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2015年12月23日水曜日

愛国心とは何か

 最近買い始めたラブコメ漫画に「女の子同士のキスはノーカウント!」というセリフがあり、これを見たそのまさに一瞬、「なら男同士は?」という妙な疑問がよぎりました。なんだろう、こんな疑問よぎるのって自分だけ?

 話は本題に入りますが、先日ふと道を歩いている最中に「愛国心とは何なのだろうか」という疑問がよぎりました。愛国心と一言で言ってもその定義する内容は使う人間によって大きく変わることが多く、Wikipediaの記述を見ても一番最初に大きく分けて二種類あるとして以下のように記述してます。

 一口に「愛国心」といっても、話者によってその意味するところには大きな幅がある。愛国心の対象である「国」を社会共同体と政治共同体とに切り分けて考えると分かりやすい。

・社会共同体としての「国」に対する愛着は「愛郷心」(あいきょうしん)と言い換えることが出来る。
・政治共同体としての「国」に対する愛着は「忠誠心」(loyalty)と言い換えることが出来る。
(Wikipediaから引用)

 この分け方には私も同感でそもそも愛国心という気持ちの対象が何であるのか、自国の国民なのか、民族なのか、文化なのか、政権なのか、国体なのか、言うまでもなく前三つと後ろ二つでは明確に区切る壁が存在します。そう考えると上記のWikipediaの記述がまさに適当だと思え、その上で述べるならば通常使う「愛国心」という言葉は後者で、前者はむしろ「郷土愛」などと呼んで使い分けを明確にした方がいいように思えます。
 何故このように述べるのかというと「愛国心」という言葉はやはり政治用語のように思え、政権などに対する距離感を言い表すためだけに使うべきだと思うからです。妙な例を作りますが、日本食が大嫌いで洋食しか食べないし歌舞伎や能は興味ないけどオペラ好きではあるものの、日々日本のため汚れ仕事も率先して引き受ける敏腕な諜報員(独身)がいたとすると、この諜報員は前者の意味だと「愛国心がない」ということになってしまいますがそれはちょっと違うんじゃないかと思え、政権のために尽くすという一点でもってやはり「愛国心がある」と言うべきだと思うからです。ってかこんな諜報員いたら会ってみたいよ。

 というわけで愛国心は政権や国体にのみ向けられる気持ちだと整理した上で次の疑問点をだすと、その気持ちが向けられる政権というのはいつの政権なのか。また変な例を出しますが中には徳川幕府復興を志してまだ活動している人もいるかもしれず、その人は現在の政権に当たる日本政府に対して反動分子でありますがかつての政権である徳川幕府には忠を尽くしているわけで、こういう人は果たして愛国者と呼べるのでしょうか。同時に、現政権を打倒して新たな政治体制の確立を目指して活動している人間も呼べるのか。
 この疑問の答えははっきりしていて、やはり時の政権以外であればすべてテロリストでしかなく現代でテロリストを愛国者と呼ぶことはまずないので、愛国心は時の政権以外に向けられたものはもはや愛国心ではないというのが私の考えです。仮に革命がうまく成功して政権が転覆すればそのテロリストたちは愛国者として語り継がれるかもしれませんが、それはあくまで成功した上での話であって成功する前の段階でどうこういうべきではないでしょう。

 長々と整理してきましたが核心部分に入りますと、時の政権に対する一体どういう気持ちが愛国心となるのか。単純にその政権を支持する気持ちが愛国心なのかどうかですが、キーワードとなるのはじ「自己犠牲」があるかないかではないかという気がします。国家のために自分を犠牲にして命も捧げるような感情が愛国心なのか、そこまで行かなくても単純に国のために何かできる範囲で協力しようという気持ちがあれば愛国心と言えるのか。
 これは人によって考え方は違うでしょうが私の中の答えを述べると前者で、命すら捧げる気持ちがあって初めて愛国心と呼べるのであって程度の差なんてものはない気がします。なので「愛国心を育てる教育」なんていうのは間違いであって本来ならば「愛国心を作る教育」と言う方が適切ではないかとも考えます。

 なんでこう極端な物言いをするのかというと途中まで愛国心を考えているうちに、「突き詰めればこれは国家に対する『忠』なのでは」というように思え、儒学の価値観に沿うならすべてを投げ打ってでも仕える対象に尽くして初めて「忠」と言え、命の危険を感じて引き払ったり距離を置いたりするのはやっぱり利己主義であって忠とは異なるように感じたからです。
 なんかこう言うと時の政権の言うままに命を差し出すべきだと言ってる極端な人間のように思われそうだから釘刺しときますが、儒学の忠には「諌止の忠」もあり、「命を懸けて主君を諌める」事も含まれており、私もこういう行動も愛国心だと言えると考えています。政権に対して無批判でなければ愛国心がないというつもりはさらさらありません。

 ゲームの「メタルギアソリッド3」でまさにこの「愛国心」という言葉の定義を主人公と敵役が議論というか一方的にまくしたてられるシーンがありますが、ボロ雑巾のように国家に使い倒されてもなお文句ひとつ言わず受け入れることが国家へのLoyaltyであって「愛国心」であると言い、その上で敵役は主人公に対し、「お前の忠はどこに向けられている?国家か、任務か?」と問います。その後の話をすれば主人公のネイキッド・スネークは国家を「棄て」、兵士が使い捨てられないような世界を目指して自らの「国家」を作っていこうすることになります。
 この例に限るわけじゃないけど、本質的に愛国心と平和は同じ軌道上にはないのかもしれません。

4 件のコメント:

若生わこ さんのコメント...

個人的にはむしろ国民・民族・文化への愛を「愛国心」というべきものであり、政権・国体に対する愛は「愛政府心」とでも言い換えた方が良いのではないかと考えます。

なぜなら私は、まず国がありそこから政府が発生するのであって、政府があるから国であるというワケではない、とするからです。
人類はどうやって社会を築いてきたのかを想像するに、まずは集落を形成し、その中で円滑な関係のもと共同生活をするために掟が段々とつくられていった…。といったところではないでしょうか。
それを建国に例えるならば集落が形成された時点で既に「国」はつくられていると考えられ、掟とはいわば法律なので立法機関である「政府」であります。その為「政府」とは「国」の統治の為の装置であって「国」そのものではないと考えられます。

そしてだからこそ「愛国心を育てる教育」というのは重要視べきと感じます。民族・文化への愛がなければ国民が国から離れやすくなる、またはそこまでいかなくとも居心地が悪いと感じるようになります。これは国の運営としても個人の幸福としてももっぱらに不利益となるからです。ですから政府は「愛国心」と「愛政府心」は別であるとしっかりと定義した上で「愛国心を育てる教育」を堂々と主張するべきではないでしょうか。その方が国民からの理解を得やすいはずです。
加えて私としては「愛政府心を作る教育」は不要と考えます。これは何故かといえば「愛国心」があるものであれば「国に有益な政府」に対しても愛着を持つようになるはずだからです。逆にいえば「愛政府心」が先に存在してしまえば「国に不利益な政府」であっても愛してしまうことになってしまいかねません。「愛政府心を作る教育」などしなくとも「愛国心を育てる教育」を実践すれば、それが「国に有益な政府」に対する「愛政府心」へと発展していくであろうと考えます。政権や国体が破壊されてしまうことが、国民・民族・文化への破壊へとつながるというケースは十分に考えられるからです。

なお「命すら捧げる気持ちまであって愛国心」とする考え方は私には疑問です。そこまでいくともはや価値観といいますか、美意識の問題となってくると考えます。それこそ伍子胥は親の為に死ぬ気なんてさらさらなかったのですが、彼は親への忠心がなかったかといえばそれはあったに違いないと思いますから。

花園祐 さんのコメント...

 いくつかポイントを先にあげておくと、一つ目はどっちをどう呼ぶか。二つ目は国家という概念は何か。三つ目は郷土を愛することを推奨や強制するのか。最後四つ目は国家への忠と親への忠のどちらを優先するのかという点で、これは確か孟子にあったような。
 以上のポイントをまた電話する際議論しましょう。

上海忍者 さんのコメント...

キミを愛国心を持っていますか?

花園祐 さんのコメント...

 確実に、普通の日本人よりも強く持っていると自負している。もっとも闘争心がもっとあるから問題なんだけど。