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2009年9月14日月曜日

北京留学記~コラム1、面白い漢字の中国語

 ちょっと今回は話を横道にそらし、私が留学中に「えっ?」と思ったいくつかの中国語を紹介します。
 中国と日本は言うまでもなく同じ漢字を用いる漢字文化圏の国同士で、「双方」とか「努力」などお互いに同じ意味と理解することのできる言葉を共有しているのですが、中には日本語と中国語の意味が全く変わってしまう言葉も少なくありません。また外来語をカタカナで表す日本語に対してあくまで中国語は漢字の直球一筋なため、それこそ日本人からすれば「ちょっと、無理な当て字なんじゃないの?(゚Д゚;」と思わせられる表現も数多くあります。

 そんな前置きを踏まえた上で、早速ご覧下さい。


・聖誕老人=サンタクロース
 私のルームメイトも言っていましたが、キリストとサンタは本来関係ないはずなのですが一緒に言葉にされてしまってます。

・情人節=バレンタインデー
 日本人も中国人もバレンタインデーに小売業者によって踊らされているのは一緒ですが、この記念日の由来となったキリスト教の「聖者バレンタイン」の名前くらいは忘れずに入れといてあげなよと思いました。

・露骨的色情電影=ハードコアポルノ
 辞書をめくっていたらある日突然発見しました。これに限るわけじゃありませんが、中国語だと日本人からすれば表現が非常に露骨に感じてしまいます。

・口袋怪物=ポケットモンスター
 なんとなく意味はわかりますが、少し違う気がした表現です。

・楽天=ロッテ
 中国のスーパーでは日本同様にロッテのお菓子が売っているのですが、面白い事にロッテの中国語におけるブランド名は「楽天」になっています。なお発音は「ルーティエン」といいまして、面白いから当時に放映していた「トリビアの泉」にこの事実を投稿したものの採用されることはありませんでした。

・活力門=ライブドア
 私の留学中に「ホリエモン逮捕事件」が起きて当時の新聞に何度もこの表現が載りましたが、意訳的にも発音的にもなかなか見事な表現です。なお発音は「フゥオリィーメン」というような感じです。

・ホンロンロン=雷の擬音、日本の「ゴロゴロゴロッ」
 これを教科書で見たとき、中国人の耳は何かがおかしいのではないかと思いました。

・卡拉OK=カラオケ
 いろんな意味でかなり無理があると感じる表現です。なんでこんな風になったのか私の勝手な予想を書くと、実は北京語には短母音である「オ」、「オー」に相当する発音の漢字がほぼ全くなく、日本語における「オ」という発音をする際には「ァオ」というような発音をしています。この前の北京オリンピックも中国語のアルファベットで書くと、「Ao Ling Pⅰ Ke」という風になり、窮余の策とばかりにカラオケはこんな表現になったと思います。

・冷血動物=爬虫類
 変温動物だからこんな表現にしたんだろうけど、最初見たときは何かの小説の題かと思いました。

・勉強=強制する
 言われてみると、漢字の意味的にはこっちの方がしっくりきます。日本人は中国語のこの意味をわかってて「勉強」という表現を使っているのではないかと感心させられた表現です。ちなみに、中国語で日本語の「勉強」の意味を持つ表現は「学習」だけです。

・手紙=トイレットペーパー

 日本語と中国語で意味が変わってしまう漢字の代表格です。

 このようにいろいろあって非常に面白く、特に外来語は意味から漢字をつけるか、音から漢字をつけるかで大きく表現が変わってくるので海外ブランド名などはなかなかに必見です。
 そういった海外ブランド名のうち、中でも女子留学生陣に人気だったのは以下の二つのブランドです。左側が中国語の発音で、右側が日本語でのブランド名です。

・クーツー=グッチ
・ルゥウェイタン=ルイ・ヴィトン

 あまり日本も人のこと言えませんが、恐らくこの発音だと現地の人は理解してくれないでしょう。それにしても、どうしてヴィトンが「ルゥウェイタン」になったのか非常に気になります(;゚ Д゚)。

北京留学記~その十一、留学中の生活習慣

 現在の生活でもそうですが、生活にメリハリをつけるために私は平日でもある程度決められた習慣を留学中にも設けて実行していました。留学中に自らに課した習慣の中で一番代表的なのは二日ごとのランニングで、どんなに寒かろうと暑かろうと、二日に一度は大学構内にあるグラウンドでランニングを行い、ランニング後の夕食を食べた後にこれまた習慣にしていたシャワーを浴びていました。

 もしかしたらこんなことを書くと少し汚いと思われるかもしれませんが、私は留学中、二日に一回のペースでシャワーを浴びていました。北京はもともと乾燥気候なためそれほど汗もかかなず、現地の中国人学生には一週間に一回しか浴びないという人もいると聞いており、郷に入らば郷に従えとばかりにシャワーを毎日入ることをまず真っ先に止めました。すると不思議なもので、大体留学してから三ヶ月もするとその二日に一回のシャワーすら面倒に思うようになってきたので、汗をかいたら必ず入るようにと敢えてランニングと日程を合わせました。なお、日本に帰ってきてからはちゃんと毎日風呂に入っていますよ。

2009年8月29日土曜日

北京留学記~その十、一日の生活

 大分日が開いたこの留学記ですが、久しぶりの今日は留学中の私の一日の生活を時系列で紹介します。見る人が見ればどんだけ怠けているんだと思うような生活リズムですが、言い訳をするとこんな風に生活しているのは決して私だけじゃありませんから。

午前七時五十分 起床、食事、洗顔後に学校へ
午前八時半 授業開始
午後十二時半 授業終了。食堂で昼食
午後一時  寮に帰宅。NHKニュースを一応チェック
午後二時  昼寝開始
午後四時  起床
午後四時半 運動をしにグラウンドへ
午後五時  運動後、食堂で夕食
午後五時半 インターネットで情報収集、もしくは宿題をやる
午後七時  自分のパソコンでゲームをやり始める
午後九時  NHKニュースを見る
午後十時  再びゲーム
午後十一時 就寝

 多少の違いがあれども、ほぼこれが毎日の生活リズムでした。
 違いがあるとしたら相撲場所のある期間で、その場所中は昼寝を早めに切り上げて三時から五時まで取組(時差の関係で日本の放映より一時間早い)を見ていましたが、その期間外はほぼ全くこういう風な生活で過ごしていました。

 ただこうした授業のある期間は午前中に教室行くからまだよかったものの、これが冬休みの期間になるとさらにとんでもありませんでした。
 冬休み中は大体午前の十時辺りに起きて、ネットして、昼飯食って昼寝して、午後は平日と一緒という、我ながらいやになるくらいだらだら過ごしていました。最初の方はまぁ冬休みだからとあまり気にしませんでしたが、時が減るにつれてだんだんとやることがなくなって暇過ぎて苦痛となっていきました。

 本当にどうしようもないくらい暇だったので、唯一の娯楽であったインターネットでなんとか気を紛らわそうとしていましたがそれでも限界を覚えるほどでした。しかも運の悪いことに、私がよく利用するネット百科事典サイトの「ウィキペディア」が私が留学をしていた時期に中国全土でアクセスが禁止されており、暇つぶしにと閲覧することが出来ませんでした。このアクセス禁止期間は大体2005年10月から始まって2006年10月に解除されましたが、何故この時期に中国政府がアクセスを禁止したのかその理由は未だに謎です。
 自分の推論を一つここで書くと、恐らく天安門事件といった、中国政府にとってあまり公にしたくない歴史の記事が中国語版で掲載されたのではないかと思います。

2009年8月14日金曜日

北京留学記~その十、食事、嗜好品について

 これからしばらく留学中の日々の生活について余すことなく書いていきます。一発目の今日は、まず一週間の生活での食生活ついて説明いたします。前もって断っておきますが、多分中国への留学生の中でも自分ほどケチって生活していた人間はそれほど多くないので、普通の日本人留学生の生活レベルはこれよりは上だと肝に銘じておいてください。

 それで早速メインの三食についてですが、朝食は毎日パン二枚だけをいつも食べていました。最初の頃はジャムも一緒に買って食べていましたが次第にプレーンな味が好みになり、留学して一ヶ月が過ぎた辺りからは生の食パンをそのままむしゃむしゃと鹿のように食べていました。
 昼食、夕食については常に外食でしたが、どちらも大学構内にある食堂でほとんど済ましていました。それらの食堂での食事費用は一回約四~六元で、日本円になおすと約七十円程度です。学食にはいくつかテナントが入っていてそこそこ選べるメニューの種類はあるのですが、慣れてくるとだんだんと変えるのが面倒になり、途中からはそれこそチャーハンかラーメンかのほぼ二択で選んでました。因みにどちらもトッピングや味付けによっていろいろ種類があるのですが、チャーハンについては「西紅柿炒飯」というトマトチャーハンが特に気に入ってよく食べていました。でもってさすがにたまには別のものをと思う時は、おかずをバイキング形式で取っていく日本の大学にある生協食堂のようなところで麻婆豆腐とかホイコーローも食べたりしていました。

 最初の半年はこのような感じで学食内で食生活は完結していたのですが、さすがに留学生活後半にも至ると飽きが出てきて、少し贅沢を覚悟で週に一度だけ、金曜日の晩に限って大学構内にある日本食レストランかイタリアンレストラン、もしくは大学の近くにあるとんかつ屋に行き、それぞれの場所でカツ丼かサンドイッチ、とんかつ定食を食べていました。こちらでの費用は一回二十元から三十元で、日本円だと約三、四百円くらいで学食での食事の四から六倍もしましたが、普段食べられない食事ばかりで週末のいい気分転換となってました。なお中国料理には基本的に生野菜を食べる習慣がないので、イタリアンレストランで食べるサンドイッチの生野菜のみずみずしさに、当時は一人で感動に打ち震えていました。

 こうしたメインの食事に加え、嗜好品として自分はよくネスカフェのインスタントコーヒーを買って寮の自室内で飲んでいました。大学構内にも喫茶店はあったのですが、コーヒー一杯が十元(約150円)と日本とそう変わらない価格になんとなく納得いかず(でも留学後半はよく通っていた)、少しでも留学費用を減らそうとインスタントを買っていたのですが日本同様にそれほどおいしくはありませんでした。そんなもんだからコーヒー以外にもとスーパーで中国茶の茶葉を買い、ティーバッグでもないのに急須を通さずコップに直で茶葉を入れてコーヒーとほぼ交代で飲んでいたのですが、こちらはコーヒー以上に意外にいけました。中国の水がイギリスと同じ香水だからかもしれませんが、味はやはりイギリスの紅茶に似てすっきりとした味わいです。

 また夜に小腹がすいた時のためによくお菓子としてプリッツを買っていたのですが、プリッツのようにどこでも味が変わらないならともかく、チョコレートなどは日本の味よりやや濃い目の中国の味ゆえになじまず、そのプリッツと当たり障りのない飴ばかりを食べていました。
 このほかインスタントの朝鮮冷麺やカップ麺もそれぞれ三元なのでよく買ってきていました。冷麺はゆで卵、キムチ付でそれなりにおいしいのですが、肝心の麺がぱさぱさしているために連日では食べれませんでした。カップ麺の方はと言うと自分はあまりそういったインスタント系は日本でもあまり食べないので細かい味はわからないのですが、向こうのカップ麺は基本激辛系がメインで、「紅色牛肉」という種類の真っ赤な牛肉ラーメンが一番店頭に多くならんでいました。この「紅色牛肉」も決してまずいわけではありませんが、日本風のとんこつ味が売っていたので私が買うときはほぼ間違いなくこれを選んで夜食に使っていました。


  追伸
 明日より三日間ほど中国瀋陽に親父の連れとして旅行に行くので、この間ブログをお休みします。更新がないからといって私のことを忘れないでください( ´∀`)

2009年8月4日火曜日

北京留学記~その九、北京の気候、環境

 自分が日本に帰ってきてから一番周りから聞かれた中国に関する質問は反日運動についてでしたが、二番目は今日のお題の一つの環境問題についてでした。
 中国の環境について日本のテレビを見ていると、よく汚い川や排気ガスでスモッグのかかった空などが映されていかにも劣悪な環境とばかりにこれでもかというくらい報道されていますが、結論を言えばそれらの報道に大きな間違いはないというのが私の意見です。

 では具体的に北京はどのような環境なのかというと、日本人の多くが想像している通りで夏場は空気が汚く、排気ガスの臭いも東京などと比べてもなかなかきついほどです。第一北京は元々乾燥した気候なので街全体が埃っぽく、路面もやや汚く映ります。
 ここまで書くとやっぱり中国というのは環境問題のひどい国だと思われるかもしれませんが、これはあくまで東京と比べた限りです。ずっと日本にいるとこういうことはわからないものなのですが、実は日本はどの都市も非常に環境が整備された国で、日本に比べたら北京は確かに環境の悪い都市ですが北京クラスの環境の悪さだったら世界的には結構ありがちだと私は思っております。

 はっきり言わせてもらえば、排気ガスの臭いについてはロンドンの時の臭いのほうが遥かにがひどかったように思えます。なにせ街を歩いている間ずっと排気ガスを直接吸っているかのようなひどい臭いがするかと思えば案の定、少し汚い話ですが宿舎に戻った後に鼻をかむと鼻水が真っ黒になっていました。恐らく街じゅうにすすが飛び交っていたのでしょう。
 それが事実であるかのようにイギリスの道路は本来ねずみ色をしているはずのアスファルトがどこも本当に真っ黒で、試しに手で触ってみるとやっぱりべっとりと黒くなってしまいます。北京も汚いといえば汚かったですが、ロンドンに比べれば全然きれいな方だったと思います

 ついでに書かせてもらうと、私は行ったことはないのですが人づてによるとフランスの首都のパリはロンドンにもっと輪にかけて街が汚いそうです。そこら中に犬の糞はあるしロンドン同様排気ガスの臭いがひどいらしくて、北京ばっかり「空気の汚いところ」と批判するのはやっぱりよくないでしょう。ただもし私が行った中でワールドワーストインバイロメンタルキャピタルこと、世界最悪環境首都を挙げるとしたら、心苦しいのですがインドのデリーが最もふさわしい気がします。

 私はインドを心の底から愛していますが、あのデリーの厳しい環境にだけは長くは耐えられないとはっきりと感じました。空気が汚いのはもとより夏場は激しく暑く、自動車用道路は常に渋滞していてそこらかしこでインド人がみんなで怒鳴り合っているという、私に言わせるとこれで本当に人が生きていけるのかというほどの厳しい環境でした。なお「国家の品格」の作者の藤原正彦氏も、インドに行ったときだけは趣味の散歩を断念するほどだったそうです

 少し話が横道にそれましたが、環境について結論を言えば北京は潔癖すぎる日本人にとってはやや厳しい環境であるものの、世界的に見ればそれほどひどくはないところです。

 その一方、気候については文句なしに北京は厳しい場所でした。
 まぁこちらもインドの夏に比べれば屁でもないのでしょうが、北京の夏はとにかく暑かったです。日本ほど湿気はありませんがその分直射日光がやけにきつく、九月半ばにおいても肌をじりじりと焼かれているような感覚がありました。最も暑いと言われる八月の日中は軽く40℃を越すらしく、北京特有の埃っぽさもあいまって相当のものでした。

 夏がこれだけ暑いのに冬でも厳しいのがこの北京です。生憎、私が北京に留学していた年は例外的に暖冬だったのですがそれでも一日中気温が氷点下を超えることはなく、日本の天気予報を見て最低気温が2度とか3度と紹介されるのを見て、どれだけ暖かいんだよと日本人仲間と突っ込みを入れてました。
 また私自身が元から寒さに強い人間(日本だと真冬でもコートを着ない)なので、暖冬もあいまって北京の冬はそれほどつらくはありませんでした。

 むしろ北京内の建物は日本にはそれほど多くない循環式の暖房がどこも備え付けてあり、確かに外は気温が低く風も強いのですがどっかに入ってしまえばすぐに体も温まり、外に出る際にコートを羽織っていれば十分に我慢が出来る程度でした。
 ただコンビニで冷やされていないペットボトルのジュースを買ってしばらく歩いてから寮に戻ると、ジュースがキンキンに冷えていることがあり、ああ自分は冷蔵庫の中の気温で生活してるんだと何度か自覚させられました。

2009年7月29日水曜日

北京留学記~その八、北京の歴史

 今日は簡単に、北京の都市としての歴史を紹介します。

 現在でこそ中華人民共和国の首都として名だたる国際都市の一つとなっている北京ですが、中国史の大部分においては一地方都市としてであった時代の方がずっと長くありました。都市として成立したのは紀元前の春秋戦国時代で、当時の燕国の首都として成立したのが初めてでした。その当時の北京は「薊」という名称でしたがその次の秦の時代になると「北平」(発音はペイピン)と変わり、しばらくはその名で主に北方の対異民族部隊の中心基地のような役割でその後数世紀を経たところ、その当の対抗相手の異民族であるモンゴル民族が建てた元の時代になると「大都」と改名された上、歴史上初めて中国の首都となりました。その後、何度も壊されてはいますが、現在の紫禁城も元の時代に作られています。

 そして元の次の王朝である明の時代になると成立当初は首都は南京へと移ったのですが、なんとも皮肉というか、初代皇帝が逝去して二代目皇帝の時代に入るや北平にいた皇族がクーデターを起こして政権を奪い、明の三代目皇帝として即位したのです。この皇帝は「永楽通宝」で日本でも有名な「永楽帝」なのですが、彼は即位後に首都を南京から自分の本拠地へ移し、その際に「北平」という名を「北京」に初めて改名したのです。その明が滅んだ後もの清の時代も引き続き北京は首都として置かれ、現在にまで引き続かれております。

 なお現在の北京の都市としてのデータはというと面積は日本の四国程の広さで、人口は東京都の在住人口とほぼ同じ1300万人だそうです。
 余談ですが台湾に政府のある中華民国では首都は「南京」としており、大陸の中華人民国政府も台湾を「台湾省」として一地方だとそれぞれ勝手に主張しあっています。

2009年7月21日火曜日

北京留学記~その七、交通

 大分日が空いてしまいましたが、連載中の北京留学記です。今日は中国に行く人も行かない人も知っといて損はない、北京市の交通事情について解説します。最初にいきなり書いてしまいますが、北京市の交通事情は現地人ですらはっきりと「非常に悪い」というくらいで、お世辞にも住み易い交通だとは言いがたいです。

 恐らく私くらいの年代の日本人ならば、北京の交通と聞いてすぐに天安門広場を大量の自転車が通り過ぎる風景を思い浮かべるかと思います。私が小学生くらいだったころは中国といったら自転車大国と言われ、老いも若きもみんなして自転車に乗ってはなんちゃって超人集団が十人乗りとかしている場面がよくテレビに映っていました。
 しかし残念ながらそのような風景はすでに過去のもので、現在の北京では全くいないわけではないのですが自転車乗りはもうほとんどいません。ではかわりに北京っ子は何に乗って移動しているのかというと、これなんかは日本でも時たま報道されていますが四輪自動車です。

 日本も速度的には異常なほど早くモータリゼーションを達成しましたが、中国での普及はその日本の速度をはるかに超えて現在の北京市は道路を埋め尽くさんばかりに毎日自動車が走り回っております。そのため自転車はおろかオートバイクのような二輪車だと車道に出ると明らかに危なく、現実に毎年中国全土でおびただしい数の交通事故死者を出しております。そのような環境ゆえに自転車は自然と廃れ、私も琵琶湖一周をやってのけるくらいに自転車好きですが向こうでは危ないと判断して結局ほとんど乗らずじまいでした。なおオートバイクについてはやはりそのような環境ゆえか、北京市では運転については厳しく制限されております。

 それくらい氾濫している四輪自動車ですが、これがしょっちゅう渋滞を起こす程度ならまだ我慢ができるのですが、問題なのはその自動車乗りたちが初めから交通ルールを守ろうとせずに赤信号だろうとなんだろうと隙があればどんどんと飛び出してくる点です。中国に行った事のない人なら信じてくれないかもしれませんが向こうは赤信号になっても平気で発進させてくるので、青信号だからといえども歩行者は安心して道路を渡れるとは限らず、なかなか渡り出せずに信号がまた元に戻ってしまうこともざらでした。
 では歩行者はどんな風に車道を渡るかですが、ここはやっぱり度胸が物を言います。それこそ車より先に自分が車道に飛び出し、「そのまま来たら俺をはねちまうぞ。それでもいいのか?」と、向かってくる自動車に視線を向けて無理やり止めて渡ります。なので中国でのこのやり方にすっかり慣れた私は日本に帰国した直後、信号のない車道での横断時に周りから飛び出しすぎだとよく怒られました。最も楽なのはほかの中国人が先に飛び出して車が止まるのをみて、それによって動き出す周りに合わせて横断するという人海戦術のやり方ですが、やっぱり一人で渡るときは最初から最後まで常に怖かったです。

 そんなんで車だろうと自転車だろうと歩行だろうと立っているのすら怖い中国の道路事情ですが、先にも述べたようにあまりにも人と車の数が多いもんだからすぐに道路は渋滞します。その分地下鉄は日本ほど正確ではないものの時間通りに来てくれるので助かるのですが、ここはやっぱり中国で、朝から晩まで延々とラッシュが続いているためにただ地下鉄に乗るのすら体力が要ります。おまけに地下鉄の駅沿いに住居や目的地があればいいのですが北京市は私がいたころよりも整備されてはいますが、まだ地下鉄網が完備されているとは言えず路線網から外れた地域も少なくありません。そういったところへの庶民の交通は路線バスで補完されているのですが、これがまた地下鉄以上に体力の要るもので、狭い車内がすぐにぎゅうぎゅうになるだけでなくしょっちゅう渋滞するために急発進と停止が繰り返され、24時間あのバスを乗り続けられるというのなら相当の剛の者だと思っていいでしょう。

 バスの料金は基本的に一元(地下鉄は三元)で非常に安く、また行きたい目的地の近くまで乗り継げば大体どこでも行けるので使いこなせば便利なのですが、やはり時間帯によっては相当な覚悟を必要としました。そんなバスですが私が留学していたころは社内で乗員のおばさんに一元を渡して切符を買うというシステムだったのですが、2007年にまた訪問した際には日本のSUICAやICOCAのようなICカードがいつの間にかできており、中国人がみんなでパッとしてピッと乗っていたので非常に驚かされました。実際にぎゅうぎゅうの車内だと切符を買うのにも一苦労だったので、私は利用しませんでしたが相性のいい組み合わせだと思います。

 そんな感じであまりいい思い出のない北京の交通事情ですが、なぜだかあの頃の窮屈さが時々懐かしくなってしまうことがあります。こういう灰汁の強さが中国なんでしょうが。

2009年7月9日木曜日

北京留学記~その六、留学生の国籍

 本日は中国に留学しに来る留学生の国籍について解説します。
 中国に来る留学生の国籍比率を測れば近年ではやはりダントツで韓国人が多く、次いで日本人が多くて事実上この二強で全留学生の三分の二を占めます。私が以前に見た資料では中国全土では数万の韓国人留学生が来ており、その仲でも特に韓国人が多い大学となると留学生を多数受け入れている私の通った北京語言大学になるのですが、同じクラスの韓国人によるとほかの大学では確かに語言大学ほど韓国人留学生数は多くは無いそうですがそのかわりに他の国の留学生がいないため留学生国籍比率はほぼ韓国で占められ、いろんな国の留学生と交流するために語言大学にきたそうです。

 実際に私がいた頃を思い出すと大学内はそれこそ右も左も韓国人ばかりで、やっぱり欧米人ともなると多いことは多いですがややレア度が高かった気がします。しかしその韓国人に次いで多く来ている我らが日本人の数も同様に半端ではなく、日本人留学生たちの間では語言大学に行くと日本人とばかり話してて中国語が上達しないとまことしやかに囁かれていました。こういった噂を留学前に私も聞いていたので、敢えて私は現地ではなるべく他の日本人とは距離を置くようにしてましたが、果たしてそれがどれほど効果を上げたかはまだ未知数です。一応、中国語は話せるようになって帰ってきましたが。

 それで先ほど韓国人が言った内容に戻るのですが、確かに語言大学は外国人に中国語を教える目的で作られたと言うことから今も全世界から留学生を集めております。マイナーな国を挙げるとルワンダやスイス、果てには自分のルームメイトだったルーマニア人なども来ており、そういった国の方々と一時とはいえ交流できる留学先というのはなかなかなく、中国においては北京大学を除くとまずほとんどないといってもいいでしょう。もしかしたら精華大学にもいっぱい来ているかもしれませんけど……。

 そんな留学生たちの国籍の中で、意外に多かったと私が感じたのはロシア系でした。ロシア本国にウクライナやベラルーシ、カザフスタンといったロシア語圏こと旧ソ連系の留学生は何故だかよく見かけ、実際に私のいたクラスでも当初はロシア人、カザフスタン人、ウクライナ人がおり、個人的に仲良くなったウクライナ人からは更に別クラスのロシア人とも引き合わせられ、日本に帰国後に私がロシア語の基礎を学ぶきっかけになりました。

 元々中国と旧ソ連は1950年代は非常に仲が良くて核技術もその伝手で中国に伝わったのですが、その後旧ソ連でフルシチョフが第一書記に就任するや急激に険悪化してそのロシアからの脅威に対抗するためにアメリカ、ひいては日本と中国は国交を結ぶこととなりました。それだけ仲が悪かった旧ソ連ですがこれが崩壊して現在のロシアになり、そしてプーチン政権下では国境が接していることから両国間の通商が急激に発展し、現在はかつての蜜月時代を思わせる位に両国の関係は良好です。
 この背景にはかつてとは逆にアジアにおいて日本を中露が押さえ込む目的も含まれていると思われるのですが、2005年にはロシアとの友好40周年(元年がいつどのように決まったのかは知らないが)ということで大々的なキャンペーンを中国は国を挙げて行っていました。

 こうした背景から、一番にはロシア国内において中国語の需要が高まっているというのは間違いないでしょうがロシア系の留学生が大量に中国に来ている理由だと私はにらんでいます。それを言ったら日本と韓国も同じことなのですが。

2009年7月5日日曜日

北京留学記~その五、授業

 中国での大学の授業期間は日本と同じく前期、後期の二期制が基本です。ただ授業が行われる期間は日本とは少し異なって前期は三月から七月まで、後期は九月から一月までと、日本の大学と比べると終了時期こそ一緒なれど開始時期は一ヶ月ほど早く始まります。そして授業は基本的には午前中に一コマ五十分の授業を合間に十分休みをとって合計四コマで、正午過ぎに正規の授業は終わります。

 なお補足しておくと自分たち留学生は始業が八時半でしたが、北京語言大学の一般の中国人学生は八時から始まっていました。理由は何でも以前は留学生、中国人学生ともに同じ八時開始だったのですが、日本を含めて本国では九時開始だったと言い訳しては遅刻する外国人学生が後を絶たなかったため、妥協策として始業をそれまでから三十分程遅らせるようにしたらしいのですが、しかし三十分遅らせたところで遅刻する学生はやはりというか一向に減らなかったそうです。さらについでに書いておくと、やっぱりアジア系の学生は出席率が良くて欧米系の学生は出席率がどのクラスでも悪かった気がします。

 話は戻ってそうやって午前中に授業が行われると、ほかの大学ではわかりませんが午後は特に授業は設けられずずっとフリーでした。学期前に申し込んでおけば課外の授業として武術、太極拳、体育といった授業を受けることが出来ますが、私みたいに何も課外授業を登録していなかった学生は午後は毎日のんびりと過ごしてました。曜日については日本と全く同じで、月曜から金曜まで授業があって土日は完全な休日でした。

 授業で使うテキストは外国人は恐らく全中国共通で、北京語言大学の出版部が出してるテキストを使っていると思います。元々北京語言大学は外国人に中国語を教えるための大学でそうした教材も率先して作っており、現在確認しているだけでも蘇州、広州に向かった留学生も私と同じテキストを使っていたと確認しております。テキスト内容は学期ごとに一冊、もしくは二冊のペースでこなして行き、中身はほかの外国語の教科書と同じように対話形式や文章形式の文章が載せられ、その文章の後に単語と文法の解説が続く形式でした。
 蛇足かもしれませんが、会話形式の文章中に、「山田」という日本人女性が登場したり、「麦古」という漢字で書く「マイク君」というアメリカ人などが登場しますが、何故だか一番たくさん中国に留学に来ている韓国人はテキストには名前つきでは一人も登場しませんでした。国が近すぎるせいでしょうかね。

 正規の授業の科目は大まかに分けるとまず四つに分かれ、日本の英語授業でリーダーに当たる「総合」、スピーキングにあたる「口語」、ヒアリングに当たる「聴力」、サイドリーダーに当たる「閲読」の四つありまいた。この四つの中で特筆すべきなのは「閲読」で、というのも日本人がやけに得意な科目になるからです。
 言うまでも無く中国語の漢字と日本語の漢字は、それぞれ一部が略字化された結果見かけは少し変わってしまいましたが部首のパターンと意味は同じです。そのため閲読で使われる長い文章の読解において日本人だと、多少文法がわからなくとも漢字を見るだけで文章全体の大まかな内容を理解することができてしまうのです。

 ここまでくればわかるでしょうが閲読の時間で日本人はほんの一瞬で問題を解いてしまって、他の留学生が読解に手間取っている間を大抵寝て待っています。授業では最初にその日にやる単元の比較的長い文章を各自で読んだ上で付属の問題を解き、最後に先生から回答とその解説が行われるのですが、ほかの留学生が三十分かける問題を日本人は五分くらいで毎回終わらせてしまうので、終いには「お前らずるいぞ!」とフランス人の姐さんから怒られる羽目になりました。

2009年7月2日木曜日

北京留学記~その四、大学寮

 前回の記事では北京で外出するのには交通の不便から非常に体力がいると書きましたが、そうなると留学中にもっとも長い間いる空間というのはやっぱり学内の寮となります。

 基本的に中国に来る留学生は学内の寮に住むことになります。以前は留学中の安全を担保するためという名目で監視をする目的から留学生は寮住が強制的でしたが、しばらく前に法律が変わってからは前もって届け出ることで留学生も学外のアパートメントを借りる事ができるようになりました。自分の知人の中でも何人かは寮を出て外に部屋を借りましたが、見たり聞いたりした感じだとそうした留学生を相手に商売しているところも大学周辺には多く、料金面や部屋の質からも学生寮よりそういったアパートの方がよさそうでした。

 ただそのように貸し出される部屋は基本的に2LDKこと二つのリビングを持つ部屋で、それぞれの個室に一人ずつ住むルームシェアが基本でした。もちろん二人で済むのだから家賃も折半して払うのですが、突然それまで一緒にやっていた相部屋相手が卒業なり引っ越したりして次の住人が来なかったりすると、次の月から突然相部屋相手の分の家賃も上乗せされて二倍を払わされることになるので、そのような状況になって慌てて相部屋の住人を探す羽目になるというのもままあるそうです。かくいう自分もそんな状況になりかけた知人の日本人学生に頼まれたことありましたが、寮での生活が安定してたのでその際は断らせてもらいました。

 ついでに書いておくと学外に部屋を借りるのは自分たちのような外国人留学生に限らず、最近では中国人学生もそのようにして下宿する学生が増えてきており、以前はよっぽど近くに自宅のある学生以外はみんな寮住まいだったのが率的には見事に逆転してきているほどだそうです。
 何故寮に住むのに比べて多くの家賃がいる下宿を選ぶ中国人学生が増えているのかというと、何でも一人っ子政策が影響して子供を甘やかす親が増えており、子供のことを思って費用がかかってもいい部屋を借りようと親が率先して行うそうです。それでも私の留学先の中国人学生寮では一部屋六人のところに結構学生がいましたけど。

 それで肝心の学内寮についてですが、一言で寮といってもたくさんあって一概に言い切ることができません。日本の感覚からしたら結構びっくりなんですが向こうの学生寮は大学の運営組織とは全く関係が無く、いわば学内で営業をすることを許可された団体(会社?)が独自に居住サービスを行っています。そのため自分たちの都合で改装のために急に学生を追い出したりすることがあり、現に私自身も留学中に寮を一度転居させられました。
 その寮も同じ大学にありながら千差万別で、男子寮と女子寮、そして男女寮で建物が分かれていれば家賃によって設備なども異なり、私のいた北京語言大学では確か十棟くらいはタイプの異なる寮があった気がします。

 その中で一際周りからうらやましがられるのは、家賃が高けれども一人部屋で豪華な設備の寮です。基本的にそんな寮を使うのはお金に余裕のある日本人や韓国人の女の子なのですが、私も留学を終えて一年後に再び北京に旅行で訪れた際にその豪華な部屋を使いましたが(部屋が空いていれば旅行者も使える)、自分が住んでいた寮と雲泥の差があって泊まってみて非常に気持ちよかっです。
 ここで少し触れましたが私が当初いた寮は留学生が借りられる中でも最下級の寮で、相部屋なのは当然で風呂トイレは部屋の外での共用でした。私自身はこれが中国人の普段の生活なのだからとすぐに慣れましたが周囲の日本人はトイレが汚いとか、部屋が狭いなどと不満たらたらで、さらには欧米人らに至るととてもじゃないが住めないといってすぐさま逃げ出して外に部屋を借りていました。

 ただそんな生活は約二ヶ月で突然終わりを告げ、寮の改装のために先ほどにも書いたように強制的に追い出され、代わりに出来たばかりの今度は設備も豪華なちょっとしたホテルのようなきれいな寮に移り、以後は留学を終えるまでずっとそこで過ごしました。この辺の過程は話し出すと延々と長くなるのでまた別の機会にお話します。

2009年6月29日月曜日

北京留学記~その三、中国の大学

 これからしばらく中国の大学についてあれこれ解説をしていきます。中国留学を考えている方にとっては非常に有益な情報となるので見ていて損はないでしょう。

 まず中国の大学にいえることはとにもかくにも大きいということです。そりゃ国土も人口もすべて日本の十倍以上なんだから当たり前といえば当たり前ですが、それを考慮しても日本の学生から見れば向こうの大学は大きいです。具体的に何が大きいかといえば敷地面積は言わずもがなで学内の施設や寮もたくさんあり、運動場もいっぱしの観戦試合とかも可能な位に大きいです。
 一言で言って中国では大学それ自体がひとつの街であり、学生と教員たちの経済圏として成立しています。居住者である学生や教員は学内の寮に常に千人単位で居住しており、その居住者相手に寮を含めた学内の各施設もそれぞれ独立して運営されています。

 一つ一つ例を挙げていくと日本の大きな大学同様にスーパーもあれば夜遅くまで開いているコンビニ店もあり、レストランも学生食堂のように安くて多く出るところもあれば値段が割高であれどもそこそこのパーティも出来そうなのもあり、韓国料理店やムスリム料理店といったエスニックレストランもありました。もちろん夜中でもやっているバーもあって、私はそこでロシア人にウォッカを飲まされたわけなのですが。
 これらはもちろん私のいた北京語言大学の例なので必ずしもどこも同じだとは言い切れませんが、少なくとも私が北京滞在中に見てきた各大学ではどこも似たようなもので上記のような店はありました。特に中国屈指の名門大学の北京大学に至れば売店はもはやデパートの売り場のようで、文房具からブランド品に至るまでなんでもかんでも揃っていて驚かされました。

 そんなわけなので、特に予定がなかったりすると二、三週間くらいは大学の敷地から一歩も出なくてもそれとなく過ごせてしまうため、春休みのように外が寒かったりするとまるで引きこもりのように寮の中でずっと過ごす時期もありました。もっとも学外からなかなか出ないのはなにも学内ですべて完結できてしまうほかにも、劣悪な北京の交通による影響も少なくありません。北京の交通の悪さについてはいくら北京を愛している中国人でもはっきりと「悪い」というくらいよくなく、ただでさえ人が多すぎるためにバスなり地下鉄なりを利用するとすぐにぎゅうぎゅうになって一回の外出で使うエネルギーは日本の比じゃありませんでした。タクシーを使うのならばそういうこともなくてごくごく楽に移動できるのですがお金もかかるのでそれほど乗り回す気にもなれず、そのため北京を観光し終わった後は無駄に体力を使わないために私はあまり外出する事はありませんでした。

2009年6月28日日曜日

北京留学記~その二、入寮~

 前回の記事では私の留学先の北京語言大学に着いた所まで書きましたが、今日はその後に行った入寮手続きの話を書きます。
 基本的に中国での外国人留学生は大学構内の寮に最初は住む事になります。これは学生の安全を確保すると共に大学側が外国人学生を管理する意味合いも込められていてかつては留学中の住居について選択の余地はなかったようなのですが、最近ではこの点については緩和されているので知人を頼っていきなり学外のアパートメントを借りることもできるようになっています。しかしそれでも大半の学生は最初に寮に住む事になるので、この入寮時に中国風手続きの洗礼も浴びることとなるのです。

 私は当初、留学先の北京語言大学は外国人に対して中国語を教える目的で作られたというだけあって外国人の多い大学だから、中国語ができなくとも英語ぐらいは通じるだろうという甘い期待を持っていたのですが、それは所詮は甘い期待だったと思い知らされたのがこの入寮手続きでした。
 私が入寮予定の寮にようやくたどり着いてみると、ちょうど新入生の入学シーズンともあって寮の受付はえらく込んでいました。前の人の手続きが終わって私の番になるといきなり受付の人に、「自分はこれこれこうで、入寮予定の者ですが」と英語で言ってみたのですがこれが全く通じず、しょうがないので日本で受け取っていた寮の手続き書類を見せるやひったくられるように取られて、その後は勝手に手続きを行ってもらいました。

 そうしてしばらく待っていると受付の人に番号札を渡され、まるで追い立てられるかのように受付から出されました。恐らくその番号の部屋が自分があてがわれた部屋なんだろうと考えてその部屋がある五階まで、エレベーターが無いので重たいスーツケースを抱えながら階段で向かってようやく着いてみると、なんとドアが開かない。この時点でようやく気が付いたのですが、まだ部屋の鍵を受け取っていませんでした。
 盗まれたら事なのでまた重たいスーツケースを抱えて一階へ行き、受付の人に向かって中国語ができないのでまた英語で、「ザ、ドアーワズロックド」と、鍵がロックされているくらいはわかるだろうと言ってみるのですがやはり通じず、たまたま近くにいた日本人留学生の方に私の意を翻訳してもらってようやく部屋のスペアキーを得ることが出来ました。

 元々寮の部屋の鍵は相部屋であっても二人で一つを共用して、最後に外出する一人が受付に渡して管理するというシステムなのですが、この時はたまたま相部屋の相手が当時は一人で部屋を借りていたために、このシステムを守らないで受付に鍵を預けずに外へ出ていたためにこんな妙な事が起きたわけです。スーツケースを抱えて五階まで一往復半もさせられた私からすると、そもそも鍵を一人ずつ持たせずに共用にするのが問題だし、それ以前に外国人留学生専用の寮なんだから簡単な英語くらいは理解してくれよというのが当時の素直な感想でした。

 なおほかの中国留学生の方のブログや掲示板のコメントを見ると大抵が私のように入寮時にいろいろと苦労をしているようで、これまた私と同じように既に留学して半年とか一年経っている人に助けてもらったという書き込みをよく見ます。そういう意味では最初に言ったように、留学生にとってこの入寮手続きが一つの洗礼に当たるのだと私は思うわけです。

2009年6月27日土曜日

北京留学記~その一、北京到着~

 ついにこいつを出す日が来ました。
 今日から超大型連載として、私の中国留学記をこのブログで連載して行きます。留学記自体は帰国後に既に書いていたのですが内容には自信があるものの、これまであまりおおっぴらに公表したりせず親父と中国語の恩師、そして何故かうちの会社の役員にだけしか見せていませんでした。このブログを始めた当初もメインコンテンツとしてすぐに公表するべきかとも考えたのですが何故だか決心がつかなくこれまでずるずると伸び、最終的に今週に至り踏ん切りがつく形で連載を決めました。
 基本的に文章は出来上がっていて後はブログの文体に合わせてちょちょっと手を加える程度なので恐らくはこれから毎日更新していけると思います。そういうわけで2005年9月から2006年7月までの私の中国留学記、どうぞご覧ください。まず一発目は北京に到着した日の出来事です。


 成田から飛び立ち約三時間、今まで行った事のあるどの国よりもフライト時間の短い移動で2006年8月30日、中国北京にある首都国際空港に私は到着しました。お袋の実家のある鹿児島県まで約二時間ということを考えるとこの短さではほとんど国内を旅行しているような気分でしたが、ところがどっこい行き先は海外でしかも中国。これは後付けですが、今まで行ったことのあるどの国よりも英語が通じない国です。留学するとはいえ私が中国語を習っていたのは大学での週三の授業だけで、果たしてこれで中国現地でやっていけるのかと不安は全く無かったといえば嘘になります。

 そんな不安いっぱいの行きの飛行機の中でたまたま私の隣に座っていたのは二十台ぐらいの中国人男性で、しかも当時の私のホームグラウンドである京都に留学していた方でした。留学するもんだからもちろんその人は日本語がペラペラで、話を聞くとなんでも仕事の通訳で日本に来ていてその帰りだったそうです。私がこれから留学に行くことを伝えるといろいろと話が弾んで空港に着くまで雑談を続けたのですが、彼の話で聞いてて面白かったのは、「中国人と大阪人はよく似ている」といった分析でした。
 というのも騒がしい性格、と書くとあちこちから文句が来そうなので、開放的な性格、標準よりやや大きな声、物事にあれこれ首を突っ込みたがるところなどが大阪人と中国人でそっくりだと言っており、留学を終えた今になってみると私もおもわずうなずいてしまうような鋭い分析です。

 そうこうしている内に飛行機は空港に到着し、正直言って恥ずかしい話なので載っけるべきかどうか少し悩みましたが隠すよりネタにしたほうが絶対いいのでこの際書いてしまいますが、ついて早々いきなり偽タクシーに捕まってしまいました。ほんとに恥ずかしい限りなのですが、タクシーを捜すのが面倒くさくてガイドブックにも注意するようにと書いてあったのに呼び込みタクシーに対し、この際これでもいいかとほいほいと乗り込んでしまいました。
 まぁいざ法外な料金を要求されれば「警察まで」と頼めばなんとかなるだろうと考え、そのまま私の留学先である北京語言大学まで行ってもらったのですが案の定、空港から市内まで相場が百元(1500円)のところを四百元(6000円)を要求されてさすがに殴り合いになるという雰囲気こそなかったのですが、お互いに自分の提示する額を言い合って長々と口喧嘩をしてしまいました。当時は全然中国語ができない状態だったので一方的に英語でこっちは文句を言い、また向こうは向こうでこっちのわからない中国語でまくし立てる始末でした。

 その後30分くらい互いに言い合いを続けて最終的に日中間でも使えるということで持参してきたNOKIAの携帯電話を見せたところ急に相手が大人しくなり、四百元のところを三百元まで要求額を下げてきたところで私も首を頷きました。もっともこの時のの件は非常に反省点の多い失敗で、自分から寄って来る怪しいのを相手にしたことや変に妥協してしまうのは後悔が募るということをまず学びました。
 ちなみにその後留学中に他の外国人学生に話を聞いてみるとほかのみんなも大抵同じような経験をしており、ひどい場合では1000元(15000円)位も取られている留学生までいました。

 そんなこんなでしょっぱなから波乱含みの留学生活でしたが、留学を終えた今だと「まぁたくさんあるうちの一つだよね」と思えてしまいます。もう四年も前の留学体験ですが、書いていてまだ昨日のように思い出せるというのは本当に貴重な体験が出来たからだという気がします。