以前に書いた「みんながマニフェストを読まない理由」の記事において私は今回の選挙においてどの政党も似たような政策ばかりを主張し、五年後十年後を見据えた大きな国家戦略を何も描いていないと批判しましたが、ではどのような国家戦略があるのかについては敢えて言及は避けました。それが今回コメント欄にて直接質問を受けたので、それに答える形で今日からしばらく各要素に着目して、現状で考えうる目指すべき国家モデルの類型とその選択肢について連載で解説していきます。私もあくまで素人であることに変わりはありませんが、あまりこうした戦略的な考え方について複数視点で解説しているものは見受けられないので、そこそこいい連載記事に仕上がるであろうという期待を僭越ながら持っております。もっとも今日はこれが三本目の記事なので、すでに大分息切れ気味ですが。
それでは早速本題に移るとします。まず今日から解説する国家モデルという言葉について大まかに説明いたします。私がここで使う国家モデルというのは、将来的に漠然とどのような国家にしていこうかという大まかな目標のことです。大まかではあるものの強くて大きい方向性を持っているために、小さな政策も大きく内包していて今回の選挙みたいに千円か無料かなどもぐだぐだと議論せずとも盛り込まれております。百聞は一見に如かずというので、ひとまず国家の行く末を考える上で非常に重要な要素となる今日のテーマの軍事と外交的観点から導き出される国家モデルの類型を早速ご紹介いたします。
1、軽武装重商主義国家(高度経済成長時代の日本、中世のヴェネツィア)
2、中武装独立国家(普通の国家。鳩山一郎、岸信介の提唱モデル)
3、重武装軍事中心国家(北朝鮮、冷戦期のアメリカ)
4、自衛完全中立国家(スイス)
5、非武装完全平和主義国家(ガンダムWのサンクキングダム)
この分類は私の主観で以って作った分類です。括弧の中はそれぞれの国家モデルに合致する国を例として挙げております。
それでは一つ一つの軍事、外交に着目して分けた国家モデルについて解説していきます。まず一番目の「軽武装重商主義国家モデル」ですが、これが今の日本人にとっては最も想像しやすくまた現在の日本の形に近い国家モデルです。具体的にどんな要素を持っているのか一言で言えば、「軍備に大きく費用をかけずに経済分野への投資に重点を置く」といったところです。
この国家モデルを作って日本に根付かせたのはほかでもなく吉田茂です。吉田は国家防衛についてはすべてアメリカに依存し、そうして浮かしたお金で経済を育成して国際世界で戦っていこうという路線だったところ、一時は彼のライバルであった鳩山一郎によって阻まれかけましたが吉田の育てた池田勇人はしっかりとこの路線を引き継ぎ、現在に至るまで大きく変わることなくこの路線が維持され続けてきました。
この国家モデルの強みはなんと言っても、経済に特化することで国民生活を豊かにさせられる点にあります。しかし国防については言うまでもなく圧倒的に弱く、その分を例に挙げた中世のヴェネツィアのように柔軟で強力な外交でカバーする必要が出てきます。日本の場合はこれをアメリカになんでも従うことで国防を保ってきたのですが、仮にアメリカが何かのきっかけで日本を見捨てる事態となったら現状では目も当てられなくなるのは予想に難くありません。
それに対して二番目の「中武装独立国家モデル」ですが、これは現状より自衛隊を強化し、多少はアメリカに逆らっても日本独自にやっていこうというモデルで、前述のように提唱者は鳩山一郎と岸信介、そして現代においては彼らの孫の鳩山由紀夫氏と安倍晋三氏です。
現在の日本は国防をアメリカにすべて依存しているためにアメリカに対してあまり、っていうかほとんど逆らうことが出来ない状態で、勝手に独自外交をすることすらままならない状態だとも言われております。それこそ中国やソ連に対して画期的な外交条約を結ぼうものならいろいろと脅しをかけられることが予想されます。
鳩山一郎としてもアメリカが日本に好意を持っている間はともかくそうではなくなった際にこれでは困ると考え、もしアメリカと手を切ったもやっていけるよう他国と同盟が結べるように前もって独立した外交が出来る「普通の国」を目指していたそうです。岸信介も基本的にはこの考えでその前段階として安保改正を行ったところ、結局それっきりで次のステップを踏むことが出来ずに退陣を迫られました。そこへ「じっちゃんの名にかけて」と頑張っているのが、例のお孫さん二人で、逆に鳩山と岸の対抗馬であった吉田の孫は何も考えていないというのが今の大まかな政治状況です。
こうした割と今の日本に密接な国家モデルに対し、三番目の「重武装軍事中心国家モデル」はやや特殊なモデルです。このモデルは簡単に言えば国内での生産を同じ国内の軍隊によって大量消費させることによって経済を回していこうという考え方で、必然的に定期的に他国へ戦争を仕掛けていかねばならぬ必要性があります。事実冷戦期のアメリカはNATOの大量消費によって世界最大の経済力を作り、またそれを維持するために次々と世界各地に戦争を仕掛けていきました。その構造が冷戦の終結によって崩壊したため、また盛り返そうとアフガニスタン、イラクにおける戦争が引き起こされたのではないかと各地の人間が指摘しているわけです。
四番目、五番目の国家モデルは選択するには相当に腹をくくらねばならない国家モデルですが、一応選択肢としてはあるので紹介はしておきます。まず四番目の「自衛完全中立国家モデル」そのまんま現在のスイス国のモデルで、各家庭に一丁はライフル銃があると言われるまでに自衛力は持たねばならないもののどの国とも軍事同盟を結ばないことで、大きな戦争に取り込まれずに孤高を保っていこうという考え方です。ただこれで完全に国防が守られるわけではなく、理念的には確かに立派そうに見えますが実行するには非常に覚悟のいるモデルであります。
そして極めつけの五番目の「非武装完全平和主義国家モデル」ですが、これは歴史上一度として成立した事はないであろう国家モデルで、出典は「機動新世紀ガンダムW」に出てくる「サンクキングダム」という国家です。この国は一切の兵力を放棄して国際社会に平和を訴えるという国家なのですが、やっぱり世の中そんなに甘くないので作中でも「ガラスの王国」とまで言われてすぐに攻められてあっさり崩壊しました。
ただそんなお話の中だけのような国でも目指そうという人はいるもので、自衛隊の解散を訴える社民党や共産党の国家モデルはまさにこのモデルではないかと思います。訴える理念まで私は馬鹿にしたりはしませんが、もうすこしその実現性やガンダムWを見た感想などを聞かせてもらえればと陰ながら願っております。まぁ社民党は村山政権時に、「自衛隊は違憲だが認める」とすでに言っちゃっていますが。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2009年8月19日水曜日
私選、三国志名場面トップ3
折角中国旅行から帰ってくるのだから中国っぽいものを書こうと、実は旅行中に三国志の名場面を自分なりに選んでみようとあれこれ考えておりました。そういうわけで細かい御託はいらないのでとっとと始めましょう。まずは第三位からです。
第三位 漢中攻防戦
劉備率いる軍団が念願の蜀を手に入れた頃、仇敵の曹操はその蜀の喉元ともいえる戦略的価値の高い漢中を攻略しました。これに対し新生蜀軍も脅威を覚え、双方ともに非常にはっきりとした戦略的目的を持って始まったのがこの漢中攻防戦です。
この漢中攻防戦の何がいいのかといえば、諸葛亮の目論見どおりに魏呉蜀の三国が見事鼎立して主たる武将がすべて出揃い、そして劉備と曹操という主役二人ががっぷり四つに組んで戦う点にあると思います。蜀軍には関羽を除く五虎大将がすべて出揃い、片や魏軍は夏侯淳と夏侯淵の加え徐晃や張郃など大物が集まり、謀将も法正や程昱とまさに三国志オールスターとも言うべき人物らが参戦しているのも見逃せません。
最終的に魏軍はこの合戦に敗北しますが、恐らく三国志が最も盛り上がるのは赤壁の戦いを除くとこの場面だと考え、今回三位に選びました。
第二位 呂布の死
三国志の前半の主人公が曹操だというのなら、敵役は誰かというとそれはやはりこの呂布でしょう。
数多の猛将が登場する三国志においてもその単騎での武力は物語中最強と謳われる一方、従属する傍からその図抜けた腕力で次々と主を裏切り、最後には部下の裏切りによって捕縛されるこの呂布の結末というのは三国志において屈指の波乱ぶりと言えます。
その呂布が処刑間際に曹操に対し命乞いをした際、曹操に意見を求められた劉備が答えたのが次のセリフです。
「呂布は養父丁原に仕えた後、董卓に仕えました」
この二人の呂布の元主君はどちらも呂布によって殺害されており、暗に処刑すべしという劉備からの痛烈な一言です。劉備自身も一時は匿った呂布に裏切られており、そうした背景を考慮に入れるとなかなかに含蓄の深い一言です。
第一位 長坂破、趙雲の単騎駆け
以前にKOEIが編集していた雑誌でのアンケートでもこの場面が一位でしたが、私もやはり三国志屈指の名場面と言ったらこの長坂破における趙雲の単騎駆けを挙げます。
それまでは腕っ節はいいかもしれないけど関羽、張飛にはさすがに及ばないだろうという具合に描かれていた趙雲が、演義では亡き婦人より託された赤ん坊の阿斗を抱いて十万騎ともいう大軍団を縦断してのけて見事突破するこの場面によって彼の名を胸に強く刻んだ読者も多くおられるでしょう。事実その後の趙雲の活躍は三国志中において随一とも言える働き振りで、冷静沈着且つ的確なその判断と他を寄せ付けぬ圧倒的な武力は読み返すにつけ深く引き寄せられます。
その趙雲ですが、第三位に挙げた漢中攻防戦において出城を寡兵にて守備している最中に魏の大軍が押し寄せた際も少しも慌てず、部下を隠して単騎にて城門前に立ちつくし、浮き足立った魏軍に奇襲をかけて見事に撃退しております。この時の活躍に劉備も、「(趙雲)子龍はこれ一身、胆なり」と最大級に褒め称えております。
またこの漢中攻防戦において、実は劉備だけでなくもう一人ある人物が趙雲を見初めてこの様なセリフを述べております。
「おお、長坂破の英雄がまだ生きておったか!」
何を隠そうこのセリフを述べたのはあの曹操です。実は曹操は長坂破の単騎駆けの際に趙雲を見つけるやいつもの悪い癖で部下にしたいと思い、兵士に矢を使わずに趙雲生け捕りにするように指示しておりました。そうした曹操の指示もあったおかげで趙雲は無事脱出できたわけですが、それから長い月日を経て趙雲を見つけた曹操の気持ちがこのセリフに強く現れているでしょう。
第三位 漢中攻防戦
劉備率いる軍団が念願の蜀を手に入れた頃、仇敵の曹操はその蜀の喉元ともいえる戦略的価値の高い漢中を攻略しました。これに対し新生蜀軍も脅威を覚え、双方ともに非常にはっきりとした戦略的目的を持って始まったのがこの漢中攻防戦です。
この漢中攻防戦の何がいいのかといえば、諸葛亮の目論見どおりに魏呉蜀の三国が見事鼎立して主たる武将がすべて出揃い、そして劉備と曹操という主役二人ががっぷり四つに組んで戦う点にあると思います。蜀軍には関羽を除く五虎大将がすべて出揃い、片や魏軍は夏侯淳と夏侯淵の加え徐晃や張郃など大物が集まり、謀将も法正や程昱とまさに三国志オールスターとも言うべき人物らが参戦しているのも見逃せません。
最終的に魏軍はこの合戦に敗北しますが、恐らく三国志が最も盛り上がるのは赤壁の戦いを除くとこの場面だと考え、今回三位に選びました。
第二位 呂布の死
三国志の前半の主人公が曹操だというのなら、敵役は誰かというとそれはやはりこの呂布でしょう。
数多の猛将が登場する三国志においてもその単騎での武力は物語中最強と謳われる一方、従属する傍からその図抜けた腕力で次々と主を裏切り、最後には部下の裏切りによって捕縛されるこの呂布の結末というのは三国志において屈指の波乱ぶりと言えます。
その呂布が処刑間際に曹操に対し命乞いをした際、曹操に意見を求められた劉備が答えたのが次のセリフです。
「呂布は養父丁原に仕えた後、董卓に仕えました」
この二人の呂布の元主君はどちらも呂布によって殺害されており、暗に処刑すべしという劉備からの痛烈な一言です。劉備自身も一時は匿った呂布に裏切られており、そうした背景を考慮に入れるとなかなかに含蓄の深い一言です。
第一位 長坂破、趙雲の単騎駆け
以前にKOEIが編集していた雑誌でのアンケートでもこの場面が一位でしたが、私もやはり三国志屈指の名場面と言ったらこの長坂破における趙雲の単騎駆けを挙げます。
それまでは腕っ節はいいかもしれないけど関羽、張飛にはさすがに及ばないだろうという具合に描かれていた趙雲が、演義では亡き婦人より託された赤ん坊の阿斗を抱いて十万騎ともいう大軍団を縦断してのけて見事突破するこの場面によって彼の名を胸に強く刻んだ読者も多くおられるでしょう。事実その後の趙雲の活躍は三国志中において随一とも言える働き振りで、冷静沈着且つ的確なその判断と他を寄せ付けぬ圧倒的な武力は読み返すにつけ深く引き寄せられます。
その趙雲ですが、第三位に挙げた漢中攻防戦において出城を寡兵にて守備している最中に魏の大軍が押し寄せた際も少しも慌てず、部下を隠して単騎にて城門前に立ちつくし、浮き足立った魏軍に奇襲をかけて見事に撃退しております。この時の活躍に劉備も、「(趙雲)子龍はこれ一身、胆なり」と最大級に褒め称えております。
またこの漢中攻防戦において、実は劉備だけでなくもう一人ある人物が趙雲を見初めてこの様なセリフを述べております。
「おお、長坂破の英雄がまだ生きておったか!」
何を隠そうこのセリフを述べたのはあの曹操です。実は曹操は長坂破の単騎駆けの際に趙雲を見つけるやいつもの悪い癖で部下にしたいと思い、兵士に矢を使わずに趙雲生け捕りにするように指示しておりました。そうした曹操の指示もあったおかげで趙雲は無事脱出できたわけですが、それから長い月日を経て趙雲を見つけた曹操の気持ちがこのセリフに強く現れているでしょう。
ごった煮の中国文化、死んだふりの日本文化
昨日にもちょっと書きましたが、漫画「筋肉マン」に出てくるあのラーメンマンの髪型で有名なお下げを巻く昔の中国人の髪型というのは辮髪と呼ばれ、元々は現中国で絶対的大多数を誇る漢民族の風習ではなく漢民族を従えて清代に中国全土を支配した満州族の風習でした。元々の漢民族の髪型は孔子や三国志の画に描かれているようないかにも文人っぽい髪型なのですが、清代においては満州族に従属する証として辮髪が普及して近代にまで続いたため、うちの親父みたいにあの髪型は中国古来の伝統的髪型と勘違いしている人も少なくないでしょう。
この辮髪の例に限らず、現在の中国という国の文化というのは漢民族が元々持っていた文化に他民族の文化がいろんな面で激しく混在した形跡を持っております。辮髪のほかにもいくつか例を出すなら一部の日本男性にはたまらないチャイナドレス(中国語では「旗袍」)も、名前こそ「チャイナ」と冠して今では中国人女性が世界へその魅力を発信させるのに欠かせない道具なのですがこれも元々は満州族の民族衣装で、多分清代以前にはほとんど着られていなかった衣装です。また中国料理の「火鍋」という辛い鍋物料理も現モンゴル共和国を構成する蒙古族の伝統的食事で、元代に入ってから中国で食べられるようになったと言われております。
何故この様に中国文化は多数の文化が融合したかのようなごった煮な様相を持つようになったのかと言うと、勘のいい人なら分かると思いますがこれまでに中国が何度も少数の異民族によって征服された経験があるからでしょう。古くは三国時代後の五胡十六国時代、そして10世紀の宋代の後にモンゴル民族によって打ち立てられた元代、そして明代の後に今度は満州族による清代と、細かいのを除いて大まかなだけでもざっとこんなもんで、特に元と清の時代に中国に与えた影響は計り知れず、21世紀に入った現代においてすらも先ほどに挙げた例のように様々な場所でその時に植え込まれた文化を見ることが出来ます。
この様な中国文化の様相について元中国人で現在は大の中国嫌いの石平氏に至っては、真に伝統的な漢民族の文化というのは宋代までで、その後に蒙古民族によって征服された元代によって完全に分断されてしまい、その後の中国文化は現代に至るまでそれまでのものとは一線を画していると主張しております。実際にこの石平氏の意見に私も同感するところが多く、現代においても中国文化の最高峰とされるのは宋代の文化で、詩文に限らず陶器や磁器、絵画といった骨董品もこの時代のものが高く珍重されております。
その上で石平氏は、この時代に中国文化に強い影響を受けてそれを守り続けた日本こそが真の中国文化の継承者で、日本人の精神性などは現在の中国人よりもずっと宋代に通じるとまで言ってくれています。
この石平氏の最後の意見が正しいかどうかはともかくとして、確かに日本は中国が唐代であった奈良時代に遣唐使などによってもたらされた中国文化の強い影響を受け、その次の平安時代においては貴族の間で白楽天などの漢詩が持て囃されたりしました。
しかしこの辺が私が日本人らしい、というより日本文化らしいと思うところなのですが、奈良時代にはそれこそ言われるがままに唯々諾々と中国から教わる文化を聞いていたかと思えば、次の平安時代には中国文化にはない平仮名や片仮名を日本人は勝手に作り出してしまっています。
私はどうもこの辺りに、現代の日本人の精神性にも通じる文化的特性があるのではないかと睨んでいます。その日本人の特性というのも、一見すると素直に従順に話を聞いているように見えるのに裏では何でもかんでも自分流にアレンジしてしまうといった特性です。
先ほどの平仮名や片仮名は漢字をベースにより日本人が使いやすいようにと生み出され、またその後の戦国時代においてはポルトガル人によって伝来した鉄砲(最近異説が唱えられていますが)を戦術的効果の高い運用法を勝手に編み出し、関ヶ原の合戦時において全世界の四分の三の鉄砲を日本が保有していたほどまでに大量生産しております。また本場の「中国料理」に対して「中華料理」と表現を変えただけでなく、中国本土ではそれほど食べられていない焼き餃子を日本人はベーシックな献立として国内に普及させてしまっています。
よく外人の目から日本人は、「いつも何を考えているのかよくわからない」と評されますが、案外この様に言うことを素直に聞いているかと思ったら見えないところであれこれ自分流にアレンジしてしまうところが原因なのではないかとこのごろよく思います。こうした日本人の文化について敢えて名づけるとしたら、中国の「ごった煮文化」に対して「死んだふり文化」というのが私は適当だと思うわけです。
おまけ
チャイナドレスと並んで清代の中国女性に普及した伝統的な風習として「纏足」があります。チャイナドレス自体が旧満州地域(現中国東北部)の女性特有のスラっとした脚線美を強く見せるためのスリットが入っており、先ほどの纏足と合わせて考えるとどうも満州人は足フェチであったことが伺えます。
では現在の中国人はそうした満州文化の影響を受けたから足フェチなのかというと、そうとは言い切れない面もあります。というのも世界初の官能小説として有名な「金瓶梅」では足に関する艶かしい描写が非常に多く、元々の漢民族も足フェチであった可能性が非常に高いです。
このように漢民族と満州族はどちらも足フェチ同士だったわけだから、蒙古民族による元代が100年弱しか続かなかったのに対し清代は260年強も長く続けられたのではないかと邪推ながら考えております。
この辮髪の例に限らず、現在の中国という国の文化というのは漢民族が元々持っていた文化に他民族の文化がいろんな面で激しく混在した形跡を持っております。辮髪のほかにもいくつか例を出すなら一部の日本男性にはたまらないチャイナドレス(中国語では「旗袍」)も、名前こそ「チャイナ」と冠して今では中国人女性が世界へその魅力を発信させるのに欠かせない道具なのですがこれも元々は満州族の民族衣装で、多分清代以前にはほとんど着られていなかった衣装です。また中国料理の「火鍋」という辛い鍋物料理も現モンゴル共和国を構成する蒙古族の伝統的食事で、元代に入ってから中国で食べられるようになったと言われております。
何故この様に中国文化は多数の文化が融合したかのようなごった煮な様相を持つようになったのかと言うと、勘のいい人なら分かると思いますがこれまでに中国が何度も少数の異民族によって征服された経験があるからでしょう。古くは三国時代後の五胡十六国時代、そして10世紀の宋代の後にモンゴル民族によって打ち立てられた元代、そして明代の後に今度は満州族による清代と、細かいのを除いて大まかなだけでもざっとこんなもんで、特に元と清の時代に中国に与えた影響は計り知れず、21世紀に入った現代においてすらも先ほどに挙げた例のように様々な場所でその時に植え込まれた文化を見ることが出来ます。
この様な中国文化の様相について元中国人で現在は大の中国嫌いの石平氏に至っては、真に伝統的な漢民族の文化というのは宋代までで、その後に蒙古民族によって征服された元代によって完全に分断されてしまい、その後の中国文化は現代に至るまでそれまでのものとは一線を画していると主張しております。実際にこの石平氏の意見に私も同感するところが多く、現代においても中国文化の最高峰とされるのは宋代の文化で、詩文に限らず陶器や磁器、絵画といった骨董品もこの時代のものが高く珍重されております。
その上で石平氏は、この時代に中国文化に強い影響を受けてそれを守り続けた日本こそが真の中国文化の継承者で、日本人の精神性などは現在の中国人よりもずっと宋代に通じるとまで言ってくれています。
この石平氏の最後の意見が正しいかどうかはともかくとして、確かに日本は中国が唐代であった奈良時代に遣唐使などによってもたらされた中国文化の強い影響を受け、その次の平安時代においては貴族の間で白楽天などの漢詩が持て囃されたりしました。
しかしこの辺が私が日本人らしい、というより日本文化らしいと思うところなのですが、奈良時代にはそれこそ言われるがままに唯々諾々と中国から教わる文化を聞いていたかと思えば、次の平安時代には中国文化にはない平仮名や片仮名を日本人は勝手に作り出してしまっています。
私はどうもこの辺りに、現代の日本人の精神性にも通じる文化的特性があるのではないかと睨んでいます。その日本人の特性というのも、一見すると素直に従順に話を聞いているように見えるのに裏では何でもかんでも自分流にアレンジしてしまうといった特性です。
先ほどの平仮名や片仮名は漢字をベースにより日本人が使いやすいようにと生み出され、またその後の戦国時代においてはポルトガル人によって伝来した鉄砲(最近異説が唱えられていますが)を戦術的効果の高い運用法を勝手に編み出し、関ヶ原の合戦時において全世界の四分の三の鉄砲を日本が保有していたほどまでに大量生産しております。また本場の「中国料理」に対して「中華料理」と表現を変えただけでなく、中国本土ではそれほど食べられていない焼き餃子を日本人はベーシックな献立として国内に普及させてしまっています。
よく外人の目から日本人は、「いつも何を考えているのかよくわからない」と評されますが、案外この様に言うことを素直に聞いているかと思ったら見えないところであれこれ自分流にアレンジしてしまうところが原因なのではないかとこのごろよく思います。こうした日本人の文化について敢えて名づけるとしたら、中国の「ごった煮文化」に対して「死んだふり文化」というのが私は適当だと思うわけです。
おまけ
チャイナドレスと並んで清代の中国女性に普及した伝統的な風習として「纏足」があります。チャイナドレス自体が旧満州地域(現中国東北部)の女性特有のスラっとした脚線美を強く見せるためのスリットが入っており、先ほどの纏足と合わせて考えるとどうも満州人は足フェチであったことが伺えます。
では現在の中国人はそうした満州文化の影響を受けたから足フェチなのかというと、そうとは言い切れない面もあります。というのも世界初の官能小説として有名な「金瓶梅」では足に関する艶かしい描写が非常に多く、元々の漢民族も足フェチであった可能性が非常に高いです。
このように漢民族と満州族はどちらも足フェチ同士だったわけだから、蒙古民族による元代が100年弱しか続かなかったのに対し清代は260年強も長く続けられたのではないかと邪推ながら考えております。
2009年8月18日火曜日
「日本史」と「世界史」科目の問題性
先ほど中国の大連から帰って来て、三日ぶりの更新です。今回はパックツアーだったので、中国語が使える身の自分からするとやや張り合いのない旅でしたがそこそこに楽しんできました。
それで早速本題ですが、発端は今回の旅先でのある出来事からでした。今回私が旅行してきたのは中国の大連市と瀋陽市で、分かる人にはすぐピンと来るでしょうがいわゆる旧満州国と日露戦争での歴史地を巡るツアーでした。元々うちの親父が日露戦争が昔から好きで行きたがっていた場所だったこともあり、それに同行する形で中国語の使える私もついていったのですが、瀋陽市にある瀋陽故宮を訪れた際に事は起こりました。
この瀋陽故宮というのは17世紀に満州族が中国を征服して清を立て、都を北京に移すまでの本拠地であった場所です。そこでここがどういった場所なのか、満州族は当時どのような勢力だったのか、そしてその後の清国はどのような国家形態だったのかを観光途中に親父へいろいろと説明したのですが、その際にある違和感を今回感じたわけです。
そもそもなんでうちの親父が日露戦争とかその辺の話が好きなのかと言うと、多分同じような方もたくさんおられるでしょうが司馬遼太郎氏の小説の「坂の上の雲」の影響です。そのためこの小説に描かれている日露戦争から満州帝国建国までの日本の歴史については親父はそこそこ知っているのですが、これが科目で言うと世界史に分類される分野となる当時の中国における清朝末期の状況になるととんと分からなくなり、太平天国の乱から辛亥革命、そして袁世凱政権移行の軍閥割拠の時代については全くといっていいほど親父は知識がありませんでした。なにせ、辮髪が満州族の風習ではなく漢族の文化だと思っていたくらいだし。
ただこうした傾向というのはなにもうちの親父に限ったことではなく、実はこれまでに私は何度も同じような人間、20世紀初頭の歴史についてある方面に知識が偏っている人間を何度も見てきており、その原因をちゃっちゃと言うと学校教育における歴史教育にあると私は断言できます。
まず高校での歴史科目について説明しますが、日本の高校教育、というよりも大学受験において文系受験者は社会科の受験科目に「日本史」と「世界史」のどちらか片方を選びます。よっぽど特殊な受験の仕方をしない限りは社会科は一科目で済むので、必然的に片方の科目だけを熱心に勉強してもう片方の勉強は恐ろしく疎かになる傾向は以前より指摘されており、確か2004年に受験科目に日本史を選択している高校生に対し本来必修として設けられている世界史の授業時間を設けずに日本史を教えていた高校が全国各地で見つかり、大問題になったことがありました。
そういうわけで同じ歴史という科目でありながら、高校生の間で日本史選択者と世界史選択者の間でそれぞれが持つ歴史知識にとてつもない溝ができるわけであります。
ここで私の秘話を明かすと、実は私は大学受験時にその特殊な受験の仕方をした一人で、日本史と世界史の両方を一緒に勉強していました。元々歴史が小学生の頃から得意だったので、この大学受験時の校内の模試成績でも両方とも常に上から五分の一で、日本史に至っては一番とか二番もしょっちゅう取るほどの成績でした。
そんなわけで受験後の進学先では日本史選択者とも世界史選択者とも歴史好きであればどちらとも非常にディープな会話が出来る奇妙な人材となったわけなのですが、双方の歴史好きと話していてやっぱり今回親父に感じたような違和感をこれまでによく感じていました。特に今回親父に解説をした、日本史と世界史の双方で取り上げられる日露戦争から満州事変、そして終戦までの部分は話を聞いているこっちが驚かされることが多かった気がします。
日本史の観点からすると日本が朝鮮半島の権益を確保するために日露戦争が起こり、その上に満州地域を中国から切り離して獲得するというシナリオが教えられるのですが、世界史の観点では欧州におけるクリミア戦争の敗北からロシアの南進が西から東へ移って日露戦争が起こるというシナリオが教えられます。
やはり両方の科目を学んだ身からすると、この時代における各国の動きを把握するためにはどちらの科目の知識もなくてはならないと思えます。またなにもこの部分に限らず、大航海時代など世界全体の動きに関わる場面においては双方の科目の知識がなければまるで意味がないとすら思う箇所も少なくありません。
結論を言えば私は真に歴史科目を自分の血となり肉となりして自らに役立てようとするならば、日本史世界史両方の科目を学ぶ必要が絶対的にあると思え、出来ることなら受験科目でも二つに分けずに「歴史」と一科目にまとめるべきだと考えております。ただこんなことを言えるのも私自身が歴史科目と相性がいいからで、そうでない人からしたら科目範囲が膨大になるから無茶な要求だと言われるかも知れません。事実自分で言ってて多少無茶な話かなとも思ってしまいます。
しかしせめて日本史選択者は世界史選択者に、世界史選択者は日本史選択者に機会がある毎に話を聞いて足りない知識を補完してもらいたいです。特に日中の現在の外交などを考える上で清朝末期の動きと日本陸軍内の抗争の知識は絶対的に必要で、昔のことだからと流さずに学ぶことをお勧めします。
それで早速本題ですが、発端は今回の旅先でのある出来事からでした。今回私が旅行してきたのは中国の大連市と瀋陽市で、分かる人にはすぐピンと来るでしょうがいわゆる旧満州国と日露戦争での歴史地を巡るツアーでした。元々うちの親父が日露戦争が昔から好きで行きたがっていた場所だったこともあり、それに同行する形で中国語の使える私もついていったのですが、瀋陽市にある瀋陽故宮を訪れた際に事は起こりました。
この瀋陽故宮というのは17世紀に満州族が中国を征服して清を立て、都を北京に移すまでの本拠地であった場所です。そこでここがどういった場所なのか、満州族は当時どのような勢力だったのか、そしてその後の清国はどのような国家形態だったのかを観光途中に親父へいろいろと説明したのですが、その際にある違和感を今回感じたわけです。
そもそもなんでうちの親父が日露戦争とかその辺の話が好きなのかと言うと、多分同じような方もたくさんおられるでしょうが司馬遼太郎氏の小説の「坂の上の雲」の影響です。そのためこの小説に描かれている日露戦争から満州帝国建国までの日本の歴史については親父はそこそこ知っているのですが、これが科目で言うと世界史に分類される分野となる当時の中国における清朝末期の状況になるととんと分からなくなり、太平天国の乱から辛亥革命、そして袁世凱政権移行の軍閥割拠の時代については全くといっていいほど親父は知識がありませんでした。なにせ、辮髪が満州族の風習ではなく漢族の文化だと思っていたくらいだし。
ただこうした傾向というのはなにもうちの親父に限ったことではなく、実はこれまでに私は何度も同じような人間、20世紀初頭の歴史についてある方面に知識が偏っている人間を何度も見てきており、その原因をちゃっちゃと言うと学校教育における歴史教育にあると私は断言できます。
まず高校での歴史科目について説明しますが、日本の高校教育、というよりも大学受験において文系受験者は社会科の受験科目に「日本史」と「世界史」のどちらか片方を選びます。よっぽど特殊な受験の仕方をしない限りは社会科は一科目で済むので、必然的に片方の科目だけを熱心に勉強してもう片方の勉強は恐ろしく疎かになる傾向は以前より指摘されており、確か2004年に受験科目に日本史を選択している高校生に対し本来必修として設けられている世界史の授業時間を設けずに日本史を教えていた高校が全国各地で見つかり、大問題になったことがありました。
そういうわけで同じ歴史という科目でありながら、高校生の間で日本史選択者と世界史選択者の間でそれぞれが持つ歴史知識にとてつもない溝ができるわけであります。
ここで私の秘話を明かすと、実は私は大学受験時にその特殊な受験の仕方をした一人で、日本史と世界史の両方を一緒に勉強していました。元々歴史が小学生の頃から得意だったので、この大学受験時の校内の模試成績でも両方とも常に上から五分の一で、日本史に至っては一番とか二番もしょっちゅう取るほどの成績でした。
そんなわけで受験後の進学先では日本史選択者とも世界史選択者とも歴史好きであればどちらとも非常にディープな会話が出来る奇妙な人材となったわけなのですが、双方の歴史好きと話していてやっぱり今回親父に感じたような違和感をこれまでによく感じていました。特に今回親父に解説をした、日本史と世界史の双方で取り上げられる日露戦争から満州事変、そして終戦までの部分は話を聞いているこっちが驚かされることが多かった気がします。
日本史の観点からすると日本が朝鮮半島の権益を確保するために日露戦争が起こり、その上に満州地域を中国から切り離して獲得するというシナリオが教えられるのですが、世界史の観点では欧州におけるクリミア戦争の敗北からロシアの南進が西から東へ移って日露戦争が起こるというシナリオが教えられます。
やはり両方の科目を学んだ身からすると、この時代における各国の動きを把握するためにはどちらの科目の知識もなくてはならないと思えます。またなにもこの部分に限らず、大航海時代など世界全体の動きに関わる場面においては双方の科目の知識がなければまるで意味がないとすら思う箇所も少なくありません。
結論を言えば私は真に歴史科目を自分の血となり肉となりして自らに役立てようとするならば、日本史世界史両方の科目を学ぶ必要が絶対的にあると思え、出来ることなら受験科目でも二つに分けずに「歴史」と一科目にまとめるべきだと考えております。ただこんなことを言えるのも私自身が歴史科目と相性がいいからで、そうでない人からしたら科目範囲が膨大になるから無茶な要求だと言われるかも知れません。事実自分で言ってて多少無茶な話かなとも思ってしまいます。
しかしせめて日本史選択者は世界史選択者に、世界史選択者は日本史選択者に機会がある毎に話を聞いて足りない知識を補完してもらいたいです。特に日中の現在の外交などを考える上で清朝末期の動きと日本陸軍内の抗争の知識は絶対的に必要で、昔のことだからと流さずに学ぶことをお勧めします。
2009年8月14日金曜日
北京留学記~その十、食事、嗜好品について
これからしばらく留学中の日々の生活について余すことなく書いていきます。一発目の今日は、まず一週間の生活での食生活ついて説明いたします。前もって断っておきますが、多分中国への留学生の中でも自分ほどケチって生活していた人間はそれほど多くないので、普通の日本人留学生の生活レベルはこれよりは上だと肝に銘じておいてください。
それで早速メインの三食についてですが、朝食は毎日パン二枚だけをいつも食べていました。最初の頃はジャムも一緒に買って食べていましたが次第にプレーンな味が好みになり、留学して一ヶ月が過ぎた辺りからは生の食パンをそのままむしゃむしゃと鹿のように食べていました。
昼食、夕食については常に外食でしたが、どちらも大学構内にある食堂でほとんど済ましていました。それらの食堂での食事費用は一回約四~六元で、日本円になおすと約七十円程度です。学食にはいくつかテナントが入っていてそこそこ選べるメニューの種類はあるのですが、慣れてくるとだんだんと変えるのが面倒になり、途中からはそれこそチャーハンかラーメンかのほぼ二択で選んでました。因みにどちらもトッピングや味付けによっていろいろ種類があるのですが、チャーハンについては「西紅柿炒飯」というトマトチャーハンが特に気に入ってよく食べていました。でもってさすがにたまには別のものをと思う時は、おかずをバイキング形式で取っていく日本の大学にある生協食堂のようなところで麻婆豆腐とかホイコーローも食べたりしていました。
最初の半年はこのような感じで学食内で食生活は完結していたのですが、さすがに留学生活後半にも至ると飽きが出てきて、少し贅沢を覚悟で週に一度だけ、金曜日の晩に限って大学構内にある日本食レストランかイタリアンレストラン、もしくは大学の近くにあるとんかつ屋に行き、それぞれの場所でカツ丼かサンドイッチ、とんかつ定食を食べていました。こちらでの費用は一回二十元から三十元で、日本円だと約三、四百円くらいで学食での食事の四から六倍もしましたが、普段食べられない食事ばかりで週末のいい気分転換となってました。なお中国料理には基本的に生野菜を食べる習慣がないので、イタリアンレストランで食べるサンドイッチの生野菜のみずみずしさに、当時は一人で感動に打ち震えていました。
こうしたメインの食事に加え、嗜好品として自分はよくネスカフェのインスタントコーヒーを買って寮の自室内で飲んでいました。大学構内にも喫茶店はあったのですが、コーヒー一杯が十元(約150円)と日本とそう変わらない価格になんとなく納得いかず(でも留学後半はよく通っていた)、少しでも留学費用を減らそうとインスタントを買っていたのですが日本同様にそれほどおいしくはありませんでした。そんなもんだからコーヒー以外にもとスーパーで中国茶の茶葉を買い、ティーバッグでもないのに急須を通さずコップに直で茶葉を入れてコーヒーとほぼ交代で飲んでいたのですが、こちらはコーヒー以上に意外にいけました。中国の水がイギリスと同じ香水だからかもしれませんが、味はやはりイギリスの紅茶に似てすっきりとした味わいです。
また夜に小腹がすいた時のためによくお菓子としてプリッツを買っていたのですが、プリッツのようにどこでも味が変わらないならともかく、チョコレートなどは日本の味よりやや濃い目の中国の味ゆえになじまず、そのプリッツと当たり障りのない飴ばかりを食べていました。
このほかインスタントの朝鮮冷麺やカップ麺もそれぞれ三元なのでよく買ってきていました。冷麺はゆで卵、キムチ付でそれなりにおいしいのですが、肝心の麺がぱさぱさしているために連日では食べれませんでした。カップ麺の方はと言うと自分はあまりそういったインスタント系は日本でもあまり食べないので細かい味はわからないのですが、向こうのカップ麺は基本激辛系がメインで、「紅色牛肉」という種類の真っ赤な牛肉ラーメンが一番店頭に多くならんでいました。この「紅色牛肉」も決してまずいわけではありませんが、日本風のとんこつ味が売っていたので私が買うときはほぼ間違いなくこれを選んで夜食に使っていました。
追伸
明日より三日間ほど中国瀋陽に親父の連れとして旅行に行くので、この間ブログをお休みします。更新がないからといって私のことを忘れないでください( ´∀`)
それで早速メインの三食についてですが、朝食は毎日パン二枚だけをいつも食べていました。最初の頃はジャムも一緒に買って食べていましたが次第にプレーンな味が好みになり、留学して一ヶ月が過ぎた辺りからは生の食パンをそのままむしゃむしゃと鹿のように食べていました。
昼食、夕食については常に外食でしたが、どちらも大学構内にある食堂でほとんど済ましていました。それらの食堂での食事費用は一回約四~六元で、日本円になおすと約七十円程度です。学食にはいくつかテナントが入っていてそこそこ選べるメニューの種類はあるのですが、慣れてくるとだんだんと変えるのが面倒になり、途中からはそれこそチャーハンかラーメンかのほぼ二択で選んでました。因みにどちらもトッピングや味付けによっていろいろ種類があるのですが、チャーハンについては「西紅柿炒飯」というトマトチャーハンが特に気に入ってよく食べていました。でもってさすがにたまには別のものをと思う時は、おかずをバイキング形式で取っていく日本の大学にある生協食堂のようなところで麻婆豆腐とかホイコーローも食べたりしていました。
最初の半年はこのような感じで学食内で食生活は完結していたのですが、さすがに留学生活後半にも至ると飽きが出てきて、少し贅沢を覚悟で週に一度だけ、金曜日の晩に限って大学構内にある日本食レストランかイタリアンレストラン、もしくは大学の近くにあるとんかつ屋に行き、それぞれの場所でカツ丼かサンドイッチ、とんかつ定食を食べていました。こちらでの費用は一回二十元から三十元で、日本円だと約三、四百円くらいで学食での食事の四から六倍もしましたが、普段食べられない食事ばかりで週末のいい気分転換となってました。なお中国料理には基本的に生野菜を食べる習慣がないので、イタリアンレストランで食べるサンドイッチの生野菜のみずみずしさに、当時は一人で感動に打ち震えていました。
こうしたメインの食事に加え、嗜好品として自分はよくネスカフェのインスタントコーヒーを買って寮の自室内で飲んでいました。大学構内にも喫茶店はあったのですが、コーヒー一杯が十元(約150円)と日本とそう変わらない価格になんとなく納得いかず(でも留学後半はよく通っていた)、少しでも留学費用を減らそうとインスタントを買っていたのですが日本同様にそれほどおいしくはありませんでした。そんなもんだからコーヒー以外にもとスーパーで中国茶の茶葉を買い、ティーバッグでもないのに急須を通さずコップに直で茶葉を入れてコーヒーとほぼ交代で飲んでいたのですが、こちらはコーヒー以上に意外にいけました。中国の水がイギリスと同じ香水だからかもしれませんが、味はやはりイギリスの紅茶に似てすっきりとした味わいです。
また夜に小腹がすいた時のためによくお菓子としてプリッツを買っていたのですが、プリッツのようにどこでも味が変わらないならともかく、チョコレートなどは日本の味よりやや濃い目の中国の味ゆえになじまず、そのプリッツと当たり障りのない飴ばかりを食べていました。
このほかインスタントの朝鮮冷麺やカップ麺もそれぞれ三元なのでよく買ってきていました。冷麺はゆで卵、キムチ付でそれなりにおいしいのですが、肝心の麺がぱさぱさしているために連日では食べれませんでした。カップ麺の方はと言うと自分はあまりそういったインスタント系は日本でもあまり食べないので細かい味はわからないのですが、向こうのカップ麺は基本激辛系がメインで、「紅色牛肉」という種類の真っ赤な牛肉ラーメンが一番店頭に多くならんでいました。この「紅色牛肉」も決してまずいわけではありませんが、日本風のとんこつ味が売っていたので私が買うときはほぼ間違いなくこれを選んで夜食に使っていました。
追伸
明日より三日間ほど中国瀋陽に親父の連れとして旅行に行くので、この間ブログをお休みします。更新がないからといって私のことを忘れないでください( ´∀`)
金子国交相の我田引水発言について
・国交相、地元受注を誘導 高速工事で入札方法の変更指示(朝日新聞)
今日何度もYAHOOやMSNニュースを見ていましたが、何でこのニュースが載らないのか非常に不思議でした。
さてこのリンクに貼ったニュースの内容ですが、高速道路会社三社が道路を四車線化する工事を発注する際に今年六月に金子現国交相が各地元の業者が入札しやすいようにと、工事区間の分割をして入札で落札しやすいようにするよう国交省を通して要請をしていたということを報じるニュースです。この国交相の要請は言い方を変えると、競争入札に参加できる業者を絞って地元へ利益を誘導しようとする談合を国交省が誘導していたということになります。
現在、高速道路の管理運営は民営化によって生まれた各地域の高速道路会社がやっております。この高速道路会社の民営化というのは不透明な談合や合理性のない工事価格を防止し、時の政治家の意向によって工事の優先性を歪められないように小泉内閣時に行われたのですが、見てもらえば分かるとおりに今回の金子国交相の要請はこのどれにも抵触する恐れがあります。
まず事実関係についてですが、この要請について金子国交相、国交省ともにすでに認めております。特に金子国交相に至っては、これはネットにはなく今朝の朝刊の31面に載っていますが、七月の岐阜県下呂市の会議において、「我田引水をやっている自覚がある」とまで発言しております。
この要請について金子国交省は、経済不況によって苦しい地域経済への公共投資という目的でやったのであって決して選挙対策ではないと主張していますが、それ以前にあれだけもめた民営化会議を水泡に帰させるような行為について自覚はないのかと私としては呆れてしまいます。また国交省も国交省で、民営化した独立法人の高速道路会社に中央からあれこれ指示することを民営化会議で厳しく制限するように出ていたはずなんですが、誰か止める人間はいなかったのかと外務省に引き続いて感じてしまいます。
今日何度もYAHOOやMSNニュースを見ていましたが、何でこのニュースが載らないのか非常に不思議でした。
さてこのリンクに貼ったニュースの内容ですが、高速道路会社三社が道路を四車線化する工事を発注する際に今年六月に金子現国交相が各地元の業者が入札しやすいようにと、工事区間の分割をして入札で落札しやすいようにするよう国交省を通して要請をしていたということを報じるニュースです。この国交相の要請は言い方を変えると、競争入札に参加できる業者を絞って地元へ利益を誘導しようとする談合を国交省が誘導していたということになります。
現在、高速道路の管理運営は民営化によって生まれた各地域の高速道路会社がやっております。この高速道路会社の民営化というのは不透明な談合や合理性のない工事価格を防止し、時の政治家の意向によって工事の優先性を歪められないように小泉内閣時に行われたのですが、見てもらえば分かるとおりに今回の金子国交相の要請はこのどれにも抵触する恐れがあります。
まず事実関係についてですが、この要請について金子国交相、国交省ともにすでに認めております。特に金子国交相に至っては、これはネットにはなく今朝の朝刊の31面に載っていますが、七月の岐阜県下呂市の会議において、「我田引水をやっている自覚がある」とまで発言しております。
この要請について金子国交省は、経済不況によって苦しい地域経済への公共投資という目的でやったのであって決して選挙対策ではないと主張していますが、それ以前にあれだけもめた民営化会議を水泡に帰させるような行為について自覚はないのかと私としては呆れてしまいます。また国交省も国交省で、民営化した独立法人の高速道路会社に中央からあれこれ指示することを民営化会議で厳しく制限するように出ていたはずなんですが、誰か止める人間はいなかったのかと外務省に引き続いて感じてしまいます。
2009年8月13日木曜日
黄絹幼婦の意味とは
前に書いたかと思ってたらまだ書いていなかったので、今日は私のお気に入りの中国のある逸話を紹介します。
このお話が出来た時代は三国志に描かれている三国時代で、まだ曹操が現役バリバリの頃でした。ちょっと細かいところまでは分からないのですが、この時代のある碑文に「黄絹幼婦」と書いてあり、この言葉の意味は一体何なのかといろんな人間が謎解きに挑戦していたのですが、結局いつも誰も的確な回答を出すことが出来ませんでした。するとそこに知恵者で有名な楊修がやってきてこの碑文を見るや、「絶妙」という意味だとあっさりと解いてしまったそうです。
からくりはこうです。まず「黄」という字は「色」を表し、「絹」という字は「糸」を表しており、この両者を組み合わせると「絶」という感じになります。同じように「幼」という字は「少」を表し、「婦」という字は「女」を表していて、両者が組み合わさると「妙」となり、この二語を組合すことで「絶妙」という意味になるというわけです。
私はこの逸話をもう少し分かりやすく、かつ社会的にも安全なように「黄絹少女」と少し文字を変えて使うことがありますが、なかなかに鋭いなぞなぞで気に入っております。またこの謎を解いたのがまた楊修という、ある意味魏国切っての曲者というのも見逃せません。この楊修は生前から非常に賢いと言われて有名だったのですが、「鶏肋」のエピソードで有名なあの事件によって主君の曹操により殺害され、まさに才は才に滅ぶを体現した人物です。
このお話が出来た時代は三国志に描かれている三国時代で、まだ曹操が現役バリバリの頃でした。ちょっと細かいところまでは分からないのですが、この時代のある碑文に「黄絹幼婦」と書いてあり、この言葉の意味は一体何なのかといろんな人間が謎解きに挑戦していたのですが、結局いつも誰も的確な回答を出すことが出来ませんでした。するとそこに知恵者で有名な楊修がやってきてこの碑文を見るや、「絶妙」という意味だとあっさりと解いてしまったそうです。
からくりはこうです。まず「黄」という字は「色」を表し、「絹」という字は「糸」を表しており、この両者を組み合わせると「絶」という感じになります。同じように「幼」という字は「少」を表し、「婦」という字は「女」を表していて、両者が組み合わさると「妙」となり、この二語を組合すことで「絶妙」という意味になるというわけです。
私はこの逸話をもう少し分かりやすく、かつ社会的にも安全なように「黄絹少女」と少し文字を変えて使うことがありますが、なかなかに鋭いなぞなぞで気に入っております。またこの謎を解いたのがまた楊修という、ある意味魏国切っての曲者というのも見逃せません。この楊修は生前から非常に賢いと言われて有名だったのですが、「鶏肋」のエピソードで有名なあの事件によって主君の曹操により殺害され、まさに才は才に滅ぶを体現した人物です。
登録:
投稿 (Atom)