12月16日火曜日

アンバランスな日本の消費構造

 前回に書いたレイオフの記事にて、仮にこの制度が使われたとしても仕事もせずに一家の主が家でぶらぶらしていると日本では後ろ指が差されてしまうのではというコメントを受けましたが、まさにその指摘の通りなのです。
 詳しくは元の記事を読んでもらいたいのですが、私としてはこの制度をきちんと運用しさえすれば労働者側にも雇用側にもプラスに働く要素があると思うのですが、実施する以前に日本の社会事情からやりづらいということもあり、実現することは現段階では私も不可能だと思っています。

 ですがそれでも私はこのレイオフ制度が実現するとしたら、日本全体に利益をもたらすと信じています。この制度のどこに私が一番期待しているかですが、

1、将来復職する見込み(可能性)がある
2、そこそこ貯金がある
3、今までゆとりがもてなかった

 この三つの条件を兼ね備えた消費者が生まれることです。この前も友人と議論しましたが、日本は働いてお金を得るようになっても、仕事が忙しくてそれを使う時間もなければ気力もないので消費をテレビCMなどでいくらかき立てようとしても実際の消費行動に結びつかない現状があります。
 これは何も私が言うまでもなくバブル期以前にアメリカから何度も内需拡大を行えと言われていた時代から続いていることで、日本一国の経済で見ると生産力が限りなく無限に近い一方、それを経済として循環するのに必要な消費力は逆に非常に低いままです。

 先ほどのレイオフがもし仮に理想的に実行されることにより、将来復職できるというある程度の見込みがあれば溜め込んだお金も無駄に貯金として貯めておかず、むしろ充電期間として消費行動に移る可能性があります。実際にうちの親父などは今年は正月休みが長いから、温泉に行きたいと今駄々をこねています。年末年始くらいおとなしくしてりゃいいのに。

 さてこんな内容なら以前にも何度か書いているのであまり珍しくないのですが、ここで一つある質問を投げかけてみます。先ほどにも言った通りに日本では給料がもらえる勤労者は忙しく、もらった給料が消費にはなかなか回らずにいるという現状ですが、では一体どんな人が主な消費を行っているのでしょうか。
 これは恐らくみんなもうすうす感づいてはいるでしょうが誰もが口を閉ざしたままの話で、私が知る限り唯一はっきりと言明したのは「カーニヴァル化する社会」の作者の鈴木謙介氏くらいですが、要するにニートやフリーターといった方たちが今の日本の消費を支えているのです。

 こんなことを言うと、ニートやフリーターの人は持っているお金がほとんどないから日本の消費に貢献しているはずないと言われるかもしれませんが、全体で見るならともかく、私は今の日本のIT産業を初めとした新興産業においてはもはやこの手の層なしでは成り立たないくらい、これらの層に消費を依存しているのではと考えています。
 この傾向が顕著なのはいわゆるアニメやマンガといったコンテンツ産業で、私などは元々けちな性格で前から全然お金を使わないのですが、このニートやフリーター層のコンテンツ産業への消費意欲は傍目から見て恐ろしいものがあり、それこそ「借金してでも買う」と言わんばかりに消費が行われます。

 こうした現状に対して鈴木謙介氏は、現代のニートやフリーター層の若者は現存する社会からは単なるお客様でいることが求められ、彼らもその求めに応じて消費者として食い物にされ続けているというような主張を先ほどの本の中でしており、私の見方もその通りです。これがどのように問題なのかというと、本来消費というのは現金を持っている層が行うものなのですが、ニートやフリーター層は職業的にも不安定で、お世辞にもあまり現金収入の少ない層です。本来使うべき層が消費せずに使うべきでない層が消費し続ける、これをアンバランスと言わずしてなんというかで、こうした現状がもしこのまま続くとしたら後々に大きな問題になると私は考えています。

 どのような問題が起きるのかというと、一つはニートやフリーター層を支える両親などの庇護者が年と共にいなくなっていくと、ただでさえ低い日本の消費力がまた更に減少します。そして彼らの生活を支えるために消費をしないがお金を稼ぐ層から税金が取られ、またニートやフリーター層にばら撒かれるという、なんだか書いててよくわからない事態だって起こるかもしれません。

 ちょっと自分でも考えがまとまっていないので脈絡のない文章になりましたが、要約するとこうなります。

・今の日本の消費を支えているのはニートやフリーター層だ
・なので彼らがいなくなると、真面目に働いている人がいる会社も共倒れになる可能性もある。
・お金を稼ぐ層がもっと消費しやすいよう、もうすこし労働環境を改善するべきだ
 
 というのが私の主張です。特に三番目を実現するには先ほどのレイオフ制度が公にも認められるような、日本全体で「働かない人間は無価値だ」という価値観を少し緩める必要があります。書いててなんだか壮大だな。

2008年12月15日月曜日

「まず隗より始めよ」について

 今日の朝日新聞夕刊のコラム、「素粒子」にてこんな記述がありました。

「私は隗になりたい」
派遣切り避けたいと賞与返上一番に申し出た役員の物語。隗より始めよ、今時皆無の涙の感動作。

 恐らくこのコラムは昨日のトヨタの役員賞与返上発表を受けてのものでしょうが、なんていうか新聞紙がやるとトヨタへの広告費ヨイショのように見えてしまいます。

 それはともかく、ここで使われている「まず隗より始めよ」というのは私も好きな言葉です。これも中国の史記から出てきた言葉で、時は戦国時代の燕の国のエピソードで出てきます。
 当時の燕は隣国の斉に騙されて一時国を占領されてしまったのですが、苦労の末に皇太子が即位して新たな燕王となり、なんとか斉に復讐してやろうと賢者の郭隗にどうすればいいのかとたずねたところ、
「それならまず隗より、つまり私より始めればよいのです」
 と答えました。
 それはどういう意味かと燕王が尋ねると郭隗は、自分のような人材に対しても燕王がもし厚遇してくれれば、世の数多の人材は燕王を優秀な人間を大事にしてくれると思って自然と集まってくることでしょうと郭隗は続けました。

 その郭隗の話を聞いてその通りだと考えた燕王はその日から、郭隗のために屋敷を立てた上に師の様にあがめて礼を尽くしたそうです。するとその評判を聞いた優秀な人材は果たして次々と燕にやってきて、見る見るうちに燕の国力は増加していったそうです。
 なおその際に集まった人材の中でも最大級とも呼べるのが、あの諸葛亮孔明すらも菅仲と並んで人生の手本とした楽毅でした。楽毅はその後燕王の期待に答え、実に六カ国連合軍を見事にまとめ上げて燕王の悲願であった斉を完璧なまで打ち倒しました。

 ただなんというか、この楽毅も史記の人物なだけに最後は生前に失脚してしまいます。その際のエピソードがまた面白いので、この辺をまた今度に解説します。

ゲームの「ヴァンパイアシリーズ」について

 前友人と会った時に、
「あれほしいんだけど、なかなか決心がつかないんだよなぁ」
 といったその翌日に、とうとう買ってしまいました。

ヴァンパイア ダークストーカーズコレクション(カプコン)

 これはPS2のゲームで、これまでに発売されたヴァンパイアシリーズという対戦格闘ゲームのシリーズを一本にまとめておまけをつけた愛蔵版ですが、この中に入っている「ヴァンパイアハンター」は恐らく私が最も時間をかけてプレイした対戦格闘ゲームです。
 改めてやってみると、ブランクがあるから相当下手になっているかと思ったらそうでもなく、そこそこ戦えました。これですっかり自信をつけて、じゃあ最初の「ヴァンパイア」からローラー作戦でクリアしてこうと思ったら、なぜか「ハンター」と「セイバー」では余裕だったのに、最初の「ヴァンパイア」では全然勝てませんでした。

 やっぱりやってみて、最初の「ヴァンパイア」ではゲーム速度も遅いだけではなく、一撃のダメージが滅茶苦茶大きいです。でもってゲームバランスもまだ出始めた頃というのもあり、相性が悪いキャラだと延々と同じことの繰り返しで負け続けます。そう考えてみると、後半になるにしたがって初心者でも上級者とそこそこ渡り合えるシステムに変えていったのだと思いました。

 まぁなんにしても懐かしいゲームで、しばらくはこれとパワプロで時間が潰せそうです。

2008年12月14日日曜日

失われた十年とは~その十三、言葉狩り~

 まず最初に、私のある体験からお話します。
 これは私が小学校一、二年生の頃の話ですが、ある日先生が、「馬鹿を馬鹿といってはいけません」と言い出しました。なんかこう文章にすると一休さんのとんち話のようにも見えますが、当時の私はというとこれを結構真に受けたりし、友達同士で悪口の言い合いになると、
「馬鹿って言う人が馬鹿なんですぅ」
「馬鹿を馬鹿と言っちゃいけないんだぞ」
 などとお互いに言い合ったりしてました。

 これはちょっと解説をすると、当時に流行った言葉狩りの一端だったと今では思います。
 当時、馬鹿という言葉が知能障害者への差別に当たるとして、当時の文部省だかが通達を出したのか、ほぼ全国的にこのようなわけのわからない、まるで言葉遊びのような妙な教育というか言葉狩りが行われていました。なおうちの親父の世代だと、親父が関西地方出身だからかもしれませんが「四つ」というのがタブーワードとして使うなと言われていたそうです。

 さてこうした言葉狩りが使われた背景には、この失われた十年におけるフェミニズムの勃興があると私は考えています。ふと気がついてみるとこのフェミニズムという言葉自体、現代ではあまり聞かなくなった(どうも「左翼」という言葉に含められている気がする)のですが、失われた十年にはこのフェミニズムを冠する、掲げる集団が非常に大きな力を持っていました。

 このフェミニズムが私の記憶する限り初めて社会に大きな影響を与えた言葉狩り事件というと、「ちび黒サンボ事件」だと思います。この事件は少年サンボが知恵を使ってトラを退治する「ちび黒サンボ」という童話に対しある団体が、「ちび黒」という表現は黒人への侮蔑に当たると批判し、なんとその批判を受けて1988年にはこの本自体が絶版してしまった事件です。
 そもそもこの童話はインドの話で、少年サンボをアフリカ系黒人と勘違いしている時点からかなり駄目駄目な問題なのですが、当時はこのように何かの表現が誰かへの侮蔑に当たると言われると複数の団体がものすごい批判が集まり、批判を受ける側としても要求を飲むケースが非常に多く、この「ちび黒サンボ」も「ちび黒さんぽ」という、サンボのかわりにさんぽという犬(しかも色は白)の話に取り替えられ再出版するという、まるでギャグのような結末になってしまいました。どうせなら「ちび黒コマンドサンボ」にすりゃいいのに。

 こうした例を筆頭に、この時期に数多くの日本語表現がまるで魔女狩りのように槍玉に挙げられては無理やり変えられていきました。特にこのフェミニズムと言うだけあって、女性が関係する言葉は片っ端から変更が加えられ、代表的なものだと「スチュワーデス」が「キャビンアテンダント」、「看護婦」が「看護士」といったように変更され、その他数多くの言葉も現在までに定着こそしなかったものの、代替語が一時は用意されていきました。

 最も、最近だとこういうような「侮蔑に当たる」として表現差し止めを要求する行為が行われればネット上で激しい逆批判が起こり、またメディア側もこの時期みたいにそういった要求を行う団体に肩入れした報道を行わなくなったので、現在だとめっきりこのような事件は目にしなくなりました。
 私が記憶する中でも2005年末に、当時人気絶頂だったレイザーラモンHGをもじり、テレビ番組の企画で「黒ひげ、危機一髪」ならぬ「黒ひゲイ、危機一髪」という名前の玩具をおもちゃメーカーが発売したところ、
「同性愛者をナイフで刺して遊ぶ、差別感情を増長させる玩具だ」
 として、ある人権団体が抗議したのを最後に確認して以来は全く見なくなりました。それにしても、同性愛者の偏見といったらレイザーラモンHGの存在の方がよっぽど妙な誤解を生むような気がするのですが。

 では一体何故このようにフェミニズムが失われた十年に台頭したかですが、これは完全に私の推論ですが、高度経済成長を終えて男女差別論が欧米から輸入されてきたのを受けての現象だったと見ています。そのため必然的にこの言葉狩りは女性論とも密接に結びつき、本流のジェンダー論ともいろいろない交ぜになってわけのわからない事態を生んでしまったのだと思います。
 この辺は次回の、フェミニズムについての解説にて詳しく行います。

失われた十年とは コラム一、中内功

 昨日友人と会ったら、ダイエー創業者の中内功氏と満州帝国について今調べていると言っていたので、ちょうどこの失われた十年の草稿でコラムを書いていたので、大分連載がのびのびになっているのあるのでここで一気に放出します。
 このコラム自体は二年前に執筆したもので、他の草稿については参考にすることはあっても、草稿の文体が常体であるため書き直しであるのだが、敢えてこのコラムについてはそのままカット&ペーストにして紹介してみようと思います。一部見苦しい表現がありますが、気にせずに読んでください。


 今となっては産業再生機構からイオンに売却される(提携と言ってあげるべきか)ダイエーだが、かつては小売業界一の売上を誇り、かつて日本の小売形態をすべてひっくり返した企業であった。その先導役となったのが、創業者の中内功である。

 彼の企業形態の基本は安売りである。ほかよりも安く、ほかよりも多くという薄利多売方式でこれが高度経済成長時代にはぴったりと当てはまった。また土地本位制ともいう、駅前に店舗を構え、周辺地域の開発が進む事によって跳ね上がる地価を担保に金を借り、また新たな店舗を拡大するという形態で、このやり方によって全国制覇も成し遂げた。しかしこれはほとんどの解説でも触れられているが、消費者の嗜好が量より質へと変化していく事に対応できず、いわゆる「ダイエーには何でもあるが、欲しいものはない」という言葉にまとめられる客層へのニーズ対応の鈍さが最終的に彼の命取りになった。また土地本位制においても、恒久的に地価が上がるなどとというありえない前提の上で行わってきたため、何度も本解説において出てくる不良債権となるのは目に見えていた。

 こうした経緯もあり、中内功は80年頃に一時経営を引き下がる事になった。彼が引いた後、かわりに社長になった平山敞によってダイエーは見事なV字回復を遂げ、「失われた十年」の直前のバブル期においてもダイエーは小売業界の王様であった。当時の私は幼稚園くらいだったが、私もこの時期に買い物とくれば親に近くのダイエーによく連れて来られ、それこそ土曜日ともなると家族全員でダイエーに行き、コージーコーナーでアイスを食べ、私と姉がおもちゃ売り場をうろちょろしている間に両親は買い物というパターンまで出来上がってたくらいである。

 ここで終わっていれば中内功もそれなりの評価で終わったかもしれない。しかし残念というべきか、彼は自分の息子に社長を継がせようと考え、その後再び自ら社長に就任。そして前社長の取り巻きを追い払い、自らの周りをイエスマンで固めてしまった。その結果、「失われた十年」の間にダイエーは再び失墜する事になる。またこれは後述するが、95年には阪神大震災も起こり、関西拠点のダイエーは大きな痛手を受ける事になった。
 こうして2001年、中内功は全面的にダイエーから退任する事となった。しかしウィキペディアの項目上でも「時既に遅し」と書かれているように、傾いたダイエーは再び栄光を取り戻すことなく、後に国家機関の産業再生機構の管理課に入ることになる。余談だが、この産業再生機構自体がダイエーの借金を抱えると国家財政が傾くという危機感から2003年に生まれた機関であり、ある意味本願成就した形となった。

 なおこの産業再生機構入りする際も一悶着あり、再生機構はホークス球団の売却を迫ったのだが、当時もオーナーは続けていた中内功は球団保持を最後の最後まで拘泥し、当時はそれほど野球に興味が少なかった私ですらこれには幻滅した。結局、ソフトバンクが買収する事になったのだが、こうしたこだわりが晩節を汚したとしかいいようがない。
 そうした球団の売却が行われた翌年の2005年9月、中内功は自宅で死亡する。かつての栄光むなしく、私の目からするとその死の報道は非常に小さな扱いであった気がする。もっとも、この時私は中国に留学中で、北京でNHKしか見ていないからそう思うだけなのかもしれないが、その際に感じた無常観を愚作ながら俳句にしたためて手帳に残してある。

   秋風(しゅうふう) 見果てぬ先の 大栄華

 その一つ前の日には「中国人はポルノが少ないから過熱しやすいんだと思う」と手帳に書いてある。全然脈絡がないな。
 私自身の評価として、やはり後年に経営感覚が時代の変化に合わせられなかった事に尽きる。彼自身、「最近、客が何を欲しがるのかがわからなくなった」と洩らしており自覚していたようではあるが、それならばなおの事引き際をわきまえるべきだった。それにしても、どうにも彼の生涯を見るにつけて筑前守を重ねずにはいられない。


 といったところでしょうか。この中内氏に限らず草稿では藤田田氏についても書いており、これなんか私の自慢の愛弟子と話題になるたびに盛り上がる人物なので、こちらもタイミングを狙ってまた紹介します。

日本で何故レイオフが行われないのか

 本日トヨタ自動車が今年の役員賞与を全額廃止する方針を発表しました。今回削減される役員賞与は総額約十億円との事でこれも景気の悪化を受けてのことらしいですが、皮肉にもトヨタは役員報酬は大企業の中でも非常に少ない会社(確か社長で三千万だったと思う)であるので、削減したところでどれほど節約になるかといったらすこし心もとない気はします。それでも、やるだけえらいと思うけど。

 そんなかんだで、今の日本はどの企業もあっちこっちで経費削減の嵐です。特にトヨタやソニーといった輸出に過剰に依存している企業だと先週末で88円台をつけた急激な円高を受け、確か今年の前半にトヨタは110円、ソニーは100円で社内レートをつけていたと思うから、当初の業績予想で言うとトヨタは9000億円、ソニーは500億円もこの為替だけで予想損益がマイナスを喰らうのですから、そりゃ必死にもなるでしょう。
 そのためさきほどのトヨタを筆頭にして今後もあちこちで役員給与や報酬の返納や見直しが行われることは確実ですが、それ以前に既に実行されているものとして、派遣社員の契約打ち切りなどの下部労働者の解雇も急激に広がり、ニュースなどでも報道されているように社会問題化しております。

 この労働者の解雇について不況の度に私は毎回思うのですが、一体何故日本にはレイオフがないのかいつも不思議に感じます。あんまり実態を把握してないで言うのもなんですが、金の論理で企業を動かすアメリカ企業がレイオフを行うのに対し、人の論理で企業を動かす日本がしないというのにはどうにもギャップを感じます。

 このレイオフ(layoff)というのはリンクに貼ったウィキペディアの記事を読んでもらえばわかりますが、敢えて日本語に直すとしたら「一時解雇」という意味の言葉です。このレイオフが具体的にどういう風に使われるかというと、今みたいに景気の変動を受けて事業を縮小せざるを得なくなった際に抱えている従業員に対して一旦は解雇を申し渡すのですが、その際に再び景気がよくなってきたら再雇用する旨を契約する条件として用いられます。そのため不景気が去って企業がまた事業を拡大するようになると、また新規に従業員を募集するのではなくかつて雇用していた従業員を優先的に呼び集めて人員が補充されます。また好条件だと、一時解雇中も労働契約が続くとしてわずかながらですが給料も支払われ続ける場合もあります。

 このレイオフ制度の強みは何かというと、不景気後に再び事業拡大を図る場合にまた一から従業員を教育しなおす必要がなく、かつてその企業で業務に携わっていた人間を再び雇用できるので建て直しがはかりやすい点にあります。また一時解雇の条件として先にあげたように減額された給料を支払う条件であれば、解雇されていきなり無収入になるということは避けられるので社会保障の点でも大きい効果が狙え、企業としても円滑に人員削減による経費削減が行えます。
 日本でこの制度が運用されている例としては、産児一時休暇制度等に代表される出産をする女性社員への一時休職制度がこれに当たります。これも失われた十年に社員数を大幅に厳選した企業が業務に熟知した女性社員を出産などでみすみす手放すより、一時休職させてその後に復職してもらったほうが都合がいいとの事で、私の見ている限りでは以前からは想像も出来ないほど日本企業に普及しているように見えます。

 さすがに大メーカーなどでは抱えている労働者全員にこのレイオフを行うことは事実上不可能というのはわかるのですが、熟練工や正社員の削減時にも一切この制度が使われないというのは、やっぱり日本企業にとってマイナスなのではないかと思う時があります。何故日本でレイオフが行われないか、そういった背景についてはあまり詳しくないのでもし誰か知っている方があれば是非コメントをしてもらいたいのですが、こんな時代だからこそ、如何に不況を乗り切る知恵をみんなで出し合うべきだと私は思います。

 ついでに言うと、たとえば語学留学や一年間羽を伸ばしたいというような、貯金はあるが時間がない社員に対しても結構有効な制度だと私は思っています。レイオフによって自由な時間を与えることによって最終的に、日本全体で消費の向上も望めますし、消費する側も復職する希望があれば動きやすいでしょう。

2008年12月13日土曜日

私の好きな野球選手

 最近めちゃ堅い内容ばかりが続いているので、ちょっと気を抜くがてらに私の好きな野球選手の話をします。

 まず往年の選手の中で私が誰が一番好きかと言うと、元ヤクルトのブンブン丸こと池山選手が一番好きです。当時はよく神宮球場に行ってヤクルトの試合を見ていたのもあり、そこでまた全盛期だった池山選手の活躍をよく見ていたので、多分今でも家には当時に買った池山選手のマグカップがあると思います。
 この池山選手というとひょうきんな性格でも有名で、現役時にはチームメイトに対して様々ないたずらをよくやっていたそうです。また試合後の発言も面白く、確か今でも最長試合時間として記録に残っている延長に延長が続いた試合で、池山選手が二本のホームランを打った事によって無事試合に勝った後のインタビューにて、
「いやー長い試合で、最初のホームランがまるで昨日のように思えます」
 といったところ、この時既に時刻は午前零時を回っていたことから、実際に最初のホームランは昨日のことだったというエピソードがあります。

 この池山選手と同じく往年の選手だと、こちらはまだ新しいですが、元巨人の桑田投手も非常に大好きな選手です。
 実はこの桑田投手が現役だった頃、今と違って私は逆にこの人が大嫌いでした。その嫌いな理由というのも当時の桑田選手はしょっちゅう怪我をしてはあまり試合に出ないにも関わらず、毎年すごい額の年俸をもらっていてなにかおかしいんじゃないかという風に考え、当時は目にするのも嫌なくらいに嫌ってました。

 しかし現役晩年にすでに選手として高年齢に入っていたにもかかわらずメジャー挑戦を表明し、二軍からスタートしてオープン戦にて実績を残し、もしかしたら本当にメジャーの舞台で投げるのではと思っていた矢先、守備中に審判と激突して怪我をしてしまったところから見方が変わってきました。
 実は当時、私も外せない日程がたくさん詰まっていたにもかかわらず自然気胸という、肺に穴が空く病気を起こしてしまって一週間ほど入院せざるを得なくなり、実際にこれで大きなチャンスを逃してしまいました。この時はすっかり精神的にも参って、それから数ヶ月ほど苦しい時期が続いて体重もめっきり落としてしまったのですが、桑田の方はというと見事に怪我を乗り越え、二軍での試合で実績を残し、数試合ではありましたがとうとう実際にメジャーのマウンドに立ちました。

 当時の私はこの桑田選手の活躍に本当に勇気付けられました。
 それから興味を持って桑田選手のことをいろいろ調べてみたところ、日本での現役時にも肘を怪我して選手生命の危機に追い込まれながらも手術を行い見事に復活し、その後成績が低迷して引退を考えたこともあった後に原監督に励まされプレイを続行し、2002年に元阪神の井川と最後まで争った挙句に最優秀防御率を取るなど、文字通り不死鳥のごとく逆境から何度も蘇っている姿を見て、当時にかなり打ちひしがれていた自分と比べて再び頑張ろうという気持ちになり、どうにかその時の苦境を乗り越えることが出来ました。

 その後再び二軍に落ちて、翌年に桑田選手が引退を発表した際には本当に大泣きしました。今でも思い出すたびに涙が出そうになるのですが、当時に自分が苦しかった分、今でもその支えになった桑田選手には感謝する気持ちが絶えません。
 以前にある解説者が、野球というのは本当に見ていてつまらないスポーツで、二時間以上ある試合の中で面白いシーンやプレイというのは一回、あるかないかだと言っていました。これは実際にその通りですが、一試合にとどまらずに長く見ることで、本当に人をひきつけるヒーローというのは見えてくるのだと思います。

2008年12月12日金曜日

現代日本のアノミー現象

「生きた証し残すため」小泉容疑者が供述…強い自己顕示欲(YAHOOニュース)

 上に貼ったニュースによると、厚生次官連続殺傷事件の犯人の小泉容疑者は今回の事件の動機として、「自分が生きた証を残したかった」などという内容の供述をし始めているようです。率直に言って、これを聞いて私もなんとなく納得した気持ちを覚えました。

 この事件では小泉容疑者が無職だったり、エリート街道から脱落したことなどが犯行の原因ではないかと、昨日に書いた「最近の格差問題への報道について」で書いたように安直に格差を動機に結びつける報道が多くされていたのですが、私としてはこの事件で犯人は犯行前からクレーマー的な行動を繰り返したり逮捕時に主張した「愛犬の仇」の証言から、ただ単に犯人が特殊な人物であったということからこの事件が起きたと私は見ていましたが、今日のこのニュースを見て、犯人が特殊な人物であるが故に事件が起きたという事には変わりませんが、その犯人の特殊性がやや落ちて少しは普通の人間っぽいところもあったのだなと思い直すようになりました。

 社会学を学ぶ者ならまず絶対に知らなければいけない人物と概念として、「エミール・デュルケイム」と彼の提唱した「アノミー論」というのがあります。このアノミー論が展開されたのは「自殺論」といって社会学の古典の中の古典に入る傑作からですが、この本では極論すると、「社会的な拘束が緩い自由な社会であるがゆえに、自殺者も多くなる」という主張がなされており、私もこの意見について異論を持ちません。
 もう少し細かく説明すると、人間というのは自分に対して必ず自分の人間像を持ちます。それこそナルシストであれば自分はかわいいとか格好いいとか思い、武士の家の者なら誇りを持って恥ずかしくないように生きるべきというようにです。

 しかしこうした自分像で一番大きな幅を占めるのはなんといってもやはり、お金に関するものでしょう。たとえば周りが皆バンバンお金を使っているのに自分にはお金がなくて貧しい暮らしを強いられるとすると、「あいつらはあんなにお金があるのに、何で自分にはないんだ」というように、周囲と自分との差異を感じることによって精神的にプレッシャーを覚えるものでしょう。
 概して自分像というのは周囲との比較によって生まれるもので、「周りの人と比べて自分は……」といった具合に作られるもので、そうして周囲の人間の環境から作られる「本来、自分はこうあるべき」と思っている自分像と「現実の自分の状況」に違いがあれば人間は不安を覚える、というのがこの「アノミー」という状態です。

 ではこのアノミーがどのようにこの事件に関係しているかですが、私が見るに近年の日本は生活的な環境や富については以前ほど価値観を見出さなくなり、その代わりに「社会的に認められる、注目されること」に異常に執着心を持つようになったと思えます。言ってしまえば先ほどの武士的な価値観で、最近の日本人は自らが幸せを感じる条件として豊かな生活を送ることよりも、社会的に認められたい、注目されたいという気持ちの方が強くなってきていると私は見ています。
 何気にこの辺は今、私が手伝っている後輩の卒論にも関係しており、このように富から名誉へと欲求が移り変わっていくのもマズローって人が「欲求段階論」で説明しています。

 ちょっと話がそれましたが、そんな具合に日本人は幸福追求をするため豊かな生活を得ようと遮二無二に働くことをあまりしたがらなくなり、その代わりになにかしらこう、自分の生き方や価値観に意味があったのだという意味づけを行いたがるようになっていきました。
 そのような価値観の変化が起きた為、今の日本では職がなかったり人との交流がない人間にとってすれば、食うに困らない環境で生活していたとしても幸福を感じることがなく、楽観的に今の自分はいい身分だと考えることが出来ずにどんどんと気が滅入っていきます。

 そういった人間は一体どうしたいかというと、ちょっと厳しい書き方になりますが、「それでも自分は生きていたのだ」と強く主張したがっているように私は思えます。実は数年前に集団自殺について調べたことがあったのですが、この集団自殺の数多くの例で自殺の決行直前に、「自分はこれから死ぬ」といった内容のメールを知人に送っている者がいました(それがきっかけで、救助が間に合った例もある)。
 言ってしまえばなにもメールなんて書かなければそのまま目的通りに自殺が達成できるにもかかわらずこうした行動をとることについて、ある心理学者がこうした自殺志願者は生活の苦しさから開放されたいがためというより、注目されたいがために自殺を選ぶからだと指摘していました。つまり、練炭自殺や塩化水素自殺などが流行する背景には、それが世間に注目される自殺方法だからだという風に私は考えています。

 ここでようやく元の話題に戻ります。
 今回のこの厚生次官連続殺傷事件も犯人の証言通りに「生きた証が残したかった」というように、愛犬が保健所で処分されたのは所詮は口実で、実際には自らの名誉心を最後に満足させたいがために起きた事件だったと私は今回の報道で解釈しました。皮肉な話ですが、そういう犯人にとって何が一番うれしいのかというと、自分の起こした事件が大々的に報道されることに他なりません。

 無論こういったことは間違ったことで繰り返されるべきではなく、忘れろとは言いませんが犯人も無事捕まったこともありますし、今後はあまり話題に出すべきではないかと私は思います。なのでこの記事も本来なら書くべきではないのですが、現代日本のアノミー化現象と異常犯罪の背景を説明するにいい好例と思い、反省しながらも書いた次第であります。

なぜ大麻に手を出すのか

 最近大麻所持や吸引で捕まる人のニュースが増えており、特に先月には各有名大学の学生がそれこそ全国で次々と逮捕される事態まで起こりました。もっとも今回の場合、大麻を自分で吸う人間よりもむしろ生育し、常習者にネットなどを介して販売していた人間の逮捕が多かったのが特徴で、以前はこういう話だとよくイラン人とかが違法テレホンカードなどと一緒に「密着警察24時間」とかでやってたのですが、その時代と比べると日本人もいろいろやるようになったもんです。

 さてそれでは本題ですが、何故これほどまでに社会で大麻に手を出してはならないとあちこちで注意されているにもかかわらず、日本人は大麻に手を出して常習するようになるのでしょうか。それこそ一度吸引して快感を覚えて常習化するならまだわかるとしても、これだけ危険視されているにもかかわらず最初の一回目の吸引をしてしまうのは何故なのでしょうか。
 これはあくまで極論であって自分で言っててもやりすぎじゃないかと思うのですが、やっぱり大麻が「禁止されている」ものであるがゆえに、手を出してしまう人もいるんじゃないかと私は思います。

 報道などで見ていると過去の常習者がよく、「当時の仲間が吸っていたから」とか、「友達に勧められたから」という風にきっかけを話すことが多く、こういうものは日本人お得意の盃の交換や集団いじめなどに代表される「同一儀式の実行による親睦強化」によるものです。こうしたものともう一つ、私がにらんでいる大きなきっかけとなるものは先ほどの、禁止されているがゆえにやってみたいという、いわゆるタブー欲求です。
 タブー欲求については心理学などでよく研究されている題材で、たとえば恋人がいるのに浮気をしてはいけないと考えると自然と浮気の何がいけないのか、どこからどこまでが浮気なのかという風に意識が浮気のことばかりに集中してしまい、何故だか逆に浮気をしたくなるようになる現象を言います。なおこの場合、「絶対にしてはいけない」と考えれば考えるほどどつぼにハマるので、「今の相手が嫌になったらやろうかな」という具合に、禁止態度を緩めることがかえってタブー欲求を回避にはするいい方法のようです。

 私が見ていると、特に中高生から大麻に手を出す連中にはまさにこういうのが原因でやり始めたのも少なくないんじゃないかと思います。第一未成年がタバコに手を出すのも、煙を吸いたいというよりも大人が吸うなと言うから逆に吸いたくなったというのが大半でしょうし、この大麻もその延長線上にあるような気がしてなりません。

 じゃあどうすればいいのかで、大麻を吸うな吸うなと厳しく言うべきじゃないのかという風に思われる方もいるかと思いますが、私としてはそんなことを言うつもりは毛頭ありません。というのも先ほど大麻はタバコの延長線にあるのではないかと言ったように、大麻もまた更に害のある刺激物の通過点になりかねないからです。
 先ほどに説明したタブー欲求ですが、言ってしまえばこれは「禁止されている」がゆえに覚える快感も大きくなります。よく背徳は最大の幸福だと説明する人もいますがタブー欲求に限ればまさにその通りで、逆にその行為が大手を振って皆で行っている、行える行為になってしまうと、身体に感じる快感も急激に少なくなってきます。よく不倫恋愛の末に結婚した人間同士が互いに元の伴侶と離婚をして、大手を振って結婚した途端に不仲になるという話がありますが、これなんかまさにこのクールダウンの好例でしょう。

 私は大麻もタバコも、やっぱりそういうところが少なくないんじゃないかと思います。私は喫煙をしませんが現に喫煙者の方に聞くとその大体が本音ではやめたいと、なんだか中途半端な快感を求めて吸っているようにしか聞こえません。まぁタバコの場合は中毒性や常習性があるがゆえですが、大麻の場合はよくタバコより中毒性は低いと言われますが、先ほどのタブー欲求に照らすと吸い始めた当初は高い快感を覚えても、慣れてしまうとそういったものがだんだんと薄れます。そうなるとどうなるかですが、いちいち言うまでもなくもっと刺激の強い薬物を求めていくという風にどんどんとエスカレートしていく恐れが高くなります。
 そういった先のことを考えると、いやむしろそのような先のことを考え、今以上の快感を求めたところでどんどんと得られるものは逆に少なくなっていく。それならむしろ今合法的に許されるものの中で満足していくべきだと言うように、荀子の「唯、足るを知る(現状に満足できるようになればよい)」を行っていく、指導していくことも薬物対策の上で一つの手段になるのではないかと私は思います。

  追伸
 私はイギリスのロンドンに一ヶ月ほど語学研修に行ったことがありますが、イギリスでは大麻は室内で吸引する分には合法で露店とかでもよく吸引機が売っていました。
 そんなある日、私が相部屋の先輩格の日本人と話をしていると相手の携帯が鳴り、何でも日本人仲間の一人が大麻を吸ってオチてしまい、今大変だと別の日本人仲間から連絡が来ました。

 よく大麻はタバコより身体に害がないと考える人が多くいるようですが、その先輩格の友人によると、何でも大麻を吸った直後は気分的には非常にハイになるのですが効果が切れると急激にテンションが落ち、物事を悲観的に考えたり自傷行為を行ったり、ひどい場合にははずみで自殺までしてしまうことが起きるそうです。そのような猛烈な気分の落下のことを「オチる」といい、こうした影響を考えると決して大麻は無害ではないそうです。

 一応付け加えておくけど、私はイギリスだろうが日本だろうが中国だろうが、こうした薬物には一切手を出していませんからね。

2008年12月11日木曜日

雇用・能力開発機構の廃止について

雇用能力機構を廃止=職業訓練機能は別組織へ-政府(YAHOOニュース)

 既に今年の前半において当時の渡辺元行革相が廃止を訴えたにもかかわらず一度は流れたあの雇用・能力開発機構の廃止がとうとう政府で決められたそうです。

 話せば大分古くなりますが、この雇用・能力開発機構はかねてより何かと問題に上がっては槍玉にされていた行政法人で、最初に大きく取り上げられたのはここが運営していた、年金財源を元に作られた「私のしごと館」でした。この「わたしの仕事館」には以前に住んでいた場所から近いこともあって私も行ったことがありますが、まずなんといってもその施設の豪華さに目を見張りました。それこそ柱から装飾に至るまで一級品の材料で作られており、果たしてここまで豪華に作る必要はあったのかという疑問を持ちました。
 しかし施設内の講習で私は「マーケティングリサーチャー」を選んで受けたのですが、講習の内容は非常によく、また講師の方も私からの個人的な質問に付き合ってくれるなど熱意もあり、施設はともかくその機能においては評価するものがありました。

 しかし知っている方はわかるでしょうが、この施設の運営に毎年非常に多くの税金が投入されており、同じような内容のこちらは民間が運営している「キッザニア」は黒字を出しているのに比べると、やはり問題のある施設という結論に至ります。
 そういう背景からこれまで何度もこの「わたしの仕事館」とその運営母体の雇用・能力開発機構の廃止が取りざたされてきたのですが、天下り先を失いたくないために厚生官僚やそれを支援する族議員によってその動きは阻止されてきたのですが、どうやら今回ばかりは形だけになるかもしれませんが、廃止が本格的に行われそうです。

 実はこの雇用・能力開発機構については田原総一朗氏も私が以前に行った講演会にて言及しており、なんでも元々はエネルギー革命によって主要エネルギー源が石炭から石油に移ることによって、仕事にあぶれる大量の炭鉱労働者の再就職の支援を行う目的で作られた行政法人だったそうです。田原氏によると既に現在において元炭鉱労働者というのは皆無に等しく、雇用・能力開発機構はその役目を終えており本来ならもっと早くに廃止すべきだったと述べていましたが、言われるとおりだと私も思います。

 それが今回ようやく遡上に乗ったということで一安心なのですが、以前に知り合いの上海人から、
「日本の政治はなんに関しても決断が遅いね。中国だったら上がやるといった時には既に政策が行われているよ」
 という風に言われ、私も素直にその通りだと言い返しました。
 中国はそれこそ裁判においても死刑判決から二週間後に即執行などと、共産党一党独裁の強みとも言うべきなくらいに行政のスピードが早い国で、その分間違った政策もどんどんと行ってしてしまうという弱点も持っています。
 その分日本は議論にゆっくり時間をかけて確実に成果の期待できる政策だけを実行している……と言いたいのですが、この雇用・能力開発機構一つとっても、日本は最初に政策を作るのに延々と長い議論の時間をかける割には実行されてみるとやっぱり間違った政策だったということも珍しくなく、また間違えた政策だったとわかっても今度はそれの改善や廃止をするのにまた延々と長い議論が必要だという、きわめて不効率な政治環境といえます。

 私の意見としては、政治の世界というのは前例があるのならともかく基本的には未知の領域に対してどう対応するかということの連続で、全く議論しないというのは論外ですがたとえ長い時間議論をして政策を作ったとしても、それが正しい政策となるかどうかは常に世の中が変動する影響から確率的には非常にランダムなものだと思います。
 それならば物は試しとばかりにどんどんと小規模に政策を打ち出し、その政策の実効果や反省を元に改善を素早く加えてから大規模に実施するという方がよっぽど確実だと思います。そしてもしこれをやるとしたら何が肝心かというと、それはやはりスピードになります。

 中国などは70年代の改革開放期に「経済特区制度」を設けてシンセンにて実験的に資本主義経済を導入し、徐々にそれを他の主要都市から全国へと広げていった実績があり、また日本としても小泉内閣字に「構造改革特区制度」を設け、一部の地域限定で実験的な政策を素早く行えるようになり、私としてもこの動きを歓迎します。

  追伸
 「中国官僚覆面座談会」(小学館)によると、中国でも官僚は利権や天下り先を持っており、給料は低くても賄賂などによる副収入から優雅な暮らしが約束されているそうですが、日本の外務省に当たる外交部は一切利権がなく月々の給料の4,000元(60,000円)しか収入がないため、他の官僚たちからは「あいつらの国の忠誠心は本物だ」と誉めそやされているそうです。

2008年12月10日水曜日

最近の格差問題の報道について

 今見たニュースですが、これはやりすぎでしょう。

USEN「違法な安値」に20億賠償命令 有線業界2位のキャン社勝訴(YAHOOニュース)

 もともとUSENはこれまでに何度も法律を無視して処罰を受けている会社ですから、今更あまり驚きませんが。

 さて最近時事解説が少なくなってきているので、ちょっとまた短いながらもついでにやっておこうと思います。
 まず経済ですが、最近あちこちで内定取消しのニュースが急激に行われるようになってきました。こうして報道が行われるようになってきた背景には派遣社員や期間従業員などのリストラがどんどんと押し進められ、昨日にはソニーも正社員を一挙に減らすと発表するなど雇用問題が内定取消し者に限らず範囲を広げて大きくなってきたことが背景でしょう。

 特に派遣社員の場合は契約の打ち切りによって社宅から突然追い出されてしまうなど、再就職先を探そうにも探せなくなる上に大きなハンデを抱えてしまうなどといったことが派遣社員の側から主張され、会社側の要求に抵抗するためあちこちで派遣社員のみの労働組合が出来始めているという報道が目立ちます。
 労働組合とくれば今年に入り小林多喜二の蟹工船ブームが起きたり、共産党の入党者が若者を中心に一万人も増加するなどといった報道もあり、また私が聞いた話だとドイツでも若者の失業問題が増加しているらしくまたお決まりのネオナチが増えてきたとかいうニュースが出るかと思っていたら、なんと向こうでは自国出身ということもあるのかマルクスの「資本論」がブームになっているそうです。なんていうか、蟹工船とマルクスの「資本論」とを比べると、ちょっと差を感じてしまいます。ちなみに、私は「資本論」は買ったものの途中で投げました。

 ちょうどこの前読み終えた「論争 若者論」(文春新書)の中でこの蟹工船ブームについて金沢大学の仲正昌樹氏が寄稿しており、近年、何でもかんでも格差や派遣といった言葉に結び付けた現象と原因の因果論が多すぎると警鐘を鳴らしております。記事の中では今年に起きた秋葉原連続殺傷事件を例に挙げ、左翼側の知識人は知った振りをして犯人は派遣社員でその社会的構造から来る不満が今回の事件の遠因になった主張しているが、この犯人には両親のいる実家もあり、また派遣契約も最初の報道のように当時は打ち切られる予定もなく実際には追い詰められた状況とはほど遠い状況であることを指摘し、またその他の派遣社員についても、蟹工船の中で描かれているような逃げ場のない海の上で監視や暴力によって抑圧された状況にいるわけではなく、作者の小林多喜二の置かれた状況のような官憲による監視の目のない現代と蟹工船を比すのは土台からして間違っていると主張しています。

 私自身も、派遣制度の問題や格差の現状については確かに問題だとは思いますが、言われて見ると今は何でもかんでも悪いことや問題(犯罪等)が起きたら派遣や格差がすぐに原因として持ち上がってきており、いくつかはこじつけの部分もあるのではないかという気になってきました。
 先ほどの仲正氏は一部の評論家や経済学者による格差ゆえに結婚や恋愛も出来ない若者が増えているという主張に対し、子育てはともかくそういった恋愛関係まで本当に格差が影響するのかと疑問を呈し、もっと冷静にこれらの問題を分析するべきだと主張しています。

 私も基本的にこの意見に同感です。たとえば内定取消しの問題についても、以前に書いた「内定取消しについて」の記事のように就職が行われる遙か以前に行われる現在の企業の採用慣行自体に問題があると睨んでいますが、この意見が正しいかどうかは別として、今日日の報道を見ているとただ内定取消しを行った企業をなじるだけの報道ばかりが目立ち、問題の根本的解決についての議論はあまり見当たりません。
 私が社会学を教わる最初に、「社会に対してウォームハートを持って問題を見つめ、クールな思考で分析せよ」と教わりましたが、まさにこの通りでしょう。

呉起と商鞅

 また史記の話ですが、前にも書いたとおりに史記は言ってしまえば「優秀なる敗者たちの物語」です。史記で紹介される人物のそのほとんどは当時としては非常に優秀な人物ばかりですが、最終的にはその才能が理解されなかったり周囲に妬みをもたれたために悲劇的な末路を辿る者ばかりです。
 その代表格ともいえるのが今日紹介する呉起と商鞅の二人で、両者はその運命から生前に行った政策までもが全く似通っているので、最近歴史の記事を書いていないのもあるのでこの機会に私からも紹介しようと思います。

 まず日本の戦国時代を題材にした本を読むとよく出てくるのが「孫呉の兵法」という言葉ですが、孫呉の孫は孫子の兵法とみんな知っていますが、後ろの呉という文字が何故入ってくるのかとなると意外に知らない人間が多いように思えます。この呉の文字こそ、ここで紹介する呉子こと本名呉起のことで、この人物は中国の戦国時代に軍略から政略に至るまで幅広く活躍した人物です。
 呉起は当初いろんなところを流浪し、一時は魏の国にて活躍をしたのですが彼の後ろ盾となっていた当時の魏王が死んだことによりその地を離れ、当時、というより戦国時代全体を通して後に中国をはじめて統一する秦に次ぐ強国だった楚に行きました。そこで呉起は戦争の指揮から内政の指導に至るまで文字通り大車輪のごとくの活躍を見せ、彼がいた時代に楚は大きく躍進しています。

 特に戦争についてのエピソードでは面白いものが多く、呉起は最高司令官にあるにもかかわらず在軍中は一平卒と同じ格好をした挙句、馬にも乗らずに徒歩で一緒に進軍していたそうで、更には負傷した兵士を見ると片っ端から自らの口で膿を吸い出すなどして兵士を鼓舞していったそうで、これを見た兵士たちも否応にも士気は高まり連戦連勝を繰り返して行ったそうです。

 そして内政面では、これははっきり言いますが当時としては非常に画期的なことに家臣の雇用において俸禄制を実施しています。
 それまでに当時の国家は家臣を召抱え場合、功績があった際に恩賞として国王は土地を与えていました。しかし与える土地にはもちろん限りがあり、一旦上げてしまうとその土地は一族に受け継がれていくのでよほどのことがない限りはその土地を再び召し上げることも出来ず、自然と土地は国王の一族だけに独占されていくようになってよほどのことがない限り外部の人間に土地を与えることはありませんでした。これに対して呉起は家臣の土地を一旦全部召し上げて、その代わりに領土で取れる小麦などの農作物を現代の給料のような形で与える方式の俸禄制に切替え、身分の世襲から才能ある人物の活発な登用など固定した環境を流動的に変えていきました。
 ちなみに、この俸禄制を日本で本格的に運用したのは織田信長が初めてです。信長はごく限られた一族の人間を除いて家臣へは俸禄で以って雇い続け、浅井、朝倉を打ち倒した後に初めて明智光秀に領国を与えています。なお信長は16世紀の人物に対して呉起は前4世紀の人物で、如何に呉起に先見性があった、もとい当時の日本の制度が遅れていたかがよくわかります。

 こうして楚は優秀な人材を揃えた上に役に立たない人物は片っ端から田舎に送って開発を行わせたために強国になりましたが、呉起の後ろ盾となっていた当時の楚王が死んだことにより、かつて土地を有していた元貴族たちがこの時に恨みを晴らさんとばかりに呉起を襲って殺してしまいました。そして呉起の死後に楚は制度を元通りに戻してしまい、横山光輝氏などは呉起の取った政策を「川面に一石を投じただけだった」と評しております。

 それに対してもう一人の商鞅はというと、この人は紆余曲折あった後に戦国時代で常に最強国であり続けた秦に入り、最高権力者の宰相となった後に先ほどの俸禄制へと切り替えています。
 なおこの商鞅はごく初期の段階で外国人でありながら秦の宰相をやっております。このあと秦は范雎や李斯と、なかば宰相は外国人がやるものとばかりに優秀であれば誰であろうとぼんぼん秦は引き入れています。またこの商鞅は法家の祖先とも言われ、性悪説を前提にすべての人間の行動を法で以って規制しようと片っ端から細かいところまで法律を制定して行ったことで有名です。

 ここまで言えばわかると思いますが、商鞅も後ろ盾の当時の秦王が死んだ後はかねてより妬んでいた重臣らに告げ口をされて追われる身となるのですが、逃げようにも自分が作った厳しい法律によってなかなか国外へ脱出できないばかりか、こちらも自分で整備した監視網によってあっさりと捕まり、最後は牛裂きにされて死んでいます。
 しかし秦の場合は楚と違い、俸禄制などの商鞅が改革した制度を維持し続けました。改革者の商鞅自体は亡くなったものの、彼の作った制度の元でその後の秦は他国を遙かに凌駕するようになりついには中国を初めて統一するに至るのです。

2008年12月9日火曜日

一周年突破記念、これまでの秀逸記事

 このブログも今日を持ちましてとうとう公開から満一年になりました。ひとまずの目標として一年間の継続を掲げていたものの、開始当初は恐らく一年後の投稿記事数は二百件くらいあればいいかなと思っていたのが前回までの記事でなんと四百六十八件を数えるに至り、よくもまぁこれだけ書けるものだと自分でも唖然としています。このブログを始める以前に有名なきっこ氏のブログを見て、これだけの長文の記事を毎日更新しているのだから恐らく複数人で書いているだろうなと勝手に想像してましたが、案外書いてみればそれくらいどうってこともないということはわかりました。

 さて一周年ということなので、これまでの記事の中からいくつか思い入れの深い記事をここで紹介しようと思います。
 まずはなんといっても、「文化大革命とは」の連載記事でしょう。始める当初は自分の拙い知識でこんなえらいテーマを扱っていいものかと悩んでいましたが、思っていた以上に読んでくれた方から「面白い」、「こんなの、全然知らなかった」という反響を受け取り、書き終わった今でも内容面では不安を感じていますが、読んで初めて文革を知った方々に対しこの分野への知識の足がかりを作ることが出来たのだと思うと書かないよりは思い切って書いてよかったと素直に感じます。またこの連載がきっかけでリンクを結ばせてもらった「フランスの日々」のSophieさんは私が初めて知り合えた本店ブログの「Bloger」仲間で、副次的な収穫も非常に多かったのも忘れることが出来ません。

 連載記事はこの文革以外にもいくつか書いてはいますが、「失われた十年とは」についてはちょっと資料などをまた見直している最中でこのところ更新がのびのびですが、まだまだ書く内容はあると思います。また「新聞メディアを考える」では新たに面白い資料を手に入れたので、またしばらくしたら追記を書き加えていくつもりです。
 やはり連載だといくつかトピックスに分けて書くことが出来、また連載中は常に次は何を書くべきかと言う風に思考がどんどんと回るので、なんとなくですが記事の内容も洗練される気がします。

 そうした連載記事を除いた単独の記事の中で挙げるとすると、記事の質としては非常に低いながらも一番思い入れが深い記事だとこの「異能者の孤独」において他にありません。改めて読むと、別にこの記事限るわけじゃないですが句読点が非常に多くてなんか読みづらい記事になってるのですがこれにはわけがあり、実はこの記事は書いている最中はずっと手が震えていました。この内容は記事の中でも書いているように私が中学、高校時代から一貫して思い悩み続けた内容で、現在に至っても自分の信じる可能性と周囲が評価する可能性は一致しているのか、たとえ今は一致していないくとも将来評価されることはあるのかと悩み続けているテーマです。しかし悩んでいる分いつか誰かに伝えたいという軽い思いから書き始めたものの、実際に書き始めるといろいろな思いが一気に突き出て、なんとはなしに手が震え出してきたのを今でも覚えています。その分、書き終わってこうして読み返した後には言いようのない満足感があり、また友人に最近気になる記事はあったかとたずねたところ真っ先にこの「異能者の孤独」を挙げてきてくれたのでとてもうれしく思いました。

 そのほか記事中で紹介、解説される情報の質が高いものとしては、「水資源について ~浄化技術編~」と「田原総一朗氏に凝視された日」が挙がってきます。両方とも比較的レアな情報で、前者はテレビで一回放送されたきり、後者に至ってはたった一回の、しかもテレビカメラも何もない場所での講演だったのでその場の人間しか聞いていない内容です。今でも田原総一朗氏からのあの熱い視線が思い出せるよ……。
 そのほか自分でも上手くまとめられた、あまり他の人は言っていないなと思うような記事だと、「情報社会論」、「竹中平蔵の功罪~陽編陰編」といったところでしょうか。どちらもあらん限りの力を振り絞って書いた記事で、友人らから評価してもらった時にはこちらとしても非常にうれしく感じました。

 改めていくつかの記事を読み返すと、どうも記事によって文章にムラがあるような気がしてなりません。特に句読点が多すぎて返って読みづらい記事が目立つのですがこれにはわけがあり、私はもともと縦書きで小説を数多く書いて文章力を養ってきたので、どうもこのブログ記事のように横書きでタイプする文章だとどこで句読点を打つかといったリズム感がなかなかつかめずにいます。
 そんな不安定なリズム感で書き終わっていざ投稿してみてみると、自分でも不思議なくらいに読みづらい文章がアップされていてなかなか驚くことがあるのですが、いちいち修正するのも面倒なので大抵はそのままにして放っておいています。さすがにあからさまな誤字、脱字は修正するようにしていますが、これらも軽微なものだと敢えて見なかったふりをしてます。これは修正が面倒くさいというのが最大の理由ではありますが、私としては思ったこと、書きたい事を一気に短時間に一本の記事として書き上げるという行為こそがこのブログにおいて重要だと考えているので、その際に出してしまった誤字も「勢いの中でのもの」と認識しており、当時はこういう勢いで書いたんだなというのを忘れないために敢えて残しています。

 何はともあれ今日でひとまずの目標である一周年の継続を達成しました。ちょうどFC2の方でも閲覧者数が五千人を突破し、何かと記録尽くめの一日となりました。ここまで来たらもうこれ以上目標などを定める必要はないので、あともう一年とか投稿記事数千件突破とかいう具体的な目標は持ってもしょうがない気がします。
 実を言うと私は自分でも呆れるほどに飽きっぽい性格をしていて、何か一つに延々と集中して行うといったことはこれまでほとんどありませんでした。唯一の例外ともいえるのがこの文章で、これは中学時代から延々と、大学時代に一時小休止したことはありますが一貫して鍛え続けてきた分野です。このブログはその延長線上と考えるのならば、一つ前の記事の反復になりますがそうして文章を鍛え続けてきた土台の上にあるのだと思います。

どうすれば自分を変えていけるか

 以前に学校のある授業で先生から、「日本人は皆、青い鳥症候群だ」と言われた事がありました。

 この青い鳥症候群というのはそのまま童話の「青い鳥」のお話と一緒で、日本人は「あれさえあれば、自分は救われる」という風に、自分の現状で満足することはせず、何かしらに大きく期待してそれが得られれば自分は今よりずっと幸せになれるのにという幻想を持つという意味です。
 この話を聞いた当時は、確かに日本人はそうだろうけど人間全体でそんなものじゃないかという風に私は感じたのですが、最近いろいろと社会で言われている内容や議論に上がる話題を見ていると、もうちょっと違ったものではないかという風に改めてこの概念に着目し始めました。

 そう思う一つのきっかけとなったのは、最近買って読んだ「論争 若者論」(文春新書)の中で取り上げられている、秋葉原連続殺傷事件の話です。この事件の概要について詳しくここではやりませんが、何人かの評論家がこの事件の犯人はよく自分の容姿の悪さを卑下する内容をネット上の掲示板に書いており、コンプレックスのようなものを持っていたという記述をみて、いくつか思い出したことがあります。
 その思い出した内容というのも、数年前に友人が突然彼女がほしいなぁと言い出したことでした。私が何故と聞くと、真面目な友人なもんだから異性と付き合うことで自分がいろいろと成長できそうだからだと冷静に答えましたが、何もこの友人に限らず別の友人に至ればもっとストレートに、彼女が出来ることで自分も何か変われると思うからと言ってました。

 こう言われた当初は私も気づかなかったのですが今日電車に乗りながら考えていると、なんだか最近はこの手の、「○○さえあれば(得られれば)、こうじゃなかったのに(ああなれるのに)」といったフレーズの発言をよく耳にする気がします。先ほどの秋葉原連続殺傷事件の犯人も、「彼女さえいれば」というような内容の書き込みを繰り返し掲示板にしていますし、この犯人だけじゃなくともいろんなところで、「学歴さえあれば」、「正社員にさえなれれば」、「お金さえあれば」、「親友さえ出来れば」といった言葉が現実に取り巻いている気がします。中には、「顔さえよければ」、「金持ちの子供だったら」というように、自分の努力じゃどうにもならないことをあげつらって世の中を悲観するものまでおります。

 よくよく考えてみると、先ほどの青い鳥症候群というのは最初の定義ではなくこういうように、自分に今ないものが得られれば状況が劇的に変わると信じることではないかと、あんまり意味は変わっていませんが後半の「劇的に変わる」という文字が私の中で新たに加わってきました。そう考えてみると先ほどの発言はどれも、まるでジクソーパズルが完成するのにあと1ピース足りない、その1ピースであるお金であったり容姿であったりするものさえあれば、今の自分が認めたくない自分とは劇的に違う何かになれて万事の問題が解決できるんだというような意図があるのではないかと思えてきました。

 率直に言うと、こうした考えはやはり甘いと思います。たとえ彼女が出来たところでその相手に好かれるような人間でいなければすぐにその相手は去っていくでしょうし、たとえ容姿がよくなったとしても内面が汚い人間であれば誰からも好かれないままでしょうし、たとえ大金を得たとしてもお金は無尽蔵に使えるというわけではなくいつかはなくなってしまいます。
 先ほどの「論争 若者論」の寄稿者のトップバッターの赤城智弘氏に至ってはこの際戦争になれば、上も下も関係なくなると、抜け出せない格差の現況を変えるものとして戦争の勃発に期待しているような発言をしていますが、その戦争も終わってしまえばまた元の鞘に納まるのでは、少なくとも、現状を変える努力を自分でしないで外部要因に頼る人間では、どんな社会になったとしてもあまり生活状況は変わらないのではというのが私の意見です。

 人間、誰しも自分に対してコンプレックスは抱くものです。自分が好きでたまらない人間というのはいないわけではありませんが実際にいるのは非常に少なく、大抵の人間は現状にプラスアルファをした理想の自分像を自分に課しますが、そういった理想像にたどり着く人間はというとほとんどいません。
 先ほどの青い鳥症候群ではないかと私が言った人たちは、その理想の自分像への到達手段を外部要因にすべて求めている気がします。自分自身では努力も何もしないが、外で何かが動いて自分の状況が変わってくれることを願って待つという、北原白秋ではありませんがこうして文字に直して読んでみるとまさに「待ちぼうけ」です。

 私はそもそも、人間は何かを得た拍子に一挙に変わるということはありえないと思います。それこそ敗戦続きの劉備が諸葛亮を得るんだったら話は違いますけど、20年くらい生きてきた人間が彼女が出来たからといって性格から生活態度が急に変わるなんて俄かには信じがたいです。逆に、20年の積み重ねがあった末にその相手から好かれる人物となったために彼女が出来た、という風に考えるのが自然な気がします。

 ではどうすれば自分を変えていけるかですが、それは単純に言って努力と継続です。何かしら自分で目標なり課題なりを立てて最低でも半年、いや一年くらいの期間を設定して継続して行い、達成することによってわずかながらではありますが着実に自分という人間を変えていけると私は信じています。もちろん最初の目標設定の段階でどんなことをやるか、何を区切りにするかで成果は変わるので、中には一年やってもほとんど何も身につかないということもあり、何が何でも一年やればそれで良いというわけではありません。ですが、一ヶ月や一週間、ひどい場合は一日だけ何かをしたからといって何かが変わるということは私は絶対にありえないと思い、それならば時間がかかっても、何かしらを継続して一年くらいやり続けることの方が急がば回れではありませんが、ずっと自分に対してプラスになると思います。
 そうして積み重ねる土台があった上で、人間は舞い降りたチャンスをものにすることが出来て劇的に変わることはあると思います。先ほどの劉備の例だと、何度も負けるなり苦労はしたものの、関羽、張飛、趙雲といった武勇の将がついてくるだけの人格を養っていたという土台があったからこそ、最後の1ピースである軍師諸葛亮孔明を得て飛躍できたのです。

 よく継続は力なりとはいいますが、子供の頃から聞いてたのに20年以上生きてきてなんとなくですがその意味を少しわかってきた気がします。私が実際にそれを体験したのはやはり一年間の中国留学で、行く前こそあんなに習得の難しい中国語を覚えられるのかと不安に思っていたのですが、きちんと一年間現地で一日も休まず授業に通い続けたおかげで、あの頃の自分が目標としていたレベルには見事に達することが出来ました。

 そしてもう一つ、当初でこそ三日坊主で終わらなければいいなと言って始めたこのブログですが、今日を持ちましてようやく満一周年で、ひとまずの「一年間は書き続ける」という目標は見事に達成できました。
 記事の内容も改めていくつか読み返すと、甘かった内容のものもあれば納得して人に見せられる内容もあり、割合にこのブログには私は現状でも満足しています。

2008年12月8日月曜日

コミュニケーション力再考

 少し前に関西に行き、そこで恩師たちと会って久しぶりにあれこれ話をしたのですが、その際に多く話題になったのは若者の問題でした。
 私自身が若者に属し、恩師たちがある程度年齢の積んだ方たちだったので、お互いに思うところや見るところが違って情報交換のような形でなかなか楽しめたのですが、その話題の中で一人の恩師がこういっていました。

(先生)「私はいろいろな大学の関係者から最近よく相談を受けるのですが、このまえある大学ではせっかく正社員として就職した職場を卒業生たちの約四割が三年も持たずに退職するがどうしたらいいと聞かれたのですが、率直に言って今の若者たちに足りないのは年齢の違う人間と話すだけのコミュニケーション力が不足しているからだと思う」
(私)「いや先生、俺はそうは思いません。コミュニケーション力で物事を言い出したら範囲が非常に広くなるため、原因とかでちょっと曖昧になりますよ。ただ、その年齢の違う人と話せるかどうか、ってのは俺も気になります」

 私は以前に「日本人のコミュニケーション力とは」の記事の中で日本人の主張するコミュニケーション力には非常に中身の伴っていない曖昧なものだと主張しました。そのため先ほどの恩師の言った言葉に真っ向から反発したのですが、ただ年齢の違うものとのコミュニケーション力、と言われてちょっと思い当たる特殊な事例が思い当たり、反抗こそしたものの今もちょっと先生の言葉を再考している最中です。

 その特殊な事例というのは、まんま私のことです。
 恩師の言う現代の若者のコミュニケーション力不足の現象的なものは、共通点も多い年の近い自分たちの身の回りでだけコミュニケーションが完結するため、年齢の違う人や共通点の少ない人に対しては全くコミュニケーションが取れないというように、いわばコミュニケーションが狭い範囲にしか働かないのが問題だということです。いわれてみると確かに今の若者はそういうような点がちらほら見えるのですが、それに対して私はというと見事なまでにこれらとは真逆な経験をしてきました。というのも、同じ年齢の同学年の人間とはしょっちゅうケンカしたりで友達も少ないのですが、自分より年上や年下の相手との方がよくコミュニケーションが取れ、挙句には自分でもそういった年齢の違う相手の方が話しやすいとすら今でも思っています。

 恩師の言う通り、真にコミュニケーション力とは何かといえば、自分と共通点の少ない人間に対してどれだけ交流する力があるかどうか、という定義が最も正しく、言ってしまえば言語の通じない相手とか、思想や文化の違う相手とどれだけ深く付き合えるかというのが本来の指標になると思うのですが、現代の一般社会では「どれだけ友達がいるか」で判断することの方が多いと思います。私としてはたとえ同学年の日本人の友達が100人いる人より、一人の言葉の通じないインド人とハイタッチできるような人の方がコミュニケーション力は高いと思う(この場合、相手のインド人にも寄るが)のですが、世間ではどうもそうは行かないようです。

 私などは極端な例なのですが、このブログでも何度か書いていますが中学高校時代に周りにいた人間というのは今思い返してもあまり品行のよいとは言えない人間ばかりだったので、あえて自ら距離を置いていたのですが、先ほどの友達の数でコミュニケーション力が測られるのなら私はコミュニケーション力のない人間となってしまいます。私がよくないと思う点はまさにこの点で、言ってしまえば変な人間と大量に付き合ってもコミュニケーション力にカウントされしまう、というのは果たしてどんなものかと思います。特に最近はいじめなどに仲間はずれに合うのが怖いために加担する、といういじめの連鎖の話もよく聞きますし、友達の数とかでこうしたものを測るのは如何なものかと思います。

2008年12月7日日曜日

もしもメトロシティに、アンブレラ社があったら

 今日ちょっと貿易実務検定という資格の試験があり、試験時間まで会場には入れなかったので外で教科書片手に勉強していたら何故か、「アンブレラ社はラクーン市でバイオハザードを起こしたが、これがもしメトロシティだったら……」という一言が頭の中を駆け巡りました。もうちょっと集中して勉強すりゃいいのに……。

 アンブレラ社というのは知っている人には言わずもがなの、大ヒットゲーム「バイオハザード」の中で人間をゾンビに変える元凶となるウィルスを作った架空の製薬会社名です。ゲーム中ではアメリカのラクーン市に研究所を持ち、そこから事件の元凶となるT-ウィルスが街中にもれたことがきっかけで「バイオハザード2」では街中にゾンビが溢れ変える事態を作っています。

 もう一つの「メトロシティ」というのは別に「シムシティ」の「メトロポリス」とは関係がなく、こちらもゲーム「ファイナルファイト」に出てくる架空の都市名です。この街は未曾有の犯罪都市で、犯罪撲滅に取り組んできた元プロレスラーのマイク・ハガー市長の娘がその報復としてマフィアにさらわれる事をきっかけに、その娘を救出するために市長自ら悪人をばったばったと倒していくゲームです。
 このゲームの何がすごいかというと、前述のマイク・ハガーが市長自らマフィアの本部へ殴りこみをかけることです。ゲーム自体のアクション性もさることながら、そのぶっちゃけた設定が今でも好評のようです。

 今回私が考えたのは、もし「バイオハザード」の舞台が「ファイナルファイト」のメトロシティだったら、という仮想の話で、もし実際にそんなゲームが出るとしたらやっぱりハガーに加えて同じく使用キャラのガイとかコーディとかが街中に出てって、片っ端からゾンビを殴り倒していくゲームになっていくのだろうかと思考えると、それはそれで結構面白そうな気がしてきました。特にゾンビ相手に「ドリャー」とか言ってバックドロップとかプロレス技を次々とかける姿を想像すると、結構爽快な気もします。

 でもってボスキャラとなるとやはり「ファイナルファイト」でもおなじみのソドムとかがゾンビとか怪物になって出てくるとしたら、ますますもってやってみたいゲームです。どちらもカプコンのゲームなんで、調子に乗って作ってくれたらいいなぁと思って試験に臨みました。

2008年12月6日土曜日

競争力に資本力は必要か?

 本日のニュースにて、米国がとうとうビッグ3(中にはデトロイト3と呼ぶのもいるらしいが、私としてもデトロイトと言う方が適当な気がする)こと自動車会社三社に対して大幅な金融融資を行って救済をしようと動いているというニュースが報じられました。このニュースを受けて、いつもながら思っていますが競争力と資本力はやっぱり別物だと私は思いました。

 実はこのトピックは私と私の親父で最もケンカになる話題です。うちの親父は大資本でなければこれからの企業はやっていけないと常々主張して、中小企業対策をやるくらいだったら大企業に対していろいろ保護政策をとらねばならないと言うのですが、私としては経済において大企業は所詮は看板であって、中小企業こそが実体経済の真の主役だと主張し、昔の人の名言をもじれば、

「大企業なんて飾りです。エライ人にはそれがわからんのですよ!」

 というようなことを毎回主張し、いつも親父と怒鳴りあいになりかねないほどの言い合いを繰り広げています。

 確かに、親父の言うとおりに資本がなければ企業はやっていけないという話もよくわかります。今じゃ一般的になったトヨタのハイブリッドエンジンも大規模の研究開発費の投資があってこそ生まれたものであり、一部の技術革新にはやはりお金がいるというのもよくわかります。
 しかし、私はお金をかけたところで必ずしも投資に見合うだけの成果が得られたり、その企業が真の意味で競争力を得られるとはとても思えません。その一つの根拠として、いろいろ統計情報が曖昧だったり、調査機関ごとにバラバラの結果が毎回出る「国際企業競争力」のランキングでは国としてGDPが小さいにも関わらず、「ノキア」を有するフィンランドを筆頭に北欧勢は毎回上位にランキングしており、親父の言う通りであればありえない結果を毎回出しています。

 そこで今回のビッグ3のニュースです。はっきり言いますが、アメリカの自動車会社は日本の自動車会社と比べると遙かに大資本ですが、売っている自動車製品の国際競争力で言うならば日本に大きく見劣りしており、今回の不況を受けて破綻の危機にまで追い込まれています。また自動車会社に限らずとも、アメリカの企業はどの産業においても日本の企業の数倍の資本を持っていますが、航空宇宙産業(ここでも最近ブラジルに追い上げられている)や農業を除けば全くといっていいほど国際競争力はもっておりません。

 私は大資本に対して、あくまで企業運営での選択の幅が広がるだけで実際には競争力の直接的な源泉になるとは思っていません。では何が競争力に直結するのかというと、現代のような時代で言うならばそれはやはり人材にあると思います。島津製作所のノーベル賞を受賞した田中氏のように、企業も国も、結局は一人の人間によって勃興することがあれば衰退するものだと私は捉えています。北欧勢が国際競争力を持つ背景としてよく挙げられているのは充実した教育制度にあると言われており、私も教育こそが競争力を養う唯一にして最大の手段だと思います。

 以前にNHKでやっていた「プロジェクトX」(最近このプロデューサーは万引きで逮捕されたけど)などを見ていると、やはりその紹介される企業では大した設備や研究資金なしという状況の中で、独自の創意と工夫で飛躍のきっかけとなる発明やプロジェクトに成功しています。うちの親父と親父のいとこが二人して一番尊敬している日清食品の安藤百福なんて、一度スッテンテンになってから自宅にて一人で研究して「チキンラーメン」を発明していますし。

 ついでに書くと、今の日本でこの点において何が問題かと言えば教育の質の低下ではなく、優秀な人材を上手くより分ける伯楽(馬の良し悪しを見極めるのが上手かった名人。転じて人材の評価、発掘の上手い人という意味)の不足だと私は考えています。昔から「世に賢才多けれども、げに伯楽は少なし」といわれていますが、私から見ても何故これほどの人材がこんなところに甘んじているのかと思うような人がごまんといれば、逆にその存在すら許せないようなくだらない無能な人物が重要な地位に居たりし過ぎている気がしてなりません。
 史記なんか見ているとそういう例は昔からごく当たり前なのですが、世の中そういうものだとわかっていてもやはり悔しく感じます。だからこそ、一人の伯楽の価値は下手したら伯楽が発掘する優秀な人材なんかよりずっと高いのではと最近思います。

内定取消しについて

 先ほど民放のニュースで取り上げられましたが、わかっている範囲内で現在問題となっている今年新卒の就職内定の取消し者数が315人に達しているようです。私自身はこの内定が取り消された四回生の学生たちに対しては同情する気持ちが強く、特に53人もの大量の内定者すべてに対し内定取消しを行った日本総合地所での報道で取材に答えた大学生が、日本総合地所は内定を得た6社の中から選びに選んだ会社であったので非常に残念だと言っていたのを聞き、もしこれが事実上の一時内定締切りに当たる十月一日が来る前に取消しが行われていればまだ救われた可能性があったことを考えると、如何にこの内定取消しに問題性があるのか強く考えさせられました。

 しかし大半は私のようにこの内定取消しについては同情論が多いものの、中には違った意見を言う人もいます。私のなじみの喫茶店のおばさんに至っては、
「そもそも内定自体が法的根拠も何もないお互いの口約束みたいなもので、学生の側も入社間際の三月になって就職を断ることが出来るのだから、冷たいようだけど企業の側に取り消されても仕方がないのでは」

 という風に言っており、言われてみると確かにそんな気もしないでもないと、この意見にも一理あると思います。そこから考えを発展していき、私は今回の問題はそもそもこの「内定」という日本の雇用慣行自体に原因があるのではと思い始めてきました。

 元々、私はこの企業の新卒採用の方法に以前から疑問を持っていました。現在どこの企業でも内定者をふるいにかけるための「内定式」が行われる十月一日は、ほんの十数年前までは企業が採用活動を公に始めてもよいとされるスタートラインの日であり、当時の卒業を控えた学生たちも十月から就職活動を始めていました。しかしその後、最近私も忙しくてなかなか書けずにいる失われた十年の間に企業が新卒採用を絞りに絞った挙句、優秀な学生だけを出来るだけ受け入れようと採用活動の期間が不規則に成った挙句にどんどんと早まり、現在では一部で「紳士協定」と言われる四月一日が採用活動のスタート日と、一応はされています。
 しかし近年に就職活動をやったことのある方なら言わずもがなですが、実際にはその四月以前よりどの企業も公然と採用活動を行っており、特にニュースで報道されている極端な例に至っては三回生の夏休み、もしくは三回生になる四月ごろから説明会など採用活動を始める企業が続出しており、先ほどの紳士協定なぞもはやあってないようなもので、学生の側としても四月はむしろ内定が次々と出される、「就職活動がある程度終わる月」として認識されています。

 これがどのように問題かというと、私も自分の恩師と何度もこの問題で話をしてきたのですが、単純に言って学生の勉強する期間というものが大幅に制限されてしまいます。昔のように四回生の十月以降であればそれまでは大学で大いに活動することができ、また卒業論文なども四回生になった時点から作成して十月以前に仕上げれば就職活動などにも影響せずにしておくことができます。
 しかし現在のように三回生から採用活動が始まると、やはり企業へ面接なり何なりと出向くためにその分学校の授業には出られなくなります。また早くに内定を得ればそれ以降は大いに勉強できるはずだと言う人もいますが、私の見ている範囲内だと大方の学生は内定を得るとすっかり安心して、ただでさえ授業に来ないのがもっと授業に来なくなったりする例のほうが多いように思えます。それに早くに内定を得られればとは言いますが、中にはなかなか内定を得ることが出来ない学生もおり、そのような場合だと三回生から四回生までの間丸々二年も就職活動に費やされてしまうということさえもありえます。

 また学生への調査でも、近年の好景気を反映して企業の採用数は大幅に増えているにもかかわらず多くの学生が就職活動に対して「非常に苦労した」と答える率が就職氷河期と比べて大差ないほど寄せられており、これには就職活動の期間の延長が影響していると分析されています。
 そうして学生を早くに確保する企業の側でも、実際の就職まで一年もの長い期間をおいているために途中で内定辞退を受けて急に数が足りなくなるなどあれこれ不都合な結果を招いております。言ってしまえば、学生にも企業のどっちに対してもこの大幅に急がれる内定慣行が大きな負担となっているように私は感じます。

 今回の内定取消しも、こうした背景から起きてしまったある意味システム的な欠陥による問題だと私は考えています。では具体的にどうすればいいかですが、単純に言って卒業後に一種のモラトリアムを設けるのが一番よいのではないかと思います。これはどういうことかというと、簡潔に言って在学中の学生へ企業は採用活動を一切行ってはならないということです。
 企業の新規採用、及び採用活動は卒業後の学生にしかやってはならないとして、学生の側も卒業するまではみっちり勉強して、授業やその他一切のもろもろの束縛から完全に解放された後から就職活動を行う風に慣行を変えていくという方法です。これによって学生の側は就職活動に専念することが出来、また企業の側も早くに内定を出して辞退者を続出させるというような辞退を避けることができ、また必要に応じて採用活動期間や就職時期を自由に決めることが出来ます。
 なにもこのモラトリアム案を使わずとも、企業の採用活動時期を昔みたいに十月以降に制限しさえすれば、今回のように急激な業績悪化の事態を受けてもある程度対応できたと思います。

2008年12月5日金曜日

麻生太郎の首相としての資質について

 まぁ恐らくこうなるとは思っていましたけどね。

 先週辺りから各社共に世論調査を実施しましたがその大体が危険水域といわれる三割を切り不支持も支持率を大きく越えるという、麻生内閣にとってはあまり喜べない結果ばかりとなりました。今回の調査でそのような結果となった背景として各社がそれぞれ推論を述べていますが、私の目からするとやはり第一に二次補正予算案の見送りが原因にあり、また解散が延びたことによって安心したのかいつもの失言癖が出て、私も「麻生首相の医療界への発言について」で取り上げたように謝罪にまで追い込まれる失態もここ数週間で何度も見せているのが響いていると思います。

 こうした麻生内閣について何社かがいくつか評論を出していますが、私が見た中で一番目を引いたのが以下の産経新聞の評論です。

政局の実態は「麻生ペース」 苦しくなるのは小沢氏(産経新聞)

 評論の評論になりますが、結論から言うと私は産経の記者、そして編集部の資質をこの記事を読んで大きく疑いました。この記事では一見すると追い込まれているように見えるが、麻生太郎は解散を先送りにして選挙準備をしていた民主党の候補の運動資金を使い込ませ、みごとに兵糧攻めが成功している。また内閣支持率は下がっているが政党支持率では自民党の方が依然と高く、地方の当落予想も実際には自民が有利なはずだと書いているのですが、もうどこから突っ込んでいいのかわからないくらい穴の多い評論のように私は思えます。

 まず兵糧攻めとやらの件ですが、これは確かに事実といえば事実ですが、もう一つの事実として自民党の候補もこの兵糧攻めを受けているというのがあります。というのも私の地元でもある自民党候補が9月から10月までの間、毎週一回は私の最寄り駅に立っては演説をしており、近くには早くも選挙事務所までも用意していました。またテレビタックルに出ていたある自民党議員も、正直解散がなくなって台所事情が非常に苦しくなったと本音を言っており、特に現在の衆議院で自民党は一年生議員を多く抱えているのでこの兵糧攻めで受ける影響は民主党より自民党の方が遙かに多いだろうと私は睨んでいます。

 そして次に内閣支持率は下がっているが政党支持率では上回っているという話ですが、私はこんなデータより今週になって発表されたもう一つのあるデータ結果に驚愕しました。そのデータというのも、「首相にふさわしいのは?」の調査結果で、これまで支持率の低下はあっても大差をつけて勝っていた麻生太郎がとうとう小沢民主党代表に僅差ではあるもの負けてしまい、これで自民党が唯一有利としていた立場すらも失ったといえます。
 というのもこれまでこういった調査では、「自民党には問題があるが、小沢一郎はもっと問題があるので任せられない」と意見が数多く寄せられており、なかば消去法的に麻生太郎が首相という面ではふさわしいという調査結果だったのですが、今回のこの調査ではそのような概念を突き破っても、言うなれば「小沢も問題あるが、麻生の方が問題だ」という逆転した結果となっており、政党支持率が自民のが上回っているという調査結果よりもずっと重要で、自民が不利であるということを如実に示しているように思えます。
 ついでに書くと、一ヶ月くらい前の調査では政党支持率でも民主が勝っていたし……。

 で最後の当落予想ですが、これもいちいち私が突っ込むのも馬鹿馬鹿しいのですが、記事では自民党の各選挙区の当落予想データはごく一部の幹部しか見ることが出来ないとだけした言っておらず、実際に自民党が有利だと示すデータの根拠は何もありません。自民党を持ち上げる新聞だからといって、これだけ実情とかけ離れた記事を載せる産経にはほとほと呆れました。

「麻生さん=KY首相」資質疑問視する風潮広がる(読売新聞)

 そんな産経に対して上に挙げた読売新聞の社説はよく分析しています。細かい内容については記事を読んでもらえれば特に説明する必要はないのですが、最後の田原総一朗氏の話にはどこかしら、突っぱねるようなものが入っているように見えなかなか深い言葉に思えます。

 ここから私の意見ですが、私はもともと麻生太郎が首相になるのは疑問視していました。言ってしまえば、この人は外交から経済まで何にもわかっていない人だと前から思っており、このところの発言を見ているとその見方はやはり間違っていなかったと確信しています。
 これまでに麻生が主張してきた政策案はどれも具体性から効果までどれも釈然とするものはなく、どちらかと言うと場当たり的なものばかりで、今問題となっている公共事業の拡大といった既に否定されたものを持ち出すというような無為無策に近いものばかりでした。唯一面白いと思ったのは2年前に文芸春秋紙上で展開した「マイナス金利国債案」がありますが、これは実現はともかくとして考え方は面白いと思いはしましたが、これ以外の政策案はどれも唖然とするほどくだらないものばかりです。

 外交についてもオバマ次期政権スタッフの顔ぶれを見て、この面子は対日政策がよくわかっている人たちばかりだ、というようなことを言いましたが、あのスタッフは前のクリントン政権の人間ばかりで、そのクリントン政権は戦後最も日本に対して冷淡な態度を行った政権ですので、何を根拠にああ言ったのかが未だにわかりません。

 多少こじつけのような気もしないでもありませんが、今の麻生太郎を見ているとあの徳川慶喜が毎回浮かんできます。慶喜も英邁だと言われ続けて何度も将軍候補となりながらもその度になれずにいて、最後の最後で期待されながら将軍になったかと思えば昨日言ったことを今日ひっくり返すというようなことを何度も行い、ついには幕臣から「二心殿」とあだ名される始末でした。
 となると今後はどのように江戸城無血開城が行われるかが気になり、誰が勝海舟、ひいては今ブームの篤姫の役をやるのかですが、勝海舟の候補としては上げ潮派(もうこれも死語だな)の代表格である中川秀直氏と、その中川氏と以前に意見の対立こそあったものの今じゃ麻生との対立が大きくなりつつある与謝野馨氏、そして若くて勢いがまだあるけど見ていて不安になってくる渡辺喜美氏です。
 じゃあ篤姫はとなると、女性だから小池百合子氏……だったら非常に面白いけど、実際にこの人は自民党が野党に転落しそうになるとうまいこと民主党に乗り換えてきそうだから困る。

2008年12月4日木曜日

犯罪被害者への報道被害について

 昨日の記事では犯罪者の家族への報道被害について所見を述べましたが、今日は犯罪被害者への報道被害について思うところを述べます。

 実は私の住んでいる近所に、今年全国を大いに騒がせたある大事件の被害者が住んでいる家がありました。その事件は他の事件同様発生から一、二週間の間、テレビや週刊誌が大いに取り上げたということからその被害者の遺族への取材のため、その家へも発生当時は数多くのマスコミが寄り集まりました。実はその家の近くへ私のお袋がある理由でよく伺っていたので当時の状況を詳しく見ていたそうですが、それはもうたくさんの人間が発生当時は押し寄せたらしく、一週間後には玄関先に「マスコミの方は取材を遠慮願います」という張り紙が貼られたそうで、ご遺族の方も見る見るうちにやせていき、事件発生から数ヶ月を経過した後、マスコミの取材こそなくなりましたが、ご遺族の方はとうとうその家から引っ越して行ったそうです。
 このような犯罪被害者へのマスコミの取材攻勢による二次被害ついては一部で問題視する人間がいますが、いかんせん私が見る限り現在のところそれほど大きな動きにはなっていないように思えます。

 何故こうしたマスコミへの取材批判について大きな動きにならないかというと、それは言うまでもなく世論の声を大きくするのはマスメディアで、そのマスメディアがわざわざ自分らの不利になるようなことを報道しないということに尽きます。もっとも、インターネットが発達する以前はこうした取材攻勢が今以上に激しく、ある芸能人などは旅行から帰国後、しつこくカメラを向けるマスコミのカメラが子供の頭に当たって子供が泣き出したので、「何をするんだ」と注意したらその怒った所をカメラで取られ、翌日には「○○、記者に暴行」という見出しで子供が泣き出したことを無視されて記事が書かれたと言っていました。最近ではさすがにこういったパパラッチ的な行為は大分なくなったかと思っていたら、この前の卓球の福原愛氏の帰国の際にものすごい数のマスコミが集まってたので、もしかしたらまだ続いているかもしれません。

 このような問題のあるマスコミの過剰な取材行為ですがもちろん芸能人だけでなく、前回に解説したように犯罪者の近親者はもとより、今回の内容の犯罪被害者、またはその家族へも以前から行われてきています。私が記憶する代表的な例を挙げると、最近のものだと香川県での姉妹、叔母が殺された事件では姉妹の父親が犯人だと各所で疑われ、ある売れないアイドルなどはブログで公然とあいつが犯人だと名指しして干され、テレビ司会者のみのもんた氏も犯人ではないのかと意図的ににおわせる報道を行い、真犯人が出たあとにこの父親へ謝罪しています。

 そしてやや以前の例、最も問題のある報道被害の例はなんといっても松本サリン事件における河野義行氏の例です。この松本サリン事件の第一通報者でもある河野義行氏は当時に製薬会社に務めていたこともあり、サリンが使われたという報道を受けて薬品の専門家であると見られたこの河野氏が製造したのではないかと、実際にはサリンの製造に必要な設備などが全くなかったにもかかわらずありもしないでっち上げの推理が警察やマスコミを通して行われました。今でこそこの事件はオウム真理教が起こした事件だと断定されているものの、当時はこの河野氏が犯人だと決め付けられメディア上で激しく批判されたばかりか、警察にも実際に何度も拘留されています。なお、現在に至るまでマスコミ各社は公式に河野氏へ謝罪を発表していないそうです。

 河野氏の妻も松本サリン事件で健康被害を受けており、先の香川の事件でも親類が被害を被ったにもかかわらず犯人扱いされ、どれだけ辛い思いだったのか想像することも出来ません。こうした犯人だと間違われる冤罪的な報道はもとより、ただでさえ家族が殺されてつらい思いをしている遺族に対して異様な取材攻勢を行うという、最初の例のような問題のある取材や報道は枚挙に暇がありません。
 そしてなんというか、どんな大事件もほとぼりが冷めてしまえば皆忘れてしまうものです。現に元厚生次官の殺人事件も、ちょっと前まで延々と報道されていたのが今週に入って報道時間が大幅に減少しています。しかし取材攻勢を受けた被害者やその遺族はその一瞬の間に過熱する報道のために、最初の例のようにその後の人生を大きく狂わされてしまうのです。そう思うと、こんな行為は畜生にも劣る行為に思えてなりません。

 単純にこういった問題をどう防ぐかと言ったら、私はやはり過激な取材や報道に対して問題性があるかどうか判断する、民間人や専門家などで組織する中立的な組織をしっかりと機能させることが有効だと思います。テレビ番組などには「BPO」という放送倫理機構があり、現在まである程度問題のある報道を指摘するなど貢献していますが、私の目からするとやはり不十分な気がしますし、最も問題性の高い週刊誌等へはこうした組織の存在を私は聞いたことがありません。
 そしてそのような問題のある行為をマスコミが行った場合、やはり報道の二次被害を受けた被害者に対して賠償金などをしっかりと支払うような罰則に関する仕組みを整備することも必要です。なんでしたらたとえ国家の情報統制だといわれても、私は法制化をしてもいいのではないかと思います。そう思うほどこの問題は根深いと私は考えており、また昨日に書いたようにマスコミの側で自主規制するような動きが見られないのも理由に挙がります。

 最後に、私自身が直接BPOに携わっていた放送関係者の方から聞いた話を載せておきます。

「その番組や取材に問題性があるかどうか、それを判断するのは難しいとよく言われますが、実はこれはとても簡単なことなのです。その番組政策や取材を行う人に対して直接、あなたは自分の行っている行為を自分の子供に見せられますか、と聞くだけでいいんです」

2008年12月3日水曜日

犯罪者の家族への社会的制裁について

 かなり昔に法学部に通っている友人からこんな話を聞きました。

「日本の刑事事件で判決を下す場合、基本的には犯罪に対する制裁という意味では敢えて一段低く刑事罰を決めている。というのも、その犯罪を行った被告にはその後将来にわたって前科が付きまとい、自然に就職や生活面で社会的制裁というハンデがつくことが織り込み済みだからだ。要するに、刑事罰と社会的制裁がセットで犯罪への制裁が考慮される」

 この話を聞いて、私は非常になるほどと思いました。確かにどんないきさつがあれ犯罪を起こした者にはその後どれだけ改心したとしても、元犯罪者というレッテルが付きまといどこへいっても社会的制裁が付きまといます。それを考えたら刑務所にいる年数などは、こうした社会的制裁をあらかじめ考慮して決めるべきだと言われてみるとその通りです。
 しかしこの社会的制裁ですが、犯罪を行った本人にのみ効力を及ぼすのならともかく私も何度かこのブログで記事を書きましたが、実際には何の罪もない、その犯罪者の近親者に対して容赦のないマスコミの報道によってその効果を強く及ぼすことの方が多いです。

 いくつか私の覚えている例を挙げると、一番代表的なのはやはり酒鬼薔薇事件の犯人の家族です。この家族の例だと持ち家を売り払って居住地から引っ越さざるを得なくなり、犯人の弟もそれに合わせて学校も転校せざるを得なかったそうです。さらに歴史をさかのぼると、今年死刑が執行された宮崎勤の事件ではあまりの報道の過熱ぶりや社会的批判を受けてか、犯人の宮崎勤の父親が自殺に追い込まれています。
 そして私が一番悔やんでならず、もっと議論を深めるべき事件例だと考えているのが姉歯秀次元建築士による強度偽装事件にて、姉歯受刑者の妻の投身自殺です。事件報道を見ているこちら側としても、自宅の玄関を四六時中カメラで映してはごみの出し方から門構えなど、なんにでもいちゃもんをつけるマスコミの報道振りには寒気を覚えました。恐らくもし自分があのように報道される立場に回った場合、自殺しないにしても相当神経が参り、その後に立ち直ってまたまともに生活できる自信がありません。

 このようにセンセーショナルな犯罪事件の場合だとマスコミの報道が過熱し、しばしばその報道は犯罪者の近親者に対しても強い社会的制裁を与えることとなります。しかし一部ではこうした報道に対し、犯罪者の身近にいた、それも犯罪者の親なら駄目な子を社会に出してしまったのだから同様に制裁を受けてもしょうがないという意見をたまに見かけますが、今時連座制ではないのだし、それはとんでもなく間違った考え方でしょう。これまでの私の経験からすると、たとえどんなに出来た人の子供でも中には変な人間も育ってしまうこともあります。そうやって出てくる変な人間に対して親の教育がどうとかこうとか議論したところで、また社会的制裁が近親者にまで及ぼすという概念が犯罪者に作用して犯罪が減少したりという風にはとても思えません。

 結論を言ってしまえば、犯罪者の家族への社会的制裁は本来あってはならないものだと私は考えています。それはいうなれば、どんな事件であろうとこうした近親者の報道をマスコミはしてはならないということです。このような議論は何も今始まったものではなく昔からありますが、一向に改善される気配はありません。
 恐らくマスコミの側からすると、視聴者が求めるから取材をしているだけだ。悪いのはそういったゴシップを求める視聴者だというようなスタンスを毎回取っていますが、この言わんとしていることは確かにわかりますし、大衆はゴシップを求めているのも事実です。ですが本来中立を主張するべきマスコミならば、そうした求める声があるとしても社会的影響を鑑みて、敢えてそのような部分に触れないと判断するべきではないでしょうか。

 よくこうした部分への報道や取材の制限を厳しく法制化するべきではという議論が起こる度、マスコミは国民の知る権利が損なわれると言っては強く反対します。ですがマスコミ自体がその何の罪のない近親者に対して社会的制裁を現実に与えて続けているというのなら、私はもはや法制化もやむを得ないと考えています。というのもマスコミは、長年この問題が議論されているにもかかわらず一向にこうした近親者への報道被害を自主規制する動きを見せないからです。それならば国の法律によって取り締まる以外、こうした人たちを救う術はないでしょう。

 ややまとまりのない文章になりましたが、今も起こっている厚生省元次官の連続殺傷事件の犯人の実家への執拗な報道など、この問題は現在進行形の問題です。私はあまりこういうゴシップには興味がないのも影響しているでしょうが、早いうちにこうしたことはもうやめにしなければいけないと思います。
 ちょっとこれについてもう少し思うことがあるので、明日また続きを書きます。

2008年12月2日火曜日

「アラフォー」について、及び日本の結婚観

 本当は昨日に書きたかったんですが今年の流行語大賞が昨日に発表され、今年は「アラフォー」と「グー」が見事大賞に輝きました。結論から言えば、少なくともこの「アラフォー」だけは大賞とは行かないまでも流行語に入ってもらいたいと願っていたので、なかなかうれしい結果でした。

 このアラフォー、元は今年前半に天海優希主演で放映された「アラウンドフォーティ」というドラマから派生した言葉で、意味もこのドラマで取り上げられた「40歳を過ぎた独身女性」というものです。
 何故私がこの言葉を流行語として待望していたかというと、やはり現在の日本の男女像や結婚といった社会事情を強く反映している言葉で、後年に2000年代を振り返り分析する際に必ず役に立つと信じているからです。

 日本の結婚観は大体バブル期前後から、社会的通過儀礼としての重要度を下げていきました。今こういう風に書くとびっくりする人もいるかもしれませんが、当時の文物を読んだりすると、若手官僚が登場するシーンによく同期の官僚の結婚式のシーンがあり、そこで主人公なり脇役なりが、
「あーあ、○○は部長の娘を嫁にもらいやがって。俺たちの出世レースで一つ先に出たなぁ」
 と、必ず言っていました。
 さすがに今はもうないと思うのですが、当時は出世は非常にコネなり何なりが幅を利かせていたのか、本当かどうかはともかくとして「上司の娘を嫁にする」というのが官僚界において出世の糸口となると世間は見ていたようです。もう一つ例を挙げると、この前ようやく社長になった島耕作が課長になったばかりの頃に嫁に三行半を突きつけられた際、
「待てよ、今離婚したら出世に響くじゃないか。仲人となった上司にも面目が立たない」
 などと言うシーンがあります。なんていうか、今見ると鼻で笑えます。

 このようにバブル期以前は、社会学的に言うなら結婚という儀式が社会的地位の形成に対して大きな影響力があったといえます。しかしバブル期、というより85年の制定から90年前後により実施が強化されていった「男女雇用機会均等法」が一つの契機となり、この動きに歯止めをかけたと見ていいでしょう。
 この「男女雇用機会均等法」の実施によって言うまでもなく女性の社会進出が増え、男と結婚して頼らなくとも女性は自活できるようになり、この時代辺りから「独身貴族」という言葉が生まれるなど自分だけに消費するために独身を続ける者が男女共に増加していきました。
 ついでに言うと、独身貴族という言葉が生まれる一方で高校や短大を卒業後、実家にいながら結婚を待つ身を表す「家事手伝い」という女性限定の職業は完全に消え失せました。今の若い子は信じないかもしれないけど、昔は「家事手伝い」って、役所の書類とかの職業欄に書けたんだよ。「自宅警備員」は今ならかけるのかな?

 そしてここが今日の肝心な部分ですが、独身貴族がでてくるなど結婚に対する社会的価値が低くなっていく動きはそのまま変わらず、現代に至って私は「三十路」という言葉はもはや死語だと考えています。
 統計上でもここに挙げた厚生省の統計でも初婚時年齢は右肩上がりに伸びる一方で2005年度で女性は27.8歳にまで来ています。なお、このデータは私から見るとちょっと頼りないデータで、結婚をした人限定の平均年齢の統計で、現在もなお独身の人の年齢は加味されていないので、実際にはあまり使えないデータですが、他にいい資料がないので引用しました。
 なお大都市部では既に平均結婚年齢が十年位前から30歳をとうに過ぎており、未だに独身のままの人も数多くいるので、現代はみんな三十路で当たり前ともいえる状況です。

 つまり、それまで「そろそろ結婚しなければ嫁ぎ遅れる」と女性が意識し始めるボーダーラインだった30という年齢が現代はあまり効果を出さなくなり、現代では三十歳からワンランクアップして「マジでもうヤバい」と思うようになるボーダーラインが40歳ということが徐々に定着してきたといえる状況で、そういった意味で「アラウンドフォーティ」というのは非常に現代独身女性をうまく言い表した言葉だと思うがため、私は高く評価しているのです。

 何気に私のいとこ(♀)も今年晴れてアラフォー入りして、本人は結婚したいとよく言っておきながらもわがままな性格が災いして全然進展がありません。
 最後にちょっと適当なことを言うと、最近私は「愛おしさ」という感情は対象の相手に「弱さ」を見つけなければ成立しえない感情ではないかと思えてきました。言ってしまえばアマゾネスのようなごつい女性に対しては「愛おしさ」より「頼もしさ」というものを感じるでしょうし、猫とか子供とか相手していてかわいいと思うのはやっぱり相手が弱くて守ってあげなくてはと思うのが背景にあるからだと思います。
 然るに現代は男女共に独立した個を持てと日本の教育現場では不完全ながら教えられますし、女性の社会進出に対してもどんどんとプッシュがなされています。果たしてそんな環境で、結婚に結びつくような「愛おしさ=弱さ」を相手の女性に感じる男性はどれほどいるのか疑問ですし(逆はありそうだけど)、そうしたことが婚姻減、離婚増、少子化のトリプルパンチにつながっているのだと考えます。

 じゃあ日本の少子化をどうすればいいかといったら、どんな手段を選んでもいいというのならやはり女性の社会進出を徹底的に阻むことが一番効果をあげるでしょう。まぁ現代ではそんなことできるはずもないし、私としても才能ある女性を社会で使わないのはそれもまたもったいないことだと感じるのでやりたくはありませんが、他に方法があるとしたら結婚観を徹底的に変える事しかないと思います。
 やはり現代では結婚は双方の「愛おしさ」を基底にしなければ成立しないという観念が非常に強いのですが、これでは「愛おしさ」が発生する「弱さ」がどちらかになければ私の考えでは起こり得ません。それだったらこの際、「結婚とは、生き残ることが難しいこの世の中にてサバイバルパートナーを得るということだ!」と、北斗の拳ばりに世の中の不毛さを謳い、戦場で後ろを任せられるような相手を結婚相手に選ぶべきだという観念を持たせれば、女性が社会進出しても問題はないんじゃないかと思います。実際、私なんかは出来ることならそういう人、もとい余計な支出が少ない名古屋の女性みたいな人を相手にしたいです。けちな性格なもんで……。

2008年12月1日月曜日

かつてのエニックスのマンガと、「月刊少年ギャグ王」の思い出

しっとマスク(2ch全AAイラスト化計画)

 昨日に引き続きまたもリンクから始めましたが、私がいつも見ているイラストサイトの「2ch全AAイラスト化計画」にて上記の「しっとマスク」がイラスト化されたのを見て、なんていうか忘れていた思い出が一気にぶわーって出てきたので、ちょっとこの時期のエニックスのマンガと既に廃刊した雑誌の「ギャグ王」について話そうと思います。

 まず「しっとマスク」ですがこれは松沢夏樹氏作の「突撃パッパラ隊」というマンガにて、もてない軍人キャラの宮本がカップルを見つけるごとにその交際を妨害するキャラとして扮装したキャラクターですが、ありがちでありながらあんまり実際にネタにはされづらいキャラであり、そのテンションの高さとあいまっていい味を出していました。
 しかしこの「突撃パッパラ隊」については、残念ながら厳しい評価をせざるを得ないマンガです。しっとマスクが登場したての頃は当初のコンセプトどおりに「過激なアーミーギャグマンガ」という路線が貫かれていたのですが、原作が中盤に差し掛かった頃からただのハイテンションなだけのギャグマンガに成り下がり、ひねりがどんどんと減っていって面白味もどんどんと失われていきました。それならばまだ最初の路線を堅持していれば、まだ面白く読み続けられたと思います。

 なお、このパッパラ隊が連載していた当時のエニックス社発行マンガ雑誌のガンガンは、販売部数こそそれほどではなかったものの、他のマンガ雑誌と比べて雑誌全体のくくりが非常に薄く、漫画家がそれぞれ思い思いに自由な話を書いており、贔屓目もあるでしょうが非常に面白かったです。当時のガンガンのホープはなんといっても、現在のホープである「鋼の錬金術師」の作者荒川弘氏の師匠、江藤ヒロユキ氏の「魔方陣グルグル」で、これなんか多分今読み返しても十分に楽しめるマンガですが、このグルグル以外にも「ハーメルンのバイオリン弾き」とか「浪漫倶楽部」(こんなのわかる奴いるのかなぁ)など、全体的に荒削りながらも強い個性を持った連載陣を抱えて毎月楽しめて読めました。

 しかしこのガンガンの最大にして致命的な大失敗は、1996年に何を思ったのかそれまでの月刊から隔週化、つまり月二回の発刊にしてしまったことでしょう。今ではもう元の月刊に戻したのですが、この時期に一部のマンガは月刊連載が続いたのですが大半はページ数は据え置きのままで〆切は月二回になるという、漫画家たちに単純にこれまでの二倍のペースで描かせ始めたのが運の尽きでした。やはり執筆期間の短縮はマンガの質に如実に現れ、とくに上記の渡辺道明氏の「ハーメルンのバイオリン弾き」はこの時期から目に見えて話がつまらなくなりました。単行本の作者コメントでもそのことに触れており、この隔週連載の時期は本当に辛かったと暗に述べています。
 こうした連載マンガの急激な低調を受け、私も「ハーメルン」のコミックスを買うのをやめたばかりか、ガンガンを購読するのまでやめてしまいました。最終的に「ハーメルン」はマンガ喫茶で読破したけど。

 さてこうしたかつてのガンガンのマンガにも思い入れは深いのですが、それ以上に私が当時に深く傾倒していたのが今日のタイトルにある、「月刊少年ギャグ王」でした。

ピエール刑事94(ヤフオク)

 なんかこの前適当に検索していたら出てきたのがこのオークションにかけられた(見事に売れ残っているが)マンガなのですが、これこそギャグ王で連載されていたマンガの一つです。
 当時はマンガ雑誌がちょっとバブリーな頃で、エニックスも本流のガンガンに加えて「Gファンタジー」とかこの「ギャグ王」などいろいろ雑誌を出していたのですが、いかんせん作家陣を適当に揃えすぎた(ほとんどが懸賞で集めていきなりデビューの新人)ことと、コンセプトがはっきりしなかったことでギャグ王はあっけなく廃刊してしまいました。

 しかしこのギャグ王、ある意味壮大な実験的マンガ雑誌とも言えるような雑誌で、一部には非常に特異なセンスを発揮する漫画家も排出しています。その代表格ともいえるのが「うめぼしの謎」の作者である三笠山出月氏で、生憎今ではもうマンガを描いていないのですが、この四コママンガのネタは文字通りの人の予測を悉く覆すすばらしい出来で、数年前には大都社から愛蔵版が発売されました。ついでに言うと、何故か友人とこのマンガの話になり、二人で小一時間熱く語り合ったことがあります。

 最近はマンガ雑誌も売り上げが低迷し、2chの掲示板を見ても昔のマンガが面白かったなどという意見ばかり(2chの閲覧者の平均年齢は本当かどうかはともかくとしてこの前40歳前後とあったので、年齢を考えれば懐古主義になるのは自然です)見ますが、私は今のマンガに対してどれもかつての少女漫画風の絵が大半を占めるようになり、かつてのギャグ王にあったような強烈な個性を出す漫画家がいなくなったなぁとは思います。

 しいて挙げるながら、私が知る限り現代漫画家で見ているこっちが舌を巻くのは「鋼の錬金術師」の荒川弘氏、「ケロロ軍曹」の吉崎観音氏、「ノノノノ」の岡本倫、「金剛番長」の鈴木央氏と言ったところでしょうか。ちょっと年齢層を上げていいのなら、「ジャングルの王者、ターちゃん」の徳弘正也氏も、今も連載しているのでここに入りますね。
 ここで挙げた作者らは「真似しようとしても真似しきれない」ような強烈な個性をマンガの中でも発揮しているので、私の好きなタイプになります。あと余談ですが、私が中国にいた頃、何故か夜8時くらいに「ジャングルの王者、ターちゃん」が放映されていました。さすがに下品なシーンはカットされてはいたけど、「梁師範」が「リャンシーフー」と呼ばれていたりして、懐かしいやらなんとやらで、相部屋のルーマニア人も見ながらよく笑ってました。