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2015年2月24日火曜日

臨死体験で見えるトンネルに対する意見

 昨夜はどうしてもお好み焼きが食べたくなって味千ラーメンに行ってきました。以前に訪れた際に新商品として「麻辣大阪風煎餅」という名前で売り出していたのを知っていたので早速頼んでみたのですが、麻辣と書いてあるだけあって唐辛子の風味というか香りが感じられました。ただ味はそこまで辛くなくそこそこおいしかったので、また今度行ってみたら食べようかなと感じさせる出来でした。
 そういうわけで本題に入りますが、なんかまたスピリチュアルな記事が続きますが先日友人に下記の本をプッシュされました。友人曰く、NHKがこんなオカルトネタを取り扱ったこと自体がなかなか面白いとのことです。


 この本はNHKが特番向けに取材した内容がまとめられ筆者というかプロデューサー曰く、通常の超常現象番組は始めから肯定的であるか、また否定的であるかという立場を鮮明にしていることが多いが自分たちは現代の科学でどこまで超能力を分析できているか、そしてどの点が未だに分析できていないかを明らかにするというアプローチをしていて他の番組とは異なっているとアピールしてます。もっとも、読んだ感じだと必ずしもそういうわけじゃないのでは、ほかの番組でも似たようなアプローチしているのもあるようなという気がややしました。
 先に本の感想を述べると前半は心霊現象を取り扱っていて取材班も実験に参加するなどしてそこそこ面白く感じられましたが、後半の超能力の下りは読んでて研究している科学者の意見をそのまま右から左に書いていることが多く、正直に言って読んでて退屈しました。前半は取材に参加したメンバーの生の意見も数多くあったのに後半はそういうのが全くなく、多分書いてて飽きちゃったんじゃないかな。

 そうした感想はここまでにして今日の本題ですが、この本の中では臨死体験についても触れられています。

臨死体験(Wikipedia)

 上記のウィキペディアのページがやけに充実していてかなりびっくりなのですが、臨死体験と言ってそれが何かわからない人はそんなにいないと思います。よく三途の川が見えたり幽体離脱をしたりなどと様々なバリエーションがあって、体験談などは確かに読んでて楽しいです。なおどうでもいいことですが「三途の川」は英語にすると「Son’s river(子供たちの河)」となるのかな、賽の河原と関係あるのかななどと昔に一瞬だけ考えました。

 この臨死体験でよく出てくるキーワードに、「光のトンネル」というものがあります。さっきのNHKの本にも出てくるのですが、臨死体験者が意識を失った辺りから暗いトンネルを歩いていて、トンネルの出口方向に光が見えるからそっちへ向かって歩いて行ったというところまでは多くの人間で共通しており、出口に出たところで意識が戻った、または三途の川が出てきた、もしくは既に死んだ知人や親類が待っていたという話へ分岐していきます。
 結論から述べるとこの臨死体験で見えるトンネルは幻覚の一種で、脳が見せる生理的な映像に過ぎないと私は考えています。なんでそう言い切るのかというと、ぶっちゃけ私も似たようなのを見ているからです。

 知ってる人には有名ですが私は過去に二回ほど癲癇の発作で気絶したことがあります。初めて気絶するまでは「人間が急に倒れるなんてことが本当にあるのかよ?」と思ってましたが実際に倒れてみて、「ほんまやったんや……」と自分の認識を改めました。なお気絶してから飲み始めた薬の影響からかここ数年は吐き気を催させる癲癇による発作すらなくなっていますが、自分の飲んでいたのは軽症向けの精神安定剤だったため薬局へ買いに行く際はいつも「うつ病か何かですか?」と聞かれてましたが、うつ病に見えるのかな自分の見た目は?

 話しは戻しますが気絶した際の話を書くと、当日は癲癇による発作(当時はまだそれが癲癇だとはわかっていなかった)で強い吐き気を催していて、「気持ち悪いし早退しようかなぁ」とか思っていた所で記憶が途切れています。次に目が覚めたというか意識があったのはストレッチャーで運ばれている最中で、近くにいた人によるとなんか必死に酸素マスクを外そうとしていたそうです。
 この時の感覚はよく覚えており、酸素マスクから供給される空気がとにもかくにも濃い空気に思えて普通の空気を吸いたいと考えて外そうとしていました。ただ視界は全く見えず、というか光が一面に広がっている真っ白な状態で自分の姿はおろか周囲すらも識別できず、かろうじてローラーの回る音、自分が何かに載せられているという触感があったことからストレッチャーで運ばれているということは理解できました。

 この時の視界が肝ですが本当に光一面真っ白で、Zガンダム風に言うならリアルに「光が……広がっていく」と言いたくなる状態です。しかしストレッチャーが建物外に出たところでまた意識が途切れるのですがこの時の視界というのがまさに臨死体験のトンネル同様、視界の周囲から徐々に黒い影が広がっていき白い光が真ん中の方に徐々に収縮されていくような見え方で、当時はそうとは思いませんでしたが見方によればトンネルのようにも見えない気もしません。
 恐らくこの時私に起こっていたのは、上記のウィキペディアのページ内でも解説されている酸素の欠乏か脳への血流異常による視野狭窄現象だったと思います。まぁあのページ内にはストレートに側頭葉癲癇説も書かれてますが。

 少なくとも私の体験した視野狭窄はレンズで光を絞るかのように周辺が真っ黒くなっていき中心に光が収束するようなもので、意識が混濁した状態であればトンネルに見えたり、まさに自分がそのトンネルを歩いているような感覚を覚えるのではないかと思います。なもんだから臨死体験に出てくるトンネルは幻覚の一種で心霊的な要素はあんま持っていないんじゃないかというのが私の持論です。もちろん絶対的にこれが正しいというわけつもりはないですし、もしかしたら本当に青函トンネルとかユーロトンネルが出てくる臨死体験もあるかもしれませんが、トンネルを見たという臨死体験者の大半は実はただの幻覚だったのじゃないかと言いたいわけです。

 もう一つ臨死体験者に起こりうる話で内心眉唾だと考えているものに、臨死体験後の心境の変化です。臨死体験者はその体験後に世界の見方が変わった、以前以上に生きていることを幸福を感じられるようになったと大半の人間が証言していますが、そんなの私に言わせれば危機一髪な目に遭えば誰だってそう思うよという気がします。登山中で死にかけたりとか大怪我を負ったとか、乗る予定だった飛行機や船が事故に遭ったとか、そういう体験をした人も結構似たようなことを話している気がします。
 ただある意味癲癇キャリアだからこそ言える一つの話として、他の人は知らないけど癲癇の発作が収まった直後というのはそれまでのゲロゲロ状態から打って変わって一時的にとんでもなくハイになります。実際に使ったことはもちろんありませんがドラッグを使った状態ってのは案外こういうものなんじゃないかと思うくらいに体が軽くなり、気分も高揚し、心なしか頭の回転や発想も良くなっていた気がして、すっかり癲癇発作がなくなった今でもたまにあの時の感覚をもう一度感じたいと思うくらい気分がよかったです。もちろん発作がないに越したことはありませんが。

 以上が臨死体験で私が眉唾だと思う症状に対する主な意見ですが、やはり全体を通して大半の臨死体験は脳がみせる幻覚だと思います。そう思う根拠として臨死体験で見られるイメージは文化的な影響が強く、たとえば日本人なんかは「三途の川」を見ることが多いのに対して欧米人はキリストのような光る人間のイメージが多く出てくるそうです。また同じ日本人でも以前は閻魔大王が出てくることもあったそうですが、最近の症例だと閻魔大王はこのところ出演機会が減っているとも聞きます。
 ただ一つだけ私が気になることとして三途の川を見た臨死体験者に聞きたい点があり、三途の川のほとりには「奪衣婆」はいたのかどうかという点です。話しを聞いてる限りだと「なんか知らないババアがいた」と話す人はほぼ皆無に近いのですが、注意してみたら案外いるようにも思えるだけに誰か確かめてくれないかなと密かに期待しています。

2015年2月22日日曜日

日本の不動明王信仰について

 中国で最もメジャーな宗教は何かとなると名目上は仏教となりますが、仏教は文化大革命時に寺院が多数壊されたこともあってか日本以上にお坊さんになる人の割合も少なければ庶民の信仰心も薄いのが実態です。一例を出すと現在中国では旧正月の春節であるものの、日本みたいに9割の人間が初詣に行くこともなければ日常でも念仏唱えたり線香を焚く機会も多くありません。
 その一方で宗教というくくりに入れるか議論の余地はまだあるものの、日本での神道に当たるような土着の慣習に近い道教は現在の中国でも強い影響を残しております。ちょっとしたお堂(=廟)などは割とどこ行ってもあるし川沿いには媽祖廟、商売人の家には関帝像がほぼ必ずあり、観光地を歩くとお土産屋には日本での七福神でおなじみな布袋や福禄寿の木造がよくならんであります。それにしても自分もこっち来てから意識するようになりましたが、七福神って元々は道教からだったんですね。

 道教については趣味も兼ねてまた今度ゆっくり解説してもいいのですが、中国で仏教寺院や道教の廟を訪れると上記の七福神のように日本でもみられる仏像や仙人の木造や絵が見られるものの、不動明王の姿だけはどこに行っても見られないことにある日ふと気が付きました。そこから着想を得てちまちまと調べていったところどうもこの不動明王は日本国内限定の神様であることがわかり、その一方で極めて日本らしくないキャラクターであるにもかかわらず深く信仰されていることに違和感を感じたので、今日はちょっと頭使いたいので余計な手加減はなく好きな勝手に書いてくことにします。

不動明王(Wikipedia)

 不動明王とはなにかに関しては上のサイトを見てください。簡単に言うと空海が中国から持ってたのが日本初上陸だったということもあって密教で特に信仰されておりますが、密教に限らずほかの日系仏教宗派でも人気があって木造はもとより絵画などにもよく描かれているポピュラーな神様です。
 この不動明王の姿はどれも筋骨隆々とした姿として描かれ、表情は非常に恐ろしい形相で肩や背中には炎をまとっていることも少なくありません。不動明王がこのような姿で描かれるのは彼が悪鬼や悪霊と対峙する存在であるため、その強い視線で敵対する相手を射抜き、すくませるためだとされています。

 先にも述べた通りに中国では少なくとも「不動明王」と呼ばれる仏教の神は一般には存在せず、仏教の神としては日本で生まれ、発達したかなり珍しい例だと言えます。その起源が何かについてはヒンズー教の三主神の一つである破壊神シヴァではないかという説が主流のようですが、私個人の考えとしてはシヴァは雷神のイメージが強く炎を纏う不動明王とはなんかイメージが異なり、同じヒンズー教の神々に起源を求めるのであればむしろ同じように炎を扱い数々の悪魔と戦うインドラの方が近いのではと素人的に思います。

 起源の話は置いといて本題に入りますが、先にも述べた通りに不動明王は日本オリジナルであるものの日本の神としてはかなり特殊というか日本らしくない特性を持ち強い違和感を感じます。どの点が日本らしくないのかというと「戦闘をメインとする神」、つまり「軍神」や「破壊神」的な性格で、日本は「和を以って貴しとなす」というだけあってあんまりこの手の神様は人気になりません。
 インドなんかはさっきのシヴァを始め好戦的な神様ほど高い人気を持ちますが日本だと軍神で一番人気なのは七福神の一角であると共に四天王の一角でもある「毘沙門天」で、その次に来るものとなるとあとは「摩利支天」くらいしか浮かばず、バリエーションが多くありません。で、実際にはどうか詳しく調査したわけではありませんが、毘沙門天も摩利支天も衣装を見る限りだと中国の要素が強く、日本っぽい要素がほとんど感じられないばかりか日本国内の信仰心もそんなほどではない気がします。

 同じく神道の中でも軍神的な性格を持つ神様はほかの神話や宗教と比べると幾分少ない気がします。神道でこの手の神様として最大級なのはスサノオノミコトで間違いなくこれなんかは申し分ない破壊神ですが、これ以外となると力持ちで有名な建御雷(タケミカヅチ)くらであとはほぼ皆無です。両柱ともにアマテラスや大国主と比べるとそれほど信仰もされておらず、勝手な感想ですが乱暴なキャラクターを持つ神様は日本じゃいまいちメジャーになり切らない風土を感じます。

 このように考えているだけに、どうして不動明王がこれほどまでに日本で人気なのか、また何故日本だけなのか、日本で生まれ育ったのかが非常に気になるわけです。悪魔と戦う神様がほかにいなくて疫病祓い、厄払いのポストにぴったり収まったからとか、そのスマイルなんて一切ゼロなくらい恐ろしい形相が畏怖させる偶像として人気になったからとかいくつか推論は立てられますが、これらだと腹の底にストンと落ちるくらい納得するには不十分です。
 では一体何故なのか。それがわかれば苦労はしませんが、パッと今思いついたのは対峙する相手が不在がちなのが影響したのかなという仮説が出てきました。中国やインドだと仏法を邪魔する悪魔(もしくは竜神など化物)が割と激しく暴れてそれを沈める戦闘神も大活躍するのですが、日本だとこの手に類するのは八岐大蛇くらいで、そもそも戦う相手が少なかったから破壊神が人気でなかったのかもしれません。それに対し不動明王が対峙する相手というのは普通の悪魔ももちろん含まれますが、それ以上に煩悩などといった「修行者の弱い心」がメインであるような気がします。

 よくある不動明王の講話に、悪人からしたら不動明王は恐ろしい神様だが善人には怖い顔をしていても怒っているわけじゃないから安心していい、なんていうのを聞くし、また煩悩など悪い心があるから不動明王が恐ろしく見えるのであってそういう心がなければ恐ろしくはない、なんてのも聞きます。このように不動明王は信仰者の心と対峙するので、ほかの軍神の様に「神様VS悪魔」という構図にならず、日本人の大好きな「自己との対峙」要素を持つもんだから強面の形相ながら高い人気を勝ち取るに至ったのではないかと推理してみます。全部本当に勝手な推論だけど。

 ただ中国やインドになく、ほぼ完全に日本オリジナルの仏教の神といったらこの不動明王が代表格であると私は考えています。それだけにもっとこの不動明王の特性についてあれこれ研究を深めることで日本思想も解きほぐせるのではないかと密かに考えている次第です。

2015年1月15日木曜日

主観的嗜好からの選択


 上の集合写真は先日ネット上をさまよっている最中に偶然見つけた画像なのですが、一目見てたまげたというかこんなすごい集合写真がこの世にあったのかと大きな衝撃を受けました。見てわかる通りこの集合写真は昭和期のメジャーな漫画家とその奥さんが写っているのですが、その写ってる面々たるや手塚治虫、水木しげる、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、横山光輝、さいとうたかを、藤子不二雄×2など、数え上げたらきりがないくらいレジェンド級の漫画家がずらりと並んでおり、「日本漫画界版アベンジャーズ~世界よ、これが漫画家だ」と言ってもいいような凄い写真です。よくもまぁこれだけの大物が一堂に会せたものだと重ね重ね驚嘆に値します。
 なおこの中の真ん中右上に「デビルマン」や「マジンガーZ」でお馴染みの永井豪も写っていますが一目見て、「若っΣ(゚Д゚;)」という声が飛び出てきました(マジで)。あと手塚治虫の左隣に水木しげるが入っておりますが、この写真の並びについて手塚治虫のウィキペディアのページの中にある両者の不仲説とその真相に対する項目の中で少し触れられています。

 話しはこの二人の漫画家の特徴について書きだしていきますが、横山光輝とともに最前列に並んでいることから察するにこの写真が取られた当時としても両者は漫画界の超大物として扱われていたと考えられます。ある漫画評論家をして「日本の漫画は90%が手塚治虫、10%が水木しげるの影響を受けている」と評されていることからも日本漫画史における両者の存在感は非常に大きいと私も考えています。
 しかしこの両者の漫画はまるきり正反対というか好対照と言ってもいい作りをしていると常々言われており、手塚自身もその事実をことある毎にそうした傾向について話しています。現在残っている手塚の言及をまとめると、手塚自身は緻密にストーリーを練り上げ読者が何を求めているかを計算した上で漫画を描くのに対し、水木などは自分の感性のままに好きなこと、面白いと思うことを勝手気ままにストーリーを組み立て漫画を描いているとのことで、そう言われてみると両者の漫画はそのような正反対な特徴を持っているかのように見えてきます。

 それで非常に僭越ながら両者と比べると、私自身はどちらかといえば水木のようなスタイルでもってこのブログを書いており、だからこそ水木作品に対して異常な愛着を持つなどシンパシーを持っているのだと思います。手塚作品ももちろん面白くて好きですが。

 私がこのブログの記事を書くに当たってどういう基準で記事の内容を決めているのかというと、一言で言えば「自分が面白いと思うこと」を基準にして選んでいます。歴史ネタ然り政治ネタ然り、あと見ていて非常に怒りを覚えてほかの人にもぜひ自分と一緒にその怒りを共有してもらいたいような社会問題など、自分の興味(むしろ欲望)の赴くままに記事を書き綴っています。逆に読者におもねるというか、アクセスが増えそうなホットな話題や注目度の高い事件などは全く書かないわけではありませんが興味が向かなければ無視してしまい、たまに周囲からも「なんであんな大きな話題となっている事件を取り上げないの?」と聞かれることがあります。
 もちろんアクセス数はモチベーションにもつながるのでなるべく多くの人に見てもらいたいというのは事実です。それにもかかわらず何でもって読者受けするように動かずそのように自分の好きなことばかり書くのかというと、「世の中たくさん人がいるんだから10%くらいは自分と似たようなセンスを持った人がいるだろう。自分が好きなことを書いてたら最低でもその10%程度の人達は食いつくはずだ」なんていう計算が働いているからです。

 逆に読者受けするかもしれませんが自分が面白くもないと思うことを書いた場合、自分と似たようなセンスを持った人間も一緒になって面白くないと感じることが予想され、その記事は当たれば残り90%の人間は読むかもしれないが外れれば最悪0%、つまり誰もが面白くないと感じる記事になる可能性があります。それであれば10%を狙う方が手堅いというか、ややインナーな動き方かもしれませんが「自分が面白いと思うかどうか」を絶対の価値基準として記事内容をいつも選んで書いてます。
 敢えて言うなら手塚が計算型、水木が直感型であれば私は間違いなく後者のタイプで、記事の選択に限らず普段の行動でも計算して動くというよりはその場その場の直感、「なんとなくこっちの方がよさそう」と感じる方を選択して常日頃生きてます。そんな自分に言わせれば現代日本人の大半は計算型に見え、しかも計算の仕方がおかしいがゆえにマーケティングなどの面で失敗することが多いようにも見えます。

 たとえば自動車を例にとると、メーカーとしてはなるべく多くの人間が購入意欲を持つような車を開発しようと考え、狙い方としては上位と下位それぞれ10%の層に嫌われても真ん中の80%のゾーンにいる人間が気に入る車を作れれば大成功と言えます。この最大公約数的な80%のゾーンは「ボリュームゾーン」と言われておりますが、このところ日系メーカーを見ているとこのボリュームゾーンを狙って作ってみたものの出来上がってみれば「誰もが欲しがらない」と思うようなどうしようもない製品に仕上がってしまうケースが多いのではと思います。
 こういうケースは日系家電メーカーで特に顕著ですがなんでそんなどうしようもない製品が出来てしまうのかというと、一つは「誰にも嫌われない」に比重を置きすぎるあまりに「嫌われない代わりに誰にも好かれない」製品にしてしまう。二つ目としては目には見えず存在すらしない人間に好かれる製品にするため自分自身の嗜好を置き去りにしてしまってるからではないかと密かに見ています。

 というのも、マイナスイオンを発生させるテレビとか数万円もする電子メモ帳とか、一体こんなの誰が欲しがるんだよとツッコみたくなる製品がガラパゴス大国日本ではよく見られるからです。普通にこういう製品を見ていて開発者はこんな製品をお前自身はお店で買うのかと問いたくなるようなものばかりで、開発者やマーケティング担当者からして借金してでも自分は買うと思うような製品を作れているのか強く疑問に感じます。
 確かに顧客に受け入れられるような製品を計算して作るのはマーケティングの基本ですが、少なくとも自分自身が好きになれない製品を作ったところで顧客にも受け入れられない可能性の方が高いような気がします。それであればもうちょっと主観的な嗜好で開発者自身が好きになれる製品、あったらいいなと思うような製品を作る方向に努力するべきではと言いたいわけです。

 多分読んでると思うけどこのところの友人のブログ記事を見ていてまさに同じことを思っています。ちょっと読者におもねり過ぎというか君自身はこのネタを本当に面白いと思うのか、こうした情報が必要なのかと思え、こうした視点を持つことでもアクセス数は上がるよと言ってあげたいわけです。実際、変に読者を意識して解説ぶった記事よりも自分の不満などを思い切り愚痴ってぶちまける記事の方が案外面白かったりすることもあるし。

 最後に蛇足かもしれませんが、こういう直感型というか自分の嗜好を基準にしている代表格としては地味に明石家さんまが来るかもしれません。聞くところによるとさんまは自分のテレビ番組を録画してはよく一人で見て、「俺ほんまおもろいやんけ」と笑い転げるそうですが、これなんか自分が面白いと思うトークを視聴者にも見せて成功している好例と言える気がします。
 自分の好きなものばかりを追いかけようとすると独りよがりになると警告する人もいますが、極端な方向でない限りはこういう姿勢も悪くないんじゃないかなと自分を振り返りながら思うところです。

  注
 今回の記事では故人も出てくるので、引用する人物名は芸名やペンネームということもあって敬称を省略することで統一しています。書いてて非常に畏れ多かった……。

2013年12月15日日曜日

コミュニケーション能力と共通体験についての考察

 先日、私が読んでいる「怨み屋本舗」という漫画で気になるセリフを発見しました。そのセリフというのもオタクな趣味を持つキャラクターに対して主人公が、「オタクはオタク同士だと短時間ですんなり打ち解ける。私は彼のコミュニケーション能力に期待している」という内容のセリフです。
 このセリフですが私も深く同感せざるを得ないというか、まさにそういう場面に出くわしたことがありました。その場面というのもバイト先の知り合いに誘われて参加したコスプレ会場なのですが、そこだと中学生と40歳くらいのおっさんがまるで同い年の様にため口でしゃべるという、普段の生活では有り得ないような光景が多々見られました。ちなみにその中学生のコスプレは何故か丹下段平でした。

 一見するとオタクな趣味を持つ人間というと引きこもりに代表されるような、コミュニケーション能力が低い人物が連想されがちじゃないかと思います。しかしさっきの「怨み屋本舗」でのセリフに書かれているように、確かにオタク同士だとびっくりするくらいすぐ打ち解け合うことが多いように思え、そのような事例を考えると一概にオタクはコミュニケーション能力が低いとは言い切れないようにも思えるわけです。では一体何故こういう風な見方が広がるのか2分程度考えた末の自分の結論はというと、結局は共通体験の有無に全部集約されるのではないかと考えました。

 共通体験とは読んで字の如く、他人と同じ体験を自分がしているかどうかという意味です。この話は今度二人っきりで旅行に行く友人の方が専門なのですが、近年の日本はインターネットの普及と共に趣味やライフスタイルの多様化が広がり、こうした共通体験というものが年々少なくなってきております。具体的な例を挙げると私の時代であれば男の子はみんな「ドラゴンボール」を読んでいて、「ドラゴンクエスト」、「ファイナルファンタジー」を遊んでいると言ってもほぼ過言ではありません。また成人についていえば昔は今くらいの冬のシーズンになるとみんなスキー旅行に行って、また社会人となると車を持つのが当たり前化の様なライフスタイルでありました。

 しかし現代になると子供の世代でもみんなが確実に触れたことのあるメディアとなると「ワンピース」はあるとしてもゲームだと以前の「ドラゴンクエスト」、「ファイナルファンタジー」ほどの存在はなく成人も非正規雇用が増えるなどライフスタイルが多様化する傾向があり、そして単純に余暇の時間が減っていることから触れられるメディアの数も減少傾向にあります。こうした状況について友人はよく、共通体験がないため爆発的にヒットする商品やサービスは生まれ辛く、自然とニッチな産業やメディアを作る方向に日本企業は突き進もうとする傾向があるということを主張しています。

 話を戻しますがオタクの趣味というと一般的にはアニメ、漫画、ゲームの三本柱です。逆を言えばオタクの趣味はこの三種類に限定される傾向があり、それがためオタク同士だと共通体験を保有している確率が非常に高く、なおかつそれぞれがディープにそのメディアに触れていることも多いために初対面でも話題が盛り上がりやすく、なおかつオタクでない層との差別化もあってすぐに打ち解け合えるのではないかという仮説を立てました。

 日本社会では最近、若者のコミュニケーション能力が低いという意見が大手メディアを中心に発信され、各調査でも企業が募集する人員に求める能力の筆頭にはこのコミュニケーション能力が入ってきます。こうしたコミュニケーション能力に対する社会の注目ですが先程の仮説を援用すると、単純に「打ち解け合える能力」が不足しているのではなく「共通体験」が不足しているというのが真相なのではないかという気がします。
 ちょっとアクセルを踏み過ぎたのでブレーキ踏んでもうちょっと詳しく説明すると、最近の若者はコミュニケーション能力が低いように言われているが、そもそもコミュニケーションというのは共通体験を持っているか否かということが成否を左右する大きなファクターであり、この共通体験が社会の多様化に居って上の世代、果てには同世代の間でも非常に少なくなってきているためコミュニケーションがうまくいかなくなっているのではないかと言いたいわけです。自分で書いておきながら、わけわかんないこと言ってますねぇ。

 言うなれば、コミュニケーション能力というのは人格とかそういうものじゃなく、ほかの多くの人と同じ話題を共有できるような共通体験の多さに集約されるのではないかと言いたいわけです。逆を言えばどんなに共通体験が少なくてもお互いに一致していればうまく行けるし、一致しなければほとんどうまくいかなくなる具合で、単純この上なく求めれるのは「お酒が飲めてその話が出来るか」というのが大きなキーワードになってくるわけです。酒が飲めない自分としては不利この上ない条件ですが。

 結論としては共通体験というか同じ趣味がコミュニケーションの成否を左右するという一言に集約され、様々な体験を経験したり幅広い教養を持っている人間というのはコミュニケーション上手になりやすいということです。ただ趣味の範囲が狭くても他人とその狭い範囲で被りさえすればコミュニケーションは簡単に上手くいくこともあり、一概に人格不適合者というふうに扱わない方がいいのではないかと言いたいわけです。
 もっともこういっておきながらですが、共通体験を持っていなくてもコミュニケーションをうまく運べる人間も確実に存在します。私から見てそういう人間は概して聞き上手な人が多く、プレゼンが上手かったり口の立つ人間である条件はなくてもいいと思います。更に言えば、こういうタイプの人間がただでさえ共通体験が持ちづらい海外の現場で活躍するように思えるわけです。

  おまけ
 自分に限って言えば世間一般とは外れた道を歩むことが多かったため、あまり普通の人と被る共通体験は多くありません。そんな自分にとってこういう趣味なり知識なりを持っている人だったら仲良くなれそうかなっていうのを片っ端から挙げると、以下の様になります。

・安保闘争に詳しい人
・文化大革命が好きな人
・中国史に詳しい人
・政治議論が好きな人
・カレーが好きな人
・水木しげるが好きな人

 我ながら、やっぱり趣味が偏っているなぁってしみじみ思います。

2013年11月9日土曜日

空気を食す民族

 以前に「阪急阪神ホテルズのメニュー偽装問題について」の記事で食品素材の誤表示問題を取り上げましたが、私というか多くの人間の予想通りに阪急阪神ホテルズの後を続く形で国内のホテル、レストランで同じような発表が続いております。おかげさまでこの記事もここ最近のアクセスゲッターとなっており、アクセス数が第一というわけじゃないもののやはりうれしい限りです。
 それにしてもというかこの問題、自分が当初に予想していた以上に長引くというか後を引いているように思います。中には国産牛と偽ってオージービーフを出していたというトンデモ例も出てきましたし、あと「芝エビ」のかわりに「バナメイエビ」を使うという例があまりにも多いせいでバナメイエビ名前を覚えてしまいました。バナメイエビも悪い例として日本人に名前覚えられてしまい、なんだか不憫な気がするし。

 バナメイエビはともかくとしてこの問題に関し、このまえ面白い評論を読みました。その評論で書かれていた内容というのも日本人は素材に対して強いブランド意識を持つ傾向があり、お米でも各種のブランド米があったりなどと場合によっては出される料理以上に使われている素材の方に目を向けて価値を感じることもあると指摘していました。なかなか言い得て妙だと思うのと同時に、確かに日本人は食べた料理がどれだけおいしかったのかよりもどんな料理を食べたのか、下手したらどんな食材をどこで食べたのかを自慢することが多いように思えます。言うなれば、食べた料理の味よりも出される料理の金銭的、ブランド的価値の方に重みを置いており、だからこそ今回の様な事件も起きたのかもしれません。

 さて、この記事の見出しには「空気を食す民族」と銘打ちましたが、我ながら随分と皮肉っぽくなったもんだと思えます。空気を食すっていったって仙人みたいに霞を食べるわけでなく、その意味するところは「舌に感じる料理の味よりもそのシチュエーションの空気を味わうことに重きを置く」ということにあり、前記の様な日本人の性質の様な傾向を批判的に表現した限りです。
 全員が全員と言い切るつもりは全く有りませんが、やはり日本人は内面的な実質的価値よりも外形的な表面的価値を強く追う傾向がある気がします。行ってしまえば中身よりも外見を明らかに優先するということで、先程の食品表示問題についていうと料理の味という実質的価値よりもその料理に使われた素材にこだわり、それが表示と違っていたら怒りを見せるといったところから言えるように思えます。

 ここで全然別の話を一つ持ってきますが、日本でスポーツジムに通う人の運動量を測定した所、なんとその運動量は犬の散歩をしている人より少なかったという結果が出たそうです。確かに犬の散歩はその優雅な見た目に比べて意外にハードなだけなのかもしれませんが、「運動をする」という目的のための施設に通う人よりもペットの世話をしている人の方が運動しているなんてなんじゃそりゃと言いたくなってきます。

 もちろんスポーツジムに置いてある器具なり設備をしっかり使えば相当な運動量を叩き出せて効率的な体力の増強、維持管理を行うことが出来るでしょう。しかし上記の実験結果によると実際には通っている人の大半はお金を払っておきながらもちんけな運動量しか運動していおらず、きつい言い方をすると効率的なお金の使い方をあまりしていないわけです。一体なんでこんなことが起こるのかというと、これまたきつい言い方をするとジムに通っている人間はジムに通う自分に酔っているというべきか、実際に「運動する」ことよりも「運動するための活動(=ジム通い)をしている」ことに満足してしまっている、むしろその満足感を求めているんじゃないかと思います。言い換えればジムにお金を払うというのはその満足感を買うためであって、実際にどれだけ運動するかは二の次というわけです。

 以上のスポーツジムの例に限らず、ポーズだけで中身を伴わない、問わないという活動や評価が日本には非常に多く感じます。社内で問題起きたら対策本部を設置してそれで終了し、実際に対策内容は問わなかったり、その製品がどれだけの機能を持ってどう活用できるのかをあまり考えたりせず流行っているからという理由で買ったりなど。こういう外形的価値を追うことは何も日本に限るわけじゃありませんが日本の場合はやっぱりそれが他国と比べても強いと感じるわけです。

 そのためというか日本は実質的な価値がなくても、なんとなくな雰囲気とかそういうものがあれば喜んでお金を出してしまうんじゃないのか、いわばいい空気を感じるためならあまり中身を問わないんじゃないのかと思うわけです。エラそうな言い方をしていますが私も日本人の一員であるだけにそうした行動が全くないというわけじゃなく、過去を振り返れば結構思い当たる節が数多くあります。
 しかし中国に行ってきたせいかもしれませんが、やはり以前よりも「じゃあそれで何が出来るんだ」というものを重視するようになってきた気がします。そして同時に、日本人の中身よりも外見を重視する傾向は現代においてマイナスに作用し始めているとも思えてきたわけです。

 なんでもかんでも費用対効果で実質的価値ばかり追うのはロマンもないし面白くないでしょうが、それでも今の日本人全体にとってはもう少し外面よりも中身に目を向けた方がいいと私は主張します。空気なんか食べたって腹の足しにならないのだし、高級ホテルで食べようが下町の食堂で食べようが、まずいものはまずいのだしうまいものはうまいのだし、どこそこで食べたからというよりもうちょっと自分の舌なり感覚なりを動員してどう自分が感じたかをみんな意識した方がいいというのが今日の私の意見です。

  おまけ
 高校時代によく、「花園君はなんでスポーツジムに通わないの?」と結構聞かれました。はっきり言ってジム通いなんかより高校の部活の方が圧倒的に運動量多いのはわかりきったことですがそれは置いといて、なんでこんなこと聞かれまくったのかというと自分の体形が妙なせいだったからだでしょう。
 自分の体形はやせ形もいいとこですが脂肪がない分、妙にすっきりしていてなんか激しく鍛えているように見えるようです。少なくともウエストに関しては明らかに常人を逸脱しており、今日たまたま近くで洋服の青山がオープンして安かったからスーツを買いましたが、YA4のサイズでもウエストが余るのでさらにここからサイズを詰めてもらいました。でもって自分のウエストのサイズ測る際に店員が毎回、「Σ(゚д゚;)エェッ」って顔してくるのもだいぶ慣れました。

2013年8月11日日曜日

日本人の「無」に対する信仰

 前に書いた「仏教は宗教なのか?」の記事で島田裕巳氏の著書「無宗教こそ日本人の宗教である」を紹介しましたが、実はこの本を読んで前回記事のようなことに加え、またちょっと妙なことを思いつきました。結論からパパッと書くとそれは、日本人はどこか「無」という概念に対して信仰めいたものを持っていないかといことで、今日は暑くて外出る気しないのでその辺を書こうかなと思います。

 まず「無」とはなんぞやですが、深く議論すると禅問答みたいに答えがでなくなってしまうので一般的な定義を述べると、「空っぽ」や「まっさらな状態」といったところでしょう。一体これがなんで日本人の信仰と関係あるのかですが、あくまで私の印象ですが日本人はやたらと心理的な状態を「無」にすることが理想であるような言い方をする傾向が感じられます。 

 具体例はいくつもあり、一般的なものだとテストやスポーツの大会などでは平常心を持つこと、さらには余計なことを考えないようにするべきだと教えたり、武芸においては剣道において顕著ですが、「無念無想」という状態を理想においております。無念無想についてもう少し書くと、私が聞いた限りでは剣豪の塚原卜伝がある日に突然襲ってきた敵に対して思考する間もなく反射的に刀を抜いて斬り倒した際、剣の極みとは何も思考せずとも体が反応して動く、つまり反射的に斬り返せる状態を理想と捉えたのが始まりらしいです。
 こうした競技などの面に加え、日常生活においても無の心は理想とされがちです。これは仏教の修行でまた顕著ですが、慌てないというか心を動じさせない事を是としています。人の生死において「無常観」という言葉を使って感情を出したりせず、自然の摂理だと考え受け入れる価値の重要性がよく説かれています。

 そしてここが最も根本的な所ですが、日本人は数ある仏教経典の中でも般若心経がやたら好きで、その中でも「色即是空、空即是色」という、「この世の中で目に見えるものはあってないようなもの」という意味の言葉を多用する傾向があります。私が不勉強なだけかもしれませんが同じく仏教の影響が強い中国でこんな言葉が使われるシーンは見たことがなく、般若心経がこれほどまで大事にされるのは仏教というより日本人のメンタリティにあるのではないかと言いたいわけです。そしてそのメンタリティこそ、「この世の理というのは実は無なんだ」という、「無」を価値あるものとして信仰するところにあるのではないかと何故だか思いついたわけです。

 以上のようなことを友人に話してみたところ、「花園君、なんか疲れてない?(;´Д`)」と、マジな感じで心配されてしまいましたが、私はやっぱり日本人にはどこか虚無主義(ニヒリズム)的な思想があるような気がします。本音と建前を分けられたり、本音をなかなか出そうとしなかったり、無駄だとわかっていることを誰も止めないからみんなで続けてしまうところだったり、そういうどこか現実というのは実は存在感がない、果てには自分の心理すらも実は価値がないとでも言わんかのような行動がやや見受けられるのもこの辺にあり、そして日本人自身もそうした「無」に対して憧憬めいた意識を持っているように思えます。

 恐らくですが、私は日本人の中でも数少ないと言ってもいい「頑張れば自分一人であっても世の中は変えられる」と本気で信じている人間の一人です。逆を言えば大半の日本人は自分一人では、下手すれば大勢であっても世の中は変えられないと考えているように私には思え、何故そう考えるのかというとここで書いた「無」の思想が影響しているのではないかと思うわけです。こんな書き方をしていますが私は「無」への信仰を全否定するつもりはなくこれはこれで面白いメンタリティを形成しているなと認めますが、もっと突き詰めてこの辺りの思想を研究したら日本人の行動様式とかもあれこれ考えなおせるのではないかと思うのと同時に、「無」の影響がやや弱い自分だからこそこんなことに気付いたんじゃないかというのが今日の私の意見です。といっても、友人たちからはよく「花園君はヒロイックな破滅願望が高い」とも言われているのですが……。

  おまけ
 今回の記事ではやたらと「無」という言葉を連発しましたが、書いている最中に何故だかゲームのファイナルファンタジー5に出てくるエクスデスというキャラクターを思い出し、彼が言った「無とはいったい、うごごご……」ってセリフまで浮かんできました。ほんと、無ってなんなんだろうねと自分も言いたいです。

2013年7月24日水曜日

仏教は宗教なのか?

 先日に宗教学者である島田裕巳氏の著書「無宗教こそ日本人の宗教である」を読んだのですが、読んでて自分とは異なる意見もいくつか見られたものの、日本人の無宗教性を「特定の信仰を持たない状態」ではなく「意識的に信仰しようとしない」一つの思想として捉えた点が非常に面白く感じました。ただそうした島田氏の捉え方と共に、明治にキリスト教が知識人層に広まっていったことで日本人の宗教概念が変わったという、話に何故だかアンテナに引っかかり、今日はそのあたりを好きな風に書いてこうかなと思います。

 まず結論から書いてしまうと、タイトルにも掲げている通りに仏教は宗教なのかという疑問を覚えました。たとえばキリスト教とイスラム教に対して仏教は一神教と多神教で異なるとよく言われますが、それ以前の信仰の形式というか形で大きく異なるのではないかと思うようになりました。まだ考えがまとまっていないので端的に書くと、キリスト教やイスラム教は人類全体を救済するという目的を持っているのに対して仏教はどちらかと言えば信仰する本人、個人が悟りを開けるかどうかに重点が置かれているような気がします。仏教にも衆生を救済するという概念はもちろんありますがやはりその本質は輪廻の輪っかから解脱することにあり、キリスト教やイスラム教の様に世界を破滅から救ったりとかそういう意識が極端に薄い気がします。

 ここで先ほど出した島田氏の言葉ですが、明治以降に日本人の宗教という概念が大きく変わったという説です。宗教というと信仰する神様がいて、戒律によって生活の一部を制限して、自分の振興をほかの人にも勧めようとする、大体この三要素を持った思想を指すとみんな考えていると思いますが、仏教もこれらの要素を持ちながらもその程度はキリスト教やイスラム教と比べると極端に低く、浄土真宗に至っては結婚も生臭物の接種もOKというフリーダムぶりです。そのように考えると、仏教を西欧や中東における「宗教」という概念と一緒に並列していいものなのか、思想は思想でも「宗教」というカテゴリーにまとめずに敢えて別の言葉に置き換えて区別した方がいいのではないかと思ってきたわけです。

 そのように考えていたらふと出てきたのが、「道」という言葉です。最近だとこの「道」という一文字を見たらリアルに「タオ」と読んでしまうのですがそれは置いといて、仏教と同義の「仏道」と日本古来の神話思想の「神道」という言葉にはこの「道」という言葉が使われますが、「キリスト道」とか「イスラム道」という言葉は一般的ではないというか普通はまず使いません。
 個人的にここが両者を分けるポイントだと思うのですが「道」というのは分野というか専門といった意味を持つ言葉ですが、それと同時に訓練して獲得するような技能などにも使われる文字です。具体例だと「剣道」や「弓道」、マイナーなのだと「天狗道」とかありますが、私はやはり「仏道」や「神道」というのは究極的に、その個人が修行したり魂を磨くということに価値を置いているからこそ「道」という言葉が使われるのだと思います。

 それに対してキリスト教やイスラム教は、確かに精神を鍛えるという面もありますがどちらかというと論理を追及するところにより価値が置かれているようにも思え、それがため「宗教」なんじゃないかと思います。なのでまとめると、仏教や神道は「道」であって「宗教」というか「教」とは一線を画すべきなのではというのが私のいいたいことです。
 もっともここまで言いながらですが、じゃあ中国の「道教」はどっちなんだと言いたくなってきます。もう「タオ」でいいだろと言いたくなってきますが。


2013年5月19日日曜日

娯楽時間の割り振り

 友人に何度も書くと言いながらずっと書いていないので、そろそろ腹をくくってこのテーマで書くことにします。

 その友人によると、なんでもテレビ局やゲーム会社などといった娯楽業界では消費者の「時間」という単位を如何に取るかという概念があるそうです。く人間が一日に与えられた時間というのは言うまでもなくみんな24時間で共通しており、その24時間内に食事から仕事、そして今回掲げている娯楽へとそれぞれ時間を割り振るわけなのですが、生活リズムは人それぞれによって異なるものの、娯楽においては多くの時間を獲得すればそれだけ売上げなり市場が広がるとされております。

 たとえば高校生の平日を例にとってみると、学校の通学から授業に使う時間が8時間、睡眠に使う時間を7時間とすると、可処分所得ならぬ本人が一日のうちで自由に使える時間は残り9時間となります。さらに部活に2時間、宿題に1時間、朝夕の食事時間を1時間かけると仮定すると残りは5時間という計算となり、この5時間が娯楽に使える正味時間となるわけです。
 娯楽業界からするとこの5時間を如何に自分たちのサービスに使ってもらうかが肝心となり、テレビ番組であれば平均視聴時間が2時間よりも5時間ある方が広告料が高まり、ゲーム業界にとってもゲームに充てられる時間が多ければ多いほど自分たちの商品が売れる裾野が広がるという感じです。

 この概念で以って歴史を振り返ると、それこそ昭和から平成初期の時代であればテレビに最も娯楽時間が費やされており、それ故にテレビ業界は栄華を極めることができました。しかし2000年前後からパソコンが普及したことによって今までテレビ視聴に使われていた時間の一部がインターネットに置き換わり、さらに時間が経つと携帯電話にも時間が割り引かれるようにもなり、ここ数年だとスマホによるネット利用時間も新たに出てきたと言えます。
 以上のように考えると新たな娯楽の出現によってテレビの視聴時間は激減したと言ってもよく、近年の視聴率、広告料の低下は自明と言えるでしょう。無論、テレビ業界もそんなことは百も承知で、対策として「如何にテレビ視聴に時間を割いてもらうか」と意識する方もいると聞きます。とはいっても、念力とかでどうにかなるようなものではないが。

 この娯楽時間と同じようなものだと食品・外食業界があり、ここなんかも人間の食事回数というか胃袋、言ってしまえば人口によって消費量が決まる所があり、自分もよく取材時にこの業界の人から、「人口減の日本では市場が縮小するのは目に見えており、膨大な人口を抱える中国への進出は誰もが考えている」という言葉を何度も聞きました。

 娯楽業界はこの食品・外食業界ほどはっきりしてるわけではないものの、それでも娯楽時間の母数が変動すれば影響を受けることとなります。ちょっと言葉足らずな気もしますがスパッと一言で言うと、社会人の労働時間が増えれば増えるほど娯楽業界は縮小していく可能性が高いということです。
 帰宅が夕方6時の人と夜10時の人では娯楽に使える時間は単純に4時間も変わり、下手すれば後者は疲労回復のために睡眠時間が増えることもあるのでもっと差が広がるかもしれません。スマホであれば通勤時間などにも使えるのでまだ影響は小さいですが、テレビ視聴時間、ゲーム時間、読書時間、勉強時間、デート時間、旅行時間、ブログ執筆時間などは社会人が働けば働くほど需要が落ちるのです。そのためこれらに関連するテレビ局、ゲーム会社、出版社、飲食・カラオケ・アミューズメント企業、旅行会社、観光地、ネットサービス企業は余裕のある人が減ると割を食うわけです。

 報道、といっても私もたまに行くので実際に見てますが、最近のゲームセンターは若者よりも年寄りが多く集まる傾向があるそうですが、年寄りはお金に余裕があるというよりは時間に余裕があるためにそうなってきたのでしょう。ここまで言えば私が何を言わんとするかはわかると思いますが、第三次産業を盛り上げるという意味でもう少し労働時間を日本は考えた方がいいのではというのが今日の私の意見です。

2013年4月7日日曜日

幸福の型、不幸の型

 先月に関西で友人と会った際に印象に残る言葉を二つかけられました。一つは、「なんか前にもまして歩行速度が上がってない?」というもので、ただでさえ早かった私の歩行速度が中国に行ってからさらに上がっていると指摘されました。もう一つがこの記事の主題となりますが、「なんか花園君ってさ、人間の正の感情よりも負の感情に強く関心を示すよね」という言葉でした。

 正の感情、負の感情というのは読んで字の如し、プラスかマイナス、陽か陰かという意味で、前者は人間がうれしい時や喜ぶ時の感情を指すのに対して後者は苦しい時や辛い時などのドロドロした感情を指します。友人が私に言わんとしたことは、私が取り上げる話題には人間は一体いつ、どんな時に苦しさや辛さを感じて、それがどのように嫉妬や怒りなどに発展するのかを追及することが多いのに対し、逆のパターンこと喜びや快の感情に対するメカニズムにはあまり興味を示さないということです。

 なんかこう書くといかにも私が根暗で陰険な人物のように見えてしますが、実際に前の会社で同僚に「花園さんは陽か陰かといったら明らかに陰ですね」とリアルに言われたこともありますが、多少言い訳をするとこれはなにも私に限ったことではないと思う、ってかないはずです。というのも思想家や文豪はその作品においてなにがしかの「悩み」をテーマにすることがある一方、全くないわけではありませんが「人間が何に感動するか」というテーマは前者に比べ少ないと断言できます。人間心理や思想の研究においては基本、悩むということが前提であると少なくとも私はそう思います。

 正の感情より負の感情の方が探究テーマにされやすいということは先ほどの指摘をした友人と一致し、その上で正の感情よりも負の感情の方がバリエーションが多いということもお互いに認めました。バリエーションが多いというのはそのままで、たとえば人間がどんな時に喜ぶのかという場面の数に対し、どんな特に嘆くのかという場面数は多いように思えるという意味なのですが、これについて別の友人に話を振ってみたところ、「ロシアの小説家のトルストイが同じことを言ってるぞ」という指摘を受けました。

 この指摘を受けてから調べてみたところ、私も初めて知ったのですがトルストイの名作の一つである「アンナ・カレーニナ」の中に、「幸福な家庭はみな同じように似ているが、 不幸な家庭は不幸な様も それぞれ違うものだ」という一節があるそうです。改めてこの一節を見てみると実に深く感じられるのですが、この項について後に出てきた友人と軽く議論を交わしたところ、幸福には定型があるという結論に至りました。

 この結論の意味をざっくり説明すると、人間社会というのは知らず知らずというべきか、幸福である条件を作っていってしまうという意味です。たとえば現代日本であれば、そこそこの収入があって、結婚して、健康であって、一流大学を出ていて、一流企業に勤めていて、勤務時間は適度で、子供もまともに育って、などといった幸福の条件というか型が存在し、この型に漏れること=不幸と捉えるようになってしまいます。仮に一つや二つの条件を満たさなくとも幸福感は得られるでしょうが、「完璧な幸福」には至れないでしょう。
 中には「幸福の条件なんて人それぞれが個別に作るものじゃないか」と言う人もいるかもしれません。ただ意志の強い人、周りに影響されない人であればそのような個別の幸福の条件を維持し、独自に幸福感を感じられるでしょうが、圧倒的大多数はそこまで意志が強いとは私には思えず、人間社会が作る幸福の定型に影響されてしまう気がします。

 私が言いたいことを簡単にまとめると、幸福であるとされる状態というのは多くの条件によって非常に限定されてしまう一方、不幸というのは「その他」というくくりとなってしまうため、トルストイが言ったように膨大なパターンになってしまうということです。そのため人間は、自ら幸福の型を作って不幸だと感じる人を量産していると言えるかもしれません。
 なおこの幸福の型ですが、作っているのは人間社会ですが、その中でもメディアが大きな役割を持っているのは言うまでもありません。でもそのメディアはたまにテレビなんかとかで、「苦しい家庭にあっても幸福でいっぱいの家族特集」みたいなのを組んで放送したりします。ですがとあるマンガで、
『たとえばの話だけどさあ』
『「人生はプラスマイナスゼロだ」』
『――って言う奴いるじゃん』
『エリートでも喜んだり悲しんだりするとか』
『幸福な人間もそれ相応の大変な苦労を積み重ねているとか』
『だから人間はみんな平等だって言いたいんだと思うけど』
『でも』
『「人生はプラスマイナスゼロだ」って言う奴は』
『決まってプラスの奴なんだ』
 という、なんて恐ろしいところを突くんだというセリフが載せられております。
 そこそこ有名なのでわかる人にはわかるかもしれませんが、このセリフは「めだかボックス」という漫画に出てくる球磨川禊(くまかわみそぎ)というキャラクターのセリフなのですが、自分も読んでて久々にしびれました

 この「めだかボックス」は既に出ている単行本を漫画喫茶でまだ読み終わってないのですが、ある程度読み終わったらレビューを書いてみるつもり満々です。しかしこういうセリフにいちいち反応するあたり、やはり自分は『陰』の側なのかなぁと認めざるを得ない気がしてきました。

2013年3月28日木曜日

現在と未来の優先順位

 このところよく考える哲学テーマの中の一つに、未来に対する価値観というものがあります。未来といえば現在より時間が進んだ先の状態、ということには間違いないのですが、その未来をどのように捉えるかでこのところ、というか中国に渡ったきた辺りから価値観が変わってきました。

 まず前提として、多かれ少なかれの日本人は将来、10年先とは言わずとも2~3年先くらいの自分の未来がどのようにあってほしいのか、どうあるべきなのかという予測とも希望ともいう漠然としたイメージがあると思います。多分、高度経済成長期であれば今ほどイノベーションというか世の中の動きが激しくなかったので20年とか超長期スパンで物事を考えていた人もいたかもしれません。
 ではそうした未来の自分に対するイメージは現在の自分にどのような影響を与えるのか。改めて考えるといろいろあって、たとえば将来の仕事に必要だからと思って実行するかどうかは別にして英語を勉強しようと考えたり、資格取得を目指したり、生活に根差したものなら住宅ローンを組んだらどうだとか、組んでいる人はいつごろに返済するかとかそういうものを逆算して現在の収支を組んだりなどするかもしれません。こうした見方からすると、未来に対するイメージは長ければ長いほど、確固としていれば確固としていた方がいいようにも見えます。何故なら、現在の行動の方向性が掴みやすいからです。

 では現代人は自分の将来像をしっかり持った方がいいのか。ここまで書いておきながらですが、私はこの見方に対して異を唱えます。つまり、自分の将来像を固めすぎるとあまり良くないと言いたいのです。
 一体何故こんな風に言うのかですが、単純に現代社会は未来がほとんど読めないからです。恐らく就職活動をする学生さんは応募する企業に対して多少なりとも将来性を考えるでしょうが、5年前に日系メーカーとしては一番勢いのあったシャープが現在では青息吐息な状態であるなど、 現代社会はとにもかくにもイノベーションが激しく、今後も更に加速して行きかねません。それ故にうまくいけばめっけものですが急なトラブルというか方向転換を迫られる事態に巻き込まれた場合、 自分の将来像を固め過ぎてると返って選択肢を狭めかねず、言ってしまえば応用が効かなくなる可能性があります。

 では将来像を全く持たずにその場その場で刹那的に生きるべきなのかという声も出てきそうですが、これでは極端から極端に走りすぎです。全く将来像を描かずに「現在」しか見ないで生きるというのも自らの活躍、発展の可能性を狭めてしまいます。
 じゃあ一体どうしろってんだとそろそろ言われそうですが、結論としてはこれはあくまで日本人限定ですが、もう少し未来より現在に意識を集中して生きた方がいいのではというのが私の意見です。

 一体何故私がこんな意見を持つようになったのかというと、言ってしまえば中国での体験が原因です。中国人は概して、日本人と比べると刹那的に生きている人が多いです。10年先なんて知ったこっちゃないよと言わんばかりに勢いで行動するし、仕事も長期スパンの計画とかが苦手で面倒くさい問題は後回しというか放置(日本人も見なかったことにすることが多いが)、キャリアプランも深く考えずちょくちょく転職も実行します。
 自分も一応は日本人であるのでちょっと中国人は刹那的過ぎるかなぁとは思うのですが、その一方で日本人は長期的に物を考え過ぎるあまりに、いざ方向転換しようと思ったら時既に遅しというパターンが多すぎる気がします。中国人を見習えっていうわけじゃありませんが、今感じていること、考えていること、やりたいこと、やるべきことをもうちょっとストレートに即実行しようとしてみる方が長い目で見ると返っていいのではと思います。

 こんな風な考えを持つに至った故というべきか、未来に対する意識というか価値観が数年前と比べて何か自分の中で変わった気がします。敢えて表現するなら、以前は「出来ればこうあってほしいなぁ」という希望イメージだったものが、「現在を積み重ねた結果」と考えています。
 この辺が非常に表現しづらいのですが、以前は希望する、期待する未来のイメージに現在の自分をどう近づけるかを主に考えていましたが、今はあまりそういった未来のイメージを持たず、今現在で頑張ったり、努力したりすればいい未来に繋がり、逆なら悪い未来に恐らく繋がるだろうというようなアバウトな価値観になってます。要するに、先のことは知らないけどまぁ今目前でやるべきことをしっかりやってれば多分良くなっていく、こんな信仰です。

2013年1月21日月曜日

自らを欺くなる時

 自分でかくのも少し気が引けますが、自分はやや馬鹿正直と言ってもいい性格をしているかと思います。一昨日も利用したラーメン屋で会計を済ませた際に半熟卵のトッピング代(8元=112円)が含まれていなかったので店員に指摘して差額をわざわざ自分から支払いましたが、なんか店員の方が驚いた顔していました。恐らく友人なら向こうの落ち度なのだから気づいたとしても余分に支払う必要はないと言うでしょうが、私自身もそういう行動を取ったとしても何も咎められることはないと考えています。なんかこういう書き方をすると、さもその友人が悪人みたいに見えますが……。

 なんでこんな性格するようになったのかというと、一つの原因は子供の頃に失敗しでかした際に嘘ついてごまかそうとして、余計に事態を悪化させることが多かったことがあります。実際にこれでかなり痛い目に遭っており、「たとえ立場を危うくさせることになっても、ミスった時は正直に言った方が最終的にはお徳だ」といつも肝に銘じています。
 こうした経験のほかもう一つ理由を上げると、やはり嘘をついた時に自分自身に感じるあの違和感がどうにも慣れないというのがあります。これは直接的な嘘というより表面的な嘘を言う際、たとえば本当は好きでもない食べ物を「花園君もあれおいしいと思うでしょ」と言われて周囲に合わせて「うん、まぁね」などと言う時に腹の中で感じる、「本当は違うんだけどなぁ」っていうあの感覚です。更に話を深く落とすとこういう風に違和感を感じられる間ならばまだいいですが、「違和感を感じなくなる」ところまで行きたくないという拒否感をはっきり持っております。

 諺にも「うそから出たまこと」という言葉がありますが、人間というのは基本的にそれほど思考が自立しているわけではなく、周囲や環境、果てには自分が出す言葉にまで影響され思考が変わっていくと聞きます。先程の例ですと元々おいしいと思っていなかった食べ物を周りに合わせておいしいものだと言い続けているうちに、本当にそれをおいしいと感じるようになっていくという具合です。
 仮にこう言った思考の変化が意識的でかつポジティブなものだったらそれほど問題ではないですし、スポーツのメンタルトレーニングなどでは困難な練習を敢えてイージーなものだと自ら思い込むことに負担を下げたりすることもあるそうです。ただこれが無意識的にかつネガティブなものだとしたら、やはりそれは嘘を言う本人にとっていい結果を生むことはないでしょう。また嘘を多用することによって思想が変わるにとどまらず、思想自体なくなるということもあり得るのではないかとも考えています。

 こう考えるのも、やっぱり嘘ついても平気な人に自立した思考が感じられないからです。自分もこれまでに息を吐くかのように嘘をつく人に何度か出くわしたことがありますが、そういう人たちは利己的な判断で嘘をついていると自分自身では考えているのかもしれませんが、その実本当は自分が今一体どんな内容の言葉を発しているのか、真実を言っているのか嘘をついているのかすらも理解できていないのではないかと思う時がありました。言ってしまえば、その場その場で思考が変わるので本音というものが何も存在しないような人間です。

 嘘をつくというのは結局はこうなることだと思います。利己的な判断から適当にごまかす嘘を重ねるうちに最終的には自分自身の本音すら消し去ってしまう、自らをも欺く結果になるのだと思います。もっともこんなこと書いておきながら自分自身も、正直な方ではあるものの一つも嘘をつかない聖人というわけではありません。ただ曲げてはならない点、譲ってはならない点では、それこそリアルファイトに発展しそうな瀬戸際でも絶対に折れることはなく、見方によれば頑固に見えるでしょうが自分自身の価値観はまだほかの人よりは見えやすいと考えている次第です。

2012年12月30日日曜日

日本人は侍か?忍者か?

 いつごろかは忘れましたがかなり昔に海外の人にとって日本人は侍というイメージを強く持たれており、それがいい方向に作用しているということをブログで書いたかと思います。日本人がどうして侍というイメージを持たれるようになったかは新渡戸稲造の著書「武士道」のほかに、黒沢映画などの影響によるところが多いと予想されますが、北京での留学中に相部屋だったルーマニア人ですら、「日本人はどんなことにも黙って我慢する忍耐強い民族だと親父に教えられた( ゚∀゚)」と言っていたくらいなので、その浸透度は計り知れないでしょう。
 ただ日本人のイメージとくれば侍のほかにも、こちらはショー・コスギ氏らが出演した映画による影響か忍者というイメージも海外で負けじと強いです。侍と忍者、どちらも大多数の現代日本人からすれば直接関わりはないものではあるものの(あったら怖い)こうしたイメージを保持することは明らかにプラスに働くために大事にすべきとは思うのですが、それでも敢えて一言いうのであれば、私は侍というイメージより忍者というイメージを強く意識して押し出すべきだと主張します。

 一体何故忍者を押し出すのか。別に私は甲賀忍軍の末裔というわけでもなく親戚に忍者がいるというわけでもないのですが(いたら怖い)、こう考える理由として一つには外人の考える忍者のイメージがぶっ飛んでて好感を持たれるのに侍より好都合であることに加え、忍者のイメージの方が日本人の思想に割合マッチしやすいと思うからです。
 忍者のイメージ云々は省略して後者の思想にマッチしやすいという点に絞り解説しますが、あくまで私の主観ですが日本人というのは基本的に目立つことを嫌います(大阪人を除いて、それにしても今日は括弧づけが多い)。この目立つ行為を避けるということが忍者の持つスパイ性に近いというか、究極的には周辺環境に溶け込もうとする日本の文化様式に重なるのではないかと勝手ににらんでます。

 これは以前、といっても自分が記憶する限りだと確か小学5~6年生の頃に通った予備校での国語の授業で使用されたテキストに書かれていた内容ですが、噴水という建築物は西洋世界では風景にマッチするのに対し日本だとどうにもマッチしないと書かれてありました。その理由はというと西洋の建築思想というのは「自然を改造する」ことにあって如何に人工的な作為を建築に見せようとするのに対し、日本の建築思想は自然そのものの姿を可能な限り残そうとする、いわば真逆にあると論じてありました。
 この話は子供心にやけに記憶に残ったのですが、その後学生時代に京都に行ってからはなおさら納得感を深めました。知ってる人には早いですが京都は「借景」といって、住宅など建築物を建てる際に背景にどんな光景を入れるか、京都の場合ですと具体的には山々ですがそうしたものを考慮して建てます。建築というものは同じ東洋人でも日本、中国、韓国で明らかに様式が異なり、割かし民族ごとの思想が反映されやすいものだとかねてから考えており、この借景という概念一つとっても日本人の究極的な思想形態というものはここにある、つまり自然に如何に溶け込むかにあるのではないかと考えてるわけです。

 そうしたことを考えるにつけ、侍の持つ「寡黙」、「忠義」といった要素よりも忍者の持つ「隠密」、というか「ステルス」という要素の方が日本人と相性がいいのではないかという結論に至りました。以前にも書きましたが日本政府は今、「クールジャパン(゚∀゚)」という用語を使って日本のコンテンツを海外向けに打ち出しておりますが、海外に住んでいる自分の身からしてこの用語はあまり見かけることはなく、そもそも「クール」と「日本人」では連想しづらいと感があります。それならむしろ標語を「シュールジャパン(・ω・)」に変えて、ありのまま、自然なままの日本人の姿を打ち出す方が日本人の思想にマッチした上で、海外の人にとっても連想したイメージが作りやすいのではないかと常日頃から考えてるわけです。
 その「シュール」という言葉と「自然(=周囲)に溶け込む」という思想を訴える上で忍者というのは非常に恰好の材料であり、また既に持たれている既存イメージを流用することも可能であることから、提案をするという意味で今回このような記事を書くことにしました。最後に蛇足となるでしょうが新渡戸稲造は「武士道」なんて書かずに「忍道」って本を書くべきだったんじゃないかとも思っており、「忍道とは、隠れることと見つけたり」みたいな感じで海外に紹介した方が色々面白かったのではとも思ってたりします。

2012年11月29日木曜日

男女の嫉妬の違い

 このところ同僚と顔を合わす度に、「漢字は一緒でも、男と女で嫉妬という感情の意味は変わるよね」というわけのわからない会話を繰り返しているので今日はこの辺について書きます。我ながら素晴らしく意味の分からない出だしです。

 私が男女の嫉妬の違いに着目したきっかけは大きく二つあり、一つは佐藤優氏がその著作の中で「男の嫉妬ほど醜いものはない」と、本人が外務省内にいた時に目撃した外務官僚同士の嫉妬劇に対する言及と、あまり知られていませんが密かに高く評価している楠桂氏の漫画作品の「鬼切丸」からです。前者はともかく後者についてもう少し説明しておくと、この鬼切丸という漫画は「激しい憎悪や嫉妬にかられると鬼に取りつかれる」というお話で作中では男女関係なく鬼となって虐殺を繰り返すという、こう書くと身も蓋もない話なのですが、鬼になる人間、それもとりわけ女性がなる回というのが非常にえげつないというか、よくもこんな話をこの作者は書けるもんだと思うものばかりなのです。
 一例をあげると、女子高生が数人の男に誘拐されて父親が身代金を要求されます。男たちのうちの一人は誘拐された女子高生に同情して身代金を得たら必ず開放するからと声をかけるのですが、父親は身代金を運んでいる最中に事故死してしまいます。もうこうなったらお金も取れないしその女子高生を殺すしかないと別の男が言うのですが、先程同情した男はもちろんここで女子高生をかばい、開放するべきだと主張します。すると、「何言ってやがる、そもそも誘拐してお金を取ろうと言い出したのはお前じゃないか」と、別の男に言われてしまい、その後なんだかんだあって女子高生は鬼になって主人公に斬り殺されてチャンチャンとなるわけです。

 はっきり書きますが上記のお話なんてまだ緩い方です。ほかの話に至っては全く罪もないのに拷問を受けたりとか変に同情してしまったばかりに事件に巻き込まれたりとかで、ハッピーエンドで終わることはほぼ皆無といっていいくらいありません。全体を通して嫉妬とか恨み、憎悪という感情が前面に出てきており、やっぱこういったもの男の自分では思いつくことすらできず女性の感性じゃないと書けないのではと思うに至ったわけです。

 そんなことを先日に同僚に話したことから盛り上がったのですが、やはり同じ嫉妬という言葉を使っていながらも男と女ではそれが指す感情は全然別物だというのが私の意見です。あくまで男である自分の側から具体的な違いを上げるとすると、男はどちらかというと嫉妬の対象となる人物の性格や能力といった本人の資質ではなく、その地位や財産、身分といった保有するものに対して嫉妬するような気がします。一方、女性はこれがまるで逆で相手の地位や財産に対してはあまり無関心である一方、相手の資質こと性格や見た目、さらに具体的に言えばどれだけ男性にモテるかなんかに対して物凄い執着を見せるような気がします。
 更に女性に関してもう一言付け加えるなら、変な言い方になりますが感情という形のないものに対して嫉妬という感情を強く持つようにも思えます。それこそ先ほどのモテるという点でも、男性の感情を集めるという女性に対して嫉妬しますが、その逆にある男性(大抵恋敵)に対して嫉妬の対象となる女性が意識することに対してすらも持つんじゃないかという風にも見えます。

 ここまで書いてようやく気が付きましたが、そもそも嫉妬というものは基本的に同性にしか向かないものなのかもしれません。男の自分が女性に嫉妬するというのも普通はないですし、自分自身でもそんな感情持ったことのある自覚がありません。逆に同性に対しては、情けない話ですが金のない大学生時代にいくらかその手の感情を持ったことがあります。

 最後に嫉妬と聞いて真っ先に思いつくものとなると、昔あった「突撃!パッパラ隊」という漫画でカップルに対して理不尽な攻撃を繰り返す「しっとマスク」というキャラクターが私の中で挙がってきます。「究極!!変態仮面」といい、あの頃の漫画キャラクターはインパクトが今と比べて絶大だったなぁ。

2012年11月22日木曜日

手段の目的化に伴う弊害

 最近はすっかり読まなくなりましたが、以前によく漫画家の小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」を読んでおりました。読まなくなった理由はもうちょっとついていけないかなーっと思う回数が増えてきたせいでありますが、あの薬害エイズ問題が大きく取り上げられたころの話は非常に面白く、今でも他人に薦めることが出来ます。
 その薬害エイズ問題のくだりで書かれた話ですが、管直人元首相(当時厚生大臣)が被害者に正式に謝罪した後、「運動から日常に帰れ」と小林氏は主張しておりました。この言葉の意味とは薬害エイズ問題でデモ運動を繰り返したことによって政治家、ひいては厚生省を動かす事には成功したのだから、後の処理は政治のプロに任せてこれ以上は必要でない限りデモ運動などするべきではない、普通の日常に戻るべきだそうです。

 当時はなんとなく、「へぇ変わったこと言うなぁ」とか考えてましたが、後年に改めて思い返してみると実に重要な提起だったとこの言葉を高く評価するようになりました。というのもその下りでも書かれていましたが、薬害エイズ問題の被害者への謝罪と補償を要求する手段として運動があり、その目的が達成された後も運動を続けるというのは運動それ自体が活動の目的になってしまっており、本末転倒な行動となってしまうからです。
 以前にも、といっても本人も覚えていませんが私はブログ(恐らく陽月秘話時代)で、手段それ自体を目的にしてはならないと主張しましたが、その源流はこの小林氏の言葉にあります。最近またこのテーマであれこれ思索を進めたのですが、やはり手段が目的化するとどんどんと行動が矮小化していくというか、はっきり言ってしまえばくだらない人生になる可能性が高いという弊害があるように思えてきました。

 いくつか例にとると、「何故働くのか」という問いに対しては普通、少なくとも私の常識では「生計を得るため」が一番まともな答えだと思います。構造的には「生計を得る」が目的であって、その目的達成手段として「働く」があることになるのですが、この例で手段が目的になるということは「働くために働く」という風になります。
 もちろんこんなの日本語の文章としても明らかにおかしく成立するはずはないのですが、一工夫するとこれが成立するようになります。その工夫とは、手段が目的となるのに合わせて新たな手段を作ることです。先程の例だと、「働くために仕事を増やす」、「働くために遅く残る」、「働くために会社を辞めない」という具合で、なんていうか不毛な言葉ばかり並びます。ただ不毛と言いつつも、こういったことが今の日本に起こっているのではないかと本気で考えてます。

 更に話を発展させると、手段が目的化するのは何も一回だけとは限りません。これまた同じ例だと、「仕事を増やすために余計な作業手順を作る」、「余計な作業手順を作るため人員を増やす」と、このように下がれば下がるほど本末転倒というか何がしたいのかだんだんわからなくなってきます。それでも強気で言い続けるなら、これが今の日本の現状だと私は考えます。
 こんな具合で話をまとめると変な感情は挟まず手段はやはり手段だと割り切るべきで、目的というのは窮屈にもなりますし高尚なものへ引き上げる必要は全くありませんが引き下げてはならないものだと思います。引き下げてしまうと本人は満足かもしれませんが、少なくとも私の目から見て楽しい人生にはなりません。

 もっともこう言いつつも、実際には多かれ少なかれ目的が手段化するのは必定なところもあるとは認めます。最近また社会学的な思考が復活しつつあるのか物事を構造でとらえる傾向が高まっているのですが、人間というのは目的と手段がいくつか入れ子構造になっており、一番大事な目的(生存など)を敢えて第一目的とするなら、それを達成するための第一手段というのが第二目的になるのだと思います。でもって第二目的の達成手段が第二手段=第三目的……という具合で、段階欲求論を主張したマズローさんだったらきっと理解してくれそうな感じで今理解してます。
 最後に重ねて言うと、曖昧でもいいから人生の目的こと大目的というのは多少は意識した方がいいと思います。自分の場合は前の記事で書いたような花園家再興とともに自分の実力をどこまで引っ張り上げられるのかがこの大目的に当たりますが、この目的にそぐわない行動はほとんど取らず、逆に沿う行動に対してはかなり大胆に実行できている気がします。少なくとも今の人生にはあまり後悔はなく、悪い気はしないので人にも勧めたいと思った次第です。

  おまけ
 以前に人生の目的などについて友人と議論した際、「僕はニュータイプになりたいから宇宙に行くことを人生の目的にするよ( ゚∀゚)」と言い出す友人がおりました。その友人曰く、「宇宙に行けたのなら帰りは燃え尽きてもいい」、「いざそうなったらシャア少佐ーっ、って叫んでやるよ」とまで話してたので、「いやそこはアメリアっー、だろ」と一応突っ込んでおきました。

2012年10月1日月曜日

個人における主観と客観の割合

 このところ長期連休中で家に籠っていることもあり思想がやけに発達してます。苦労しながら得られる哲学もありますが、やっぱりある程度時間に余裕がないとこういうものは考えられないと再自覚されるのですが、私なんか意識してたけど昨今の大学生は意識してるのかな。これも先日に友人と話しましたが、余裕のある大学生の時代に思想を広げられないのであれば恐らくその後一生広げられないのではと本気で思います。

 そろそろ話を本題に入りますが、友人から度々、しかもかなり激しく注意されるくせに未だに私は相手を値踏みする癖をやめることが出来ません。他人をどう評価するかですが、勝手な想像ですが恐らくほかの人はある一面、仕事ができるか知識が多いか性格がいいかお金を持っているかなど焦点を絞って分析しているように見えますが、自分の場合は異常と言っていいくらいの数量の分野を項目ごとに比較して総合的に判断するように心掛けています。そんな比較指標の一つとして、今回取り上げる「主観と客観の割合」は重要指標として重く評価する材料となっております。

 主観と客観の割合と言われてピンとくる人はまずいないかと思いますし、こんな指標でもって他人を判断するのはまず以って私くらいでしょう。これの意味するところは一言で言い表すならば、「自分の意見と他人の意見で、どっちをどれだけ優先するか」です。これは普段は百分率で比較しているのですが、たとえばほかの人の意見を全く聞かず自分の考える通りがすべて真実だと考えている人は主観100%で、逆にまったっく意見を持たずに周囲の意見に完全に流される人は客観100%です。
 具体的にどこに中間点(主観50%、客観50%)を置くかは厳密には難しいですが、比較さえできればいいので私は平均的な日本人の態度を50%:50%に置いて比較をしております。国際的に比較するなら日本人はやはり自己主張を控えるところがあるので、中国人やアメリカ人は主観の方が60%や70%に達し、逆に客観は40%や30%へと落ちていきます。また宗教をやってている人間も一部の価値観を信仰内容に合わせるため主観より客観が多くなると考えており、このほか軍隊にいる人間もその集団性から主観が低下します。

 この段階で何かピンと来た人は恐らく私と同じ社会学出身だと思いますが、この考え方のベースには社会学者エミール・デュルケイムの「自殺論」に依っています。この自殺論では主観をどちらかというと「自我」という言葉で表現しておりますが、この自我の割合が極端に高い人ほど自殺する傾向が上がり、また逆に自我が極端に低い人も同じように自殺する傾向が高いと統計で証明しております。現実に日本の自衛隊を含む軍人の自殺率は一般の自殺率と比べ世界各国で高い傾向があります。宗教に関して言えばカトリックより主観が強いプロテスタントの方が自殺率が高く、カトリックの人くらいのバランスが対自殺という面では主観と客観の割合が一番いいのかもしれません。
 念のため付け加えておくと、イスラム教の場合は生活苦などの自殺は少ない一方で殉教とか自爆テロが多いので、やはり客観が強すぎるきらいがあると私は考えております。

 話を元に戻しますが、こうして主観と客観の割合という面で他人を比較分析すると意外と楽しいものがあります。どんな人の意見も聞く人もいれば年下の意見は内容はどうあれ聞かない人もいたり、ちょっと前まで散々持てはやしたくせに流行が廃れるや見向きもしなくなる人など、やっぱり人それぞれに個性があって千差万別です。
 上の自殺率の話で書いたように、一概に主観が強ければ強いほどいいというわけではなく、やっぱりこれはバランスだと思います。隣人にするなら言うべきことは言って、他人の意見にもきちんと耳を傾けられるバランス感のある人間がやはり望ましいでしょう。ただ一つの集団の中で考えると主観と客観、どちらかに偏った人間が求められることになります。

 その代表格はまさに上に挙げた軍隊における一兵卒です。末端の兵士は上から下りてきた命令内容に疑問やためらいを持って行動が遅れたりすれば部隊全体に影響することがあり、可能な限り主観が低いに越したことはありません。逆に司令官は周りにほだかされて自分の決断をコロコロ変えたりすればまず負けるため、強烈な主観が求められることになります。
 一般企業においてもこれは同様です。末端はなるべく主観を持たないで仕事し、管理職や役員はある程度固定した思想が求められます。ただ最近は世の中の仕組みが変わってきていることもあり、以前より末端社員が主観を持つというか自分で判断して処理しなければ仕事がうまく回りづらくなってきていると私は考えています。もっともそれは上層社員も同じことですが。

 ただここで一つ疑問が出てきます。管理職や役員は強い主観を持つべきとはいっても、間違った経営判断を頑固に維持することは経営上問題なのではないかということです。となるとやっぱりバランスのいい人が望ましいのか、これに対する私の答えは否で、もう一つ概念を加えて考えればすっとおさまるような気がします。なんか今日はもったいぶった言い方が多いですがその概念というのも、「論理的思考ができるかどうか」です。
 私は最初に「自分の意見と他人の意見で、どっちをどれだけ優先するか」が主観と客観の割合を決めると書きましたが、これは必ずしも「他人の意見を採用するかどうか」には関わりません。何故ならば自分と他人の意見が最初異なっていたとしても、冷静に損得を考えて他人の意見が有利と判断してそちらを採用するというのも、主観の判断だと取れるからです(少なくとも私には)。仮に自分の意見が有利だと思いつつも周りを気にして他人の意見を採用するのであれば主観が低いと言わざるを得ませんが、比較判断した上でより有利な意見として他人の意見を取ることはまさしく自己の判断と言えるでしょう。

 この比較判断が出来るということこそが論理的思考ができるかどうかです。論理的思考ができないというのはこの場合、自分の意見と他人の意見のどっちが有利かを全く考えず自分の意見を自分が考えたのだからという理由で採用することになり、いわゆる問題のあるワンマン経営者が出来上がるというわけです。説明するのが面倒なのでサラリと流してしまいますが、この論理的判断は主観があって初めてできる行為であって、客観の方が強い人間は不可能です。そういう意味で経営者などには、論理的思考ができることを前提でやはり主観が強い人の方が向いていると私は考えます。逆に論理的思考が出来ないのであれば早めに放逐した方がいいでしょう。

 最後に私の自己分析ですが、主観と客観の割合は90:10くらいかなと考えてます。基本的に自分が間違っていると思うことに対して一切合切拒否しますし、自分が納得しない限りは人の意見を完全に無視しているからこの計算となるわけですが、ただ一人の友人が話す意見に対しては内心で「それ違うんじゃないかな」と思いつつも、その友人が言うのだからと無条件で従います。ほか3人の友人に対しては意見が対立した際、自分の意見を一旦は必ず保留にして再検討するごく限られた謙虚さを持つので、客観を10と計算した次第です。こんな性格な分、普段接する上でも主観の強い人間の方が好みというところがあります。

2012年9月24日月曜日

クズが溢れる世の中

 最近また思想関連の話を書いていないので、駄文を一本投下します。先日に友人とスカイプで話をした際に、こんなことを私は友人に言いました。

「君は以前から物事に対して文句が多い人間だったが、社会人になってからは周囲の人間に対する愚痴がすごく多くなった。学生時代は俺が何度言っても理解してくれなかったが、世の中クズが多いということがようやくわかってきたんじゃないの?」

 文章にすると見も蓋もない限りですが、ほんとにこんなことを友人に向かって言ってのけました。
 その友人とは大学生時代から付き合いを続けておりますが、学生時代は政治や経済といった話では意見がほとんど一致しながらも、人権や人間の精神に関する話題では真逆とも言っていいくらいに意見が一致しませんでした。一体何故こうも一致しないのかと一度話し合いましたが、その友人からは育ってきた環境というかバックグラウンドがあまりにも違い過ぎることで、お互い歩み寄ることが出来ないのだろうと指摘されました。

 具体的にこれはどういうことかというと、友人からするとこれまでの人生で私をいろんな意味でわずらわらせてきた人間が世の中に存在すること自体が理解できなかったそうです。わずらわらせてきたと言っても包丁で刺してきたりとかではないですが、漠然に言うならやる必要があるとは思えない嫌がらせを延々と仕掛けてきたり、無意味としか思えない行為を繰り返してきたりとかです。
 一つだけ実例を挙げると、私は小学校六年生の比較的早い時期に受験を終えて進学する中学校の入試に合格したのですが、合格するやそれまで一度として話をしたことのない別のクラスの人間が毎日嫌味を言い始めてきました。それこそ「そんな偏差値の低い学校に受かっていい気になってるんじゃない」とか、「俺なら開成余裕で受かる(結局落ちてたが)」など、毎日しつこく続くもんだからそいつのクラスの担任に言ってやめてもらうように言ってくれと伝えましたがやまず、仕方ないから一回だけ締め上げたらそれからは自宅に無言電話とか、わざわざ私の家まで来て自転車チェーンを外す嫌がらせに切り替えてきました。今思うと、指一本くらいならへし折ってやっても良かったなという気がします。

 これは私が身を以って体験したクズの中でも極端な方ですが、これに負けるとも劣らず、今の自分を以ってしても全く理解することのできない行為を続けるクズに私は小学校から高校時代まで一貫して取り囲まれていろいろと面倒でした。大学入って初めて、「世の中まともな人間も多いもんだなぁ」と決して誇張ではなく真面目に思ったくらいです。
 そんな自分に対して上記の話をした友人は、まぁ私風に言わせればいい家族といい友人に囲まれていたようで余計なクズに煩わされることがほとんどない人生だったようです。そのため私は大前提に、「世の中は救いようのないクズで溢れている」と信じ切っているのに対しその友人は、「人間はそもそも救われる価値なんてない」とは言いつつも(今でも)、人間同士、それも日本人同士ならば話し合えば最終的にはどこかでわかり合えると思っていた節があります。

 前置きが長くなりましたが、まぁそういうやや甘い考えを持っていた友人も立派な社会人となり、京都風に言うなら「日本語の通じない日本人」と接することが増えてきて、ちょっとずつ私の側に近づいてきている感じです。繰り返しになりますが私は世の中には本当に救いようがないというか、歩み寄ってくれなければ歩み寄りようがないクズが自分を含めてたくさんいると思います。
 それこそ今の日中対立のように国の利益や国民を背負う政府代表者が歩み寄れないというのならまだ理解のしようがありますが、個人レベルであるにもかかわらず全く歩み寄らないばかりか、自らの不当な要求を平然と突き付けてくる人間は確実に存在すると考えております。自分がそういうクズとは一線を画す人間だとかそういうことをいうつもりはなく、むしろ大きな目で見れば同じ穴のムジナだろうと考えてますが、私個人としてはなるべくならこういうクズとは関わりたくないし世の中から一掃できればきっと今より物事は良くなると信じています。

 さっきからクズ、クズと連呼しておりこれまでの私のブログ記事の中でもえらく過激な内容が続いていますが、私がクズだと思う人間の特徴を敢えて挙げるとしたら、あまりよそでは見ない意見ですが、目的と手段を同一視、または両者の因果関係を平気で入れ替えてくる人間というのが最大の特徴だと思います。
 これはどういうことか例を挙げて説明すると、たとえば企業内で上司が部下を叱るのは普通、その部下の間違っている行動を修正するためであって究極的には部下を育成するという目的がある、というかなきゃいけないでしょう。この場合、部下を「育成する」というのが目的であって「叱る」という行為は手段ですが、これがクズな上司だと部下を「叱る」こと自体が目的となり、「育成する」というのが手段となり得ます。ここでパッと情景が浮かんできた人は多分私に近いのだと思いますが、「お前のためを思って言ってやってるんだぞ」と言いながら全然業務と関係なく、自分ルールを基準にあれこれケチつけたり文句言ってくる人間がこの類です。

 この例に限らず、私が遠目に見ていてなんかおかしいんじゃないかと思う人の行動は目的と手段が一致しない、手段自体が目的となって行動している人が多いように思います。それこそ政治家においても、世の中をよくするため、制度を変えるために政治家になるのではなく、政治家になること自体が目的と化して耳触りのいい制度改革案を思いついては口にする政治屋のように、どっち向いて行動しているのかがわからない人間にクズが多い気がします。
 何も人間、常に目的と手段を意識して一致させる必要はありませんが、以前の記事で書いたように魂というか意思のない人間ほどつまらないものはなく、はっきりとした目的意識を持って手段を選ぶ人間となるべくなら私も付き合いたいです。

2012年8月13日月曜日

意志の強い人間について

 昨日の記事で私は人間の性格なんて言うものは環境によって容易に変わり得ると主張しましたが、その一方で環境に左右されにくい人間もいるのでは、そういう人間は一般的に「意思が強い人」なのではという意見を書きました。今日はここからさらに掘り下げて、意思が強いという人間について考察を書いていきます。

 まず意志が強い人間とはどんな人間を指すのかですが、私の中の定義ではどんな場所でも自分の意思を貫き通すというか、あきらめの悪いような人間を指すかと思います。それこそ受験勉強を例にとると目標とする学校に合格するためには膨大な量の勉強時間が必要となると、それを苦にせずきちんと果たすような具合の人間がそれで、逆に理想は高くてもその理想の実現に必要な努力をしようとしない、または途中であきらめてしまうのは「意志薄弱」と言えるでしょう。
 またある意味では妥協をしないというか、自分が正しいと思うことを信じ続けて、どんな逆境においてもそれを主張し続けるというのも意志が強いといえるでしょう。これも例を取るなら戦前の山本五十六など、勝てないとわかっている日米戦に対して暗殺予告が来ても主張し続けるようなもので、昨日の南原繁の話じゃないですがこういう人間が当時も今も日本には少ない気がします。どうでもいいですが南原の弟子の丸山眞男はあまり好きじゃないです。

 昨日にも書きましたがこうした意思の強い人間は恐らく、現代社会、というかほとんどの時代で爪弾きにあうでしょう。いつの時代、どの国でも直言居士というものは大抵煙たがられるもので、逆に妥協を是とする人間はどの時代、どの集団でもちやほやされるでしょう。またさらに言えば、意志の強い人間が変な方向に理想とか思想を持ってしまうのも非常に問題です。例は悪いですが極左やオウム真理教に走った人間はこの典型で、方向性さえ間違えなければと周囲の人間が言う世にその気真面目さがおかしな方向に行って世の中を悪くさせてしまう結果となりました。

 ここまで書いていると意志の強い人間はさも面倒くさそうな人間に見えてきますが、それでも私は意志の強い人間に強い憧れを持つと同時に、そうした人間を明らかに好んでいると言い切れます。私自身はどちらかと言えば意志が弱い方で言いたいことを時たまかみつぶすことがありますが、人間いうべき時は言わないと物事がおかしな方向へ行ってしまうと常々感じます。それこそ空気に支配された集団ほどどうしようもないものはなく、そうした空気に抗する人間というものは一定数は必ず必要だと思います。
 なんでこれほど意志の強い人間にこだわるのかですが、もうはっきり書いてしまえばこうした人間をないがしろにしてきたからこそ今の日本の苦境があると思うからです。オリンパスの損失隠しを例にとることなく、日本では問題に対して真正面から取り組もうとする人間がパージされる一方で責任逃れがうまい人間が出世していきます。このオリンパスの問題も外国人社長によって初めて明らかになったことを考えると、これは日本人、というより日本社会が劣っているという風に考えてもいいでしょう。

 また古くは山一證券でも、破綻の数ヶ月前にしっかりと対策を取っていれば破綻を免れたと元社員が書いているにつけ、責任逃れこそが山一を破たんさせた最大の原因のように思います。なんかちょっと話がずれてきているように感じますが、真面目に意志の強い人間がもっと世の中に出る必要があると感じつつあることからこうして記事にすることにしました。

2012年8月12日日曜日

環境によって性格が変わること

 あまり有名ではなく歴史の教科書にもまず乗ることはないでしょうが、戦後直後に東大の総長となった南原繁という人物がおります。この人の業績をいくつか書くと法学部出身で、サンフランシスコ平和条約の際には全面講和を取るべきと主張し、ソ連や中国を含まない多数講和を取った吉田茂に対して激しく批判した人ですが、確か戦後最初の東大入学式で行った講演は当時に大きく取り上げられ、新聞などに全文が掲載されと聞きます。その時の講演の概要ですが大まかに書くと以下の通りになります。

「日本人が何故勝ち目がないにもかかわらず先の大戦(=二次大戦)に入ってしまったのか、それは等しく日本人一人一人が独立した理性を持たず、周囲が開戦の熱気に盛り上がるや自分もその熱気にあてられ勝算や戦う価値を考えることをやめてしまったからである」

 文章自体は私が作っておりますが、大まかには日本人一人一人が冷静な思考を持ち続けていればあのような戦争は回避できた、といったようなことを言ったそうです。言われることまさにその通りに感じますし、ややもすると付和雷同しやすいとされる現代日本人にとっても耳の痛い内容に聞こえます。
 ただこう言っておきながらも、周囲の状況に抗して自分独自の意思というか個性を守るというのは至難の業だといっていいでしょう。これなんか社会学の代表的な学論で私もよく主張しますが、「人間というのは個性やその性格よりも周囲の環境に定義される」ものだと本気で信じています。

スタンフォード監獄実験(Wikipedia)

 周囲の環境によって性格が決まる、というより性格が変わるという代表的な実験として、上記のスタンフォード監獄実験というものがあります。非常に有名な実験で別名「アイヒマン実験」とも言われますが、この実験では参加者を看守役、囚人約に分けて刑務所に近い設備に入れてそれぞれの役割を演じさせたところ、看守はより看守らしく傲慢で暴力的に、囚人はより囚人らしく卑屈でおどおどするようになっていったそうです。もっともこの実験は禁止されていた暴力すら看守が途中で振るうようになっても主催者がそれを一切止めなかった、情報を完全に隔離するなど(実験中止は危険と見た牧師が参加者家族に伝えて果たされている)実験結果を一般的とするには問題となる要素も少なくないのですが。
 ただこのスタンフォード監獄実験ほど極端でなくとも、地位が上がるや急に傲慢な性格になったり、逆に移籍されるや大人しい性格になるなど、就く役職、または組織内の地位や支援者の数によって性格の変動が起こり得ると私の実感では感じます。

 では逆に、そうした周囲の環境変動に左右されずに一定の性格を維持できる人間とはどういったものなのでしょうか。それこそ最初の南原繁が言ったような、戦時中でも日本はこの戦争に勝てるわけないといえるような。
 言ってしまえばこのような人間は古い言葉でいうと「KY」と呼ばれるような、空気の読めない人間でしょう。ただ昔にも一度書きましたが、日本人は周囲の空気を過剰に読もうとしてそれこそ「空気に飲まれる」人間も少なくありません。そんな中で、というよりもそんな人間が多いからこそ敢えて空気を読まない人間、空気に支配されない人間が一定数いるんじゃないかとこの頃強く感じます。もちろん空気読めない人間ばかりというのもまた問題ですが。

 では空気を読まない人間とはどんな人間か、敢えて言い換えるなら「意志の強い」とされる人間がそういうタイプなんじゃないかとにらんでおり、このところ自分の周囲で誰がどんなふうに意思が強いのか観察しています。そういうわけで次回は意思の強さとはどういうことかを簡単にまとめて、具体例をいくつか紹介しようと思います。

2012年7月27日金曜日

刹那的に生きること、将来を見越して生きること

 決して誇張ではなく言い切ると、恐らく同年代でも自分はトップクラスなまでに他人からの評価や印象が両極端に分かれる人間だと思います。一つ例にとると大抵の人は私のことを「大人しそう」、「温和」という表現を使って説明しますが、一部の人間に限れば「何かあればすぐ激高する」、「思想が過激」と言われており、私個人としては後者の方が実像に近いかなと感じています。
 このほかよく言われてたこととして学生時代に、「花園君は公務員になって安泰を図るような安定志向でしょ」とよく言われてましたが、実態としては「公務員のことを公僕って言ってのける人を初めて見た」と言われるまでに公務員になる気などさらさらなく、むしろなろうとしていた友人に対して「公僕に身を落とす気か( ゚д゚)」と、前時代の左翼じゃないんだし余計なおせっかいもいいところと思うくらいの発言までする側でした。

 一体なんでこれほどまでに評価が真逆、私個人の意見としては実態とかけ離れたイメージが持たれやすいのかというと、私自身が親しくない人間にはあまり関わりたくないことから大人しそう、下手すれば卑屈で陰険に見られるように敢えて振る舞っていることが大きいですが、最近になって着眼点が周囲と異なることからギャップが大きくなるのではないかというように考え始めてきました。この着眼点について今日は一つ、自分のこれまでの選択経験を拾って持論を展開しようと思います。

 まず話の前提として私は20代の身空で既に2回転職、いうなれば3回も新入社員を経験しております。このうち2回目はいつか借りを返すような特殊な例で無視してもいいのですが、日本でそれほど忙しい仕事でなく、そこそこ安定した正社員の職を放り投げて中国に転職に来たというのは最近増えてはいるもののやはりまだレアな存在です。
 傍から見ればこんな選択、行き当たりばったりで刹那的な生き方に見えるかと思います。そうまでして中国に行きたかったのか、海外で働いてみたかったのかと実際によく質問を受けますが、私個人の考え方としては逆で、可能ならば避けたかったものの今のうちに行かざるを得なかったというのが本音です。

 私は一部の人間のように極端に日本の未来を悲観はしていませんが、今後の日本社会はこれまでの「どこに属しているのか」より「あなたは誰なのか」という具合に、評価対象が集団からより個人へ重量配分が移っていくと考えております。私としても同じ会社でのんびり安定できるというのならそりゃ同じ会社に留まっていたかったというのが本音ですが、高度経済成長期でもないこの時代でそうした意識を持つこと自体がリスキーな価値観だとみており、むしろ自分にとってプラスになる可能性があるのならどんどん動く方が長期的に見れば安定する可能性が高いと思って中国に来ることにしました。一見すれば安定を放棄しているように見えても、私としては消極的により安定を求めた故の決断だと今でも信じております。

 ここで話を着眼点に戻しますが、まずそもそも何を以って安定ととるかです。変化のないことが安定なのか、満足度を得ることが安定なのか、落ち着いた生活をすることが安定なのか人それぞれでしょう。恐らく日本人の大多数としては一番最初の「変化のない」ことが安定でしょうが、私としては「いつでもどこでも状況を切り開けるだけの力量を身に着ける」ことが安定の定義です。たとえ自分の職業や住所が変わるとしても、力量的にそうした変化に追いつくことが出来るのであれば安定で、それを常に求め続けております。言い換えれば、どこでもやっていけるだけの知識や経験さえあれば追い詰められることはないというように考えてるわけです。こんな具合に周囲と着眼点が異なっているため、私をよく知る人間とそうでない人間との間で印象に対するギャップが生まれるのだと思います。

 ここでまたいつも通りに話が急旋回しますが、上記のような価値観から私は自分は長期的な視野に立って将来を見据えながら生きてるつもりで、どちらかと言えば刹那的な生き方をする人に対して否定的に見ておりました。ただこのところは逆、というか少し考え方が変わって、今この一瞬々々を悔いなく過ごそうとする、精一杯生きようとすることの方が、十年後に楽したいとか、どの程度の収入を得たいから今はこういう風に過ごそうと考えることよりも有意義なのではないかと思うようになってきました。
 もう少しわかりやすく言い換えるとすると、これまでは目標とする未来に対して今どう動くべきかと決めてきたつもりでしたが、そうした生き方よりも、今現在を必死にというか手を抜かずに攻め続けることで少なくとも後悔しないというか満足する未来がついてくるのではと思うようになってきたわけです。一言で言い表すなら、未来のために現在が存在するのではなく、現在の積み重ねが結果的に未来になるといったところです。

 我ながらまどろっこしい言い方が続きますが、その日暮らしで快楽だけ求めることを刹那的な生き方とする人がいますが、私に言わせればこれは破滅的な生き方で刹那的というべきではないと思います。私の中の「刹那的な生き方」の定義はスパンが短く、最長で一年下手すりゃ一日スパンで物事を考え、その場その場でやりたいと思うこと、すべきと思うことを手を抜かずに生きるという意味になり、十年先は知らないからとりあえず来年にはこういうことを成し遂げたい、こうなりたい、ああしておこうという生き方になります。少なくとも怠けさえせずにやろうとすることに真剣でいられれば、多分いい方向に物事が向かうのではと信じるようになりました。

 だからどうしたというのがここまで読んでくれた方の感想かもしれませんが、私個人の見方として、今の日本の若者はやけに老後や親の介護、会社の将来なぞ遠い未来ばかりを考え過ぎなのではないかと思うところがあります。その一方で突然行き当たりばったりに物事を決めたりして遠い先の方向ばかり見ていて近い距離の方向を間違えてしまっているのではと感じることが多々あります。
 恐らく日本社会では「将来のことをしっかり考えた方がいい」という思想が強いかもしれませんが、不確実性の高い未来を見越すというのはかえって危険な行為に思え、それであればもっと足元を見つめて、近距離に絞って方向性を決める方が、刹那的に生きる方がかえって将来に安定をもたらすのではないかというのが今日の私の意見です。適当に思い付くままに書いたからすごい妙な内容になりました。

2012年7月6日金曜日

大きく叩けば大きく鳴るということについて

 歴史に詳しい人ならもしかしたら知っているかもしれませんが、坂本龍馬は西郷隆盛の人物評を、「大きく叩けば大きく鳴る」と書き残しております。この意味は太鼓のように、つまらないことを聞くとつまらない答えが返ってくるが、逆に面白いことを聞くと面白いことが返ってくるということを表していると言われております。
 この人物評を聞いたのは確か小学生くらいの頃で正直ピンときませんでしたが、年を重ねてみてなんとなくこういう人っているもんだという実感を覚えるようになってきました。どんなところで実感するかですが具体的に挙げると大学の恩師がまさにこれで、在学中も凄い人だなぁと漠然と感じていたものの、自分が成長を感じるにつけ、その凄さというものが段々理解できるようになり、最初に会った際よりも距離感というか実力差をより深く思い知るようになってきました。

 ちょっと今、アルコールが入ってて真面目に頭痛いのでまた短く切り上げざるを得ませんが、たまに後輩などから、「実力のある人と交流をしてみたいものの、そういう人に巡り合えない」という相談を受けることがありますが、実態的には巡り会えないというよりも目の前にいても気づかないのではという印象を覚えます。中には例外もいますが、私はやはり本当に実力のある人間を見抜くには自分自身も一程度の実力がないと、その相手の凄さがわからず見過ごすことになってしまうかと思います。これは逆に言うならば、凄い人間と知り合いたいのならまず自分自身が実力を養わないということです。
 真面目にもうこの辺で限界。明日はもうちょっと真面目に書こう。