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2008年8月31日日曜日

書評「人間回復の経済学」

 未だ小説がアップできないショックを引きずっていますが、ひとまず一本記事を上げます。

 コメント欄では少し言及しましたが、私が一番基礎においている経済学の流派は現東京大学名誉教授の宇沢弘文氏の経済学で、今回紹介する「人間回復の経済学」の作者である神野直彦氏はこの宇沢氏の弟子です。
 この本の内容を私なりに大まかに説明すると以下の通りです。

「本来経済というのは人間の生活を便利にするために作られたもののはずが、いつの間にか人間の方がこの経済の動向に一喜一憂し、立て直すためなどに犠牲にさらされている。こうした現状を打破し、真に人間の側に立つ経済に作り直さねばならない」

 というような内容が書かれております。具体的に神野氏がモデルとしている社会はスウェーデンなどの、北欧諸国のような高福祉社会です。これらの国は税金が高いかわりに国からの教育費や医療費は非常に充実しており、実質これらの部門の国民の負担はほとんどありません。こういった社会モデルは今風に言うと、「大きな政府」で、現在日本が目指している「小さな政府」とは対極をなしております。

 私は当初、確かにこのような高福祉社会は理想ではあるが、人口規模が一千万人台のスウェーデンと日本では、同じく教育費を無料にするにも大きな費用負担が必要になり、土台的には無理なのではないかと考えていました。しかしよくよく考えてみると、国家規模が日本に近いドイツでも教育費は基本的に無料(大学を含む)で、ドイツの税負担率もスウェーデンほど高くないのでこれは間違いだと気がつきました。

 このところよく思うのですが、現在日本政府は景気回復のために大幅な資金投入、まぁ言ってしまえば公共投資をやろうと検討していますが、真に景気拡充につながる投資と言うのは、教育以外にはないような気がします。たとえば工事や建設といった土建業は明らかに一過性だし、まだ企業の研究開発を後押しするならともかく、何か産業を資金的に後押しするとしても、金融の安定化を除いて旬が過ぎれば長期的に見てどの産業も景気に対して何の貢献もないのではないかと思います。

 神野氏は教育環境が充実していれば、たとえば今みたいに土建業が潰れまくって失業者にあふれたとしても、再教育して今だったらIT系の技術や知識をつけさせることにより、失業者を減らすと共に必要な労働者を再生産できると主張しています。私も、今なんかだったら刑務所の受刑者に家具などの技術教育を行うより、こうした難しくとも最先端の技術を授けるほうが効果ある気がします。

 そのように、再教育を行ううえで最大の障害となるのが、やはり学費です。だからそれこそドイツのように教育費が無料であれば、生活さえ保障できる貯金や援助があればいくらでも失業者を鍛え直すこともでき、労働力の回転も良くなるのではないかと考えています。
 中には、学費を無料にしたらただ働きたくないだけで大学でサボる学生が増えるという方もいると思いますが、現時点でも日本の大学はサボる学生で溢れているので、別に大きな差はないと思います。知り合いの中国人留学生らもみんなして、日本の学生は本当に勉強しないと呆れるくらいですし。

 私はこの本を恩師のK先生(ツッチーと会う前に)に薦められて手に取ったのですが、最初の頃はどうも胡散臭い気がして、結構K先生に噛み付いたりしたことも会ったのですが、改めて時間を置いて読んでみると、いろいろな面で先進的な内容が書かれており、また含蓄のある提言がなされているのに気がつき考えを改めるに至りました。なのでもし今回の記事で興味をもたれた方は、なにも教育問題だけに提言がなされているのではなく広範囲にわたってあれこれ書かれてあるので、是非読むことをお勧めします。

小説のアップロードについて

 昨日わざわざブログを休んでまで作業していたのですが、実は今週から毎週末に小説を連載しようと考えてこうして実際に小説も出来上がっているわけなのですが、ふざけんなと言いたいくらいに、なんと文書ファイルのアップロードができないことが今日になってわかりました。
 確かに文章なので、こうして他の記事同様に小説の文章を貼り付けるだけでもいいのですが、日本語にはやはり縦読みのが読みやすく、また表示の方法も工夫次第であれこれでき、それによって表現もいろいろ帰るので、できれば今保存してあるワードの形式で公開したいという思いがあります。そして何より、ブログで公開するには文章が長すぎます。

 単純に言って、20×20の原稿用紙20枚分もあり、これを他の記事の中に混ぜて公開していると、ブログ全体が異常に見辛くなります。なので苦渋の決断ですが、今回はアップロードをあきらめます。

 できればなんとしても後悔したいと言う思いがあるので、FC2(ここもテキストファイルはアップロードできない)のほうでもう一つ小説専用のブログを作り、そこで公開できたらと考えています。ああぁ、なんか馬鹿馬鹿しい。

2008年8月29日金曜日

情報社会論

 たまには一応専門だった社会学の話でもします。
 さて社会学の専門用語には「情報社会」という言葉があります。この言葉は現代の人間関係を説明する際に使う言葉です。

 卑近な例を出すと、大体50年位前であれば自分が生まれた時に産湯をつける産婆というのは近所に住んでいる方で、また自分が死んだ際にその死体を弔うのも生前に知り合いであった近所の方らでした。
 しかし現在はというと、誰とも知らない病院の医師によって取り出され、誰とも知らない葬儀屋によって最後弔われます。このように、昔は自分と同じ町内などの生活圏の距離的な長さによって人間関係が作られていきましたが、現在では機能ごとに人間関係が作られていくというのがこの情報社会の言い表す関係です。

 それこそ、昔であれば小学生からおっさんになるまで近所の人間同士で同じ生活圏で生活していて、昔の友達は年をとった後もずっと友達で夏祭りなどの近所の行事でも、お互いに顔をあわせてなんやかんや言い合って執り行う関係でした。しかし現在はというと、ネット上で顔も知らないが同じ趣味を持つもの同士で友人関係が結ばれたり、誰が公開しているかもわからない動画などをみて楽しみ、それにコメントをつけるように、人と人との関係性はピンポイントに結ばれていきます。
 それはもちろん最初の例のサービスの事例のように、昔は顔の見える人間から農作物といった食料を調達していたのが、いつの間にやら見も知らぬ、ってか中国から渡ってきた野菜を日本人は食べるようにもなりました。

 これまでの話を簡単にまとめると、昔の人間関係は小さく濃密であったのに対し、現在では広く薄く、といったような人間関係へと変わっているということです。ちょっと長くなりますが、そういう風に変わっていった経過を順を追って説明します。

 まず、今ほど交通の発達していない昔、日本だとそれこそ六十年くらい前でしたら、基本的にその一生の生活圏は大きく変わることはありませんでした。たとえば、私の生まれ故郷である鹿児島県の出水市で生まれた人は出水で教育を受け、出水で働いて、出水で嫁さんをとって、最後は出水で死んでなくなるように、生まれてから死ぬまで出水で過ごしていました。もちろん全く移動することがないわけでもなく、鹿児島県から出たり東京へ行くこともあったでしょうが、それでも当時少ない大学進学者などを除くと一般の方の生活圏は基本的に生まれてから大きく変わることはありません。

 しかし集団就職によって地方から都市部へと多くの人々が移動し始める時代(1960年代)に至ると、こういったライフスタイルが大きく変わります。まず教育を受け終わった時点で生まれ故郷を離れた職場へと移動します。そしてこれはあまりレポートなどが出ていませんが、集団就職をした方の大半はその職場の付近で、中には同じ集団就職者同士で結婚相手を見つけています。さらに年齢がいって職場を変えたりしたら、そこでさらにまた移動が起こります。

 このように、日本では60年代くらいからまず生まれ故郷と職場が切り離されました。しかし、これはまだほんの序章に過ぎません。その後、東京への一極集中が始まりますと、東京都内には住居が不足し始め、ドーナツ化現象によって神奈川、埼玉、千葉といった周辺地域が東京へ通勤する勤労者のベッドタウンへと貸していきました。この時点で、今度は職場と住居(生活圏)が切り離されます。

 そして現在になると、今度は転勤などによる単身赴任もざらになり、家族とまで切り離される方まで出てきました。また職場環境でも親会社から子会社、直接雇用と派遣雇用などというように、同じ会社内でもその位置や雇用形態によって本筋の人から切り離される人も出てきました。また仕事の内容でも、昔では距離的に近い者同士しか交流できなかったのがITや輸送手段の発達によって、瞬時に全国、果てには海外とも取引できるようにもなりました。

 確か、イソップ童話の「都市のねずみと田舎のねずみ」という話で、田舎のねずみが上京しますが都市の殺伐とした空気が合わなくて、生活は便利といえども最後には田舎に帰ってしまうという話があります。基本的に、それは今でも大きく変わっていないのかと思います。

 少なくとも現時点で中世のヨーロッパよりは現代人は「都市の空気」への耐性はついているとは思いますが、それでも田舎での生活が今でもノスタルジックに語られる点を考えると、今後はどうなっていくかはわかりませんが、人間というのは基本的に情報社会になじまないのだと思います。やはり距離的に短い関係の方が、人間にとっては安心しやすい関係なのではないかと私は思います。逆に、生活圏を構成する家族、住居、故郷、職場、人間関係、仕事、趣味といった要素がばらばらにされていけばいくほど、人間というのは不安を感じていくのではないかと思います。

 特に私が20世紀後半の急激な変化で致命的だったと思えるのが、職場と住居の切り離しです。昔はそれこそ地元の農家が作った野菜を地元の野菜屋が売り、地元の料理人がそれを料理して、地元の人間がそれを食べるというように完結していたのが、すでに述べたように今じゃこれが全部バラバラです。中国から来た野菜を、東京に本社のある商社が売り、食品メーカーが工場で食材を大量に調理し、トラックで配送されたイオンでそれを買う人が最後にそれを食べる、とでも言うのですかね今は。

 人間、まだ顔の見える相手にならなかなか悪いことはできません。それこそ地元の人向けに売る餃子に毒なんてなかなか混ぜないでしょう。そして職場と住居が一致することにより、同じ地域の人間同士で交流が生まれ、それによって地元への貢献心が強くもなります。その貢献心によって消防団活動や地元のレクリエーション活動、親戚が近くに住むもの同士での結婚というような行動に結びついてくるのだと思います。今、日本で起こっているモラルパニックの一因となっているのは、私はこの職場と住居の切り離しにあるのではないかと考えています。

 なんか今日はあまり上手い表現じゃないな……。明日頑張ろう。

2008年8月28日木曜日

あれこれ続報

 前回に書いた「アフガニスタン拉致事件について」で、報道でもなされているようにペシャワール会の伊藤和也氏が遺体となって発見されました。ペシャワール会の代表の中村哲氏は、伊藤氏の死を無駄にしないためにも、今後もアフガニスタンでの活動を続けていくつもりだと語っており、私も影ながら応援していく次第であります。

 もう一つ今日入った続報ですが、「医療事故裁判の無罪判決」で取り上げた産婦人科医の裁判で検察が控訴をあきらめたそうです。(ネタ元:帝王切開死 産科医無罪 検察、控訴断念の方向
 ちょっと他のニュースにまぎれて隠れてしまいましたが、まずは一安心です。

2008年8月27日水曜日

太田誠一農水大臣問題について

 これもニュースなどで取り上げられていますが、太田誠一現農水大臣において秘書宅を事務所として登記し、事務所費を計上していた問題が明らかになりました。すでにこれまでに松岡、赤城、遠藤と、歴代の農水大臣がほぼ同じ問題で責任が追及されて辞任に追い込まれているにもかかわらず、またも鬼門の農水大臣ポストで同じ問題が起こりました。

 この問題について今朝のテレビ番組でコメンテーター(名前はまた失念してしまいました)が、恐らくこれまでのことがあったために福田首相は相当議員の身体検査をしてから組閣しているはずであるから、今回このような問題が起きたのは組閣ギリギリの段階で太田を選んだためであるだろうと述べていました。では何故ギリギリの段階で抜擢したのかというと、それは恐らく最後の最後までもめた麻生太郎の幹事長就任において、麻生が就任を飲む代わりに太田を農水大臣ポストを与えることを条件にしたのだろう、つまり、麻生が太田を農水大臣に入れたためにこの事件は起こったと分析していました。

 状況から考えると、この説にうなずけるところが数多くあります。福田首相が行っていた身体検査は組閣以前から報道されていましたし、ましてこの農水大臣職、検査があったにも関わらずこんな事件が起きたのはこのコメンテーターの言う通りになにかのごり押しで決まったのでしょう。この大田という人は過去にも何度か失言やってますし、失言癖のある人とも仲がよかったのかもしれませんね。我ながら、すっごい皮肉だけど。

麻生太郎の投資家減税について

 最近朝日を批判ばかりしていて誉めることが少なくなってきましたが、今日はなかなかいい記事を載っけてきました。どうもこのところ思うけど、朝日は一面から三面よりもその後ろの方の記事がいいなぁ。

 くわしい内容は紙面に任せますが、そのよかった記事の内容というのは自民党の麻生幹事長が最近ぶち上げた証券に関連する減税についてです。麻生幹事長は日本人の貯蓄に回しているお金を投資へと回すことによって経済が活性化するということを理由に、もっと投資家を呼び込むために証券の売却益や配当金に対する減税を行うべきだと主張しました。
 しかし記事でも書かれていますが、03年にすでに同じ目的の元にこれらの税率を10%に下げ、11年からまた元の税率である20%に戻すことを財務省が決めた矢先であり、麻生のこの発言は金持ち優遇の政策とも取れるのではないかと記事では指摘しています。

 私も、朝日新聞の意見に基本的に同感です。というのも、日本人に対してこうして投資を促したところで、東証での取引の大半が外国人である現状では何も意味がないように思えるからです。詳しい数字は知らないのですが、確か東証の取引の半分以上は外国人によるものらしく、確かに数が少ないとはいえ、これから日本人に投資をやらせたところでそこまで景気が上向くとは私は思えません。

 そして何より、現状で株価が上昇しても、日本の企業にそれほど恩恵があるわけでもないからです。それこそ2000年前後の大不況の折は株価の上昇している企業は非常に強かったです。その理由は何故かというと、当時銀行がどこも経営難で新規の貸し出しが行えなくなり、各企業は資金を銀行から調達することができずに株式などで自前で調達するしか方法がなかったからです。
 それに比べ現状では銀行の経営体力は大きく回復し、今ではバンバンと企業に対して貸し出しを行えるだけの余力があります。そんな状況下で、株価が上昇したところで以前ほどの恩恵はまずもってありません。

 基本、投資というのは余っているお金がないとできません。そういう意味でもしこの減税が実行されても、その恩恵はお金の余力のある投資家にしかありません。同じ減税をするなら、生活保護世帯が増えている今の時代にはもっと他にするべきところがあると私は思います。

 最後に外国人投資家についてもう一言加えておくと、近年の株価の上昇は小泉改革などの一連の改革政策が外国人の目に投資の好材料として映り、外国から投資が集まったのが原因です。これは一部の評論家なども指摘していますが、また昔のようなばら撒き政策など改革に逆行することによって外国人投資家が逃げるだろうという意見がありますが、まさにその通りで、本気で投資を呼び込もうとするなら改革を逆行するような政策は取るべきではないでしょう。
 そういう意味でうちの親父なんかは、経済政策の責任者はやろうとしている政策うんぬんより、外国人にどうみられるか、人気があるかで選んだ方がよいと割り切っています。ま、そういう見方も確かにあるけど。

ロシアの軍事行動について

 すでにあちこちで報道されていますが、ロシア軍がグルジアの南オセチア州という、ロシア系住民がたくさん住む地域に新興し、当地域の分離独立を支持すると発表しました。これに対してアメリカは文字通りロシア軍と対峙する形でロシアのこの行動を非難し続けています。

 今回、私がこの軍事行動に対して思ったのは、プーチン政権から現メドベージェフ大統領に政権が移行されても、プーチン政権同様に対外的に強圧的な政策が継続されることが証明されたということと、タイミングについてやや思うところがありました。
 というのも、ロシア側はこれまでアメリカのMD、対ミサイル兵器の東欧諸国への配置などに対して抗議を行っていたものの実際の軍事行動には移しませんでしたが、ちゃっちゃと書いちゃうと来年のアメリカ大統領選がいよいよ白熱してきたこの段階に至り、アメリカは強い行動が取れないと踏んでわざわざ北京五輪の開会式に合わせて行動を起こしたのだと思います。

 さらに言うと、今ももめている北朝鮮の核放棄の問題でも、なんとしても退任前に外交で成果を作っておきたいブッシュ政権が北朝鮮に対して大甘な対応を取ったことも、このロシアの決断を促したのだと思います。
 今日のニュースでフランスの外相が、今後ロシアはさらにクリミア半島にまで進行して来るだろうと発言しましたが、実際の軍事行動とまで行かなくとも、何かしら手段はとってくると私も感じます。もひとつおまけに書いておくと、昔は異常なほどに仲が悪かった中国とこのところは懸案だった国境線が画定し、後顧の憂いがなくなったのも大きいかもしれません。

 実は一回やろうと思ってあきらめたのですが、この東欧から地中海に至るまでは宗教から民族が複雑に入り組んだモザイク状の地域であります。それこそ、共産主義という錦の御旗の元ですべての垣根を取っ払っていた時代(ソ連の二代目権力者のスターリンは今回の舞台のグルジア出身)が終わった現在では、こうした問題が吹き出るというのも自明でしょう。

 多分今週土曜からまた連載を始めると思いますが、このところ国家の概念についていろいろ思うところがあります。国家を構成するものは、

1、民族 2、宗教 3、文化 4、人種 5、特権階級

 これらの中の一体なんなのか。それとも、これ以外の何かがあるのか。こういった、国家についての連載を調子がよければまた始めます。

2008年8月26日火曜日

デスクリムゾンについて

 あまりにも面白いので、折角だからYou Tubeのデスクリムゾン動画のリンクを貼り付けます。

デスクリムゾン OP
デスクリムゾン2 OP
デスクリムゾン2 コンバット越前登場シーン

 最近、私は狂ったようにこれらの動画を見ています。
 これらの動画が収録されている「デスクリムゾン」というゲームというのは、セガサターンで駄目な意味でぶっちぎりの販売本数を誇り、クソゲーの中のクソゲーと呼ばれた伝説のゲームです。今回紹介した動画の中でも突っ込みどころは満載なのですが、実際のゲームはもっとやばいというのですから、底が知れません。

 もっと詳しくデスクリムゾンについて調べたい方は、早速「デスクリムゾン」で検索してみてください。きっと何か、突き動かされるものがあるはずです。

日本郵政会社の経営について

稼ぎ頭のはずだった「ゆうパック」 「赤字」判明がもたらす悪影響(J-CASTニュース)

 ちょっと古いニュースですが、いきなりリンクを張ってみました。内容を簡単に説明すると、今年から民営化して一民間企業として船出した日本郵政会社が総務省に対して経営内容の報告書を提出したところ、民営化後の主力事業として期待され、クロネコヤマトが契約を切った直後にコンビニと代理店契約を結ぶなどしていた荷物運送事業(ゆうパック)が、なんと半年で5億1100万円もの赤字を出していたのです。
 しかし、それ以上に驚きなのが、民営化後にはネットワークが崩れる、国の後押しなくして経営が成り立つわけがないと言われていた、手紙などの郵便事業が1042億8400万円の黒字だったということです。

 このニュースは正直言って見る人によって評価が大きく分かれるでしょう。民営化後に主力事業とするはずだった荷物の運送が赤字で、逆に年々年賀状をメールで出す人間が増えて黒字なんか出せるわけないといわれていた郵便事業が、運送事業の赤字を軽く埋めるほどの大黒字だったのです。これまでの討論ってなんだったのかって思うくらい驚きの内容です。

 ネット上でのこのニュースの反応は様々で、やはり郵政民営化の経営見通しは甘かったという意見もあれば、むしろこれだけ独占事業である郵便事業で儲けていたのかという意見もあり、中には民営化したからこそこういった情報が公開されるようになったのだという意見もありました。

 私としても、先ほどの最後の意見に同感します。と同時に、本当に郵政解散以前は政治家評論家みんな揃ってまともなデータなしにくだらない議論をやっていたのだと感じます。ネットでの意見でも書かれ
ていましたが、もしこれが民営化せずに隠されたままであれば、国民が出している郵便貯金からこの運送事業の赤字が補填されていた可能性もあり、やはりこれらの情報が公開されただけでも民営化の価値はあったのだと思います。

アフガニスタン拉致事件について

 最近ニュースに困っていたのですが、本日とてもショッキングなニュースが入ってきました。

拉致は静岡の伊藤さん=現地で農業支援-運転手と襲われる?アフガン邦人誘拐(YAHOOニュース)

 リンクに貼ったニュース記事によると、本日アフガニスタンにて現地で農業指導を行っていたNGO団体会員の伊藤和也氏が反政府系のテロリストグループによって拉致されたようです。これだけでも大事件なのですが、私にとって一番驚きだったのは、この伊藤氏がペシャワール会に所属するボランティアスタッフだったということです。

 ここではっきりといいますが、日本最高のNGO団体と呼べるのはまさにこの「ペシャワール会」です。日本では知ってる人は知っているのですが、私の目からすると一般の方まではあまり浸透していない名前の団体ですがその活動は古く、米軍がアフガニスタンに侵攻するずっと以前からアフガニスタンとその周辺地域で医療活動などに携わっている団体で、国際的にも日本のNGOとして非常に名高い団体であります。

 設立者は本人も医者の中村哲氏で、私は実際に拝見したことはないのですが講演会の記録を載せた本を読み、その活動と考え方を知りました。
 実はここだけの話、実際に講演会に行く機会があったのですが、確かその日になにか別の外せない用事があっていけませんでした。今では非常に行っておけばよかったと後悔してます。

 このペシャワール会は文字通り一切政府などの支援を受けず、支持者による寄付金のみで活動している団体です。私が読んだ本の中でしびれた言葉として中村氏が、

「よく医薬品などを寄付してくれる方もおりますが、医薬品よりお金を直接寄付してもらいたい。我々なら海外でずっと安く、大量に抗生剤などの医薬品を調達できます」

 私の見ている普通のNGOとかだと、ともかく何でもいいから寄付してくれと叫ぶ団体が多いのですが、その中でこの発言は国際NGOとして非常に実績を積んだ人だからこそ出る言葉だと感じました。

 そのペシャワール会の方がこの度拉致されたといいます。NHKの報道によると、拉致した側は政府に対して自分たちの捕まっている仲間と交換することを主張しているようですが、何故アフガニスタンのために活躍している方をこのように拉致するのか、理解に苦しみます。
 願わくば、無事に伊藤氏が解放されることを祈るだけです。

  追記
 八時四十五分のNHKニュースにて、伊藤氏が解放されたとの速報が入りました。何とはともあれよかったのですが、何も書き終わった直後に……。

  追記2
 上記の解放の知らせは外務省の誤報だったようです。ぬか喜びをしてしまいました。

2008年8月25日月曜日

考古学会について

 以前から思っていたのですが、そろそろ中学校などで「四大文明」について教えるのはよくないと思っています。
 というのも、これは1900年に中国の梁啓超が唱えたもので、すべての文明は四大文明から分派したものだという説ですが、これはあからさまな間違いです。黄河文明に代表される同じ中国でも、華北地域と華南地域は文明の起こりは完全に別々で、現在は黄河文明に対して長江文明というのもほぼ確実視されています。

 そして何より、南米のマヤ、アステカ文明が完全に無視されているのが私としては非常に腹正しく思います。こうした南米の文明や北米のインディアンの文化などは無視し、強国の視点でもって古代史の範囲で四大文明ばかり教えるのは私は問題だと感じています。どうせ四大文明だけでも覚える量は少ないのですから、この際いろんな地域の文明について中学生などに教えるべきじゃないかと思います。

 このように、すでに明らかに間違いであると言われているにもかかわらず、どうもこの考古学会というのは頭が固いというか、昔から論を変えたりせず、また権威を持っている人間が好き放題に言っているのではないかと、私個人的には感じています。その最たる例がかつて起こった「遺跡捏造事件」で、またピラミッドに関する意見などです。

 「遺跡捏造事件」については言うまでもありませんが、ピラミッドは最近は大分払拭なされてきましたが、私が子供の頃なんか、

「ピラミッドの建築に関わった人間は内部の構造が明るみになるのを恐れて、ピラミッドが完成されるとともに皆殺された」

 などという、なんの根拠もない説がまことしやかに語られていました。実際にはピラミッドの建築に関わった労働者にはパンやビールなどが振舞われ、農閑期の公共事業としての意味合いが強かったようです。

 こんな風な、ありもしない話やらとち狂ってんじゃないかと思うような話がこの業界には多い気がします。まぁ数少ない資料の中であれこれ推察しなければならないのだから多少はしょうがないけど、間違いだってわかったら、その説を払拭するために自浄活動位はやってもらいたいものです。

  おまけ
 昔から今に至るまで、ピラミッドの研究者たちが内部の床の面積やら距離などから世界滅亡の日を計算していますが、あきれるくらいに皆外れています。以下のサイトに詳しいので、興味のある方やオカルト好きな方はみてみることをお勧めします。

超常現象の謎解き

2008年8月24日日曜日

国民栄誉賞について

 なんかこのところニュースが少ないから、このブログが始まって以来珍しくネタに困る日々が続いています。またなんか特集連載でも始めようかな。
 そんなニュースが少ない中で、今日はちょっと昔に一本エッセイにまとめたニュースが来たので、それについてまた新たに語ろうと思います。そのニュースというのも、国民栄誉賞についてです。

 この国民栄誉賞、政府が国民に与える表彰としては文字通り最高のものと位置づけられています。しかしかねてよりその受賞基準というのはあいまいで、賞としてのその価値はこれまでにもよく批判されてきました。
 私なんかが書くよりウィキペディアの項目を見てもらえばわかりやすいのですが、たとえば同じ相撲という分野でも、前人未到の勝利記録を作ったことでもらった千代之富士に対して、こちらも前人未到の年六場所制覇をした朝青龍はもらえていません。このようにこの賞は基準はあいまいで、私の見る限り結構その場のノリで与えているようにしか見えません。

 この基準のあいまいさゆえに一番批判が巻き起こったのは2000年、オリンピック女子フルマラソンで金メダルを取った高橋尚子氏の受賞の際でした。女子フルマラソンで日本悲願の金メダルを取ったことというのが受賞理由だったのですが、当時に私も同じ内容で批判しましたが、世界大会を幾度も連覇し、その上同じオリンピック大会の女子柔道でこちらも悲願の金メダルを獲得した谷亮子氏(当時の姓は田村)や、同じくその大会の男子柔道で三連覇を果たした野村忠宏氏はなんでもらえないのかという批判が起き、やはりそれ以降は罰が悪くなったのか、その後この賞は一度も授与されていません。

 そしてこの問題はやはり後々に問題を続かせてしまうことになります。多少失礼な表現になるのですが、私はやはり高橋尚子氏には与えるべきではなかったと思います。というのも、その後高橋氏は際立った成績は残せず、結局受賞した際のオリンピックで終わったしまいました。その間、今回は怪我のため出場を辞退しましたが、前回2004年のオリンピックで同じく女子フルマラソンで金メダルを取った野口みずき氏については、確かに出場こそかなわなかったものの、代表選考レースなどで立派な記録を作っており、いくら初めての金メダルということを考慮しても、高橋氏がもらえて野口氏がもらえなかったというのは誰がどう見てもおかしな基準になります。

 野球のイチロー選手などはこの辺りのことがよくわかっているのか、これまで何度か賞を授与しようと政府が画策したものの、すべて本人から断っています。私も、これだけ曰くつきの賞なので、イチロー選手が敬遠する理由も理解できます。

 そこで今日のニュースです。今日というわけじゃありませんが、今回のオリンピックで前人未到の二冠に連覇を果たした水泳平泳ぎの北島康介氏に賞を授与するかどうかを政府が現在検討しているようです。

どうする「国民栄誉賞」 2冠連覇の北島へ授与検討(YAHOOニュース)

 結論から言って、私はこの国民栄誉賞というのは昔から好きになれなかったのですが、今回の北島氏への表彰は行ってもよいのではないかと考えています。
 政府もこの賞のこれまでの経緯や、ただの人気取りだと突っ込まれるのではないかと戦々恐々しているそうですが、今回の北島選手の活躍は日本の誰もが認める活躍で、その上前回のオリンピックから一貫して活躍し続けたということは賞賛に値しますし、いくら基準があいまいなこの賞と言っても、北島選手については文字通り文句なしでしょう。

 ただ今回の場合、水泳という競技がひとつのネックになると思います。というのも、かつて「ニイヤマのトビウオ」と謳われた伝説の水泳選手、古橋廣之進氏がこの賞を受賞していないからです。
 古橋氏の経歴について簡単に説明すると、戦中戦後に活躍した自由形の水泳選手で、戦後に敗戦して自信を失っていた日本人に対し、世界大会にて堂々の当時の自由形世界記録を作って大いに感動させ、日本の戦後史の一ページを飾る大人物の一人であります。北島選手の功績ももちろんすばらしいのですが、古橋氏と比べるのならば私には小さく見えてしまいます。

 この古橋氏の処遇をどうするか、これが今後の国民栄誉賞の基準を左右する上で非常に重要な要素となってくると思います。
 私ならどうするかって? ダブル受賞……とするのはやはり間違っていますから、私は敢えて式典で、総理大臣の代わりに古橋氏によって賞状などを北島選手に授与させてみたいと思います。こうすることによって、日本の水泳の神様から水泳の王者へ、という形に持っていくことができますから。古橋氏も、やってくれたらいいなぁと個人的に思います。

2008年8月23日土曜日

猛将列伝~今村均~

  「尊敬する人は?」という質問が来た際、私はいつも、「水木しげると今村均です」と答えています。水木しげる氏についてはその思いのたけをこのブログでも何度も書いていますが、今村均氏については多分今回が初めてだと思います。
 今村氏は新潟県出身の旧日本陸軍の大将です。同じ出身だということで、山本五十六海軍司令官とも仲がよかったそうです。この今村氏は戦闘での華々しい大勝利という経験こそなかったものの、その決断と指揮については硫黄島での栗林忠道中将と並び旧日本陸軍でも随一と呼ばれています。

 今村氏が主な戦場としていたのは太平洋戦争最大の激戦地と呼ばれた東南アジアに位置するラバウルです。この場所はオーストラリア軍、アメリカ軍からの最前線にもなるというのに本国からの補給が難しい場所にあったのですが、そんな難しい地点の防衛を任された今村氏は早くに敵軍によって補給路が遮断されると読み、諸葛孔明の五丈原での対陣かのようにあらかじめ部下を使って畑を耕すなどして持久戦に備えていました。
 アメリカ軍は当初、マッカーサーの強い意向もあり進路を完全制覇しながら進んでいこうと考えていましたがこのラバウルでの激しい抵抗を受け、補給路を寸断して日干しにしていくという「飛び石作戦」に切り替え、今村氏の読み通りに戦争の途中でラバウルは日本との補給路を遮断されました。しかしすでに述べたとおりに今村氏はこのような状況にあらかじめ備えており、結局アメリカ軍は最後までラバウルを陥落させる事が出来ず終戦まで日本側が保持し続けることができました。

 この戦略眼一つとっても今村氏は大した人間と言えそうなのですが、このエピソード以上に終戦後には今村氏のその人格の高さを伺える素晴らしいエピソードが残されています。
 終戦後、ラバウルに残っていた将兵たちはこれからどうなるのかと当初は不安に思っていたそうです。実際に満州など中国東北部に駐留していた部隊はその後ロシア軍から攻撃を受けて捕縛され、厳しいシベリア抑留を受ける羽目となっており、ラバウルの部隊でも米英軍の捕虜になって日本に帰ることはできないのではないかと言われていたそうです。しかし玉音放送の後に今村氏は、

「諸君らからなんとしても日本に帰還させる。だから安心してほしい」

 と言い切り、ある兵士はこれを聞いて、「なんとなく、生きて帰れるような気がした」と語っています。

 その後現地で武装解除したラバウルの将兵は無事日本に帰還できたのですが、今村氏は戦争指導者として戦犯裁判にかけらることになり、禁固十年の刑を言い渡されてほかの戦犯同様に巣鴨プリズンへと送られることとなりました。しかしその際に今村氏はマッカーサーに対し、こんな手紙を出しています。

「B、C級戦犯となった私の元部下らは巣鴨よりずっと環境の悪いパプアニューギニアのマヌス島の刑務所に入れられているのに、私一人がここでこんな待遇を受け続けることはできない。願わくば、部下たちと同じ刑務所に移送してくれないだろうか」

 この手紙を受け取ったマッカーサーは、「まだ日本には武士が残っていた」と言い、すぐさま今村氏の願いを聞き届けてマヌス島へと移送したそうです。一説によると、自分の刑期は終えたにもかかわらず部下が最後の一人が釈放されるまで今村氏は留まったとまで言われています。こうしたエピソードが、今村氏をこの記事の題のように「聖将」と呼ばしめる要因となったのです。

 その後今村氏は刑期を満了して日本に帰国してその命を全うしましたが、こうした戦中戦後のエピソードに限らず、ほかにもなかなか面白いエピソードをいくつか持っています。
 なんでも、子供の頃から夜に熟睡することができず、将軍となった後でもいろんな場所でしばしば居眠りをしていたそうです。ある日の会議でも居眠りをしていてそれを見咎めた議長が起きろと怒ったところ、今村氏は飛び起きるやその会議での発言を一語一句逃さずに最初から最後まで復唱して見せて、議長に何も言えなくさせたそうです。

 こんなエピソードのようにその秀才ぶりは凄まじく、陸軍大学校も首席で卒業しています(同期卒業に東条英機がいる)。その上占領地の軍政も非常に心得ており、今でも現地の教科書などで紹介されるほどらしいです。
 そんな今村氏ですが、ラバウルにてある日一人の兵士を見て、「やけに太っているな、こいつ」と言ったそうです。その言われた兵士というのも、私が尊敬するもう一人の人物である水木しげる氏です。先ほどの生きて帰れると思ったということを話したのも水木しげる氏ですが、変な話というか、私の尊敬する人は二人ともラバウル帰りなのです。

韓国での消費者金融会社

 もしかしたら以前にも書いたかもしれませんが、韓国での消費者金融の悪行というものは言語に絶するそうです。
 今はどうだかわからないのですが、それまで消費者金融がなかった韓国では法人向けの利率などを制限する法律しかなく、個人での金の貸し借りを取り締まる法律というものがなかったそうです。そのため利率も各店で好き放題に決められ、一説によると、年利率1000%(現在日本は20%、以前は30%が限度)という、一年後には借入金の十倍ものふざけた利子をつけて貸し付ける業者がいたそうです。今もいるのかな。

 これだけでも相当衝撃的なのですが、現在韓国の消費者金融業界でトップテンをほぼ占めているのは、なんと日本の消費者金融だそうで、トップは以前の情報だとアイフルとのことらしいです。そもそも、この消費者金融を韓国に持ち込んだのは日本企業だとも言われています。

 韓国というのはすでに何度も書いていますが、日本以上に格差の激しい国です。明らかになっている労働時間でも日本人の平均を超えているのに、平均月収は日本人以下で、その上失業率も日本とは比べ物になりません。そのため、前述のようなふざけた利率でも病気などで借りざるを得ない人が数多くいるそうですが、日本の消費者金融がそういった人たちを食い物にしていると考えると、同じ日本人として韓国人に対して申し訳なく思うときがあります。

 この情報は以前にも紹介した「縦並び社会」(毎日新聞社刊)で紹介されていた事実なのですが、さすがに最初は目を疑ってあれこれ確認を取ったところ、韓国人の友人から「その通りだよ」という情報を得ました。できればもう一回くらい確認を取りたいので、もし詳しい方がおりましたらコメントをください。

2008年8月22日金曜日

中古ゲーム裁判

 なんかこの前突然思い出したので、ちょっと懐かしい話をします。

 今回のお題の中古ゲーム裁判ですが、それこそ私の若い頃は何度も起こされてよくニュースにも載った話題なのですが、このところは全くといっていいほど取り上げられず、もはや死語となった言葉と言ってもおかしくないでしょう。案の定、この題で検索をかけてみた所、なんと六年も前の記事が一番上に出てきました。

 それで中古ゲーム裁判、これはゲームメーカー側が中古ゲームの販売店らに次々と起こした裁判のことです。何故裁判になったかというと、いちいち説明するまでもありませんが、中古ゲームが出回るとやっぱりメーカー側は売り上げが落ちるからです。たとえばあるゲームを百人がプレイするとします。これが百人全員が新品を買えば百本分の売り上げがメーカー側に転がり込みますが、五十人が新品を買って残りの五十人が最初の五十人が売った中古をプレイしてしまえば、メーカー側には五十本分の売り上げしかこなくなります。

 こんな感じになって困るので、中古ゲーム屋にもう売るなと裁判になったのがこの事例です。私が覚えている主なものだけでもコナミ、KOEI、エニックスなどと老舗メーカーなどがそれぞれ別々に裁判を起こしています。そして販売店の側も各チェーン店ごとにあれこれ訴えられて、私が昔行っていたゲーム屋なんて店内に、「我々は間違っていません」などと、裁判の経過(自分らに都合のいい)を貼り出したりしているところもありました。

 まぁ私も一消費者の立場として、中古ゲーム屋を支持する立場にありました。今でこそ新品価格でも8000円を越えることはありませんが、スーパーファミコンの頃は任天堂が高いロイヤリティを取っていたので、普通に新品価格が10000円を超えていました。こんな状態では小中学生はクリスマスや誕生日などのボーナスを当てにしないと、とても自分の小遣いでゲームを買うことはできませんでした。

 そこで出てきたのが中古屋です。中古屋だったら昔のやりたかったゲームなども安くで買うこともでき、私も大体七歳くらいからえらく重宝していました。いかんせん新品なんて買うのを逃すとゲーム屋に並ぶこともないので、そういう意味で私は中古屋をよく利用していました。

 しかし、ふと気がつくとこういった中古ゲーム裁判というのはめっきり聞かなくなりました。多少過去の記事とかを読みましたが、やはりゲームメーカー側が裁判で確実に勝てなかったのが一つの原因でしょう。KOEIなんか、「中古ゲームで売らないように」とパッケージに書いて販売していた時期もあったのですが。

 この裁判の経過というのも一つの原因でしょうが、それでもこの中古ゲーム裁判が行われなくなった最大の要因はやはり、言っちゃなんですがWINNYやエミュレーターに代表される違法ダウンロードという、中古ゲーム以上に歯止めの効かないものが出てきちゃったことにあるでしょう。大きな敵の前には小さな敵なんてかわいいものです。それでなくとも、中古ゲーム屋は新品ゲームの優良な販売店としてゲームメーカー側にも貢献する存在だったのですから、メーカーが矛を収めるようになったのが現状だと思います。
 ま、大人になって好きにゲームを買えるようになった今となっては、この争いに以前ほど注目できなくなりましたね。年取ったなぁ。

現自民党執行部の経済政策について

 久々の政治解説だ、しかも内容もあるからやる気が出る。

 さて現在自民党では経済政策を中心に、党が真っ二つに分かれて政権対立が起こっています。この対立で面白いのは従来の派閥対立と違って、自民党の最大派閥の「町村派」の中で主に対立が起こっている点です。ま、町村派以外の派閥は皆増税派だから、派閥対立と見ても問題はないのですけど。

 ここで簡単に対立構図を出します。前回にも似たようなものを出しましたけど、今回はまたあれこれ深いところまで解説するので頭に叩き込んでください。

上げ潮派 VS 増税派(財政再建派)
中川秀直    与謝野馨
安倍晋三    谷垣貞一
小泉純一郎   福田康夫

 といったところでしょうか。最後の小泉氏、福田氏のところは本当はちょっとグレーですが、一応乗せておきます。

 簡単に説明すると、上げ潮派の主張というのは、景気がよくなれば国の税収も増えるので、税金を上げたりせず景気対策を行ってれば自然と国の借金も返せるようになる、という主張です。
 それに対して増税派の主張は、もはや国としては財政支出を削るところまで削りこれ以上は減らせないのだから、将来的に借金を返していくにはもう増税しかない、という主張です。
 現状で私の見方からすると、どちらも一長一短な意見ですが、まだ上げ潮派の言うことの方が一理あると思います。

 というのも、増税派が主張しているように「もう支出はこれ以上減らせない」というのはあからさま嘘だからです。この前まで孤軍奮闘していた渡辺喜美前行革大臣がぶちまけたように、今もなお国の出先機関である特殊法人や社会保険庁といった組織では予算の無駄使いが絶えず、また国家公務員についても今年六月に大問題となったタクシー券問題で、今日でたニュースによると、問題発覚後にこれまでタクシー券を先に渡して自由に使用させていたのに対して使った分を後から申告するという形に変えて一ヶ月経ったところ、なんと支出が九割以上も減ったというのですから、ここは上げ潮派の言う通り、「増税する前に、まだやるべきことがある」というところでしょう。やるべきこと即ち、無駄遣いの禁止です。
  ネタ元:タクシー券中止で月9千万円減 国交省、国会中も続行へ(asahi.com)

 しかし、だからといって上げ潮派の主張も必ずしも正しいと言うつもりはありません。むしろ、その政策の稚拙さに少し呆れるところもあります。
 上げ潮派の政策は基本的には新自由主義政策、つまり規制改革路線に沿っています。なので経済活動を阻害するような増税や規制は基本的になければないほうがいいという主張なのですが、その結果が今の格差社会ですし、この格差問題をどうにかしようという政策や提言をこの連中は全く言っていません。前安倍政権でも「再チャレンジ」とか言ってたけど、誰に対してとまでは言っていないと私が見ているブログの人なんか揶揄していました。

 両派の主張はこのように隔たりがあるものの、プライマリーバランスの回復という目的では一致しています。このプライマリーバランス、横文字なんて使わずに言うと収支均衡といって、要するに借金を借りる量より返す量が上回った状態の事を指し、今の借金漬けの財政をとりあえずどうにかしようってことです。
 両派ともに「税収の自然増」、「増税」と、歳入を増やす手段は違えどすべてはこの収支均衡のための手段の違いで争っています……風に見えますが、私は実はこの点に大きな嘘が隠されていると思います。

 その嘘をついているのは増税派です。なぜなら、増税派は「税金を上げて、その分を借金返済にまわす」といっていますが、その借金を使っている官僚たちの天下り団体にはやけに好意的で、それを打破しようとした渡辺行革大臣を逆に斬って捨てています。
 率直に言うと、私は増税派が増税して得た収入はすべて、小泉政権時に一度は崩されかけたて自分たちの利権を再び肥やすためにしか使われないと思います。その根拠として、現在閣僚として名を連ねている大臣たちはすべて官僚寄りの政策を採る人間ばかりで、挙句の果てには、旧利権を代表する年寄りばかりだからです。

 さらに言うと、小泉、安倍政権と冷や飯食いだった連中らがここに来て勢力が復権して調子に乗ったのか、こんな本音ともとりかねない発言がありました。
「財政再建は後回しでいい。それよりも、景気対策として公共投資を増やし、個人消費を刺激させるべきだ」
 この発言をしたのはほかでもなく、現幹事長の麻生太郎です。さすがにこの発言には私はあいた口がふさがりませんでした。
 私のブログでもすでに散々取り上げていますが、90年代は延々と「景気刺激策」の名の下に公共投資を行ってきましたが、経済回復は一切なく、ただ国の借金とおかしくなった夕張市のような自治体だけが残されました。結論から言うと、個人消費というのはマクロな経済には何の影響も与えないと私は考えています。

 にもかかわらず過去の反省もなくこんな発言が出てきたのですから、呆れるばかりです。それに、真に公共投資を行うというのならば社会的に弱者とされる人間らに行わねばなりません。それこそ病気の人やら苦しい生活を強いられている農家の方などですが、こういった方々には一切補助はなされず、恐らく増税派のやろうとしている公共投資は、自分たちの票田や利権に関わる土建業者などにしか行われないことは目に見えています。

 よく麻生と福田氏には政策意見の違いがあるといわれていますが、そんなことはないと私は考えています。むしろ政策的にはかなり近く、増税するだけしておいて、ちゃっかり自分の懐に入れようというような政策を持っているように感じます。ただ麻生の場合は嘘が下手だから、「財政再建」という金科玉条を忘れて本音を言っちゃっただけなのでしょう。政治家的に未だ未熟ですね。

 なので、私は現状では上げ潮派をまだ推します。ロシアでは政治家というのは皆腐った連中なのだから、腐った連中の中でもまだマシなのを選ぶのが選挙だと割り切っており、私も同じ毒ならまだ生き残れそうな、こちらの毒を飲みます。

昔見た夢

 ある日私が昼寝していたら変な夢を見ました。

 内容は何故かサザエさんで、サザエさんが安いからといって古くなった玉子を買ってきて台所に置いていたら玉子が孵化し、中から成鳥となっているダチョウが次々と飛び出してくるというものでした。何匹ものダチョウが台所を走り回るのを磯野一家が呆然と眺める中、

「古いのを買ってくるからだよ……」

 と、カツオが一言ツッコミを入れてエンディングへと入っていくのですが、エンディングテーマは何故かTM-Revolutionの「Burnin' X'mas」というハイテンションな曲で、ダチョウが走り回る映像をバックに西川貴教氏の歌声が響くという内容でした。

 見終わった後、なんだったんだろうと小一時間悩みました。

2008年8月21日木曜日

ムシャラフ大統領の辞任について

 久々に国際政治ネタです。どうでもいいですが、今回お題のムシャラフ大統領にはちょっと思い出があり、確か高校二年生くらいの頃に、「武者ラフ大統領、元気?」という、わけのわからない短い小説を書いたことがあります。

 そんな過去の思い出はほっといて、すでに報道でもされているようにパキスタンの大統領であるムシャラフ氏がこのたび、自らの辞任を発表しました。辞任に至るきっかけとなったのは前回の国政選挙にて、議会を反ムシャラフ派の野党が過半数を取ったことにより、弾劾請求を受けるのが明白であったからというのが理由のようです。

 別にこれだけの政権交代劇なら私もわざわざネタにしないのですが、今回のパキスタンの場合はこれとは別に非常に大きな問題を含んでいます。何を隠そう、核拡散の恐れが事情通をを中心に現在駆け巡っています。

 核兵器というのは、言うまでもなく現状で最強の兵器です。パキスタンは過去のインドとの対立(現在は首脳同士が相互訪問するなど大分マシになってはいるが)の際、両国で核競争が起こった際、パキスタンは核実験に成功し、見事核保有国になりました。しかし、インドとは対照的に国内では常に紛争が絶えず、保有後の核管理という面ではパキスタンは非常にインドに対して出遅れているといわれ続けてきました。

 そこで今回の政変です。すでにかなり以前からパキスタンの政情不安から核兵器が他国に流出する核拡散の恐れがあると指摘され続けた上に、これまで統治してきたムシャラフ大統領の辞任です。しかも、代わりに政権を担当するのは反ムシャラフで一致しているだけの連立政権です。権力の基盤もしっかりしておらず、軍隊をきちんとまとめられるのか不安が残ります。

 ムシャラフ氏は報道によると、この後アメリカに亡命すると言われております。彼自身の去就はともかくとして、国際社会は今後、パキスタンに対して核の監視を強めねばならないと私は思います。

2008年8月20日水曜日

電子カルテの問題性

 医療問題を書いたので、も一つおまけに電子カルテの問題について書いておきます。

 現在、医師の仕事時間の半分以上はカルテ書きに費やされているといわれています。これを言うとよくびっくりされるのですが、医療処置や相談を受けている時間より、今はカルテを書いている時間の方が長いようなのです。何故かというと、一つ前の記事でも取り上げたように医療事故、裁判について国が前もってあれこれ経過を書くようにと医師に徹底させたため、このようにいつの間にか順序が逆になってしまうような状況へと医師は追い込まれてしまったのです。

 その結果、カルテの方に時間がかかり、医師の仕事は最近でも報道されるように、時間に追われるハードワークとなってしまいました。その対策として国は、タッチペンなどで押すだけでカルテができる、「電子カルテ」の導入を決めました。
 この電子カルテ、実際に私は使用したことはないのですが(似たようなものとして、献血時の問診票をタッチペンで作るのはやったことがあります)、やはり使うと早いそうです。これを導入することによって一気に作業効率が向上し、医師の過重労働もこれで解消されると言って国は、具体的な日時はわかりませんが、期限を切って電子カルテをすべての医師に原則的に使うようにと定めたらしいです。

 しかし、この電子カルテは何も普通のパソコンにソフトを入れるだけの代物ではありません。なんでも、一台を導入するのに数百万円は下らない代物なそうで、普通の病院に入れようものなら数千万円単位の投資が必要となってくるそうです。

 それこそ大病院なら……っても、最近は大病院でも非常に経営が苦しいのですが、小さい診療所などでやっている開業医なんてとても導入できないそうです。しかし、国が定めた期限以後は電子カルテしか認められないため、その期限がきたら医師不足の現状なのに、多くの医師が廃業を余儀なくされるとまで予想されています。

 私は実際に現役の歯科医の方から話を聞く機会がありましたが、やはり導入することは資金上不可能で、その期限が来たら引退だと述べていました。その上で、もし国は電子カルテを共用させるというのなら、ちゃんと補助金を用意すべきだと主張もしていました。

 私も同感です。そもそも、カルテ書きに医師を忙殺させたのは国の政策です。それならばその対策もすべて国が持つべきでしょう。何をどうすればいいのか、この問題には医師を交えてもっと開いた議論が必要だと私は思います。

医療事件裁判の無罪判決について

 今日プロ野球チップスを買ったら、ついてたカードが日ハムの森本でした。人気選手なだけにカードもキラ仕様で非常にうれしかったです。

 そんなどうでもいいことはおいといて、今日は最近少なかった時事ネタです。

<大野病院医療事件>判決に被告は安堵 遺族は目を閉じ…」:YAHOOニュース

 早速リンク先のニュース記事を読んでくれればわかると思いますが、本日ある医療事故……ということで提訴された裁判の判決が下り、提訴された産婦人科医に無罪が言い渡されました。結論から言うと、私はこの判決を支持します。

 この事件のあらましを簡単に説明すると、原告の妻であった女性が出産の際、手術を担当した被告の産婦人科医が胎児の取り出しを行ったところ、女性が「癒着胎盤」という症状を引き起こし、胎盤を引き剥がすために出血多量となり女性が死亡してしまったことを、原告の夫が医療過誤ということで医師を訴えたのがあらましです。

 今回の無罪の判決理由として、結果的に女性は死んだものの医師の判断が著しい医療過誤とは認められないという理由からでした。
 伝え聞く範囲でも産婦人科医というのは非常に労働条件の悪い職といわれ、その上このような裁判まで行われてもし有罪にでもなってしまえば、一体どうなるかと思っていた矢先だったので無罪となり、正直私はほっとしています。

 私は今回争点となった「癒着胎盤」という症状やくわしい医療知識などを持っているわけではないのですが、各報道の解説によると、医師がこの事件で取った処置はいわゆるグレーゾーンに当たる処置だったようです。データ的に確とした処置法はなく、また突発的に起こっては非常に対応が難しいとされる症状で、そのような場合の失敗をいちいち有罪にされていては、私は医療そのものの根幹に関わるような大きな問題を引き起こしかねないものと考えています。

 確かに、あからさまな過失や意図的な過失の場合はこうして裁判にして糾弾するべきでしょう。しかし、今回の例はかつて2002年に起きた東京女子医科大の心臓手術のカルテ改竄事件のような悪質性はなく、遺族に対しては大事な人をなくされ私個人としては確かに同情いたしますが、やはり裁判にすること事態間違っていたと言わざるを得ません。

 本日の朝日新聞の夕刊によると、今回被告となった医師はこの事件で警察に逮捕されたとき、自身の妻が出産予定日の四日前だったそうです。また勤務していた病院では一人院長、つまり一人ですべて切り盛りしており、それまで担当していた患者たちすべては当時に転院を余儀なくされたのに、警察の捜査のために引継ぎもできなかったそうです。もちろん、この事件の影響で未だに休職中です。
 記事を読む限り、この医師としても患者を死なせてしまったことを強く後悔しているようです。遺族に対しても謝罪をしているようですし、私はこのような立派な医師が何故こうも糾弾されなければならなかったのか不憫でしょうがありません。

 報道につけられた解説でも述べられていますが、本来出産には大きな危険が付きまとう手術です。盲腸でもなんでも、医療手術というのはどれもそれによって命がなくなる危険性が付きまとっています。しかし、治して当たり前、という常識が強くはびこってしまっている現状、一度の失敗で何でもかんでもやれやぶ医者だ、悪徳医師だなんて糾弾しては絶対にいけません。比喩を用いると、たとえ99人の命を助けても、1人の命を救えなければ即地獄行きだなんて、悲しい世の中です。そんな世の中に、してはなりません。

2008年8月19日火曜日

太陽電池とは~その六、今後の展望~

 この連載も今回が最期です。最期につきまして、今後の太陽電池の展望について書いてみようかと思います。

 まず太陽電池はこれから伸びるかどうかといったら、少なくとも現状よりは利用が増えると思います。特に宇宙開発の分野では大きなエネルギー源として期待されていますし、むしろ開発が急がれると思います。しかし連載中にも書いたとおり、地球圏においては主電源としてではなく、補助電源としての使用が限度なのではないかと思います。

 技術革新についてはあちこちでまだまだ発電効率が上がる可能性があると述べられており、非常に期待できると思います。ただ私なんて変わり者なので、一般に広まっているシリコン型の太陽電池よりも、ちょっと変り種に属する色素増感型太陽電池の方に期待しちゃったりしています。
 この色素増感型太陽電池というのはその名の通り、色素を使って発電する太陽電池のことです。通常のシリコン型と比べてまだまだ発電効率が低いのですが、シリコン型と違ってシリコンを使わない、つまり半導体を使わず色素による電子の吸収、移動を行うというなかなか聞いてて楽しそうな構造をしています。中身については私もまだあまり理解していないので、興味のある方は最後のリンク先を覗いてみてください。

 同じく技術革新という点で、富士電機システムズのアモルファス型太陽電池も見ていて興味を書き立てられます。ここの太陽電池は通常、ガラスを基盤に使うところをプラスチックフィルムを代用することによって、なんと折り曲げられます。でもって軽い。なのでそれこそ壁面だろうと電柱だろうと余裕で撒きつけられるので、これまで形状から導入が難しかった場所へも一気に用途が広がります。一応企業なので、怖いからリンクは敢えて貼りません。面白いので、こちらも興味のある方は検索して調べてみてください。

 以上のように、太陽電池についてあれこれまとめてみました。はっきりいってこういった分野は私にとって畑違いなのですが、よく科学ジャーナリストの記事などを見ていると、このような理系の内容を文系が如何にして伝えるべきかというのをこのところよく感じており、わからないからという理由だけで取り組まないよりも、わかる範囲だけでも記事にするべきじゃないかと思い、一つ試しのつもりで書いてみました。
 恐らく私が誤解している部分や、実際には間違っている部分などは多々あるでしょうが、それなりに書いてみて満足はしています。

 唯一惜しむらくは、これを書いているこの三日間はちょっとプライベートの方でめちゃくちゃイライラさせる事件が起こり、ちょっと文体にも影響しているのではないかという懸念があります。実際読んでみると、昔の躁鬱っぽい状態の頃のように文章によって妙にテンションが跳ね上がっているのが見受けられます。別に悪いことじゃないんだけど。

  参考サイト
色素増感太陽電池ホームページ:http://kuroppe.tagen.tohoku.ac.jp/~dsc/cell.html

太陽電池とは~その五、国の政策の違い~

 早いものでこの連載も五回目。一回目は確かに苦しんだけど、その後は文量も少ないしさくさくいってます。

 さて先月あたりに経済誌をにぎわせた太陽電池の話題といったら、何よりもその発電量順位の変動でしょう。太陽電池は生産量よりもその製造メーカーがこれまで作ってきた太陽電池でどれほど発電したかで順位が決められるのですが、これまでこの発電量では日本のシャープが常に一位でしたが、去年にとうとうドイツの「Qセルズ」に追い抜かれてしまいました。

 この順位の変動に対して各誌では、太陽電池に対する国の政策が変動を促したと主張されています。その政策の違いですが、日本は2004年まで太陽電池の住宅設置に対して補助金を出してきたのですがそれも2005年に打ち切られ、それに対してドイツでは太陽電池で発電した電気を電力会社に買い取らせる場合、環境保護を名目に通常の電気料金に対して割り増しで買わせる法案を通し、その結果このような順位の変動が起きたというわけです。

 しかし、ひねくれ者の私はというとこの意見とは別の意見を持っています。確かに今の意見も一つの原因でしょうが、それ以上に大きな理由となっているのは、昨日にも書きましたが原材料のシリコンの確保が大きいのではないかと思います。
 昨日に書いたとおり、ここ数年で急激に太陽電池の生産量が増えてしまい、慢性的にシリコンが世界で不足する事態となっています。しかしドイツのメーカーはあらかじめシリコンを生産現場から毎年一定量を購入する契約を結んでいたため自分らの分は確保しており、それに対してその場その場で購入してきた日本は不足によって一気に買えなくなってしまったというのです。恐らく、国の政策如何よりもこちらの原因の方が大きいのではないかと私は考えています。

 ちなみに、日本の太陽電池政策でもドイツのように太陽電池発電の電気を割り増しで電力会社に買わせるという政策が協議されているようなのですが、東京電力がどうも反対をしているようです。あまり詳しく調べていませんが、私は現時点で東京電力の肩を持ちます。その理由というのも、目下のところ原発が事故を起こしたせいでなかなか稼動できず、また原油高で非常にコストが高まっている状況下でこれ以上圧迫かけたらちょっと可哀そうかな……というのがその理由です。

2008年8月18日月曜日

太陽電池とは~その四、弱点~

 前回に引き続き太陽電池です。といっても、前回を書き終えたのはほんの一分前ですが。
 さて今回では太陽電池の現状における弱点をいくつか紹介します。まず、これはどの経済誌にも今書かれている内容でしょうが、現在この太陽電池の生産が世界中で一気に行われているため、太陽電池の主材料となる半導体の材料のシリコンが需要に追いつかないという状態です。詳しくはわかりませんが、昔からこの太陽電池は生産がなかなか伸ばせられないと言われていたので、すぐに作れといわれてもなかなかできないという性格を持っている製品のようです。

 次に発電についての弱点ですが、まず第一に言えるのが発電量をコントロールできないということです。太陽電池は光があってなんぼです。なので夜間や雨、曇りの日には鋼の錬金術師の大佐みたくなんの役にも立ちません。特に日本では夜間の発電量が他国と比べて比較的高いため、この太陽電池一つですべての発電をまかなおうとしても非常に難しいでしょう。

 私などはこの辺は割り切って、たとえば真夏の昼間などのように電力需要が最も高くなる時間帯の補助電源として太陽電池は使えばいいと考えています。しかし何度も言うように太陽電池単体、もしくはそれを主力にして発電を行っていこうという考え方はやはり好きになれません。

 この発電量がコントロールできないという点についてさらに言及すると、太陽電池は名前こそ「電池」といいますが、実は発電した電気を蓄えておくことができません。そのためどれだけ昼間に発電してその電気が余ったとしても、目下のところ夜間にその電気を使うことはできません。
 この点に関しておととい、友人がダムにその電気を回せばいいじゃないかと教えてくれました。その友人によると、ダムというのは発電量が余っている時は、発電時とは逆に電気を使って水を吸い上げるそうです。そうして吸い上げた水を発電時とは逆に水車を回すことによって、電気を使いながら電気を発電する、というような動作をして電気を蓄えているそうです。今まで全然知らなかったけど。

 もしそれで電気が蓄えられるのなら何も問題はないのですが、私は恐らくこの「蓄える」という点が今後の太陽電池を左右する場所だと考えています。一部のサバイバル用の野外で使う太陽電池にはバッテリーが組み込まれているそうですが、それでも使用の際に十分な量は蓄えられないとのことです。
 逆を言えば、この太陽電池に組み合わせて使える充電池、もしくは高性能なバッテリーが開発されれば、それこそ昼間発電夜間使用というように夢のサイクルの実現も目に見えてくるのではないのかと思います。現在各企業では太陽電池自体の開発にいそしんでいますが、むしろこの充電池の開発の方が夢もあるしビジネスチャンスも大きいのではないかと素人ながら思います。

太陽電池とは~その三、ブームの裏側~

 この連載も三回目です。多分ここが一番私が書きたかった内容です。

 さてこの太陽電池、今年に入りテレビCMやら環境番組などで急激に取り上げられるようになってきたと思いませんか。太陽電池自体はなにもつい最近に発明されたわけでなく、確かに技術革新は進んでいるとはいえ何故こうも急激に取り上げられるようになったのか、私は以前から不思議に思っていました。

 仮説として最初に挙がったのは、やはり環境問題でした。エコなエネルギーとして開発が期待されている燃料電池や原発と違い、太陽電池は作ってしまえば燃料は一切ゼロ、ランニングコストが一切かからずまた余計な排出物を出さないということで最大のエコエネルギーと言われており、環境意識が高まる中で急激に広がって今のようなブームになったのか、というように最初は感じました。

 しかし、環境問題というのは基本的に胡散臭いものと考えている私にとって、こんな話をそうやすやすと受け取れるものではありません。そこでいろいろ調べてみて私なりに出した結論というのが、このブームは半導体の価格値下がりが原因であるのではないのかというところにたどり着きました。

 ここでぱっといいましたが、皆さん、ここ数年でパソコンがまたえらく安くなったと思いませんか。この原因はパソコンの材料に使う半導体の価格がここ1、2年で急激に下がっているのが原因です。そのためこれまで半導体を作ってきた企業はどれも利益が減り、日本企業では大幅な投資を行って巻き返しを図っている東芝を除きほとんどのメーカーでコンピューター向けの半導体生産を縮小、あるいは撤退をしています。ソニーなんてCELL工場丸ごと東芝に譲り渡したし。

 企業としてはこのまま半導体を作っててもどうしようもない。そこで出てきたのが、この太陽電池というわけです。
 この太陽電池は昨日までの連載で説明したように、主材料は半導体です。そのため、これまでコンピューター向けの半導体を作っていた工場や施設に軽く手を加えることですぐに生産できる代物なため、コンピューター向け半導体より利益の狙える太陽電池へとシフトしていったのが恐らく実情でしょう。実際に大メーカーだけでなく、コンピュータ向け半導体の一次材料、二次材料を作ってきたメーカーも太陽電池の生産に乗り出しています。そのため環境問題というのは二の次の大義名分、もしくは単なるパフォーマンスというのが実情だと思います。それ言ったら環境PRすべてそうだろうけどさ。

 おまけにこの太陽電池は何度も言っているように技術革新が続き、このところは1~2年くらいで設置コストを上回る発電量が期待できるようになったため、大幅な設備投資が行われるという予想もあってこう毎日シャープなどのテレビCMで拝めるようになったのでしょう。因みに先ほどの設置コストというのは、

 太陽電池の設置にかかる費用>発電した分の電気代

 です。つまり、設置する際にある程度まとまったお金がかかりますが、大体1、2年くらいでその分の費用以上に電気代を節約できるということです。特に最近は余った電気を発電会社に逆に買わせることもでき、ますます費用対効果が高まっているといわれています。

 ここまで書くと、なんてすばらしい太陽電池、燃料はいらないし環境にもやさしい……という風に思われるかもしれませんが、もし本当にそうだったらこんだけ環境問題で前のサミットのようにもめたりはしなかったでしょう。おいしい話には必ず落とし穴があります。次回はその落とし穴、といっても私も素人なので多分まだまだ私の知らない落とし穴があると思いますが、ひとまずわかる範囲で太陽電池の弱点を開設します。

2008年8月17日日曜日

太陽電池とは~その二、種類~

 昨日に引き続き太陽電池についてです。前回は一番ややこしい原理をわんこそばに無理やりたとえて説明しましたが、今回も昨日ほどではないにしろ、すこしややこしい構造の部分です。現段階で言うのもなんですけど、本当に書きたいのは何故今太陽電池がよく話題に上るのか、そういった社会的な面を書きたいのですがいきなり書いても仕方ないですしね。

 それで種類なのですが、一口に太陽電池と言ってもいくつか系統に分かれています。種類分けの目安となるのは主に原材料で、まず大まかに分けて、

1、シリコン系
2、化合物系
3、有機系

 以上の三つに分かれます。一般に言われている太陽電池というのはまず間違いなくシリコン系を指しているので、本解説ではシリコン系に限って解説します。なお、三番目の有機系に属する「色素増感太陽電池」というのは見ていてなかなか面白いので、別の回にて説明します。

 それでシリコン系ですが、これはその名の通りにシリコンを原材料にします。シリコンというと私はちょっと前まで女性の豊胸手術や顔面整形の頬に入れるだけの物質かと思っていましたが、最近になって多方面に使用されているということがよくわかってきました。いくつか例を挙げると、一部のプラスチック製品や金属の金型、そして今回の太陽電池のように半導体材料として使われています。

 恐らく、このシリコンは半導体材料として使われる量が最も多い材料でしょう。加工が容易で手に入りやすく、その上半導体の材料となれる電子を通したり通さなかったりする物質なので、非常に需要が高い物質です。原材料は珪石といって、昔は「火打ち石」と呼ばれていた鉱物から作ります。これは鉄と同様に地球上に数多く存在する物質で、多分このネタでも記事が一本書けるんですが、実は日本はこの珪石を中国から大半を輸入しています。

 そんなシリコンから作られる太陽電池ですが、ここでもまた種類が分かれます。まず、よく民家の家の屋根などに取り付けられている太陽電池は、いわゆる結晶型の太陽電池が使われております。この結晶型はさらに「単結晶型」と「多結晶型」と、材料に使われるシリコンの純度によってまた分けられており、単結晶型というのは高純度のシリコンを材料に使うためコストも比較的割高なのですが、その分発電量を左右する変換効率は高いとされています。
 それに対して多結晶型は純度の低い安価のシリコンで作られますが、単結晶型に比べると変換効率は低くなります。しかし変換効率は低いものの、コスト面では絶大な力を持っており、現在の太陽電池の主流となっているのはこの多結晶型で、さらに近年はネックだった変換効率も高く向上しており、この面で単結晶型に迫ってもきているといいます。

 これら結晶型に対して、ある意味一番身近な太陽電池がもう一つの「アモルファス型」太陽電池です。このアモルファス型は主に小型精密機器に使用されており、電卓などについている太陽電池はほぼ間違いなくこのアモルファス形です。先ほどの結晶型と比べると変換効率は非常に低いのですが、結晶型と違い光の波長が短波でも(太陽光は長波)電気へと変換できるので、蛍光灯の明かりでも使用できるのが大きな問う口調です。材料のコストも低いのですが、太陽光を浴び続けると劣化してしまうのとその変換効率の低さゆえにこれまで大きな需要へとは至らなかったのですが、こちらも技術の進歩によって劣化対策が進み、現在では主に「多接合型太陽電池」などに組み込まれるようになっております。

 この、今出た多接合型太陽電池というのは、複数の光の波長に対して対応させるために作られた構造のことをさしています。先ほどアモルファス型の説明で出ましたが、アモルファス型は短波の光に対応しているように、各太陽電池の種類もそれぞれ変換できる光の波長が決まっています。そのため、対応している波長の違う太陽電池を一つの装置に組み込むことによって、文字通り光を余すところなく電気へと変換できるようになるので、こうして組み合わさって作られているのがこの多接合型太陽電池です。このように複数の太陽電池を組合わすことによって近年の変換効率の上昇率が飛躍的に高まっていったとされます。

 ようやく太陽電池の説明が終わったなぁ。明日からようやく書きたい内容が書けるよ……。

2008年8月16日土曜日

太陽電池とは~その一、原理編~

 以前にある友人から、「太陽電池について情報はない?」と聞かれたので、太陽電池関連の企業に勤めている別の友人に尋ねてみたところ、

「俺にだって、わからないことだってあるさ……」

 とキバヤシばりに答えられたので、代わりに私があれこれ調べてみたのでその情報をしばらく連載で解説しようと思います。
 今ちょっと復習をかねてウィキペディアの「太陽電池」の項目を見てみましたが、一度は読んだことがあるもののやっぱり文字びっしりでちょっとわかりづらく感じました。構造とか原理には専門的な内容が含まれるため難しくなるのはしょうがないでしょうが、それに対して私の表現力がどこまで肉薄できるかが今回の連載の肝でしょう。

 それでは早速一発目の解説を始めますが、多分一番ややこしいであろう太陽電池の原理についてです。
 まず基本的な話として、この地球上にある金属からたんぱく質までのあらゆる物質は、太陽の光を浴びるとみんな熱を帯びます。これは物質の中で飛び回っている「電子」が太陽光のエネルギーを受けることによって分子内で活発に動き、その際に余分なエネルギーを熱として外に出すためです。簡単に言うと、太陽光を浴びると暖かくなるのは、分子内の電子が刺激されて要らないエネルギーを出すからです。

 基本的に、太陽電池はこの原理を応用して作られています。太陽電池の主材料である、コンピュータ部品としてもよく使われる半導体とは、電子を通したり通さなかったり分別する材料のことを言います。この半導体にも二種類あり、n型半導体とp形半導体といって、それぞれ単純な言い方をすると「陽極」と「陰極」、つまり電池のプラス、マイナスのような関係にあり、n型というのは常に余分な「電子」を抱えて隙あらばどんどん放出しようとする半導体であるのに対し、p型は逆に電子の受け皿となる「正孔」をたくさん持っている半導体です。

 このようにそれぞれ性格の違う半導体を二つ重ねると、放出したがっているn型の半導体から受け入れたがっているp型の半導体へと電子が移動します。しかしいくら受け入れたがっているp型といっても、いくらでも電子を受け入れられるわけじゃないので、わんこそばのように「もういいよ」といって途中からn型からの押し出しを拒否するようになり、放出しようとするn型との間で電子と正孔を押し合いへし合い、わんこそばで言うとそばとおわんを押し合っているように、いつしか接合面では電子の移動が止まり、安定した「電界」という領域の状態へとなっていきます。
 これまでの過程を簡単な図にするとこうなります。

  どんどん来い!>p型半導体(おわん)→←(そば)n型半導体<はいどうぞっ!
                  ↓ ↓ ↓
  ごめん、もういいわ……>p型半導体←(電界)→n型半導体<そんな……


 自分で書いてて、すごくアバウトな図な気がします。文字表現でこの原理を図に描こうとすること自体凄い試みだけど。ちなみに「おわん」が「正孔」で、「そば」が「電子」のつもりです……。

 さてここからが肝心な部分ですが、こうして電界が発生している接合部に太陽光を当てます。するとほかの物質同様に中で電子が活発に動き始め、ちょっとこの辺の理解が曖昧なのですが、太陽光を浴びると上の図のおわんに当たる正孔も活発に動き始めるようで、電子も正孔も弾き飛ばされるように真ん中にあったものがそれぞれの端側へ一気に飛びます。そこへあらかじめ導線となる回路線を電子を放出するn型に取り付けておくと、弾き飛ばされた電子が回路線を通過して、その回路線につながれた電球なり電卓なりに通過することによって電気を供給し、最期にp型へ取り付けられた回路へと導かれ、電子同様弾き飛ばされた正孔が通ってきた電子を受け取る、というようになります。そのため光が浴び続ける間、この二つの半導体は永遠に電流が流れる状態となるので、接続された機器へ電気を供給できることとなるのです。
 これも、また図にすると、

      ←←←←←←←(光る電球)←←←←←
     ↓                        ↑
     ↓           太陽光         ↑
     ↓            ↓           ↑
   (おわん) p型半導体(電 界)n型半導体 (そば)
     →→→→→→→→ ↑ ↓ →→→→→→→

 というような感じです。例によっておわんが正孔で、そばが電子のつもりです。

 ここまで書いといてなんですが、ぶっちゃけ原理を誤解しているところがある可能性が高いです。多分以下に示す参考サイトを見た方がずっと解りやすいと思います。我ながら今回はわんこそばをたとえにするあたり、相当思い切った感があります。よく考えたな、こんなの……。

  参考サイト
産総研:太陽光発電研究センター「太陽電池の原理」

2008年8月15日金曜日

頭文字Dについて

 今日は特に書くことないから、ほんと言うと明日辺りからまたややこしいことを書く予定ですが、久しぶりにまた自分の事でも書こうと思います。

 今BGM代わりに「Break in to the night」という曲を聴いています。聴いててなんですが、よくこんな歌でこの歌手はやっていけるなと思うくらい下手くそです。しかし、この下手さがかえってよいと思い、ことあるごとに聞いています。
 この歌を歌っているのはm.o.v.eといって、アニメ「頭文字D」の主題歌を担当しているグループです。多分何度か書いていますが、私はこの頭文字Dにまたえらくはまって、それまで全く興味のなかった自動車が一気に好きになるきっかけとなった作品です。

 この作品の内容自体はウィキペディアを見てもらえばわかると思いますが、本来は初心者マークをつけるはずの主人公藤原拓海が公道レースにデビューし、その技術でもって様々なライバルを倒していくという話です。
 率直に言って、この作品が何故評価されたのかというと、まず第一に挙げられるのが主人公の使用車種が「トヨタAE86スプリンタートレノ」であることでしょう。これは往年の人気車種ですが、連載が始まった頃ですらすでに10年落ちのロートル車種でしたが、作者がこの作品で「おとぎ話を描きたかった」と言っているように、性能的には明らかに敵うはずのない最新車種のライバルたちを次々と倒していく爽快さが読者にはたまらなかったと思います。車の性能のハンデを技術で覆すという単純なストーリーの王道ですが、作者の技術的な解説(こじつけにちかいけど)が補填され非常によくできたストーリーへと昇華されています。

 次に、私がこの作品でよかったと思う点が、主人公の高校生らしさだと思ってます。連載ではすでに高校を卒業していますが、連載当初は高校三年生の夏休みから始まり、当初は周りに振り回されて嫌々レースを行っていたものの、レースを重ねていくごとに自分の心境の変化、早く走りたいと思っていくようになる過程が、18歳の少年らしさが出ているように思えます。もちろん18歳なので、時には無茶とも思える行動を犯し、自ら挑戦したランエボⅢとの勝負で86のエンジンをブローさせて敗北を喫するなど(ちなみにこのときランエボⅢを運転している須藤京一が私の一番のお気に入り)不器用な姿も描かれており、非常に人間描写が優れているという点も、この作品を人気作品へと押し上げた要因でしょう。
 さきほど、主題歌を歌っている人の歌が下手くそだがそれがいいと書きましたが、その理由はここにあります。主題歌が程よく主人公の不器用さを表しているようで、非常に作品にマッチして聞こえてきます。いちおうフォローを入れておくと、最近だとこの歌手は少しはマシになりました。

 漫画としての表現面では、この作者の走行する自動車の描写ははっきり言って天下一品でしょう。結構ほかのレース漫画を見てると、車が走っているシーンですらまるで止まっているように見えて、全然迫力がありません。というのも二次元で、しかも静止画で車が走っている状態を描くのは非常に難しいとされています。言えばそのままですが、車は走っててもそんなに目に見えて走る動作を見せないので、常に同じボディ表面のままを書かざるを得ないのですが、この作者は擬音と効果線、そして視点の使い方が非常に上手く(その一方で人物画は下手だと揶揄されてますが)、文字通りこれだけ走っているように見せられるというのは驚愕の一言に尽きます。

 そんな頭文字Dですが、私がこの作品の中で特に気に入っているバトルをいくつか挙げると、まず藤原拓海対高橋涼介のAE86対RX-7サバンナです。普通に考えたら、RX-7が負けるなんてありえないんだけどね。そして先ほども挙げた、藤原拓海対須藤京一のAE86対ランエボⅢの二戦目です。この時は86もエンジンを取り替えてパワーアップを遂げており、見事にリベンジを果たすというのが見ていてたまらなかったです。
 そして、これは多分私だけではないと思いますが、藤原拓海対館智幸のAE86対シビックタイプRの対決です。この対決は話に二転三転があり、あのブラインドアタックも炸裂するので盛り上がりという点では最もよいバトルだと思います。しかし残念なことに、このバトル以降はどうも中ダレ気味です。作者もあまり連載をこれ以上続けたがっていないようですし、私としてもこのバトルが事実上、頭文字Dの最終回のようなものと位置づけています。

2008年8月14日木曜日

日本経済の非効率について

 今お盆シーズン真っ盛りのため、連日高速道路の渋滞情報が報道されています。その渋滞を作っている人たちはお盆に実家に帰省するか、もしくはバカンスに避暑地などに行く人が大半だと思われます。

 これは私の恩師のK先生がよく語っていた話ですが、日本人はお盆と正月に集中して行楽地へ出かけるのは、経済的には非効率なことをしているというのです。何故非効率かというと、この時期にまとめて移動するために渋滞が起きるからではなく、この時期にしか行楽地を使わないために、旅館やそういった施設というものが一年を通して非常に非効率な経営をせざるを得なくなるからです。

 ちょっと算数的な話をしますが、ついてきてください。
 とある行楽地があるとします。そこには一年間を通して正月とお盆のある一月と八月はいくらでも人がやってきてどこの旅館も満員になるのですが、それ以外の月だと一つの旅館だと100人しか人が来ません。なので、ひと月あたりの収容人数が1000人、500人、200人の旅館だと、一月と八月にはそれぞれ満杯になりますが、それ以外の月だと皆一緒に百人しか客が来ません。それで一年辺りの客数を計算すると、

1000人:1000×2+100×10=3000
500人 : 500×2+100×10=2000
200人 : 200×2+100×10=1000

 という結果になります。そのため、単純に言って稼ぎ時である一月と八月にかけて客を大量に取り込む、つまり収容人数を可能な限り大きくしなければ売り上げが伸びず、旅館の経営が成り立ちづらいのです。見る人によっては、「少ない収容人数でも細々とやればいいのでは」と思うかもしれませんが、やはり経営を行っていくにはある程度の収入を稼がねばならず、どこの旅館も収容人数を大きくせざるを得ないと聞きます。

 そうして経営をやってくために収容人数を増やすため、経営者は旅館の部屋数を増やしたり従業員も多く雇うのですが、そういった投資は一月と八月以外では逆に経営の重荷にしかなりません。掃除も毎日しなければならず、労働的にも多く働かねばなりません。かといって一月と八月に客を取り込めなかったらやっていけないので、一種のジレンマに旅館は陥ってしまいます。

 しかし、もしこれが一月と八月に集中しなければどうでしょうか。たとえば、毎月コンスタントに250人ずつ来るとします。すると、

250×12=3000

 という風に、最大収容人数が250人の旅館でも、先ほどの収容人数が1000人の旅館の一年分と同等の客を迎えられることになります。つまり、コンスタントに客が来ることによって無駄に大きな施設を作る必要もなく、単純計算で4分の1の投資でも同じ売り上げが見込めるということです。もちろん、施設の維持や従業員にかかるお金も単純計算で4分の1になるので、利益も非常に大きくなります。

 このように、日本人が娯楽を一月と八月に集中して使うのは日本人全体にとってとても非効率的なことだと、私の恩師は語っていました。この考えはもっとミクロな世界にも通用し、たとえばラーメン屋さんでも、お昼の12時から12時半に客が一気に集中するので、売り上げを伸ばすため店を大きくしなければいけないところを、もっとサラリーマンなどが昼休みを分散して取り、11時から2時くらいまでの間に分けて来ることによって、投資もする必要がなくなったり、お昼の一時間に馬鹿みたいに忙しく働かなくともよくなり、ラーメン屋さんのおじさんも大助かり……という話にもなります。

 このように、ほんのちょっとの工夫で社会というものは非常に効率的になり、働く側も負担が減り、サービスを受ける側も、ラーメン屋の例だと混雑に悩まされなくなるなどいろいろ恩恵を受けられるのです。経済学というのは中にはお金儲けの学問だと考えている方もおられますが、実際にはこのように、どうすれば皆で得するのかということを考える学問です。そういうことを教えてくれたK先生に、この場を借りて感謝をさせてもらいます。

北京五輪の報道について

 別に敢えて避けてきたわけじゃないけど、今も開催中の北京五輪について今日はお話します。

 これは今日のニュースですが、水泳の北島選手が100メートルに続き200メートルでも金メダルを取りました。これ事態は非常にめでたいわけですが、確かおとといのニュースでしょうか、北島選手の北京での人気ぶりについて日本の民法が現地の新聞を取り上げ、

「現地では北島選手のことを「蛙王」と呼んでいます。なんでしょうかね、蛙みたいに泳ぎが速いからですかね」

 とレポーターが言っていましたが、この放送局にはまともな中国語スタッフがついていないのではないかとちょっと思いました。というのも、この言葉に含まれている意味はただの蛙じゃありません。北島選手の専門の平泳ぎは中国語だと「蛙泳」なので、ただ単に「平泳ぎの王者」という意味で使っているのでしょう。ちなみにクロールは「自由式」、背泳ぎは「仰泳」、バタフライは「蝶泳」です。

 これとともに思ったことで、これは報道というよりもネットでの評判ですが、よく中国の空気は汚染されている、吸うと体がおかしくなるという報道がありますが、私はちょっとこれはおかしいのではないかと思います。
 そもそも、東京五輪が行われた時は東京の空気は多分今の中国より悪かったのではないかと思います。というのも、当時はようやく公害問題が注目され始めた頃で、光化学スモッグが夏場はほぼ毎日発生していたと言われています。日本だってそういう時期があったのだから、何もこれだけ激しく中国のことを責めなくともと、個人的には思います。

 そして私の体験だと、私は一年間北京で留学生活を送りましたが、それほど北京の空気が汚いとは思いませんでした。そりゃ確かに日本と比べれば汚いと感じますが、個人的な見解をいうとロンドンの空気の方が北京より何十倍も汚かったように思えます。「イギリスの車には排ガス規制がないのか」とすら思うくらいに、鼻で吸うとものすごいにおいがして、口で吸うと思わずむせる、ロンドンはそれくらいの空気の汚さでした。その空気の悪さを反映しているのか、道路は文字通り真っ黒で、手で触るとすすですぐ指が黒くなります。さらに言うと、これは私は行っていないのですがフランスのパリに行った人によると、パリはこのロンドン以上に汚いそうです。

 唯一、北京の環境面で悪いところを言えば、この夏場の暑さです。はっきり言いますがめちゃくちゃ以上です。共産主義国なもんで道路幅もやたらと広いから照り返しもきついし、じりじりと肌を焼かれるような日差しでした。そういうわけだから北京でマラソンをやるなんて、私なら頼まれたってごめんです。

2008年8月13日水曜日

予想の極意

 本日のMSN産経のニュースにて、「アイフォーン発売1カ月 ブームは息切れ? 料金変更で販売てこ入れ」というニュースが報じられました。私はこのアイフォーンについて以前に、「iPHONE参入に見る日本の携帯電話市場ついて」の記事で、言われているほどそこまで売れないのではないかと予想していましたが、現段階でどうにかその予想が大きく外れていないことがわかり、正直ほっとしています。
 ここで言うのもなんですが、前回の記事を書いていた時は自信はあったものの内心ではひやひやしていました。というのも、発売前から連日報道され、あれだけ宣伝効果の高い商品をはっきり売れないと書くのはなかなか勇気のいる行為だからです。

 それで何故私がアイフォーンを売れないだろうと予想したかですが、まず記事にも書いていますが、「日本の携帯電話は世界的にもすでに高性能である」という、発売前のアイフォーンについての記事があり、これを一つの判断材料にしました。
 その記事の中ではアイフォーンの特徴や利点なども説明されていたのですが、たとえばアイフォーンが多機能でインターネット機能も充実しているという記述ですが、この点では日本ではiモードを筆頭に携帯電話でのネット閲覧機能はすでに普及しており、販売が伸びる要因にはならないと踏みました。同様に、たくさんのソフトを取り込めゲームなどもあれこれできるということも書かれていたのですが、これも日本は他国と比べて携帯ゲーム機がPSPやNINTEMDO DSなどが非常に充実しており、今更ゲームハードとして機能の落ちるアイフォーンを使う人間はいないだろうと思いました。

 以上のように、アイフォーンの売りとされる特徴が日本人には真新しくない、さらに付け加えると日本には欧米と比べてそれほどアップルの信奉者がいないということを考慮に入れ、いくら価格が抑えられたからといって最初の物珍しさがなくなれば恐らく今のようになるという予想に至りました。
 唯一の懸念として、前回の記事にも書きましたがマーケティングによる影響が最も怖かったです。もし今も絶好調の白犬のお父さんのテレビCMがアイフォーンの宣伝に使われたら爆発的に売れるだろうとは思いましたが、恐らくアップル社との契約の関係でコラボレーションはないと踏み、保険のつもりで「マーケティング次第」という記述を加えたりしておきました。ほんと、やらなくて助かった。

 私のことを直接に知っている人間ならわかるでしょうが、基本私は予想屋です。国際政治にしろ経済にしろ、今後どのように世の中が動くのかを予想し、判断材料を周りへと提供しています。過去の記事にもいくつか書いていますが、予想の成否というのは判断者の実力以上に運の要素の方が大きいものです。しかし何故その判断に辿り着いたのかという手順さえ踏んでおけば、たとえその予想が外れたとしても、あらかじめその問題を考えておくことによって事情の推移や背景というものが頭に入るので、たとえ出た結果が予想と異なったものであろうとその後の事態の理解には役に立ちます。そういう意味で予想というのは、成否以上に過程の方が重要だと私は考えています。

 それでも予想は当たるに越したことはありません。では当てるためにはどうすればいいのかですが、今回のアイフォーンの例のように、やはり判断材料をしっかり集め、それを煮詰めることに尽きます。
 しかしただ判断材料を一言で集めるといっても、情報というものは無数にあるものです。それこそアイフォーンの場合、恐らく発売前だと私が選んだ「本当に日本で売れるのか?」という記事はほとんどなく、むしろ「アイフォーンはこんけすごいぞ」、「日本でも絶対バカ売れ」と書かかれた記事の方が断然多かったはずです。にもかかわらず私が判断材料に否定的な記事を選んだのは、私自身が持っている情報とその記事に書かれている情報、そして現実の事実関係の一致があったからです。その事実こそ、もう何度も言ってますが「日本の携帯はもう高性能」という事実で、さらに私の持ち寄った携帯でのネット閲覧や携帯ゲーム機の情報です。こうしていくつもの情報を刷り合わせることで、予想の的中率というのは飛躍的に高まっていきます。

 しかしここまで書いておいて言うのもなんですが、これは佐藤優氏も言ってますが最期に一番ものを言うのは判断者の勘です。なんだかんだいって、一番的中率を上げるのは職人仕事的な言語化することのできない鍛え上げられた直感で、判断者が漠然と「こうなんじゃないかな」と思う気持ちだと思います。こう言うと一見、予想は抽象的な世界のように感じられるかもしれませんが、敢えてこの直感について理論をつけると、その予想をする人間も事態を動かす全体の中の一人だということが元になっています。
 それこそ内閣支持率なんかだと支持するか支持しないかの二択です。その人が今の総理大臣を支持しているか支持していないかどう思うかですが、もしその人の価値観が日本人の中で多数派を占めている価値観であるならば、その人が支持すると思うのならば多数派である同じ価値観の人間も支持すると考え、結果的には支持が上回る結果が起こるということになります。

 言ってしまえば、その人の価値観が当該社会で多数派に属しているのなら、余計な理屈なんて踏まずにその人の思ったことを予想に出せば当たってしまうのです。私の場合はこれを逆説的に用い、今の日本人の多数派の思考や価値観を読み取り、その中でものを判断して予想したりします。今回のアイフォーンの例でも、発売前の報道で自由にプログラムが組めるなど書かれていましたが、私はこの報道に対して、「操作が複雑そうで、手にとりづらいな」と思い、恐らくほかの日本人もそういう風に考えるに違いないと踏んだりしました。

 このやり方は結構地味ですが、意外に強力です。肝心なのは自分個人の判断は全体の1%にも満たないが、その同じ判断をほかの人間がどれだけするかです。さらに言うと、自分が多数派に属しているか少数派に属しているか、日頃からしっかりとわきまえておくことです。私なんて少数派に属すことが多いので、普段は、「大衆は私と反対の考えを持つに違いない」と、自分の考えと逆の内容の予想を作ることの方が多いです。

韓国国営放送トップの解任

 前回、「韓国BSE騒動について」の記事で、韓国の国営放送のKBSがBSE問題について捏造報道を行い、李大統領政権を転覆させようとしているというニュースを紹介しましたが、今日のニュースで李大統領はここのトップを解任することにしたそうです。(ネタ元:YAHOOニュース「KBS社長解任・デモ規制も強化 韓国・李政権攻勢へ」)

 記事によると、韓国でも今オリンピックで盛り上がっており、BSE問題の報道が少なくなってきたところで大統領が反撃に出たとのことです。特に解説する内容があるわけでもなく、続報が来たので紹介しておきます。

2008年8月12日火曜日

漫画家による小説の表紙絵について

 去年、太宰治の著作「人間失格」が漫画「DEATH NOTE」で有名な小畑健氏によって表紙絵が描かれるや爆発的に売れ出したということがありましたが、その後も二匹目の泥鰌とばかりにこのところ人気漫画家の表紙絵で飾る文芸小説の出版が増えております。代表的なのは「伊豆の踊り子」や「地獄変」、「こころ」などがあり、こういった一連の動きに対して中には「これじゃただのラノベ(ライトノベル)だ」と、批判する人もいるようです。ですが私の意見としては、少なくともこういった名作を読まないよりは読む方がいいに決まっているので、表紙絵が人気漫画家によって書かれたことによって手にとるきっかけになるのだったら、別にいいのではないかと思っています。

 と、いいのではと言いつつ、実は私も内心ではこういう表紙の小説が増えていることに対して忸怩たる思いを感じてしまいます。というのも、私は以前にかなり熱心に小説を書いていました。やばい時なんか一日二十枚ペースで毎日書いていき、投稿も結構やっていました。しかし、ちょうど5年前の初夏、本屋である小説が平積みにされているのを見てピタリと小説を書くことをやめました。その小説というのも、今も爆発的な人気を持っている「涼宮ハルヒの憂鬱」です。
 別にこの小説を読んだわけではありません。読んだわけでなく、表紙を見て気づいたのです。

「ああ、もう美少女を前面に出さないと、小説は売れないんだな」
 
 実は私の投稿先というのはいわゆるライトノベルと言われるジャンルの小説賞でした。私自身、アクション映画や戦闘アニメが大好きなので、そういう活劇的な表現が自由に許されるライトノベルでアクション小説を書きたいと思っていました。しかし私が書くことをやめた五年前にはもう、本屋においてあるライトノベルの小説の表紙は皆、美少女が描かれたものしかなくなっていました。
 別に美少女を出すことを否定するわけではありません。物語のエッセンスとして、美形のヒロインは大抵必要になるでしょう。しかし、何でもかんでも美少女を中心におかなくてはいけないというわけでもないでしょう。

 ですが今の本屋を見ていると、やっぱり表紙に美少女を描かないと小説は売れないようです。スピード社の水着じゃないですけど、本が売れるのは小説の話のおかげなのか表紙の絵のおかげなのか、これじゃ全くわかりません。そういうことに気づいたとき、多分自分の小説は評価されないだろう、売れないだろうと思い、ぱっと小説を書くことをやめてしまいました。

 今回の文芸小説の売り上げも、やっぱり表紙に負う所が多いのでしょう。内容が評価されず、外っ面ばかりが重んじられる世の中を私は昔から批判してきましたが、ここまで影響力が強くなってしまうと、なんか声を上げる気力すらなくなってきました。願わくば今回そうやって文芸小説を手にとった読者の方がその文芸の面白さに気づき、他の文芸作品にも自主的に手にとるようになり、中身のわかる読者へと変わっていってもらいたいものです。そういいつつ、私も「NHKにようこそ」というライトノベルを、表紙絵が私の大好きな安倍吉俊氏が書いていたから買っちゃったんだけど。内容はやっぱり面白くなかったけど。

なぜ批判をするのか

 また先日のサンデープロジェクトの話ですが、この前の主な議題はこの前起こった秋葉原での無差別殺傷事件についてでした。その中で東浩紀氏という東工大の教授が、2ちゃんねる内のこの事件の犯人に関連するスレッドのうち、犯人を擁護したり同情的な内容が書き込まれるスレッドが全体の4分の1もあったと説明していましたが、こんな何の信用性もないデータを曲がりなりにも大学教授が持ち出すことに私は驚きました。それこそ2ちゃんねるの言葉を使うなら、自作自演であんたがそういうスレッドを立てたんじゃないか、とも反論できますし。

 それはさておきこの東氏は、犯人に対してなぜ一部の人間が同情や共感を覚えるのかということについて格差社会ゆえに社会に対して不満を抱える人間がいるためだと主張し、それに対して櫻井よしこ氏は法律体系の問題があるなどとあれこれ議論していましたが、このどれにも私は真っ向から否定します。私の意見は単純明快で、みんなが話題にするから、中にはそういうこともいう奴が出てきたのだと思います。

 これは私自身以前に論文にまとめましたが、社会学者の鈴木謙介氏の「カーニヴァル化する社会」という本の中の説を採用しています。鈴木氏によると、昔と比べて最近の若者はバックボーンとなるような固定的な価値概念を持たず、その対象が単純に自分の感性に合うか合わないか、つまり面白いと思うかどうかで自分の立場を変えると主張しています。

 一つ例を出しましょう。たとえば領土問題などで中国や韓国を激しく非難する人がいます。しかし、その人は直接的に中国人や韓国人に殴られたりするなど実害を受けたことがないにも関わらず、領土問題などであいつらは汚いと罵ります。かといって、日本に対して愛国心を持っているわけではなくて、投票にも行きません。そして政治家の汚職問題が起こるや、やれ政治家は腐っているなどと非難します。これを見て、不思議に思いませんか?

 鈴木氏によると、その人が何故中国や韓国を非難するかといったら、ほかの人も2ちゃんねる内などで非難しており、なんとなく楽しそうだから混ざっているだけだといいます。もちろんそんないい加減な理由で非難しているだけだから日本に対して愛国心はないし、実際に問題を真剣に考えているわけでもない。何かしらの政治的、思想的信条があるわけでもないのに、場当たり的に批判、賛美を今の若者は行っていると指摘しており、私もこれに同感します。

 今回の秋葉原の事件も同様で、犯人を擁護する意見があるといっても、格差社会に不満を持ってたりとか大そうな理由とかは一切なく、ただなんとなく適当なことを言ったり、その場のノリで擁護する側に回っているだけだと思います。恐らく今度また別の事件、たとえばお金持ちの人が大きな事件を起こしたら、「お金があるが故の孤独を感じていたに違いない」とか同じ人でも言い出すんじゃないでしょうか。

 ここでちょっと話は変わりますが、やはり私の周りにもしっかりとした立場や信条を持たずに、激しく何かを批判する人間が溢れています。政治問題には興味を示さないくせに中国や韓国を口汚く罵ったり、誰がどのような経済政策を提言、実行しているかもわかっていないくせに政治家の誰々のせいで格差が広がったとか、根拠も何もない割にびっくりするような剣幕でまくし立てるその姿には、驚きを通り越して呆れる事すらあります。

 別に私はわかってないから、根拠がないからといって批判をするなと言うつもりはありません。しかし、正義感を持って社会悪を批判する際に、決して個人的感情を交えてはいけません。ただ憎たらしいとか気に入らないとか、よくわかってないけど皆があいつは悪い奴だと言っているからという理由だけで批判するのはもとより、必要以上の怒りを持って批判もしてはいけません。批判をする際は、何が、どのように社会を悪くさせているのかをわきまえ、では何をすべきかという自らの目的との差異をきちんと認識した上でやらなければ、それはただの八つ当たりと言われてもしょうがないと思います。

 老婆心ながら、現代の日本の若者に対して言っておきます。社会悪に対して怒りを持つことはとてもよいことです。ですが、その社会悪たる問題に対しては冷静な分析を行い、何が本当の悪なのか、自分のどんな考えと相違があるのかを自分の頭でしっかり考えた上で憎んでください。かくいう私自身も、中学生くらいの頃は何もわかってないくせに結構個人的な感情でメディアや政治家を罵っていましたが、やっぱり後から考えると愚かだったと後悔しています。けど大体高校生くらいになると、知識では不足していたところが見えるものの、まだちゃんと冷静に怒っていたなと思えます。

 そんな自分の経験があるからこそ言えるのです。何をされても怒らないのはよくないですが、何もされてないのに怒りすぎるのもまたよくありません。特に、他人の被害や痛みを、まるで自分が受けたように語らないように。私が考えるに被害者意識というのは、最も攻撃的になりやすく危険な意識だと思うからです。

 文章がちぐはぐだなぁ。書きたい事を一気に書いたせいだろな。

2008年8月11日月曜日

友人とのガンダム会話

 ある日友人と、こんな話になりました。

「君は私と違って、実力はたんまりあるのに社会に対して自ら働きかけ、改善しようとしないね」
「僕は君と違って、現実の世界に興味はないもん」
「しかしだな君、これだけの実力があって何故何もしないんだ。私としては私ほど前面に立たなくとも、せっかく天が与えた君の能力なのだから、それを社会へ向けてほしいんだが」
「いや、それは君の方が間違えてるよ。君は責任感が強いから何が何でも社会に身を捧げようとしているけど、もっと自分を大事にした方がいい」
「なんていうかこの会話、「逆襲のシャア」のアムロとシャアの会話だなぁ」
「そうだね、別に狙ったわけじゃないけど」

 この場合、私がシャアで友人がアムロでした。世の中を良くするためにアクシズを落とすような行動が必要で、それを実行しようとするシャアに対し、あくまで見守るだけで自分から介入、というより巻き込まれたがらないアムロのような構図です。「Zガンダム」ではシャアもあまり介入したがらなかったけどね。

 その後、この友人はどんどんとアムロ的な性格を強化し、最期にはアムロを突き破ってシロッコ的な、「傍観者であり続けたい」という性格へと発展していきました。相変わらず面白いけど。

柔道の精神

 一昨日、テレビでオリンピック柔道の中継を見ていたところ、メダル授与のシーンで東京五輪の柔道で金メダルを取った、オランダ人のアントン・へーシンク氏が授与者をやっているところが映されました。
 今でこそオリンピックの人気種目となっている柔道ですが、もともとは東京五輪限定のゲスト種目、つまり一回こっきりの予定でした。それがこのアントン・へーシンク氏が無差別級にて本家の日本人を下し金メダルを取ったことによって、外国人でも金メダルを取れることが確認され、皮肉な話ですがこれ以後のオリンピックでも柔道が行われることが決まった要因となったと言われます。

 しかし、私はこのアントン氏が金メダルを取ったということより、決勝に勝った後の彼の取った行為に賞賛の気持ちを感じずにはいられません。アントン氏が決勝に勝った瞬間、彼の故国のオランダの関係者は喜びのあまりに彼に抱きつこうと駆け寄ってきたのですが、アントン氏は「礼に始まり礼に終わる」、柔道の敗者を辱めず純粋に技を競い合う精神からその関係者たちを制止して試合場に上がらせず、喜ぶようなそぶりは一切見せずに試合場を後にしたそうです。
 さらにその後、日本での恩師であった当時の日本柔道代表監督の下へ行き、「先生、申し訳ありませんでした」とまで言ったそうです。ここまでやらずとも……。

 私がこの話を知ったのはちょうど四年前、前回のオリンピックにて谷亮子氏が決勝に勝ったその瞬間、ガッツポーズをとって喜ぶ姿を見せたことに対して苦言を呈したコラムからでした。まぁその谷氏は一昨日負けちゃったんだけど。
 しかし、この話を思い出すにつれていろいろ考えることが出てきます。このところ、日本の柔道界では日本ルールと国際ルールとの間でせめぎ合いがよく起こっています。。昔からあり、日本人には有利(とされている?)日本ルールですが、国際柔道連盟にはすでに外国人の理事も数多く、彼らの主張する国際ルールを日本側も受け入れざるを得なくなり、このままでは本来の伝統的な柔道からかけ離れてしまうのではないかという意見が関係者たちからよく聞かれます。

 確かに、こうルールの変更がされていくことによって伝統的な柔道から離れていくという話は分かりますが、今の柔道に守るべき伝統というものが残っているのか、ここに私は疑問を呈します。というのも、試合とか見てるとこのところ勝った選手は皆ためらわずに喜ぶ姿を見せるようになっています。
 別に喜ぶなとは言いません。しかし、敗者に対しても礼を尽くす、私が愛する柔道の精神はこれです。この中心たる精神なくして、何が伝統的な柔道と言えるのでしょうか。せめて相手選手のいる試合場くらいは勝者は黙って退場すべきでしょう。

 ここで私の意見を言います。柔道の国際ルール、日本ルールのことであれこれ言い合うくらいなら、元の精神に立ち返り、根本を固めることが今柔道界に必要な改革なのではないしょうか。それこそ、あのアントン・ヘーシンク氏のように。

トリクルダウン

 アクセスカウンターのついている出張所だと、なんか昨日今日とアクセス数がやけに増えています。なんだろう、スカイ・クロラがよかったのかな、それとも韓国かな。

 そんなことはほっといて、早速今日の一発目の投稿です。前回、「格差社会を読み解く、経済学の系譜」の中で「トリクルダウン」という言葉について簡単に書きましたが、今回の記事はそれについての補則です。
 まずこのトリクルダウン、訳は文字通り「水の滴り」です。これは新自由主義者が主張している経済効果のことを指します。

 具体的にどのような効果かというと、その言葉の通りに器の水の量が多ければ下の方へと自然と滴り落ちるという意味から、所得の大きい層、つまり金持ちをどんどんさらに儲けさせることによって彼らの消費、つまりお金の使用量が増えるので、結果的には低所得層にもお金がどんどんと回り、みんなでよい生活ができるという考え方です。

 しかし結論から言うと、このトリクルダウンが現象として発生したことは歴史上、一度たりともありません。贔屓目に見ても、トリクルダウンを敢えて発生させるような政策が採られた南米諸国からお隣の韓国、そして現在の日本でも格差はどんどんと広がり、経済も見かけ上の数字しか上がらず実態としては縮小しかおこりません。それにも関わらず、新自由主義陣営は未だにトリクルダウンを絶対信条としておき、政策を作っているのですから空恐ろしいものです。

 ちなみに、前から出そうと思っていたデータですが、日本で当初所得の下位20%と上位20%のそれぞれの合計額は1984年は13倍の差だったのですが、2002年になるとこれが168倍にまで広がっています。単純にこの結果から、貧乏な人の所得と金持ちの所得の差はこの20年近くで約13倍広がったということになります。

2008年8月10日日曜日

韓国BSE騒動について

 今朝のサンデープロジェクトにて、韓国で広がっているBSE騒動をきっかけとした大統領反対デモについて詳しい報道がありました。現在、韓国ではBSEが確認されているアメリカ産牛肉を生後30ヶ月未満を条件に大統領が輸入解禁を認めたことに対して反対デモが大きく広がり、就任当初は八割以上あった大統領への支持率が今では一割強にまで下がっているようです。

 ここまではこれまでのニュースなどの報道で私は知っていたのですが、この騒動について私は、「日本以外にもBSEでここまで大騒ぎする国があったんだな」と思ってました。私はBSEは脳や脊髄といった危険部位以外を食べなければ感染する確率が全くといいくらいにない(食べても低いけど)ということを知っており、日本での感染原因となった肉骨粉は価格の安い飼料なので、高級な牛肉には使用されていないことを知っていたので、日本での騒動の際は価格の下がった高級牛肉を飽きるほど食べてました。

 事実関係を知ってれば、このBSEは感染する確率が宝くじで一等を当てる並に低く、危険部位でなければほぼ安全といっていい病気です。はっきり言えば、交通事故の確率のほうがずっと高いので、日本での騒動の際には大騒ぎし過ぎだと冷ややかな目で日本人を見ていました。そしたら案の定、これは武田邦彦氏が指摘していましたが、あまりの過熱振りに日本で感染牛を確認した女性研究者が思いつめて自殺する事件が発生した事を激しく武田氏は批判しており、私もこれに同感しています。当時はきちんと事実を報道せず、過激なことばかりしていた報道関係者に対して激しい怒りを覚えました。

 恐らくこんなこと、日本くらいしかやらないだろうと思っていたら今の韓国です。やっぱり食の問題というのはこうして国民の神経を刺激するのだろうかと思ってみていたら、今朝の番組にて、
「韓国人は遺伝的に94%の確率でBSEに感染する」
 という言葉が飛び込んできて、文字通り面食らいました。

 事の内容はこうです。サンデープロジェクトによるとこの94%の話は韓国の国営テレビ局が報道したもので、この報道を見た韓国人は主に若者を中心として、BSE牛を食べたらほぼ間違いなく感染すると考え、現在のような激しい反対活動へと発展するきっかけとなったようです。さらに番組によると、この94%という数字はもともと、「BSE感染者の遺伝子の94%は韓国人と同じだった」という報告から来たもので、もちろんBSEは感染する確率自体低いので、食べたら皆感染するなんてこと言ってるわけじゃありません。

 それでは何故韓国国営テレビ局がこんなあからさまな捏造報道をやったかというと、なんでも国営テレビ局なので基本的に人事権は政府が握っているようなのですが、現在の経営体制はこれまで長かった韓国の革新派政権が作った人事だったので、それが気に入らないから今の保守派政権が人事に介入しようとしたのに対し、テレビ局のトップが保守派政権を転覆させるために報道したのがその理由らしいです。ある意味、すごいジャーナリズムだ。

 まぁ見る人が見たら、さすがにこれはありえないだろうと思う報道なのですが、やっぱりこうも衝撃的な事実をつけられると今の日本における環境問題みたいに信じちゃうんでしょうね。番組によると、このデモ活動の中心となっているのは10代の若者らしく、ころっと信じちゃうからこんな風なことになったんだろね。でも、何されても黙っている日本の若者よりかはまともそうな気もしないでもありません。

スカイ・クロラを見て

 実は先週、友人に誘われて公開中の映画、「スカイ・クロラ」を見にいきました。詳しい内容は現在も公開中なので言えませんが、簡単に感想だけを書いておきます。

 具体的に言うと、この作品のテーマは終わりのない日常です。このテーマはこの映画の監督をしている押井守氏が何度も扱っているテーマで、「うる星やつら ビューティフルドリーマー」という作品でも、楽しい時間である文化祭の準備が永遠に続く世界というものを書いています。

 作中に、主人公は終わらない日常ということに対して、「普段歩く道、その中の些細な変化だけでは、満足することはできないのか?」という自問をしております。実は私も、このテーマについて昔から延々と考えていた時期がありました。高校時代には非常に中途半端な形でしたが、「永遠」ということについて考える小説も一本上げています。

 極論を言ってしまうと、人間というのは何かしら目に見える形で自らを含めた周囲の変化を確認しないと、生きていけない人間だと思います。共産主義の硬直化した社会や、同じことを繰り返すサラリーマンの日常、どちらも「人間的ではない」と大抵の人は批判します。逆に、変化が目に見えてわかる子供の成長などは、非常に好感を持って受け止められます。

 ちょっと話は外れますが、ゲームジャンルのなかでRPGというものが何で高く評価されるのかといったら、それはやっぱりキャラクターがレベルが上がるなどして成長するからだと思います。スタート時からずっと同じ装備で延々と同じ敵を倒すシューティングやアクションなどは、やっぱり辛口の評価を受け安いと思います。ファミコンの、「怒」はおもしろかったけど。

 しかしその一方、激しい変化に対して人間は極度の疲労を感じるのも事実です。最近だとめまぐるしい家電製品の進歩やパソコンの新機能に対して、「この際ウィンドウズは2000でもいいじゃないか」という人もでてきた……のかな、私はそうなんだけど。歴史的な事例だと、E・フロムがドイツでナチスのようなファシスト政権が誕生したのは、第一次大戦後に急激に民主化がが行われために国民は不安を感じ、逆に硬直的で保守的な政策を採ってくれるナチスを待望したためと分析しました。

 こういう風に言ってると、変化が全くないと嫌だし、かといって変化が激しくとも嫌だという。人間って本当にわがままですね。ただこれまた極論を言うと、変化の究極点というのは、やっぱり滅亡だと私は思います。それならばまだ、少ない変化でも満足できる人間の方がすばらしいのではと思い、レトロな趣味を持ち続けていこうと心に誓う次第であります。

日本の法人税は本当に高いのか?

 いきなりですが、日本はよく法人税の高い国だといわれています。特にこれを強く主張しているのは経団連、それも経団連会長でもあるキャノンの御手洗富士夫ですが、彼の言によると日本の法人税が高いままだと、有力な企業はどんどん税負担の少ない国へと本社を移転してしまい、将来的には税収が減ってしまうからという理由で、よく政府に対して法人税の引き下げを迫っています。

 しかし、私は前からこの御手洗の主張にどこか奇妙さを感じていました。というのも、先進国中世界で一番国民の税負担率が少ないアメリカを除くと、社会福祉が充実しているヨーロッパ諸国などでは国民の税負担率は日本の倍近く、北欧に至ると実際に倍以上ある国ばかりです。国民税負担率には法人税はもとより消費税や所得税といった個人の税金も含まれるため、一概に言い切れることはないかもしれませんけど、普通に考えたら税負担率の少ない日本の方がヨーロッパ諸国より法人税は低いのではないかと考えていました。

 そうしたら案の定、昔に知り合いがくれた資料、出典は分からないのですが恐らく去年の新聞の記事で、「日本企業負担 仏独の7~8割」という見出しの記事にて、日本の企業が負担する法人税、社会保険料の合計は、フランスやドイツに比べて遙かに軽いということが説明されていました。
 具体的に数字を出すと、記事には業種別に企業負担率を比べており、自動車製造業では、

  日本  :30.4%
  ドイツ :36.9%
  フランス:41.6%

 という結果になっており、続けてエレクトロニクス産業では、

  日本  :33.3%
  ドイツ :38.1%
  フランス:49.2%

 となり、両方ともに日本は他の二カ国と比べて低いということが説明されています。
 記事にははっきりと書いていないのですが、確かの法人税単体で見るならば日本は先進国の中で高い方なのですが、同じく企業が負担する社会保険料と合算すると、他の先進国より企業の負担は低いということを暗に示しており、御手洗の主張の、現行の法人税実行率40%から30%への引き下げの議論は間違っていると主張されていました。

 さらに続けて同じ記事にて、御手洗の主張のように法人税の高い日本から企業は本当に海外へ逃げるのかという点について、経済産業省の行った「公的負担と企業行動に関するアンケート調査」にて生産拠点の海外移転を計画している企業に複数回答でその移転理由を尋ねたところ、以下の結果が出たようです。

一位、労働コスト    :84.7%
二位、海外市場の将来性 :65.1%
三位、取引先の海外移転 :47.6%
四位、その他のコスト  :42.8%
五位、税・社会保険料負担:40.2%

 という結果となり、海外移転理由の第一位はやはり労働コストで、御手洗の主張である「税・社会保険料負担」を理由に挙げているのは複数回答にもかかわらず半分にも満たないため、こっちでもまた間違っていると記事で指摘されています。さらに同じ調査で「法人実効税が30%程度まで引き下げられた場合に国内回帰を行うか」という質問に対して、「検討する」と答えたのは17.8%で、「検討しない」が69.5%となり、こちらもやはり御手洗がおかしなことを言っているという結果になりました。

 このように、別にありもしない不安を煽って自分の取り分を増やそうとする御手洗の主張にはほとほと頭にきます。そもそも御手洗のいるキャノンは株式保有比率で見たら過半数を外国人投資家、企業が持っており、事実上外資系企業と言ってもよい会社です。そんな会社のトップが日本の経団連の会長をやっているだけでもおかしいというのに、日本政府に対してこんな妙な要求をするというのもおかしなことです。

 さらに付け加えると、「税金が高いから」という理由だけで海外移転を行うような企業は、いざ日本が危機に陥った際には平気で裏切るような企業のように思えます。そんな獅子身中の虫を飼っておくくらいなら、この際どんどんと出て行ったほうが日本のためになるでしょう。そんなわけで、まずはキャノンに出て行ってもらいたいもんです。こいつらは偽装請負を朝日新聞に指摘されるや逆切れして、朝日への広告を打ち切った連中だし。

2008年8月9日土曜日

郵政民営化の是非を問う

 前回、竹中氏の評価について長々と書きましたが、肝心の郵政民営化については敢えて一緒に書きませんでした。その理由というのは単純に、あれだけ長く書いている上にまた長く書いても大変だという理由からでした。もっとも、この問題はいろいろ見る側面があるので、別個に分けて書くべきだとは初めから考えていましたが。
 そこで今回は、あの9.11選挙から三年近く経っていることもあり、おさらいの意味も込めて解説します。まずいつも通りに結論から言いますが、私は郵政民営化は必要だと、あの選挙以前からずっと考えていました。というのも、この郵政民営化は郵政事業にとどまらず、様々な問題の発信源となっていたからです。

 今回解説する上でポイントとするのは、民営化の賛成派と反対派のそれぞれの主張です。まず反対派の主張から説明しますが、やはり一番の理由に挙げていたのは「地方の切捨てになる」という点でした。民営化して利益重視の事業運営が行われると、地方の郵便局はどんどんと閉鎖されてその郵便局に頼っている地方との格差がますます広がってしまう、というような言質です。この主張は民営化の討論が行われている時点でも相当報道されていますから、多分皆覚えていると思います。

 もう一つの反対派の主張は、保険業についてでした。現在も一応続けられていますが、郵便局は簡易保険といって、審査の基準がゆるくて誰でも入りやすい保険を商品として取り扱っています。収入の低い世代などはこの保険に頼っている世帯も多く、もし民営化が実行された場合、真っ先にこの簡易保険が潰されると主張していました。
 そもそも、この民営化は簡易保険を叩き潰すために行われているというのが反対派の主張でした。彼らの言うところによると、あの悪名高き年次改革要望書(知らない人はぐぐって)によって、アメリカの保険会社を日本で儲けさせるためにこの民営化は行われたというのです。

 からくりはこうです。簡易保険がなくなることによって、無保険の世帯が大量に出てきます。そういった世帯に対してアメリカの保険会社が新たに保険商品を売って、儲けるというのが小泉政権やアメリカ政府が狙っていたというのです。保険というのはある程度先進国でなければ商売が成り立たないので、すでに成熟し切ってこれ以上のアメリカでは毛から利用がない保険会社が儲かる場所といったら、ほいほい言うことを聞いてくれる日本しかなかったというのが、標的になった理由です。その先兵として送り込まれたのが、例のアヒルで有名なアフラックとアリコです。友達が勤めておいて言うのもなんだけど。

 この反対派の主張は確かに一理あります。郵政選挙の前後、専門家たちはこの主張は非常に複雑で分かり辛いため、有権者達にはほとんど伝わらなかったのが彼らの敗戦の原因だと分析していました。しかし、私に言わせてもらうならば、報道面では選挙中、刺客候補ばかりが取り上げられて賛成派、反対派ともに政策面での主張はほとんど取り上げられず、選挙前はどちらかというと反対派の方がよく取り上げられており、「分かり辛い」という理由で伝わらなかったという指摘は当てはまらないと私は思います。むしろ、ほかの主張理由の説明に力を入れていたり、反対派の政治家の説明力不足が最大の敗戦の原因だと私は分析しています。

 これら反対派の主張に対して、賛成派はどんな主張をしていたのでしょうか。まず一番多く取り上げられていた主張は小泉元首相による、「民間にできるなら民間にやらせろ。その方がサービスもよくなる」という主張でした。別にこれだけならあまり説明することもないのですが、これに加えて選挙中に小泉元首相は、政府の財政赤字を減らすために公務員を減らさなければならなく、そのために郵便事業を民営化するのだと主張しました。これは一見、もっともらしく見えるのですが、郵便局で働いていた人間は公務員全体で見るならばそれほど多くなく、もし財政再建を目指すならばもっと大きくやらなければならないと、英字雑誌「エコノミスト」にて指摘されており、事実その通りです。

 ここで話はすこし外れますが、そもそもこの郵政民営化を小泉氏がやりたがったのは自身の報復のためだと言われています。小泉氏は父親の急死によって留学を切り上げて帰ってきて衆議院選挙に臨みましたが、それまで父親を支えてきた地元の郵便局関係者の組織票約5000票が小泉氏には回らず、そっくりそのままライバルの候補者へとついてしまったらしいです。結果は5000票の差で小泉氏は落選してしまい、事実上郵政票の裏切りにあって負けたに等しかったようです。もっとも、次回の選挙で初当選を果たしたのですが、この時の怨念が小泉氏を民営化へと動かしたという説が有力です。

 さて話は本筋に戻るや唐突ですが、「財政投融資」というのは皆さんご存知でしょうか。通称「財投債」と呼ばれるものですが、この資金の元はいうなれば我々国民が郵便局に貯金しているお金です。この貯金、まさかそのまま文字通りに「貯めておかれている」と考えているわけじゃないですよね。
 実はこの貯金というのはそのまま貯められているわけじゃなく、政府の一般会計、つまり用途が示されている予算とは別に特別会計という用途が示されない形で、様々なものへと使用されてきました。その主な用途というのはこれまた悪名高き道路財政、つまり道路建設へと主に使われてきました。もちろん、使った分は返済されることが条件なのですが、今までどれだけ使われてどれだけ回収されているのか、私はまだその詳しい内実を書いた報告書等は見たことがありません。

 この財投債、貯金好きの日本人をバックに抱えてるもんだから世界でも最大級の資金量を持っており、そんなにあるもんだから政府も無駄遣いに無駄遣いを重ね、これまで何度も指摘されていたにもかかわらずとめることができずにいました。それならば問題の根をたたけとばかりに打ち出されたのが、この郵政民営化で、私も小手先の改革では効果は望めないと考えていたので、郵政民営化を支持する第一理由としていました。

 さきほどに簡易保険について専門家らが、複雑で分かりづらいと言っていたことを説明しましたが、私の目から見るとこの財投債の存在と用途の方がよっぽど分かりづらく、また問題の根が深いと思います。それで考えたら、政策討論の国民への浸透については両者条件は同じだったのではないでしょうか。

 さらに言うと、賛成派の方が反対派の主張に対してきちんと対案、対策を出していたようにも思えます。まぁ口だけかもしれませんが、簡易保険は維持することを確約し、地方郵便局維持のために後年行われる株式の公開益3兆円を維持対策費に回すことを約束したりして、それなりに賛成派は答えは出していたのですが、逆に反対派は賛成派の民営化が必要な理由に対して、ただ反対するだけで問題の解決法を何も出していなかったように思えます。

 その代表的なものが、地方の郵便局にある「特定郵便局」の局員の問題についてです。この特定郵便局の局員や局長は基本的には世襲でした。世襲なので、そこの郵便局の人の子供はなんの条件もなく公務員となり、局員などをやってました。はっきり言いますが、反対派はこの制度だと地元との結びつきが強いとか言ってましたが、これは明らかに憲法に違反した制度です。世襲で公務員になれて、給料ももらえるなんて馬鹿げています。でもってこの制度を変えないと約束する代わりに、その政治家を支える組織票となっていたのですからどんだけ間違ったことをやってるのか。この間違っている制度も民営化によって廃止するという賛成派の主張に対し、民営化反対派はなんの対案も出しませんでした。そりゃ対策出したら自分の票田をなくすんだしね。

 財投債の問題も何の対案もありませんでした。こちらは道路利権とも結びつくので、考えるわけないでしょうね。
 以上のような理由すべてを分析し、私は民営化賛成派を支持するに至りました。案の定というか、書いてて疲れました_(._.)_

核廃棄物の地下貯蔵について

 今日は私の住んでいる関東は比較的涼しく、久しぶりにロマンシングサガミンストレルソングとかをやっててゆっくり過ごしました。
 さて唐突ですが、私はアニメ作品のガンダムが好きです。どのシリーズも大抵見ているのですが、つい最近まで「ターンエーガンダム」は見ていませんでした。理由は例の、あの前衛的過ぎたメカニカルデザインです。結構面食いだったのかな、アニメ放映当時の私って。

 それがつい最近、映画で公開された総集編のようなリメイクバージョンを見る機会があったのですが、見てみるとこれがまた非常に面白い。ストーリー自体はゲームの「スーパーロボット大戦」や「Gジェネレーション」などで知っていたのですが、改めて映像で見てみると舌を巻くほどのいい出来で、主演声優の朴路美氏なんて、早くから監督の富野氏に見出されていただけあって主人公キャラを見事に演じきっていました。

 実はこれを書いている時点で、映画公開版は前後編ある中で前編しか見ていないんですが、その前編ではラストシーンが一番よかったと私は思っています。そのラストシーンの内容と言うのは、新たな武器を探そうとして前時代の遺跡の発掘をしているところ、なんと核弾頭を見つけてしまい、さらに運の悪いことにその発掘現場で戦闘が起こってしまうのです。核弾頭がどんなものか分かっている技術者は必死で先頭をやめさせようとするのですが、最悪なことに戦闘の余波を受けて核弾頭は起動してしまいます。

 核弾頭が起動したために、その兵器としての恐ろしさを知る主人公のロラン・セアックらは戦闘をやめて現場を離脱しようとしますが、現場にはまだ自力で脱出不能となった味方がまだ残っていました。しかしそのほかにも離脱の援助が必要な味方がおり、ロランはやむなくその味方を見捨て現場を離れます。

 そしてロランらが現場から相当の距離を離れた段階で核弾頭は爆発し、暗闇だった夜空が一瞬にして昼のように明るくなります。光がようやく収まったところで命拾いしたロランが、
「なんでこんなもの、作ったんですよっ!!」
 と、絶叫するシーンが最も印象に残りました。

 現在、日本政府は貯まり続ける核廃棄物の処理について、海底の地下深くに埋めることを検討しています。詳しい年数までは分かりませんが、核廃棄物が無害化するまで、恐ろしく長い時間がかかるらしく、場合によっては数千年単位の時間が必要とも聞きます。
 核廃棄物が無害化するまで、私たちの子孫は何代生まれ変わるのか。また海底深い地形が地上に隆起することは全くないのか。何も知らない子孫が、そんな核廃棄物を掘り返ししまわないとは限らないのか。

 この地下埋葬処理については、将来的にはこの前補助金を得るがために受け入れでもめた高知県の地域みたいに、力のない国へと押し付けられる可能性があります。私は原子力を否定するつもりはありませんし、今後のエネルギー事情を考えるなら必須の手段だと考えています。しかし、その負債を誰が背負うのかと言うならば、私はやはり一番電力を使用している東京が背負うべきで、この地下処理も東京の、誰もが目に見える場所ですべきだと思います。

2008年8月8日金曜日

冷凍餃子事件の日中の対応について

 もうどこでも報道されていますが、中国から輸入された冷凍餃子に農薬が混入されていた事件について、七月の日中首脳会談時に、回収した餃子を中国国内に流通させたところ中国でも中毒者が出たことから、中国国内で毒物が混入されていたことがほぼ確実と中国側から日本へすでに伝えられていたにもかかわらず、日本政府はこの事実を国民に全く公開しようとしていませんでした。いくら私が中国びいきだからといって、今回のこの事件への日中の対応には強い憤りを感じます。

 まず中国政府に対してですが、初めから中国国内で混入した可能性が高く、案の定今回の報道の通りにそれが確実視されたと言うのなら、何故その段階で公表しなかったのでしょうか。どうせいつまでも隠し通せていられるわけないのだから、誠実に判明したところで捜査情報を公表していればいいものを、こういうことを何度もやるから国際社会でも信用がなくなっていくということをまだ分かってないのでしょうか。中国のことわざでも、「恥を知って身を慎む」という内容のものがありますが、もう少しこういう言葉を見習うべきでしょう。

 次に日本政府ですが、中国側に事件の公表を控えてくれと言われて、はい、そうですかとばかりに一ヶ月も公表を見送って隠していたとは呆れてものが言えません。特に福田首相は消費者重視を打ち出して消費者庁の設立を図ると言っているにもかかわらず、消費者に対して全く逆の対応をしていたとはやってて恥ずかしいとは思わないのでしょうか。はっきり言いますが、福田首相は日本人の安全より、中国との関係の方が重要なのでしょうね。確かに外交上、機密な案件に関しては国民に事実を隠す必要のある情報もあると思います。しかし今回の餃子事件の場合は明らかにそんなレベルのものではないし、逆に言えば、この程度の情報すら国民に開示しないということは、どれだけ国民を見くびっているのかという話へとなっていきます。

 もうひとつ気になる点として、これもよく私が挙げますが、一体どこがこのスクープをすっぱ抜いたかがまた気になります。この情報をオリンピックが始まるこの段階でぶつけてきて、オリンピックへの報道の中でかき消そうとわざと政府が流したのではないかと、すこし疑わしく思っています。

 最期に、今日夕方に入ってきたニュースですが、中国の検疫当局でこの事件の担当もやっていた中国の官僚幹部が飛び降り自殺をしたそうです。ニュース元は香港の新聞で、この新聞社が自殺の事実の確認を取ったところ政府は、「否定も肯定もできない」と言ったので、まず間違いなく事実でしょう。本当に、日中そろって馬鹿馬鹿しい事をやる。

私の評価する政治家

 コメント欄でリクエストがあったので、目下の政治家の中で私がその能力の高さを認める政治家を何人か紹介します。

 まず、前回過去最大の文字数で投稿された竹中平蔵氏です。私がこの人を最も評価するのはコメント欄にも書きましたが、何をすればどう現実が動くのか、そういう政策の立案についてはピカ一でしょう。以前の記事でも書きましたが、銀行の不良債権をどう銀行に処理させるか、彼の編み出したやり方は見事にはまり、誰にも不可能とまで言われた不良債権の処理を実現させています。
 と、この点はほかの何人かも指摘しているのですが、逆にあまり言われていない彼のもう一つの長所とも呼べるのが、政治家として非常にタフである点です。記事にも書いていますが、就任当初は民間出身の大臣としてマスコミも好意的に扱ったのですが、彼の資産が意外に高かった事実が報じられるや、一気に彼への攻撃が始まりました。それだけにとどまらず、国会内でも何の後ろ盾もない、雇い主の小泉首相も全然かばってくれずに野党から人格攻撃ともとられかねないほどの激しい批判を受けていました。それにもかかわらず、この竹中氏はいつもの犬っぽい顔で平気な顔をしているのだから、底が知れません。

 もっとも竹中氏は目下のところ政界から引退しているので、現在の国会議員の中で政策能力の高さで見るならば、ミスター年金でおなじみの民主党の長妻昭氏でしょう。この人はもともと日経ビジネスという雑誌の編集者であったと言うこともあり、テレビに出てくる際の発言を聞いていてもしっかりと政策などに突いても見識があると感じられます。そしてなにより、腐敗した官僚のシステムと年金問題を暴いたこの功績はここ十年の歴史でも最大の功績と言っても過言ではありません。

 自民党の中で言うなら、政策や運営面では菅義偉元総務大臣が評判が高いとよく聞きます。この人も苦学して上ってきた叩き上げということもあり、内実は深くはいえませんが組織を引っ張る力では自民党随一と聞いたことがあります。
 逆に、以前に与謝野馨氏が政策通で、意外に総理大臣としては安定する人材なのではないかと書きましたが、先月のサンデープロジェクトでの長妻氏との討論を見ていたら、どうやら私の目が間違っていたのかと思うくらい稚拙な発言が目立ちました。はっきり言って期待して損でした。

 現状では、40代くらいの若手議員の質で見るならば、圧倒的に民主党の方が人材は豊富です。先ほどの長妻氏を筆頭に京都選出の山井和則氏など、発言やビジョンのしっかりした人材がよくそろっています。自民党はやはり老年層が多く、若手の議員も郵政選挙の際に相当殺してしまい、挙句に安倍政権の失敗の責任を取られて散々な状態です。

 そんな中で、多少の異論はあるかもしれませんが、参議院議員の山本一太氏はなかなか大した人間だと私は評価しています。その理由というのも、政権発足当初より安倍元総理を支持していたにもかかわらず、郵政選挙で離党しながらも選挙に勝った野田聖子を初めとする郵政離党組の復党の際に、はっきりと安倍氏のやり方を批判していました。また参議院の必要性について話した際、自身も参議院議員であるにもかかわらず、今のままなら参議院は必要ないとはっきりと言明しました。この二つの発言は自民党に籍を置く山本氏にとってすれば足を引っ張るだけの発言にも関わらず、果敢に批判を行ったと言う点は与党議員として私は高く評価します。

2008年8月7日木曜日

日本の建築業界について

 結構前に書いた、「時代遅れな日本の不動産業界」の記事にて、私は低レベルなサービスしかできない日本の不動産業界について解説しましたが、その後不動産業界に勤めており、大学でも建築学を学んだことのある方と腰をすえてゆっくり話をする機会があり、この業界について詳しく話を聞けました。

 まず最初に私から、日本の不動産業界は本当に質が低いかどうかを尋ねてみたところ、やはり「低い」と断言されました。その根拠として、外国では建築年数が経てば経つほど家賃が上がっていく例を挙げてきました。何故建築年数が経つほど家賃が上がっていくかというと、海外では建築年数が長いということは、逆にそれだけ強度に対して保証があるという証拠になるからです。それに対して日本はというと、知っての通りに建築年数とともに家賃代はどんどん下がっていきます。それだけにとどまらず、家賃代が低下していくために所有者によって古いアパートやマンションはどんどんと壊されていくという、別の弊害も生み出しているとその方は指摘していました。

 実はこの時指摘してくれた内容こそ、私が前から一番聞きたかった内容でした。かつて姉歯元建築士によって引き起こされた強度偽装事件の際、文芸春秋にてこの事件を語った建築学者が、この事件のそもそもの原因は「ビルト&スクラップ」で考える日本の建築業界の価値観にあると指摘していました。この「ビルト&スクラップ」というのは文字通り、建築物を建てては壊すという、日本の建築業界の慣習のことです。
 何故こんなことをしているのかと言うと、建てては壊すを繰り返すことによって誰が一番儲かるか、これも誰でも分かることですが工務店を初めとした建築業者です。つまりわざと長期の使用に耐えられない設計で建築物を建てることによって、年数の経過とともに壊させ、また新しい建物を作らせることによって日本の建築業界はみんなで自分たちの収入を確保していたのです。

 単純に考えて見ましょう。初めに多少お金がかかっても百年の使用に耐えられる家を一軒作るのと、十年ごとに作っては壊してを繰り返して百年後までに十軒もの家を作るのとでは、どっちがお金や労力、資源がかかるのでしょうか。言うまでもなく後者の方がかかりますし、なんというか自分で掘った穴を埋めるという無駄な動作を繰り返しているような滑稽さすらあります。

 言い方は悪いですが国もこうした建築業界の慣習を応援していた向きがあります。というのも、地震大国と言われつつも日本の建築基準は実際にはそれほど厳しくないという噂を聞きます。なんでかというと、そりゃやはり建築業界の人間を潤わせるためです。実際に、阪神大震災以後の建築基準法の改正では耐震基準がそれまでより緩くなっています。

 日本の場合は地震大国ということもあり、災害の度にたくさんの家々が破壊されるので単純に外国と比べるのもなんですが、外国では非常に長く建築物を使っています。たとえばアメリカの有名なクライスラービルなどは1930年に建築され、今でも改装を繰り返してニューヨークを代表する高層ビルとして使用されていますし、私が行ったことのあるインドでは、ガンジス川沿いの建物はそのほとんどが15世紀、日本で言うと戦国時代に建てられたものです。もちろん、今でも人が住んで使用されています。やはり石造りの建物はよくもつので、ヨーロッパでも百年単位で使われている家はまだ数多く残っているそうです。

 日本は地震が多いから、とは言わずに、逆に地震にも耐えられる強固な建物を今のうちに多く作っておくべきではないでしょうか。そうすることによって日本の子孫に対し、真に遺産を残せると私は考えています。

  追伸
 報道もされていますが、あの姉歯事件の後に建築審査を厳しく行うよう改正された建築基準法によって、建築業界のどの会社も新規着工が減ってどこも経営が悪化しているらしいです。つい先月も大阪証券取引所の二部上場企業の、準ゼネコンとも呼べる建築会社が破産申告をしましたが、先ほどの方が言うには大手ゼネコンも台所事情は相当追い詰められているそうです。
 宮崎学氏などはその著書の中で、建築業界は学歴のない人間でもすぐ働けて、雇用の維持の面で重要なのだから談合も必要だし、国も保護すべきだと主張していますが、あんだけ無駄金を投入しておきながら前述のビルト&スクラップの貧弱な建物しか建てられなかったのだから、今こうして潰れていっても私は何の同情も湧きません。公共事業もどんどん減らされていますし、恐らく大手ゼネコンも一社か二社はこれから潰れるのではないかと思います。

暴走族風大学名

 以前、友人らとチャットをしているときに何故か、「大学名を暴走族風にしてみようぜ」という話になり、早速キーボードの日本語変換の候補に出てくる漢字で、ひたすら有名な大学の名前を暴走族風に変えていきました。

 まず関東の私立大学だと、早稲田はあまりいい候補がでてこずじまいでしたが慶応大学だと「刑殴」になり、明治大学だと「冥痔」と、早速面白いのが出てきました。その後も続いて中央大学を「虫王」、東洋大学を「盗用」、法政大学を「鳳逝」と決まり、極めつけは文字数の多い学習院大学で、「愕臭淫」と、なんか本当に落書きに書かれてそうな名前になってきました。

 舞台は変わって今度は関西私立大学になると、まず同志社大学が「倒死者」というように、後ろの「死者」を使って「導死者」とか「慟死者」といくらでもバリエーションが作れるのですが、アクセントを変えた「怒牛車」というのが一番気に入りました。ライバルの立命館大学は、「立冥館」というお化け屋敷っぽいのになり、関西大学はそのまんま「完債」とかでもまぁまぁ面白いけど、「奸妻」が多分一番面白いでしょう。
 ここでも文字数の多い関西学院大学がいろいろ作れたのですが、関西以外の人のために説明しておくと、「関西学院」というのは「かんせいがくいん」と関西地域では呼ばれており、この読みにあわせて作ると、「官製楽員」とか「閑静楽員」と、楽員だけでいろいろ作れました。

 国公立大学ともなると、シンプルな名前が多いだけになかなか味のあるものが多く作れ、東京大学は「盗凶」などなど作れるのですが、個人的にお気に入りなのは京都大学の「狂徒」です。京大の学生には申し訳ないけど、いい意味でも悪い意味でもこの二文字は京大生をよく言い表していると思う。
 逆にかっこいいので群馬大学なんかは「軍魔」となり、そのまんま群馬の暴走族なんかに使えそうな名前になりました。

 最期に、下ネタですがほとんどいじることなく変えられたのが成城大学と上智大学です。そのまんま同じ音で「性情」、「情痴」となりました。こんなの書いて、学生に恨まれやしないだろうか。

2008年8月6日水曜日

外国人の目から見た原爆

 これは私が中国に留学している際の話ですが、日本人の留学仲間と自室で談笑し、その友人が帰った後に相部屋相手のルーマニア人に先ほどの友人は広島出身だよと教えたところ、
「俺たち、彼の放射能が移って病気とかにならないよな?」
 と、私に聞いてきました。

 このルーマニア人の友人は大学で物理学を専攻しており、ルーマニアにある原子力発電所も学生時代に見学したと言っていました。そんな彼でさえ、広島と長崎は今でも草木も生えない荒涼とした場所で、そこに住んでいる人間は放射能を持っているとと考えていたそうです。ま、後者は冗談で言っていたと思いますけど。
 誤解しないように説明しておきますが、恐らく彼がそんな風に両都市を想像したのは、チェルノブイリの例があるからだったと今は思います。実際にチェルノブイリ発電所の周りは今でも廃墟のまま残され、人も誰も住んでいません。この時の事故でルーマニアでも放射能汚染が確認されており、そういった背景から彼は誤解をしていたのだと思います。

 実際、世界の人たちはやはり原爆や放射能について誤解している人が多いと思います。このルーマニア人の友人のように広島、長崎は二つともたくさんの人口を抱える大都市であることや、植物も真っ当に育つと言うことを話すと驚かれる外国人はたくさんいます。またアメリカ人については、原爆を落とした張本人でもあることから自国の人間に対して原爆の事実を隠そうとしているような気がします。

 というのも、昔にテレビ番組でやっていた内容で、原爆の日にアメリカの中高生が広島に行くという企画があり、「はだしのゲン」の作者である中沢啓治氏から話を聞いたり原爆資料館を訪れると、アメリカ人たちは皆、こんな事実を今まで全く知らなかったと全員が述べ合っていました。さらに同じ番組ではアメリカの原爆に対する報道を取り上げ、戦後に作られた戦争記録映画の原爆投下のシーンの際、B29のパイロットの一人が民間人をたくさん殺すことになるがいいのか、と言うともう一人のパイロットが、
「もう何日も日本語で避難しろと書いたビラを撒いている。それでも残っているやつらが悪い」
 と言い返すシーンが盛り込まれていました。もちろん、ビラを撒いた事実なぞありません。

 思い起こしてみると、私は高校の修学旅行で長崎を訪れた際、実際に被爆者の方から直接話を聞く機会がありました。しかしもうあと数十年もすると、原爆一世にあたる直接の被爆者は寿命の関係でいなくなるでしょう。その後の時代に原爆の悲惨さと事実を伝えるのは、私たちのような直接話を聞いた事のある世代になると考えています。伝えるのは何も日本の子供たちだけでなく、日本ほど原爆教育を受けない外国人にも伝える必要があると、八月六日の今日に思います。

2008年8月5日火曜日

平安最強の奇人、小野篁

 この三日間は心身ともに疲労する記事を書いたので、久々に肩の力の抜ける歴史のはなしを書こうと思います。ちなみに、「竹中平蔵の功罪」の記事は陰陽編二つ合わせて原稿用紙20枚分も書いてたよ……。

 さて皆さん、突然ですがこの和歌をご存知でしょうか?
「わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人の釣り船」
 この和歌は百人一首にも選ばれている、小野篁(おののたかむら)の和歌です。小式部内侍、小野小町の和歌に次いで、百人一首の中で三番目に私が好きな和歌です。

 実はこの和歌が読まれた時、篁はえらい所にいました。何を隠そう当時の罪人の流刑地である隠岐です。
 事の起こりはこうです。篁は遣唐副使、ようするに中国留学団の副団長に指名されたのですが、嫌がって勝手にサボったら嵯峨上皇にめちゃくちゃ怒られて、流刑される羽目となったのです。
 その際に、「こんな遠くに来ちゃったけど、寂しい僕の気持ちを心ある漁師さんは都のあの人(恋人とか家族かな)に伝えておくれよ」、っというのがこの和歌の解釈です。

 ここで終わればただのサボり屋ですが、不思議なことにこの篁はその後許されて都に戻ると順調に出世し、最終的には摂関家以外の人間にとっては宮中の最高位である「参議」に叙位されています。これは一度流刑された人間としては異常な出世です。
 さらに面白いことに、この篁というのは安倍晴明もはだしで逃げ出すくらい、不思議なエピソードの多い人間なのです。

 一番有名なのは、宮中のある貴族が死んで地獄で閻魔様の裁判を受ける事となった時、なんと判事の席には篁が座っており、この貴族は篁が流刑に遭った際に弁護をしていたことを閻魔様に説明し、また甦らせてやってくれと擁護したといいます。閻魔様もそれを聞き入れ、そのままその貴族は蘇生し、事の次第を宮中で篁に尋ねてみると、
「他言無用」
 とだけ言い返されたと言います。

 また、洛中で嵯峨天皇を皮肉る高札が出た際、嵯峨天皇に「お前がやったんじゃね?」っていちゃもんを篁がつけられた際、篁が「やってませんよぉ」と言うと、「じゃ、これ読んでみ」って、「子」の文字をただ12個並べた紙を見せたところ篁は、
「猫の子子猫、獅子の子子獅子」
 と、「子」の文字を「ね」と「こ」と「し」と三種類に読み分け見事な文章を作り、このいちゃもんを打ち負かしたと言うエピソードもあります。これなんかは高校の古典の教科書にもよく載せられている話だと思います。

 ただこの篁ははっきり確証こそありませんが、日本の美人の代名詞でもある小野小町の父親だとも言われています。小野小町もその存在の実証性がはっきりせず、親子そろってミステリアスな一家です。そのミステリアスさを買って、昔に私が書いたSF小説でも一度ご登場を願いました。

2008年8月4日月曜日

竹中平蔵の功罪~陰編~

 今日の記事は前回の、「竹中平蔵の功罪~陽編~」の続編で、「陽編」に対して「陰編」、前回では竹中氏の評価すべき政策について事細かに解説しましたが、本日は逆に非難すべき政策についてまた長々と開設する次第であります。恐らく今回もまたえらく時間と手間がかかるだろうから、現時点でテンションを引き上げるために「アンインストール」という曲を大声で今歌っています。

 この竹中氏への評価については前回でも書いたように、その就任時から現在に至るまで激しく批判され続けています。しかし私の見方からすると、それまでの政治家の誰もできなかった画期的かつ実現性の強い政策を採ったことは高く評価しており、その評価すべき面が世間ではあまり評価されないことに対して、世間の批判はやや一方的過ぎるように感じていました。また竹中氏を批判する言葉についてもただ「格差を広げた」という文言ばかりしか見当たらず、具体的に彼のどんな政策が格差を広げたのかという議論が大半の批判には抜けているように見えました。もちろんしっかりとした論者の場合は具体的な政策や実体などを挙げていますが、そうした批判も含めて全体的には竹中氏個人への批判がやはり過分に強かったように思います。

 ここで言っておきますが、私は決して竹中氏の肩を持つ気はありません。しかし冷静に評価、批判、分析を行うために、感情的とも取れる批判論についてははっきりと私の方からその批判者へと非難させてもらいます。その上で言っておきたいのは、このブログの記事でも敢えて分けたように、評価すべき面と批判すべき面をしっかりと分けて政策を見てください。絶対によくないのは、片面だけを挙げつらうことなのですから。

 少し前置きが長くなりましたが、本題に移ります。単刀直入に言って、私が竹中氏の政策で一番憎んでいるのは医療制度改革です。竹中氏が実質的に経済政策を取り仕切っていた小泉政権時代、国の医療費は一貫して削減の一途をたどりました。その結果、小泉政権が終わってからようやく表面化して来ましたが各医療現場は過重労働や病院経営の悪化など混乱の一途を辿っています。具体的にどんな風に医療費を削減したかと言うと、単純に医師が医療行為を行った際に国が病院や医師に支払う診療報酬の削減が行われてきました。細かくは書きませんが、それまで5千円もらえていた医療処置への報酬が3千円に引き下げられたり、ひどい例などその処置を行うのに必要な薬代の方が報酬を上回るケースなども出てきてしまったそうです。そのような場合だと簡単に想像できますが、その医療処置を行えば行うほど病院は赤字を出すことになります。馬鹿げてますよね。

 また高齢者の患者の自己負担率も徐々に増やして行き、いくつかのメディアでも取り上げられていますが病気になっても病院に払うお金がないために病院に行かず、病気を悪化させる患者も出ているそうです。さらに保険料を払えずに保険証を取り上げられて、今度辺りに書きますが資格証明証を持つ患者も年々増加しております。ついでに補足すると、今話題の後期高齢者保険制度も小泉政権時に成立してます。

 ちょっと外れますが、この医療崩壊の問題は確かに大きな問題ですが、現在の大メディアには批判する資格はないと私は思います。というのも、以前にもちょっと書きましたがこの医療費の削減が行われた2000年代前半は、どの大メディアも少数の医療事故ばかりを大げさにまくし立て、実際に大変な思いで働いている立派な医師については全く取り上げず、さらには日本医師会が削減に反対を表明するのを報道する際も既得権益を守らんがためだというような批判的な報道ばかりしていました。私は大メディアの報道によって、国が医療費を削減しても問題がないような空気があの時代にできていた気がします。

 話は戻りますが、この医療制度改革にはどれほど竹中氏が関わっていたかははっきり分かりませんが、私の予想では大半の面で関わったいたのだと思います。逆に、確実に竹中氏が関わって推し進めた政策と言うのが、彼への批判で最も多い規制緩和政策です。

 この規制緩和政策というのは単純に言って、それまで総量規制といって、免許や許認可を国が管理することによってその業界へ異業種や新規参入の企業を日本は制限してきました。その制限をすべて取っ払うことが簡単に言って規制緩和です。
 この規制緩和によって引き起こされた代表的な社会問題は、タクシーやバスといった交通業界の混乱です。私が2003年から高速バスを頻繁に使うようになって来ましたが、あの頃と比べて現在は非常に高速バスの行き先から運行数まで非常に多様化しました。そうして便利になったと思う一方、現場の運転手のルポを読むたびに素直にその変化を喜ぶことができないでいます。

 ここ数年で、高速バスやタクシーの事故件数が劇的に増加しています。その理由というのも、規制緩和によって新規に参入できる企業が増えたためです。それまで5社だったタクシー会社が20社へと変わると、言うまでもなくタクシーの台数も約4倍へと増えます。ですがタクシーの乗客は増えるわけではないので、これまた簡単な割り算をすると最初の頃と比べてタクシー運転手の収入は4分の1になってしまいます。その結果、今ではタクシー運転手の方々は文字通り朝から晩までタクシーを走らせ、さらに企業間の競争が激しくなり料金も皆で下げあい、下げあった分皆でさらに収入が減るという悪循環に陥っています。文字通り、引いたら負けだが突っ走っても死ぬだけのチキンレースを行っている状況です。

 高速バスにおいても同様で、不眠不休でバスを走らせて起こった衝突事故など、細かいのを挙げたらほぼ毎日起こっていると思います。確かに企業競争は重要ですが、今の交通業界は企業同士で共食いをし合って皆で共倒れしかねないほどにルールなき戦場となっております。しかもなお悪いことに、これは人材派遣業界において顕著ですが、その激しい競争のために法律を破って事業を行う企業も続出しているのに、竹中氏のいた時代はほぼ一貫してそういった法律違反への取締りが黙認に近いくらいに取り締まられなかった時代でした。むしろ、竹中氏とタッグを組んでいた現オリックス会長の宮内義彦による規制改革委員会でそういった法律違反行為が追認されるように緩和が進んでいったように思えます。
 そんな例を一つ挙げると、労働者派遣法の2004年の改正では事実上、ってか私もやってたんだけど、それ以前から行われていた製造現場への労働者の派遣が正式に認められています。同時に、派遣期間の上限もこの時に一年から三年へと延長しています。

 重ねて言いますが、企業の競争は必要です。しかし過当競争になると皆で共倒れして、結局皆で損をしてしまうので、経済には政府が最低限のルールと枠を作る必要があるのです。
 竹中氏は参考文献の「縦並び社会」という本の中のインタビューで過当競争が続くタクシー業界について、「所得は減ったろうが、雇用は増えた」と言って問題がないと主張していますが、やはりこれは間違いでしょう。

 私が竹中氏の政策で疑問に思う最期の政策は、企業買収の法制改正です。これについては専門外であまり詳しくはないのですが、海外企業による日本企業の三角合併が、ライブドア騒動の際は一時施行を延期しましたが、実質的に認められるようになりました。別にM&Aが全部悪いと言うわけではありませんが、アジア通貨危機の先例もあることですし、多少の予防線は必要だと思います。それらを取っ払い、アメリカの企業に城門を開くようなこの行為についてははっきりと批判こそしないまでも、私は疑問に感じました。

 本当はまだいろいろ批判点はあるのですが、彼への批判はそれこそそこら中に溢れているので私がわざわざ書くまでもないでしょう。ですが最期に気になった点として、今回この記事を書くために復習をしていたら意外な事実に気がつきました。その事実と言うのも、よく世間では小泉政権が国民の生活格差を作ったと言われていますが、その格差を生む要因となった政策のほとんどは、なんと小渕政権時に成立しているものが非常に多いのです。

 具体的に挙げていくと、人材派遣業法が現在の形のようにほぼ全業種に渡って原則自由化が認められたのは99年、84年には累進化税率による所得税の限界課税率(所得の高い人間に対して高くかけられる税率の上限のこと)が70%だったのが、99年には37%まで実質半減化されています。
 さらにさらに書くと、これは小渕政権ではなく橋本政権時ですが、98年には姉歯事件を引き起こすきっかけとなった建築審査の民間開放を盛り込んだ建築基準法の改正、期待の整備不良が増加する一因となった航空業界へ新規参入を認める規制緩和も97年に改正されています。

 詳しく調べてみると、竹中氏は小渕政権時の99年にすでに政府の経済問題の諮問機関に委員として入っております。しかし当時からそれほどの影響力があったのか、これら格差を生む原因となった政策にどれほど関わっていたかについてはまだ議論の余地があります。
 しかしそれにしても、これは以前に書いた「小渕元総理の評価」で私は、真に格差を作ったのは小渕政権で、小泉政権は、確かに問題ではあるが格差を放置しただけと書きましたが、改めてこの事実を見返してみると、ますますその思いが強まります。もっとも、これらの問題は時間が経って表面化してきたものばかりですから、退任後に表面化した後期高齢者医療制度のように、これから我々の知らない小泉、竹中時代の改悪が続々と出てくる可能性は高いでしょう。そうなると、竹中氏の業績はこれからどんどんと悪くなって良くなる事は少ないことが予想されます。

 竹中氏への総評として私は、マクロ経済を立て直したのは高く評価できる一方、格差問題に一切対策を打たず放置した、というより助長させたのはやはり許せません。規制改革についても、本来もっと規制緩和が必要なテレビ業界などは改革されず、逆に必要だった場所をどんどん緩和して行ったのも納得がいきません。ですがあの時代に、この竹中氏の力は必要だったと思います。なので願わくば、今後は再登板せずにこのまま表舞台には上がらないことを祈ります。

  参考文献
「悪夢のサイクル」 内橋克人    文芸春秋社 2006年
「縦並び社会」   毎日新聞社会部 毎日新聞社 2006年

2008年8月3日日曜日

内閣支持率調査の読売のやりすぎ

 今日は昨日長々と書いた「竹中平蔵の功罪」の後編を書こうとしていたのですが、緊急に書かなきゃいけない内容が出てきたのと、ちょっと友達と遊びすぎてへとへとな状態なので、短いながらも楽しい統計のトリックと各新聞の性格について書こうと思います。

 いきなり夢のないことを言いますが、日本人というのは統計調査については非常にずさんな民族です。概して、欧州諸国と比べてアジア諸国は歴史的背景などもあると思いますがどこも統計情報を軽視する傾向にあり、日本はまだマシ(中国なんて平気でごまかすし)な方ですが、それでも非常にずさんだと言わざるを得ません。民間団体はもとより国の調査でも信頼度の低いものばかりで、といっても内閣府の調査結果はまだマシなので私もよく使ってるんですが、それでも「あんまり信用できないけど」という前提の下で使用しています。特にひどいのは地方自治体の調査結果で、これなんてほぼ全部信用できません。

 私は調査技術を専門に勉強していたわけではありませんが、そんな素人でもはっきり分かるくらいに日本はいい加減な調査ばかりで、民間団体にいたってはびっくりするような手抜きな調査方法、結果もたくさんあります。それはもちろん、本来はしっかり調査活動をやらねばならないマスコミにも言えることで、特に憲法九条に関する調査に至っては、朝日と読売で毎回10%以上の結果の開きが出てきています。

 そこで今日のお題ですが、先日に福田内閣は内閣改造を行い、今朝の新聞の朝刊にはどこも新たに内閣支持率の調査を行い、その結果を載せていました。しかし、この結果というのも愕然とする……というよりかは爆笑に近い内容のものが、一社だけ混ざっていました。何を隠そう、題にも乗せている読売新聞社です。
 比較対象のデータは読売、朝日、産経、毎日が発表している調査結果で、記事はどこもネットでの記事を根拠にしています。各リンク先は以下の通りです。

・読売新聞:YOMIURI ONLINE
・朝日新聞:asahi.com
・産経新聞:MSN産経ニュース
・毎日新聞:毎日jp

 産経だけは共同通信の調査結果を使っていますが、残りはどうやら自前の調査のようです。調査方法は支持率調査時によく使う、ランダムに電話して聞き取りする調査方法のようです。
 それで早速その調査結果なのですが、以下の通りです。

    支持  不支持 前回調査時の支持率との差
読売:41.0% 47.0% +25ポイント
朝日:24.0% 55.0% ±0ポイント
産経:31.5% 48.1% +4.7ポイント
毎日:25.0% 56.0% + 3ポイント

 見てわかるとおり、読売の調査結果だけあからさまに突出しています。第一、内閣改造をしただけで支持率が25%も急増するわけなんて、普通に考えて有り得ないでしょう。
 それにしても、読売新聞はよくこんな調査結果を載せてきましたね。こんな結果がもし偶然に出たとしても、私なら公表を見送るか、再調査を必ずやらせます。ただ、私の読みとしては敢えて読売はこの結果を、ってか多分支持率を敢えて高くなるような調査を自らして公表したのだと思います。その理由というのも、読売新聞のトップである例のナベツネは、これまでの小泉、安倍政権に対しては苦々しく思い、自民党守旧派の福田政権に対しては逆にえらく親近感を持っているからです。なお小泉、安倍政権の頃は産経がやけに肩を持っていましたけど。

 つまり、福田政権に対してわざと応援や援護射撃をするような目的で、さも支持率が急増したかのような調査をやったのだと思います。ですがさすがにこれだけいびつな結果だと、私みたいに気づく人間も出てくるでしょう。福田政権に対して批判的なスタンスを取っている朝日新聞と、一応右派新聞の系統に入っている産経との差ですらたったの7.5ポイントです。朝日と同じ左派系統の毎日はやっぱり朝日に近い結果だけどそれでも読売みたいに無茶はやっていません。

 そして私自身の今回の内閣改造の感想としましても、ただ派閥のトップを並び立てただけで、これからの若い政治家を育てようという気概は何も感じないし、本当に各省庁の事情に精通しているか怪しい人間ばかりであまり評価していません。まだ能力が伴っているなら年寄りだろうが若手だろうが私も何も言いませんが、財務大臣に伊吹文明って、元財務官僚だからといってこの人が経済政策に対する具体的な提言をしたことってあるんでしょうか。私の聞く限りでは今まで何もありませんでしたよ。同様に、国土交通大臣に谷垣貞一も、恐らく重要ポストに派閥の幹部、って組み合わせだけでついただけでしょう。ついでに言うと、この谷垣は財務大臣時に何かやったことはあったのでしょうか?

 最期にこの支持率の適正な結果はなんなのかという分析をすると、一応どの新聞でも支持率は前回調査時より上がっているので、少なくとも国民は見損なったということはないといえるでしょう。そう考えると、実態に近いのは産経新聞(共同通信の調査)の結果、もしくは産経と朝日の数値の間くらいだと私は考えます。
 ただ私の気になる結果として、産経の調査では挙げていないのですが、麻生太郎氏を幹事長に据えたことに対する調査結果で、読売、朝日、毎日の順番で、「評価する」と答えた率がそれぞれ66%、51%、57%と、どれも50%こそ上回っているものの、思っていた以上に低かったのが気になりました。というのも、福田首相としても今回の改造の目玉として持ってきたにもかかわらず、意外なほどに低かったのではないかと推察します。それこそ、改造全体の評価は低くとも麻生氏の起用については支持が80%ほど行くと踏んでいたのではないでしょうか、改造前の口ぶりとか見ていて感じた私の勝手な予想ですがね。また国民の側としても、無回答を含め約半数が麻生氏の起用を評価していないというこの結果は、人気は人気だけどマスコミで騒がれているほど麻生氏はそこまで強いわけじゃないのではと、これも勝手ながら感じた次第であります。

2008年8月2日土曜日

竹中平蔵の功罪~陽編~

 内閣改造をたびたび行った小泉元首相が唯一、その任期の最初から最期までそばに置いていた人材というのが、今日紹介する竹中平蔵氏です。
 この竹中氏は日本の格差を広げたとして、任期中においても批判を受けることが多い人物でした。ですが結論から言うと、私はあの時代は竹中氏を必要とした時代であり、この人がいなければ恐らく今以上に日本の経済はどん詰まっていたと思います。そこで今回は竹中氏の功罪として、記事を「陰陽」と分け、誉められる点と非難されるべき点をそれぞれ解説します。さし当たって今回は陽編、誉められる点です。

 森政権から小泉政権に移る際、日本の経済政策は大きな転換が行われました。それはほかならず、公共事業の削減です。それまで「景気刺激策」の名の下に、個人消費を増やすために公共事業、言い方を変えれば「ばら撒き財政」が延々と行われてきました。呆れることに、その公共事業は何の効果も示さなかったにもかかわらず、バブル崩壊から十年近く延々と続けられました。

 それに対して総裁選挙前の時点からNOを言い続けたのが小泉氏です。そして実際に首相につくや経済産業大臣に竹中氏を据えて、公共事業費を年々大幅に削減していきました。結果はというと、公共事業に頼ってきた地方の土建屋などが一挙に身代が傾きましたが、少なくとも明らかに余計な支出であったお金は浮きました。
 この公共事業の削減は確かに地方の格差を広げました。特にこれまで地方の経済は、国の公共事業費→土建屋→地方の飲み屋、というようにお金がばら撒かれていたのが、この流れが一気に途絶えてしまったのですからそりゃ地方にとっては痛手でしょう。しかしこのばら撒きによる経済政策というのは、一時的には景気を浮上させるも長期的に見れば何の効果もないことがすでに経済学では常識です。なのでここで公共事業を減らしたのは、まさに英断だったと私は考えています。

 と、これだけ言うと竹中氏がやったのは公共事業の削減だけとばかりに思われるかもしれませんが、実際に彼が行った政策の中心はこれだけではありません。彼が行った政策は、就任当初に言ったこの政策でした。
「三年以内に、銀行の不良債権を半減化する」
 よく巷では「不良債権」という言葉はよく出回っていますが、今までのところこの言葉の中身をきちんと説明できる友人はあまり周りにいなかったので、ちょっくらここで簡単に説明します。

 銀行は基本、事業者にお金を貸して、事業者はその借りたお金で事業を行ってから利益を出し、利息を乗せて銀行に借りたお金を返します。しかしお金を貸りる事業者というのは、毎回必ずしも利益を出すわけではありません。もし利益を出さず、銀行から借りたお金が一千万だったのに赤字で二百万円にまで目減りした場合はどうなるでしょうか。単純に言って、銀行は一千-二百=八百万円分のお金を損したことになります。こんな事業者にお金を貸した担当の銀行員もこれじゃ上司に怒られちゃいますね。

 これはシャレや冗談じゃなくて、ちょっとこの前まではこうした場合に、銀行はその事業者にまた新たにお金を出資していました。何故かというと、そのまま八百万円を損失額として計上するより、せっかくここまで投資しているのだから何とか事業を続けさせ、利益を出させていつかは貸したお金を返してもらおうとか、単純に問題を先送りにしようと事業の継続に必要なお金を新たに出資することが多かったのです。

 特に当時はバブル崩壊から十年くらいたっているにも関わらず、バブル時代になんの打算もないまま銀行からお金を借りて事業を始めた企業がまだ数多く残っており、貸したお金は返ってこないのに事業継続資金を延々と銀行は貸し続け、ただ銀行の金を食うだけの事業者がたくさんいました。このような出資事業や、バブル時代に一億円だったのに五千万まで目減りした土地などの不動産を不良債権と言います。

 もちろん、こうした金食い虫に対してみんなもいつかはなんとかしないととは思ってはいたものの、日本人お得意の「問題の先送り」によってこうした不良債権はずっと残っていました。すでに説明した通り不良債権を維持するためにもお金は必要で、 言うまでもなく不良債権は銀行の経営を圧迫し、自由に回せるお金が少なくなるために新規の出資希望者に対しても慎重にならざるを得なくなり、いわゆる「貸し渋り」という問題まで起こり始めました。この貸し渋りによって、この時期に頻発したのが「黒字倒産」です。これは事業としては毎年利益を出しているにもかかわらず、一時的に事業の継続資金が足りなくなり、銀行に頼んでも貸し渋られて不渡り(請求されているお金が払えなくなること)を出す羽目となり、会社が倒産していく例のことを指しています。たとえて言うなら、パチンコでせっかくスロットがそろっても、打ち出すパチンコ球がない状態のようなもんです。私はパチンコしたことないけど。

 こうした問題の原因は誰の目にも不良債権にあり、ひいてはこの銀行の信用不安が日本全体の景気を悪化させている主要因でもありました。そこにメスを入れたのがこの竹中氏です。
 当時を知る私の眼からしても、竹中氏の政策は苛烈を極めていました。竹中氏が行った具体的な政策というのは、民間の銀行に対して自己資本比率を上昇させるよう強制させる政策でした。自己資本比率というのは、事業者や他の会社に貸しているお金ではなく、銀行の手元にあって自由に使えるお金が貸しているお金も含めて全体の資金の中で何%なのかという比率だと考えてください。

 竹中氏が行ったやり方はこうです。それまで銀行の自己資本比率に加えていた銀行所有の土地や建物の値段は銀行自身が決めていました。もちろんどこも自己資本比率が高いのに越したことはないので、それらの不動産の査定は高めに設定していたのですが、これを実際の値段に即したもの、簡単に言うと安く見積もらせるようにしました。こんな感じで、それまでと比べて自己資本比率に加えられていた資産を除外、減少させ、銀行の自己資本比率を無理やり下げさせていきました。

 その上でもし、自己資本比率が一定の割合(確か5%だったっけな)を下回った場合、竹中氏はその銀行に対して公的資金を注入することを宣言していました。ただし、その際は銀行の経営陣には全員辞職してもらい、銀行の経営は国が管理するという実質国有化が条件でした。こんな条件、どこの銀行だっていやです。
 こんな感じで、竹中氏は銀行に対して脅迫めいたやり方で、不良債権の処理を銀行に行わせました。

 なぜ不良債権を処理させると自己資本比率が上がるかですが、先ほどの一千万円を貸して二百万円しか残らなくなった事業者の例で言うと、少なくともまだ二百万円は残っています。そこでこの事業者にはこの際会社を倒産させてもらい、残っている二百万円だけでも回収できれば、銀行はそのお金は自己資本として換算できるようになります。こんな感じで竹中氏は銀行を脅迫し、銀行に赤字企業をどんどん倒産させるようにしていきました。

 この点がよく竹中氏へ批判の槍玉として上げられる点で、会社の倒産を増やして失業者を増やしているとか、必死で頑張っている企業を潰させている、貸したお金を苦しくなったら無理やり奪い返させている(貸し剥がし、と当時は言いました)などと、血も涙もないなどとよく批判されました。
 しかしこれはうちの親父が言っていることですが、言ってしまえばそのような赤字企業は事業的にはとっくの昔に倒産している会社で、銀行の出資によって無理やり生きながらえさせているゾンビのような会社で、そのゾンビを生かし続けるために生きている企業、黒字の企業にお金を回さないで殺す(倒産)というのは本末転倒である、という風に言っており、私もこの考えに同感です。

 なお、この前テレビ番組で元経済産業省の官僚だった若手政治家が言っていましたが、やはりこの時期は倒産していく企業家から脅迫めいた電話が何件もかかってきたそうです。それだけ苛烈な政策を竹中氏は採ったわけですが、結果的に銀行は自己資本比率を回復し、安定して資金を提供できるようになり、現在のようにひとまず全体の景気は落ち着いた次第です。

 さらには、銀行は自己資本比率を上げるために、銀行同士で合併を繰り返していきました。合併によってまだ余力のある銀行が他の銀行を吸収したり、経営の合理化を図るようになっていき、あんだけあった民間銀行が今ではメガバンクだと三行しかなくなりました。ちなみに、就任当初に竹中氏は、
「メガバンクは三行あればいい」
 と言っており、見事そのように現実はなりました。お前は孔明かよ。

 さらにさらに言うと、最初に言った不良債権の半減化は実質、就任から二年半で達成されました。就任当初は何度も批判され、相当根に持っていたのかこんなことも言っています。
「民主党は三年でできるはずがないと私を非難しましたが、二年半でできたじゃないですか」(文芸春秋のインタビューにて)
 実際、三年以内にあれだけ膨大だった不良債権が半減化されるなんて誰も信じなかったと思います。しかしこの政策の効果はすさまじく、この政策があったからこそ日本の景気は再浮上できたのだと私は信じており、竹中氏を最も評価する点でもあります。

 長文、お疲れ様でした、書いてる私もへとへとだけど。これ書くのに一時間強かけてるんだよ。

2008年8月1日金曜日

内閣改造の政治的手法

 本日午後、福田内閣はかねてから予想されたように内閣改造を行いました。昨日の記事に簡単な予想と今後の影響を書きましたが、案の定というか渡辺喜美前行革担当大臣は外されてしまいました。逆に渡辺前大臣が行ってきた公務員改革に批判的だった町村氏は官房長官に残留したので、今後政府の公務員改革はブレーキがかかることが予想されます。さらに言うと、町村氏は前回の自民党総裁戦時に福田の肩を持つ代わりに閣僚ポストをもらうという密約をしていたそうなので、今回の残留もよく分かる話です。
 個人的に一番残念だったのは野田聖子が閣僚入りしたことです。彼女については以前に書いた「野田聖子の公認」に散々悪口書いているので、暇だったら見てください。

 さてそんな説明はどうでもいいとして今日の本題です。コメント欄に内閣改造をするのは支持率回復が目的なのかという質問があったので、いい機会なので政治的手法からみた内閣改造の醍醐味を解説します。

 まず最初に言うと、この内閣改造が政治手法として使われ始めたのはごく最近です。やり始めたのはほかでもなく、小泉純一郎元首相です。
 もともと日本の内閣、それも戦前の頃は一人の閣僚でも首相や他の閣僚の意見に反対すると、内閣不一致とされて首相は辞職を余儀なくされていました。代表的な例は陸軍が大臣を出さずに流産した林銑十郎内閣や岸信介の裏切りによって倒れた東条内閣などがあります。現在の内閣改造に近い例としては、近衛文麿内閣時に松岡洋介外務大臣をやめさせるためだけに近衛文麿は一旦辞職し、すぐにまた指名を受けて再組閣した例があります。

 この内閣の全会一致制は戦後になるとこの制度を悪用した陸海軍の反省もあり、首相権限に国務大臣の罷免権が明記されるようになり、その時々の政権目標ごとに国務大臣を入れ替えられるようになりました。しかし戦前の例もあって、真っ向から大臣に反対されると辞職を余儀なくされることは慣例として残っており、55年体制崩壊時の宮沢喜一内閣も、ある郵政大臣の首相の辞職要求を伴った辞任がきっかけで倒壊しています。

 そんな内閣改造を、一挙に政治的手法に持ち上げたのが小泉元首相でした。ちなみに一番最初にとっかえられたのは、外務大臣をやっていた田中眞紀子でした。
 恐らく、小泉氏は明確な目的をもってこの内閣改造を行っていたように思えます。その任期中では、細かい人員の変更を除く一気にメンバーを刷新する内閣改造を三度も行っています。

 なぜ小泉氏はこう何度も人員を変えたのでしょうか。その理由はほかでもなく、官邸、つまり首相自身の権力強化が目的だったのでしょう。それまでの日本の政治では、首相自身がやりたいと思う改革、政策があっても、自民党に慣例として残っていた役員会の全会一致がなければ何も実行できませんでした。つまり首相にやりたいことがあっても、党の長老なり執行部なりがそれに納得しなければ何もできなかったのです。これは現在も続いていますが、日本の政治システムの最大の弱点は、最高権力者である首相が持つ権力が小さいということです。

 そういった状況の中、小泉氏はこの内閣改造、というより閣僚ポストをエサに党内の反対勢力を押さえ込む方法に出ました。そのからくりというのも、首相である小泉氏の政策に共鳴するならば閣僚ポストが得られるが、反抗するならば年功序列から派閥の推薦を無視し、一切ポストを分け与えないという、従うのならばエサをやるというような手法です。この手法により、小泉氏は自民党内で当初は政策の違いのあった人間でも、閣僚ポストを分ける代わりに反対意見を封殺していきました。麻生太郎氏などは、総務大臣にいきなり上げて、まさに昔に言うところの位討ちを受けて一気に小泉支持へと変わったように思えます。

 逆に反対勢力はこの手法で徹底的にあぶりだすとともに、その勢力の人間を麻生氏のように位討ちしては徐々に切り崩していったようにも思えます。このように、人事権を以って小泉氏は党内運営を行い、当初は不可能と言われた自民党の票田をわざわざ切り離す郵政民営化を実現したのです。

 ただやっぱり万事がなんでもうまくいくわけでもなく、郵政解散の際には岩永峯一元農水大臣が小泉氏の解散発議に反対を表明しました。しかし小泉氏はそんなのお構いなしとばかりに、かつては素直に辞職した宮沢氏と異なり岩永氏を即座に農水大臣から罷免すると、自ら首相と農水大臣を兼任してまで内閣内の意見一致をはかり、郵政解散へと踏み切りました。なおこの際、全会一致が慣例であった自民党役員会でも反対者がいるのに、初めて多数決で解散を認めさせています。

 私が見るに、内閣改造は支持率の回復というよりは、こうした党内運営のための手段としての方が価値は高いと思います。しかし状況に応じて大臣を変えることにより、その時々の政策目標に人員を絞れるという面もあり、実質的な効果も少なくありません。ただ小泉氏の場合、不評だった大臣を変えたり、大胆な抜擢を行って支持率を上げたり、自分の政策目標に目立つ大臣を据えてメディアへの露出を増やし、その政策目標へと国民の関心を向けさせるように誘導していくという目的の方が大きかったでしょう。どっちにしろ、人員は一新されるとなんだかんだ期待感や新鮮さが出てくるので、そういったものが支持率の回復につながるのではないでしょうか。

 最期におまけとして、途中で上げた宮沢内閣で辞任要求を突きつけた当時の郵政大臣というのは、何を隠そう小泉純一郎氏です。自分が反対された時は切って捨てたのに、昔は同じことを自分がやっているという、よく言われていますがこの人は本当に過去を気にしないようです。
 そうやって、ばっさばっさと反対したりいらなくなった人間を切ってきた小泉氏ですが、在任中にずっと大臣に据え続けて手放さなかった人物が一人だけいます。それがあの竹中平蔵氏です。前から準備してきたので、この次は竹中平蔵氏についてついに書くことにします。