去年の夏はすでに死んでいたにもかかわらず死亡届が出されず、遺族が年金を搾取していたという事件が日本の全国各地で多発しました。多発とは言っても実際のところは最初の東京での一件が明るみに出たことから各地で調査が行われ芋づる式にばれただけですが、このニュースは各方面に驚きをもって受け入れられ、記者の屋山太郎氏などは、「いくら腐ったとはいえ日本人には武士道があると思っていたが、ここまで退廃していたとは……」などと述べており、ほかの評論家の方々も日本人の倫理の低下を嘆くような言葉でこれらの事件について言及しておりました。
しかし実のところというか、こういった死亡を隠すという行為はなにも最近に始まったことではなかったようです。文芸春秋で読んだコラムによると江戸時代の武士らは一家の大黒柱である主人が亡くなった際はお上に休暇届を出し、しばらくはその死を隠して主人の俸禄をもらい続けるのが当たり前だったそうです。無論お上側もこういった事実は把握していたそうですが葬式などでお金がかかることからほぼ黙認し、武士社会ではこうした行為は半ば慣例化していたそうです。となると逆説的ですが、年金搾取の事件を見る限り日本人の武士道はまだ失われてなかったということになります。
とはいえこの事件は日本のみならずほかの国でもいろいろと注目されたことからお隣韓国でも報道されたようで、私がテレビのインタビューで見た韓国人は、「日本人は戸籍などの管理がしっかりしている国だと思ってたのに」などと言及していました。その韓国人の言う通り、確かに日本人は細かい性格していていろいろな管理に細かいような印象を持たれているし日本人らもそういう認識を一部自分たちに持っているような気がしますが、実際のところは少し事情が違うのではないかと私は睨んでいます。
管理と一言で言ってもこの事件のように戸籍や住民票を初めとして様々なものがありますが、私が日本人がいい加減この上ないと感じる第一のものは統計です。現今の内定率や失業率を初め、日本はこれで本当に参考になるのかというくらいに状況を正確に反映していない曖昧でいい加減なデータに満ち溢れています。日本人、というより中国や韓国を含むアジア人は数字に対してシビアな西欧人と比べてなにかと数字に感情を込めたがる傾向があり、誇張やごまかしは当たり前で、こんだけ頭使えるならもっと別方面に使えよといいたくなるくらいの計算方法まで編み出したりして何かと統計数字を弄くるのに長けております。
実際にこうした日本人の統計下手は今に始まったことでなく、戦後日本で餓死者が大量に出そうだということでアメリカが大盤振る舞いして食料を送ってくれましたが、蓋を開けて見ると全くでなかったというわけじゃありませんが予想に反して餓死者は少なく、マッカーサーがどういうことだと詰め寄ると、「うちの統計がしっかりしてればあんたの国に負けたりはしてないよ」と吉田茂は言い返したそうです。
こうした統計を初めとして、私は日本人は管理というものが実際には非常に下手なのではないかという気がこのところします。意識しないと気づきませんが今時タイムカードのある会社の方が珍しいくらい勤怠管理はいい加減で、道路の自動車制限速度も標識の数字プラス10~20km/時で走るのが当たり前ですし、厳格であるべき法律についても解釈が多過ぎるというか。そんな管理に疎い日本人ですがまたここで逆説的な考えをすると、一体どうしてこれほど管理に疎いにもかかわらずそこそこ繁栄して他国からも管理が細かそうな印象をもたれるようになったのでしょうか。
これがこの問いに対するすべての答えだとは言いませんが、私は戦時中のアメリカ軍の、「日本の兵隊と下士官は優秀だが、トップが馬鹿で助かる」という言葉が最も適格な回答ではないかと思っています。
私が何を言いたいのかというと、日本は管理を行う組織の上層層はいい加減で現実を無視した指示や決断を行いうものの、それを実行する組織の中間層、下位層があまりにも優秀過ぎるためにそういった無茶な指示を本当に実現、実行してしまっているのではないかと言いたいわけです。
いくつか例を出すと、なんかこの前も引用しましたが日露戦争の東郷平八郎がドイツで食べたビーフシチューが食べたいと言ってジャガイモとにんじんと牛肉が材料だから今すぐ作れと日本で調理師に無茶な要求を出したところ、やけになった調理師が日本風のしょうゆテイストで作って出したのが今や和食を代表する肉じゃがの始まりだそうです。
またこうした歴史的な逸話に限らず比較的新しい事例ですと、
「リッター30キロのエンジン作れよ、わかったな!!( ゚Д゚)」
「三ヶ月でマスターアップしろよ、わかったな!!( ゚Д゚)」
「マエケン一人で20勝しろよ、わかったな!!( ゚Д゚)」
などといった上からの無理難題を中間層、下位層といった実行部隊がマジで実行してしまったという話を本当にあちこちで聞きます。まぁ三番目は今シーズンかもしれないけど。
よく企業家などが途方もない偉業や無理だといわれた難題をやりぬいたことについて、「やろうと思えば出来るんです!!」などと自慢げに言ってたりするのを聞きますが、実際頑張って達成したのは現場の人間だろうにと冷ややかな気持ちを感じずにはいられません。優勝しても選手が本当に頑張ってくれたと言う原監督のような人は恐らく珍しいのではないでしょうか。
今日は逆方向からのアプローチがやけに多いですが、仮に私の言っている通りに日本は中間層、下位層が優秀にもかかわらず上位管理層の質が悪いとすると、問題な上位層が優秀になったら日本はどうなるのでしょうか。その一つのモデルケースと言えるのはやはり明治維新で、見方によれば戦国時代以上の実力主義による下克上が行われただけあってトップ層は伊藤博文を初めとして文句なく最上の人材が揃い踏み、世界史上でも稀な急速な発展を実現しています。
さすがにもう長いので今日は書きませんが、最近の日本は上位層に続いて実行と管理を兼ね備えるべきの中間層の質も急激に落ちてきているのではないかという気がして、それが日本の活力低下の大きな原因なのではないかと見ております。そのため近頃強く必要性を感じるものとして、私もかつては否定していましたがエリート教育が挙がってきます。この辺についてはまた今度、詳しく書こうと思います。
ここは日々のニュースや事件に対して、解説なり私の意見を紹介するブログです。主に扱うのは政治ニュースや社会問題などで、私の意見に対して思うことがあれば、コメント欄にそれを残していただければ幸いです。
2011年1月20日木曜日
2011年1月18日火曜日
私の陶器集めについて
このところ真面目な話題ばかり取り上げていたのでたまにはくだけた話題を書こうと思います。
自分の密かな趣味として、陶器集めがあります。もちろん専門の方と比べたら屁でもない程度ですがそれでもほかの人と比べると茶碗やら湯飲みやらマグカップを購入する量は明らかに多く、金がなくて一食の食事代もケチっていた学生時代ですら平気で1500円くらいの湯のみをぽんと買うのに友人も不思議がっていました。
自分のこの陶器趣味は恐らく、うちのお袋の影響によるところが大きいです。うちのお袋もこちらは主にティーカップですがよく集めており、実家には自分がもらったものを含めてそんなに大きくはないガラス棚ですがウェッジウッドなどが所狭しと並んでます。
それでは一体どんなものを私が買うかですが、基本的に買うのは日本製の茶碗です。ティーカップも嫌いではありませんがおふくろの持っているもので十分なので、新たに買い足したりはせず買うのは決まって茶碗です。お気に入りの茶碗は伊賀焼と信楽焼で、どちらも薄くて軽いのが特徴ですが安土時代の武士ではないですが柄は無骨な茶碗が好きなので大抵単色でざらざらした質感の茶碗を買ってたりします。両者とも手に持って見ると驚くほど軽く感じるのですが、その分熱伝導率も半端じゃなくお茶を入れて飲むとたまに手がやけどしかけるというデメリットがありますが。
そんな伊賀焼と信楽焼に対し、一時期ハマったのは山口県の萩焼です。これは広島に左遷されっぱなしのうちの親父と中国地方を回った際にたまたま立ち寄った土産物屋で値段は2000円程度でしたがいい茶碗が見つかり、買って帰って使ってみると使い心地もよくしばらくはその茶碗で毎日三杯はお茶を飲んでました。
ところが、それだけ愛用していた萩焼の茶碗ですがある日帰省していたうちの親父がその茶碗を取ろうとして滑り落とし、割ってしまいました。まだ買って一ヶ月もしない新婚ほやほやの期間だっただけに今思うとちょっと怒り過ぎだと思うくらいの勢いで当時は親父を激しく責め立て、そのあまりの剣幕を見てか後日うちのお袋が私に内緒で3000円くらいの別の萩焼の茶碗を通販で購入してくれました。使い心地は、やっぱり前の割った奴のがよかったけど。またその後、今度はお袋が広島の親父を尋ねていってそのときにもまた別の萩焼の茶碗を買ってきてくれました。こっちは通販のよりはまだよかったけども、それでも最初のあの茶碗を越えることはありませんでした。といっても、受けられる水の量がちょうどいいからその後一年くらいは日常用として使ったと思いますが。
私は基本的に茶碗というのは飾るものではなく使ってなんぼだと思うので、買ってくそばからローテーションを決めて日ごとに茶碗を変えたりして次々と飲み変えていきます。それでも毎回変えていたらお袋に怒られるので日常用は固定して使いますが、確か日本を出る前までは去年の正月に友人と浅草で会った際に購入した信楽焼の茶碗だった気がします。京都にしばらく住んでたくせに、なぜか清水焼には手を出さなかったなぁ。
こうした茶碗に対し、マグカップ類は単純に絵柄で決めます。容量は大体300ml以上が入るのが条件で気に入った柄があればどんどん買います。ただこういったものはやっぱり値段がきちんと反映されると言うか気に入る柄は1000円位したりして、100円ショップの柄は大抵は気に入りません。唯一100円ショップで購入した中で気に入っているのはアルミ製のマグカップで容量も大きく、アルミという一風変わった材質がやけに気に入って愛用していました。
ただマグカップ類は茶碗と比べて買いやすいため、大学在学中でも一人暮らしの癖して常に7個とか8個くらいはマグカップを保有していました。これだけ多いと置き場所にも困るし新たに買い足せないため、何度も家に来る友人らに気に入ったマグカップがあれば彼らにそのまま譲渡していました。基本的に男子学生なので私みたいに年がら年中お茶を飲む習慣はおろか急須すら持っていないのが普通なので、マグカップも大抵の友人は持ってないのでみんなそれなりに喜んで持っていってくれました。私自身もあまり使わないで置いておくよりも、それぞれ気に入ってくれた人に使ってもらった方がいいだろうと考えて渡していました。
ただ唯一、「俺、これが欲しいっ!」と言われても手放さなかったマグカップがあります。別に高いわけではないのですが私がイギリスに行った際に買った、リーマンショックで廃業してしまったウィッタードというコーヒーとお茶を売っていたところのマグカップですが、イギリスらしく愛らしいウサギの漫画が書かれた小さいマグカップで使用機会はそれほど多くなくとも非常に気に入ってたので人気抜群の中、とうとうこれだけは手元に置き続けました。
その後ウィッタードは私が大学を卒業した後に前述の通り廃業したわけですが、Googleに検索をかけると前に陽月秘話で書いた私の記事が出てきたりしますが、案外こういうちょこっとしたものほど検索に引っかかったりするんだなとしみじみ感じたりします。思い出というのも、こういうものなのかもしれませんが。
自分の密かな趣味として、陶器集めがあります。もちろん専門の方と比べたら屁でもない程度ですがそれでもほかの人と比べると茶碗やら湯飲みやらマグカップを購入する量は明らかに多く、金がなくて一食の食事代もケチっていた学生時代ですら平気で1500円くらいの湯のみをぽんと買うのに友人も不思議がっていました。
自分のこの陶器趣味は恐らく、うちのお袋の影響によるところが大きいです。うちのお袋もこちらは主にティーカップですがよく集めており、実家には自分がもらったものを含めてそんなに大きくはないガラス棚ですがウェッジウッドなどが所狭しと並んでます。
それでは一体どんなものを私が買うかですが、基本的に買うのは日本製の茶碗です。ティーカップも嫌いではありませんがおふくろの持っているもので十分なので、新たに買い足したりはせず買うのは決まって茶碗です。お気に入りの茶碗は伊賀焼と信楽焼で、どちらも薄くて軽いのが特徴ですが安土時代の武士ではないですが柄は無骨な茶碗が好きなので大抵単色でざらざらした質感の茶碗を買ってたりします。両者とも手に持って見ると驚くほど軽く感じるのですが、その分熱伝導率も半端じゃなくお茶を入れて飲むとたまに手がやけどしかけるというデメリットがありますが。
そんな伊賀焼と信楽焼に対し、一時期ハマったのは山口県の萩焼です。これは広島に左遷されっぱなしのうちの親父と中国地方を回った際にたまたま立ち寄った土産物屋で値段は2000円程度でしたがいい茶碗が見つかり、買って帰って使ってみると使い心地もよくしばらくはその茶碗で毎日三杯はお茶を飲んでました。
ところが、それだけ愛用していた萩焼の茶碗ですがある日帰省していたうちの親父がその茶碗を取ろうとして滑り落とし、割ってしまいました。まだ買って一ヶ月もしない新婚ほやほやの期間だっただけに今思うとちょっと怒り過ぎだと思うくらいの勢いで当時は親父を激しく責め立て、そのあまりの剣幕を見てか後日うちのお袋が私に内緒で3000円くらいの別の萩焼の茶碗を通販で購入してくれました。使い心地は、やっぱり前の割った奴のがよかったけど。またその後、今度はお袋が広島の親父を尋ねていってそのときにもまた別の萩焼の茶碗を買ってきてくれました。こっちは通販のよりはまだよかったけども、それでも最初のあの茶碗を越えることはありませんでした。といっても、受けられる水の量がちょうどいいからその後一年くらいは日常用として使ったと思いますが。
私は基本的に茶碗というのは飾るものではなく使ってなんぼだと思うので、買ってくそばからローテーションを決めて日ごとに茶碗を変えたりして次々と飲み変えていきます。それでも毎回変えていたらお袋に怒られるので日常用は固定して使いますが、確か日本を出る前までは去年の正月に友人と浅草で会った際に購入した信楽焼の茶碗だった気がします。京都にしばらく住んでたくせに、なぜか清水焼には手を出さなかったなぁ。
こうした茶碗に対し、マグカップ類は単純に絵柄で決めます。容量は大体300ml以上が入るのが条件で気に入った柄があればどんどん買います。ただこういったものはやっぱり値段がきちんと反映されると言うか気に入る柄は1000円位したりして、100円ショップの柄は大抵は気に入りません。唯一100円ショップで購入した中で気に入っているのはアルミ製のマグカップで容量も大きく、アルミという一風変わった材質がやけに気に入って愛用していました。
ただマグカップ類は茶碗と比べて買いやすいため、大学在学中でも一人暮らしの癖して常に7個とか8個くらいはマグカップを保有していました。これだけ多いと置き場所にも困るし新たに買い足せないため、何度も家に来る友人らに気に入ったマグカップがあれば彼らにそのまま譲渡していました。基本的に男子学生なので私みたいに年がら年中お茶を飲む習慣はおろか急須すら持っていないのが普通なので、マグカップも大抵の友人は持ってないのでみんなそれなりに喜んで持っていってくれました。私自身もあまり使わないで置いておくよりも、それぞれ気に入ってくれた人に使ってもらった方がいいだろうと考えて渡していました。
ただ唯一、「俺、これが欲しいっ!」と言われても手放さなかったマグカップがあります。別に高いわけではないのですが私がイギリスに行った際に買った、リーマンショックで廃業してしまったウィッタードというコーヒーとお茶を売っていたところのマグカップですが、イギリスらしく愛らしいウサギの漫画が書かれた小さいマグカップで使用機会はそれほど多くなくとも非常に気に入ってたので人気抜群の中、とうとうこれだけは手元に置き続けました。
その後ウィッタードは私が大学を卒業した後に前述の通り廃業したわけですが、Googleに検索をかけると前に陽月秘話で書いた私の記事が出てきたりしますが、案外こういうちょこっとしたものほど検索に引っかかったりするんだなとしみじみ感じたりします。思い出というのも、こういうものなのかもしれませんが。
2011年1月15日土曜日
成功体験と失敗体験
世の中、人生を生きていく上で役に立つという様々な教訓で溢れております。特にビジネス関係で言うと俗に言うビジネス書などといった経営者の自叙伝やコンサルタントらの「必勝、○○法」などといった書籍が本屋にいけばたくさん並んでおり、私も暇な時などは手に取って読んで見たりしてました。
ではそこで語られている教訓は一体どのようにして得られたものなのでしょうか。これははっきりいってしまえば教訓と呼ばれるものは何がしかの成功体験、もしくは失敗体験が背景にあり、古典から一例を出すと毛利元就の「三本の矢」のエピソードは、実際はどうだったかわかりかねますがあの一件で兄弟が仲良くなることに成功したという成功体験から得られた教訓と言えます。
この成功体験と失敗体験ですが、果たしてどちらの方が価値があるのでしょうか。今日はささっと結論を述べさせてもらうと私は成功体験には益もあるが害も多く、参考にするのであれば失敗体験の方が価値が高いと考えております。
一体どうしてこのような結論に至ったのか理由を説明させてもらうと、まず成功体験からは確かにうまくいくノウハウを抽出させることが出来ますが、その一方で成功に至ったのに全く因果関係のない行動や決断を正しいやりかただと誤認してしまう可能性も多分に含んでいるからです。
いくつか実例で言うと、近代日本において最大の成功体験と呼べるものの一つに日露戦争があります。この日露戦争で最終的に勝敗を決しさせたのは東郷平八郎指揮による有名な日本海海戦でありますが、この日本海海戦のあまりの成功体験によってその後の日本海軍においてはいわゆる「決戦主義」というものが生まれてしまったそうです。
この決戦主義というのはゲリラ戦のように小規模の戦闘を地道に繰り返して相手側の戦力を徐々に減らすのではなく相手側の戦力を出来る限り集中させたところを自軍も大兵力を当て、一回の大規模戦闘によって一挙に勝利を決めるという考え方なのですが、太平洋戦争においてはハワイ真珠湾攻撃やミッドウェー海戦など、このような決戦思想的な作戦が度々取られています。
前に読んだ本によると東郷平八郎としては日本海海戦を決戦としたのは相手になるロシアのバルチック艦隊が長距離を移動してきていること、日本が長期間に渡って戦争を続ける余裕がなかったこと、その決戦に対して日本側が十分な訓練を積んでいたという条件があり、いわば与えられた条件の中で最も適格な作戦だったがゆえに実行したと言われております。にもかかわらず太平洋戦争では必然性もなくなにかと決戦行動を取っており、極めつけともいえるのは全く勝利する見込みもなく撃沈されることがわかっているのに戦艦武蔵と大和を戦場に放り込んで無駄に戦力を消耗させております。海上移動砲台と考えれば、使い道はまだあったろうに。
逆に失敗体験で言えば、近年の日本の例だと日本式経営ことJALの破綻が一番好例かもしれません。日本式経営については大分昔にもまとめたことがありますが基本要素は、
・終身雇用
・年功序列
・労使協調
この三要素であり、バブル崩壊後の90年代における「失われた十年」においては日本が駄目になった最大原因として激しいバッシングに遭い、その後各企業において成果主義や中途採用などが導入される原因となりました。
私としては年代ゆえに実体験としてあまりなじみがないのですが三番目の労使協調についてはちょっと聞いてて驚くことが多く、なんでも本来対立関係にあるはずの経営陣と労働組合は実際はべったりで労働組合内で幹部職を経験したものはその後みんな役員に昇進しており、事実上経営陣の下部組織となっていたようです。
この労使協調が行き過ぎて破綻してしまった会社としては現在で言えば航空会社のJALでしょうが、最近になって調べていろいろ驚いたのは旧カネボウこと現在のトリニティ・インベストメントで、旧カネボウはバブル期に経営の多角化を図ったところ新規事業はほとんどどれも失敗して赤字を垂れ流す結果になったにもかかわらず、労使の関係があまりにも強すぎて不採算事業から撤退、廃止、リストラを一切行わず赤字を垂れ流し続けた挙句粉飾決算を行い、一時は日本最大の企業とまでなったにもかかわらずとうとう会社名自体が消えてしまう結果になってしまいました。(唯一収益を上げていたカネボウ化粧品は花王に買収され、ブランド名のみ存続)
私も子供の頃にかすかに「ペンタゴン経営」という言葉を聞いておりましたが、実際の内実はひどいもんだったんだなぁと調べてみてつくづく感じました。
一体何故カネボウについて急に調べようと思ったかですが、実は映画の「沈まぬ太陽」を見てJAL機御巣鷹山墜落事故の後にカネボウで元社長だった人が再建を任されて会長に就任したものの、映画ではいい風に書かれていたものの実際はこの人の在任中もJALが破綻する要因が生まれたという評論を読んだことがきっかけでした。話に聞くとそれ以前からもやけに強気なJALの労組がさらに強気になり、経営陣はその後再建策が何も実行できなくなったそうですが、カネボウの破綻までの話を聞いていると無理もないような話です。
現在の日本においてはこの労使協調はほとんど消え失せ、「羹に懲りて膾を吹く」じゃありませんが労働組合が弱くなりすぎて過重労働などの問題を生むなど別の問題を生んではいますが、少なくとも過剰な労使協調によるカネボウの破綻がJALの破綻にもつながっていることを考えると失敗の原因と言うか対処すべき教訓ははっきりしております。この「羹に懲りて膾を吹く」ということわざのように失敗体験も成功体験同様に、本来正しいやり方を間違えて失敗原因として排除してしまう可能性もないわけではありませんが、それでも成功体験のように余計なやりかたを正攻法と勘違いする可能性やその害の大きさより低いと私は見ています。
失敗体験は成功体験に勝ると私が感じる大きな原因として思い当たる人物が二人おり、一人はダイエー創業者の中内功と、もう一人はフランチャイズの帝王と呼ばれた日本マクドナルド創業者の藤田田です。
二人とも業績好調時はカリスマ経営者と呼ばれましたが晩年は誤った決断から会社の業績を大きく低迷させ、友人曰く「カリスマ経営者というのは紙一重」という言葉の通りに過去のあまりの成功体験からシフトすることが出来ずに終わってしまったと感じさせられる人物です。
現在、一般にビジネス書と呼ばれる経営者の自叙伝などは基本的に自身の成功体験場仮が書かれているように思えます。しかし私はそういった成功体験よりも失敗体験をの方が教訓を探す上では価値は高いと見ており、こういった本が本当に参考になるんかいなとよく思います。成功、失敗するのは誰にでもあります。しかしそこからそれぞれの要因を見極め分析するのはいささか玄人仕事で安易に行うべきではないというのが、今日の私の意見です。
ではそこで語られている教訓は一体どのようにして得られたものなのでしょうか。これははっきりいってしまえば教訓と呼ばれるものは何がしかの成功体験、もしくは失敗体験が背景にあり、古典から一例を出すと毛利元就の「三本の矢」のエピソードは、実際はどうだったかわかりかねますがあの一件で兄弟が仲良くなることに成功したという成功体験から得られた教訓と言えます。
この成功体験と失敗体験ですが、果たしてどちらの方が価値があるのでしょうか。今日はささっと結論を述べさせてもらうと私は成功体験には益もあるが害も多く、参考にするのであれば失敗体験の方が価値が高いと考えております。
一体どうしてこのような結論に至ったのか理由を説明させてもらうと、まず成功体験からは確かにうまくいくノウハウを抽出させることが出来ますが、その一方で成功に至ったのに全く因果関係のない行動や決断を正しいやりかただと誤認してしまう可能性も多分に含んでいるからです。
いくつか実例で言うと、近代日本において最大の成功体験と呼べるものの一つに日露戦争があります。この日露戦争で最終的に勝敗を決しさせたのは東郷平八郎指揮による有名な日本海海戦でありますが、この日本海海戦のあまりの成功体験によってその後の日本海軍においてはいわゆる「決戦主義」というものが生まれてしまったそうです。
この決戦主義というのはゲリラ戦のように小規模の戦闘を地道に繰り返して相手側の戦力を徐々に減らすのではなく相手側の戦力を出来る限り集中させたところを自軍も大兵力を当て、一回の大規模戦闘によって一挙に勝利を決めるという考え方なのですが、太平洋戦争においてはハワイ真珠湾攻撃やミッドウェー海戦など、このような決戦思想的な作戦が度々取られています。
前に読んだ本によると東郷平八郎としては日本海海戦を決戦としたのは相手になるロシアのバルチック艦隊が長距離を移動してきていること、日本が長期間に渡って戦争を続ける余裕がなかったこと、その決戦に対して日本側が十分な訓練を積んでいたという条件があり、いわば与えられた条件の中で最も適格な作戦だったがゆえに実行したと言われております。にもかかわらず太平洋戦争では必然性もなくなにかと決戦行動を取っており、極めつけともいえるのは全く勝利する見込みもなく撃沈されることがわかっているのに戦艦武蔵と大和を戦場に放り込んで無駄に戦力を消耗させております。海上移動砲台と考えれば、使い道はまだあったろうに。
逆に失敗体験で言えば、近年の日本の例だと日本式経営ことJALの破綻が一番好例かもしれません。日本式経営については大分昔にもまとめたことがありますが基本要素は、
・終身雇用
・年功序列
・労使協調
この三要素であり、バブル崩壊後の90年代における「失われた十年」においては日本が駄目になった最大原因として激しいバッシングに遭い、その後各企業において成果主義や中途採用などが導入される原因となりました。
私としては年代ゆえに実体験としてあまりなじみがないのですが三番目の労使協調についてはちょっと聞いてて驚くことが多く、なんでも本来対立関係にあるはずの経営陣と労働組合は実際はべったりで労働組合内で幹部職を経験したものはその後みんな役員に昇進しており、事実上経営陣の下部組織となっていたようです。
この労使協調が行き過ぎて破綻してしまった会社としては現在で言えば航空会社のJALでしょうが、最近になって調べていろいろ驚いたのは旧カネボウこと現在のトリニティ・インベストメントで、旧カネボウはバブル期に経営の多角化を図ったところ新規事業はほとんどどれも失敗して赤字を垂れ流す結果になったにもかかわらず、労使の関係があまりにも強すぎて不採算事業から撤退、廃止、リストラを一切行わず赤字を垂れ流し続けた挙句粉飾決算を行い、一時は日本最大の企業とまでなったにもかかわらずとうとう会社名自体が消えてしまう結果になってしまいました。(唯一収益を上げていたカネボウ化粧品は花王に買収され、ブランド名のみ存続)
私も子供の頃にかすかに「ペンタゴン経営」という言葉を聞いておりましたが、実際の内実はひどいもんだったんだなぁと調べてみてつくづく感じました。
一体何故カネボウについて急に調べようと思ったかですが、実は映画の「沈まぬ太陽」を見てJAL機御巣鷹山墜落事故の後にカネボウで元社長だった人が再建を任されて会長に就任したものの、映画ではいい風に書かれていたものの実際はこの人の在任中もJALが破綻する要因が生まれたという評論を読んだことがきっかけでした。話に聞くとそれ以前からもやけに強気なJALの労組がさらに強気になり、経営陣はその後再建策が何も実行できなくなったそうですが、カネボウの破綻までの話を聞いていると無理もないような話です。
現在の日本においてはこの労使協調はほとんど消え失せ、「羹に懲りて膾を吹く」じゃありませんが労働組合が弱くなりすぎて過重労働などの問題を生むなど別の問題を生んではいますが、少なくとも過剰な労使協調によるカネボウの破綻がJALの破綻にもつながっていることを考えると失敗の原因と言うか対処すべき教訓ははっきりしております。この「羹に懲りて膾を吹く」ということわざのように失敗体験も成功体験同様に、本来正しいやり方を間違えて失敗原因として排除してしまう可能性もないわけではありませんが、それでも成功体験のように余計なやりかたを正攻法と勘違いする可能性やその害の大きさより低いと私は見ています。
失敗体験は成功体験に勝ると私が感じる大きな原因として思い当たる人物が二人おり、一人はダイエー創業者の中内功と、もう一人はフランチャイズの帝王と呼ばれた日本マクドナルド創業者の藤田田です。
二人とも業績好調時はカリスマ経営者と呼ばれましたが晩年は誤った決断から会社の業績を大きく低迷させ、友人曰く「カリスマ経営者というのは紙一重」という言葉の通りに過去のあまりの成功体験からシフトすることが出来ずに終わってしまったと感じさせられる人物です。
現在、一般にビジネス書と呼ばれる経営者の自叙伝などは基本的に自身の成功体験場仮が書かれているように思えます。しかし私はそういった成功体験よりも失敗体験をの方が教訓を探す上では価値は高いと見ており、こういった本が本当に参考になるんかいなとよく思います。成功、失敗するのは誰にでもあります。しかしそこからそれぞれの要因を見極め分析するのはいささか玄人仕事で安易に行うべきではないというのが、今日の私の意見です。
2011年1月14日金曜日
菅改造内閣について
さて政治ニュースがこのところなくて日干し気味でしたが、今日になってようやく菅直人政権が内閣改造を行ったというニュースが入ってきました。
・菅再改造内閣が発足=枝野官房長官ら新任4人―首相、社会保障・税改革を推進(時事通信)
今回の改造内閣の顔ぶれですが注目すべきは退任となった官房長官の仙谷氏、国土交通相の馬淵氏、国家公安委員長の岡崎氏の三人で、岡崎氏はともかくよく仙石氏をスパッと切ったもんだなというのが私の正直な感想です。岡崎氏については公安のテロ対策情報データが流出した際の記者会見で、本来なら何が何でも流出したデータはテロ対策のデータだったと認めてはならないところをすぐに暗に認めてしまい、その失敗といい資質の問題といい退任は妥当だと思いましたが、仙石氏と馬渕氏については留任、もしくは横滑りがあるかと思っていただけにちょっと意外でした。
二人とも今回の退任原因は尖閣諸島沖漁船衝突事故の対応が原因で野党に不信任を突きつけられたことからでしょうが、不信任決議を原因に退任するとしたらあの事件での対応は問題だったと民主党自ら認めてしまうことになりかねないために何が何でも突っぱねるだろうと私は見ていました。特に仙石氏については「仙石内閣」と呼ばれるまでに影響力を行使していただけに菅氏も切りづらいのではないかと考えていました。
私自身は仙石氏は公務員改革を見事に叩き潰したなどといった点でそれほどいい印象を持ってはいなかったものの、近年の政治家並びに官房長官としては異様なくらいに打たれ強さがあり下手な人物に変わるくらいならまだ一つの姿勢を維持する人間がこういう職についているべきだろうと評価していました。ただ方々でも言われていますが代わった所で菅政権への影響力はまだ残すでしょうし、また野党対策を考えるなら案外ここで切った菅首相の決断の方が正しいかもしれません。
そんな仙石氏に代わって官房長官に就任したのは枝野幸男氏ですが、枝野氏はかつてより菅首相とは昵懇の仲でこれ以前からも入閣予想が出ていたにもかかわらずなかなか入閣しなかったことを考えるとようやくかという就任です。官房長官は首相との相性あっての職ですからこの枝野氏の官房長官就任にそれほど悪い印象は覚えてはいませんが、仙石氏も官房長官になる前となった後で物凄い発言内容が変わってますし、枝野氏もこれからダークサイドに落ちたりするのかなと要らない心配をしております。
ちなみに枝野氏については産経新聞が、中国メディアは対中強硬派が官房長官に就任したと報じていると紹介してますが、試しに本当かどうかソースを調べて見たら人民網のこの記事を引用しているのがわかりました。中国語ページですが書いてあることはまんま産経の記事そのままで、ただ翻訳するだけのこんな作業で金もらえると思ったらちょっとうらやましいです。人の事いえないかもしれないけど。
ただこうした官房長官の交代に並び今回の改造の目玉となったのはやはり、立ち上がれ日本を離党してまで参画してきた与謝野氏でしょう。与謝野氏についてはいちいち書くまでもないですが昨年に、「このまま民主党政権が続いたら日本は終わる」と言って自民党を離党して平沼氏と一緒に立ち上がれ日本を立ち上げましたが(いちいち書き辛い政党名だなぁ)、去年末の民主党との連立騒動が冷めやらぬこの最中に急転直下の離党+内閣入りです。与謝野氏についてはその政策知識は私も高く評価している上に菅首相同様に消費税増税論者であり、経済財政担当相への今回の就任は道義性を除けばそれほど悪くないんじゃないかと思います。
最後に留任した閣僚についても一言書いておこうと思うのが、元鳥取県知事で民間からの起用になる片山総務相です。片山氏の発言は以前から聞いててなるほどと思うことも多く、最小人口県とはいえ鳥取県での実務経験、実績もあることから前回改造時からのこの起用は高く評価しているのですが、残念なことと言えばそうですがその総務相としての実績よりも片山氏についてはこのニュースが一番私の目を引きました。
・片山総務相が再婚 お相手は鳥取知事時代の秘書役県職員(朝日新聞)
このニュースを初めて見た時はリアルに、「(;゚Д゚)エエー」って顔になりました。
だって再婚と言ったって相手は鳥取県庁の職員だった女性で、ってことは県知事時代からそういう仲だったの? という感じでいろいろと疑問が次々に湧き出してくるニュースなんですが、鳥取とは自動車の教習合宿で訪れてから私とやけに縁が続く県で、鳥取在住の友人に早速この件を確かめてみるとやはりお膝元なだけに友人の家族間でも大きな話題になったそうです。ちなみにそいつの親父が言うには、「俺はこのニュースを見たときあの人(別の女性県庁職員)と再婚したかと思ったんだけど、違ったなぁ」と洩らしているだけに、片山氏は知事時代に県庁内で相当浮名を馳せていたのかもしれません。
・菅再改造内閣が発足=枝野官房長官ら新任4人―首相、社会保障・税改革を推進(時事通信)
今回の改造内閣の顔ぶれですが注目すべきは退任となった官房長官の仙谷氏、国土交通相の馬淵氏、国家公安委員長の岡崎氏の三人で、岡崎氏はともかくよく仙石氏をスパッと切ったもんだなというのが私の正直な感想です。岡崎氏については公安のテロ対策情報データが流出した際の記者会見で、本来なら何が何でも流出したデータはテロ対策のデータだったと認めてはならないところをすぐに暗に認めてしまい、その失敗といい資質の問題といい退任は妥当だと思いましたが、仙石氏と馬渕氏については留任、もしくは横滑りがあるかと思っていただけにちょっと意外でした。
二人とも今回の退任原因は尖閣諸島沖漁船衝突事故の対応が原因で野党に不信任を突きつけられたことからでしょうが、不信任決議を原因に退任するとしたらあの事件での対応は問題だったと民主党自ら認めてしまうことになりかねないために何が何でも突っぱねるだろうと私は見ていました。特に仙石氏については「仙石内閣」と呼ばれるまでに影響力を行使していただけに菅氏も切りづらいのではないかと考えていました。
私自身は仙石氏は公務員改革を見事に叩き潰したなどといった点でそれほどいい印象を持ってはいなかったものの、近年の政治家並びに官房長官としては異様なくらいに打たれ強さがあり下手な人物に変わるくらいならまだ一つの姿勢を維持する人間がこういう職についているべきだろうと評価していました。ただ方々でも言われていますが代わった所で菅政権への影響力はまだ残すでしょうし、また野党対策を考えるなら案外ここで切った菅首相の決断の方が正しいかもしれません。
そんな仙石氏に代わって官房長官に就任したのは枝野幸男氏ですが、枝野氏はかつてより菅首相とは昵懇の仲でこれ以前からも入閣予想が出ていたにもかかわらずなかなか入閣しなかったことを考えるとようやくかという就任です。官房長官は首相との相性あっての職ですからこの枝野氏の官房長官就任にそれほど悪い印象は覚えてはいませんが、仙石氏も官房長官になる前となった後で物凄い発言内容が変わってますし、枝野氏もこれからダークサイドに落ちたりするのかなと要らない心配をしております。
ちなみに枝野氏については産経新聞が、中国メディアは対中強硬派が官房長官に就任したと報じていると紹介してますが、試しに本当かどうかソースを調べて見たら人民網のこの記事を引用しているのがわかりました。中国語ページですが書いてあることはまんま産経の記事そのままで、ただ翻訳するだけのこんな作業で金もらえると思ったらちょっとうらやましいです。人の事いえないかもしれないけど。
ただこうした官房長官の交代に並び今回の改造の目玉となったのはやはり、立ち上がれ日本を離党してまで参画してきた与謝野氏でしょう。与謝野氏についてはいちいち書くまでもないですが昨年に、「このまま民主党政権が続いたら日本は終わる」と言って自民党を離党して平沼氏と一緒に立ち上がれ日本を立ち上げましたが(いちいち書き辛い政党名だなぁ)、去年末の民主党との連立騒動が冷めやらぬこの最中に急転直下の離党+内閣入りです。与謝野氏についてはその政策知識は私も高く評価している上に菅首相同様に消費税増税論者であり、経済財政担当相への今回の就任は道義性を除けばそれほど悪くないんじゃないかと思います。
最後に留任した閣僚についても一言書いておこうと思うのが、元鳥取県知事で民間からの起用になる片山総務相です。片山氏の発言は以前から聞いててなるほどと思うことも多く、最小人口県とはいえ鳥取県での実務経験、実績もあることから前回改造時からのこの起用は高く評価しているのですが、残念なことと言えばそうですがその総務相としての実績よりも片山氏についてはこのニュースが一番私の目を引きました。
・片山総務相が再婚 お相手は鳥取知事時代の秘書役県職員(朝日新聞)
このニュースを初めて見た時はリアルに、「(;゚Д゚)エエー」って顔になりました。
だって再婚と言ったって相手は鳥取県庁の職員だった女性で、ってことは県知事時代からそういう仲だったの? という感じでいろいろと疑問が次々に湧き出してくるニュースなんですが、鳥取とは自動車の教習合宿で訪れてから私とやけに縁が続く県で、鳥取在住の友人に早速この件を確かめてみるとやはりお膝元なだけに友人の家族間でも大きな話題になったそうです。ちなみにそいつの親父が言うには、「俺はこのニュースを見たときあの人(別の女性県庁職員)と再婚したかと思ったんだけど、違ったなぁ」と洩らしているだけに、片山氏は知事時代に県庁内で相当浮名を馳せていたのかもしれません。
2011年1月11日火曜日
今年の景気について
一応政治系ブログなんだから何かしら政治ニュースについて書かなければとこのごろ思うものの、一体何を書けばいいのかと思うくらい最近は政治ニュースが不振です。通常国会前なので仕方のないことでしょうが、ネットで見る限りこのところ報道されていることといったら民主党の小沢氏か仙石氏が辞めるか辞めないかといった人事の去就ばかりで、あまり政治議題に関する報道は目に入りません。こういうのを見ていると、まだまだ日本はどうでもいいことしか話題にならなくて余裕あるなという気がします。
そんなわけで今日は、ある程度適当な事いうのが許されると勝手に思っている経済こと今年の景気について書いてこうと思います。
こと株価に関しては年が明けてからは割と好調でこのところ日経平均は一万円台で推移しています。この株価の上昇要因はアメリカの株価が上がり失業率にも改善が見られて来たことが原因だと言われていますが、日本の株価というのは日本人投資家の力ではなく海外投資家の力で変わるものなのでアメリカの好影響が反映されているという見方に同感です。ただ日本経済自体がある意味地面を這いつくしたというか、切るところまで切ったのでこれ以上悪くなりようがないという逆説的な評価も出来るので去年よりはまだ今年の景気はマシになる可能性が高いように思えます。
とは言うものの、依然として新卒の就職率は悪いままですし社会保障にかかる国家支出も今後増大することを考えるとまだまだ先行きは明るいとはいえません。特に若者の立場から言わせてもらうと自分たちの世代は二世帯住宅ローンのように上の世代のツケを払わされているだけでなく(自分は今一切日本に税金払ってないが)、やれ草食系だとかゆとりだとか言われたりしてむかっ腹が立って仕方がありません。この前もどう反応していいかわからないニュースで、最近のゲームセンターは若者より時間と金をもてあましている中高年が多く集まり、ゲームセンター側も彼らを顧客ターゲットにした営業を行い始めたというものがありましたが、実際に日本にいた頃にゲームセンター行くと中高年が多いように私も思っており、ちょっと言いすぎな気もしますが、若者の居場所がここまでなくなったのかという気が少しします。
業種別の話をすると、まず言えるのは2000年代中盤に栄華を誇った自動車業界は今後はあまり先行きがよくないと言わざるを得ません。エコカー減税が終了したこともありますし、何よりも今後ますます電気自動車が増えていくことを考えるとエンジン、マフラー、ギア、ラジエーターといった主要部品はすべて必要なくなり、裾野の広い業界なだけに、今年一年ではともかく十年スパンで考えるとこの方面に従事してきた人にとってはビッグバンに近い影響を被る可能性が高いでしょう。
では今後はどこの業界がよくなるかですが向こう一年で間違いなく強盛を誇るのは家電小売業界で、前の陽月秘話時代にも書きましたが家電メーカーの社員を新装開店時に呼んで働かせたり、家電以外に店舗内のテナントで服飾店や飲食店を入れたりなど、あれだけ値下げ競争が激しいのによくもまぁここまでやれるもんだなと思うくらい羽振りがいいです。働いている従業員は大変でしょうが、実際に家電屋で働いている小学校時代の同級生は何度も辞めようとしては思いとどまって続けてます。
今日はあまりやる気がないのもあって適当に文字数を埋めるような記事を現在書いていますが、経済の話を行うつもりであれば本来ならこういった枝葉末節の内容は書かないに越したことはありません。株価がどうとかこうとか、どの業界がいいかと言うのは全体の経済を考える上ではほとんど意味がなく、大局的な見地で物を見ないと大きな手の上で踊るだけです。
では大局的な見地で言えば何が言えるかですが、現時点で私が言えるとしたら今の日本経済の最大の問題点は高級中華料理屋よりも「餃子の王将」が流行っているということに尽きます。別に「餃子の王将」に恨みを持っているわけでなくもののたとえですが、要するに高い価格には客が全く寄り付かずに安い価格に客が押し寄せるデフレ状況が一番問題というわけです。
前に友人にも簡単に講義しましたがそもそもの不況、ひいては自殺や鬱などといった社会問題もひっくるめて根本的な原因はデフレにあって、このデフレをどうにかしない限りはいくら金をばら撒いても意味がないように私は思います。最近は低い価格が定着してしまったためかデフレという言葉も以前ほど聞かれなくなりましたが、日本の経済を考える上で一瞬たりとも忘れてはならないとのが、今日の私の意見です。
そんなわけで今日は、ある程度適当な事いうのが許されると勝手に思っている経済こと今年の景気について書いてこうと思います。
こと株価に関しては年が明けてからは割と好調でこのところ日経平均は一万円台で推移しています。この株価の上昇要因はアメリカの株価が上がり失業率にも改善が見られて来たことが原因だと言われていますが、日本の株価というのは日本人投資家の力ではなく海外投資家の力で変わるものなのでアメリカの好影響が反映されているという見方に同感です。ただ日本経済自体がある意味地面を這いつくしたというか、切るところまで切ったのでこれ以上悪くなりようがないという逆説的な評価も出来るので去年よりはまだ今年の景気はマシになる可能性が高いように思えます。
とは言うものの、依然として新卒の就職率は悪いままですし社会保障にかかる国家支出も今後増大することを考えるとまだまだ先行きは明るいとはいえません。特に若者の立場から言わせてもらうと自分たちの世代は二世帯住宅ローンのように上の世代のツケを払わされているだけでなく(自分は今一切日本に税金払ってないが)、やれ草食系だとかゆとりだとか言われたりしてむかっ腹が立って仕方がありません。この前もどう反応していいかわからないニュースで、最近のゲームセンターは若者より時間と金をもてあましている中高年が多く集まり、ゲームセンター側も彼らを顧客ターゲットにした営業を行い始めたというものがありましたが、実際に日本にいた頃にゲームセンター行くと中高年が多いように私も思っており、ちょっと言いすぎな気もしますが、若者の居場所がここまでなくなったのかという気が少しします。
業種別の話をすると、まず言えるのは2000年代中盤に栄華を誇った自動車業界は今後はあまり先行きがよくないと言わざるを得ません。エコカー減税が終了したこともありますし、何よりも今後ますます電気自動車が増えていくことを考えるとエンジン、マフラー、ギア、ラジエーターといった主要部品はすべて必要なくなり、裾野の広い業界なだけに、今年一年ではともかく十年スパンで考えるとこの方面に従事してきた人にとってはビッグバンに近い影響を被る可能性が高いでしょう。
では今後はどこの業界がよくなるかですが向こう一年で間違いなく強盛を誇るのは家電小売業界で、前の陽月秘話時代にも書きましたが家電メーカーの社員を新装開店時に呼んで働かせたり、家電以外に店舗内のテナントで服飾店や飲食店を入れたりなど、あれだけ値下げ競争が激しいのによくもまぁここまでやれるもんだなと思うくらい羽振りがいいです。働いている従業員は大変でしょうが、実際に家電屋で働いている小学校時代の同級生は何度も辞めようとしては思いとどまって続けてます。
今日はあまりやる気がないのもあって適当に文字数を埋めるような記事を現在書いていますが、経済の話を行うつもりであれば本来ならこういった枝葉末節の内容は書かないに越したことはありません。株価がどうとかこうとか、どの業界がいいかと言うのは全体の経済を考える上ではほとんど意味がなく、大局的な見地で物を見ないと大きな手の上で踊るだけです。
では大局的な見地で言えば何が言えるかですが、現時点で私が言えるとしたら今の日本経済の最大の問題点は高級中華料理屋よりも「餃子の王将」が流行っているということに尽きます。別に「餃子の王将」に恨みを持っているわけでなくもののたとえですが、要するに高い価格には客が全く寄り付かずに安い価格に客が押し寄せるデフレ状況が一番問題というわけです。
前に友人にも簡単に講義しましたがそもそもの不況、ひいては自殺や鬱などといった社会問題もひっくるめて根本的な原因はデフレにあって、このデフレをどうにかしない限りはいくら金をばら撒いても意味がないように私は思います。最近は低い価格が定着してしまったためかデフレという言葉も以前ほど聞かれなくなりましたが、日本の経済を考える上で一瞬たりとも忘れてはならないとのが、今日の私の意見です。
寿命の尽きない時代に向けて その二
昨日の記事に続き、技術が発達して不老不死が実現する世界について考察を行います。
昨日は不老不死のうち不老のみ実現したらという仮想のもと、人体のサイボーク、クローン化が行われる世界について考えてみましたが、これとは逆に老化はありうるけれども不死である世界についてはあまり考察する必要がないかと思います。何故かと言うと不老ではないけれども不死になるということに魅力を感じる人間が多いとは思えず、よっぽど酔狂な人か脳味噌単体となってでも知識を集めたがる人でない限りはこんなことしようと思わないでしょう。
それでは今日はどんな場合を想定するかですが、いよいよ本番というべきか不老不死が完全に実現する世界についてです。
昨日の記事でも書きましたが人間は恐らく文明を持つ以前からこの不老不死というテーマについてその思考をめぐらしてきたことだと思います。不老不死が当たり前なギリシャ神話の神々はもとより日本においては人魚伝説と組み合わさった不老不死の八百比丘尼の話や、古事記において食べると不死身になれる常世の実を探しに行くスクナビコナ(都市伝説の小さいおっさんとは彼のことだろうか?)の話など不老不死に関する話は枚挙に暇がありません。
そういった不老不死が出てくる話で最近に私が読んだというかはまったのに、漫画家の弐瓶勉氏による「BIOMEGA」があります。現代漫画家の中ではハードSFを描かせると恐らく右に出る人はいない弐瓶氏ですが、基本的にこの人の漫画の主人公や登場人物は不老不死であるのが当たり前で最新作の「シドニアの騎士」でも数百歳の人物がごろごろ出てきますが、今回取り上げたい「BIOMEGA」では最高で600歳、次点で300歳の人物が出てきます。どちらも医療技術の発達を受け延命手術を行いつつ生き続けているのですが、作中ではさらに効率的で無限に生き続けられる可能性を持つ技術が見つかったことからいろいろと抗争が激しくなっていき、その技術に対して対立する二人が以下のような会話を行う場面があります。
「無限に人が生き続けても、星が人で溢れ返るだけだ」
「人口抑制こそが、人類の理想形だ」
ちょっと原作が手元になく上記の台詞は私の記憶によるもので不確かですが、不老不死が実現する世の中について実に的確な一言だと思って最近あちこちに聞かせまわっております。
不老不死が実現するとなると単純に人口が爆発することとなります。現時点ですら医療技術の発達、防疫の普及によって地球が持つ資源以上に人間が溢れてしまって(先進国並みの生活が世界中で行われたら資源が持たない)いますが、不老不死が確立されるのであればそういった資源がどうとかと言っている場合じゃ済まないでしょう。そのため不老不死が実現するとなれば必然的に、その不老不死の処置を受けられる人間を限定するか人間の生殖を厳しく制限して人口を抑制せざるを得ません。
可能性としてありうるのは前者の不老不死処置者の限定の方で、先ほどちょこっと書いた「シドニアの騎士」では特別にそのような処置を受け続けられる「不死の船員会」というメンバーが出てきますが(っていうか、そいつら以外はほぼクローンで光合成するし)、社会的に重要な地位や役割を果たすもののみ、場合によってはその処置を受けられるだけのお金を持っている人間に不老不死技術が独占される可能性が高いと私は見ています。私自身はそれほど魅力を感じないので気にしませんがこれだと中には反感を持つ人も出てきて、不老不死者に対してむやみやたらな攻撃が加えられたりするかもしれません。
また単純に適者生存というわけじゃありませんが、そのような不老不死処置者の選定において恐らく重要視されると思われる要素として遺伝子が挙げられて来ます。サラブレッドじゃありませんがより優秀な遺伝子を残すことで人類の質を向上させようという考えが浸透するかもしれません。これは不老不死までは行かずとも、世界人口が深刻なほど膨張した際にも生殖の限定方法として使われる可能性があります。
ただもし人類がそれこそ宇宙内でも活動できるようになったり、無尽蔵なエネルギーを得られた場合は案外簡単に人類全体が不老不死化するかもしれません。それはそれで結構かもしれませんがもしそうなった場合に私が想像することとしては、殺人や事故死といったものへの忌避感が極端に高まるのではないかと思います。
それこそ脳味噌吹っ飛ばされても蘇生が可能になるまで技術が高まるのであれば話は違いますが、不老不死者が死ぬとしたら殺人など外部的要因に限定されるようになればその死への恐怖は今以上に劇的に高まることでしょう。となるとどうなるかですが、やはり起こるとしたらそういった殺人をやらかしそうな人間を徹底的に淘汰するのではないでしょうか。それこそちょっとした行動や発言、もしくは過去の殺人者の傾向と一致する人間を見つける傍から徹底的に隔離、排除する密告社会化していくような気がします。それがいいかどうかは別として。
私自身は人生は細く長くよりも太く短くを信条としており、二十歳くらいまでで生きれれば御の字だと思うほどだったのでこの不老不死にはまだそれほど歳がいっていないのもあるでしょうがあまり魅力は感じません。ただ興味があろうとなかろうと現実に人間の平均寿命は伸び続けており、今後もさらに伸びることを考えるとこうしたテーマについて何かしら準備というか考える必要があるだろうと思ってこうして書いてみることにしました。見る人にとってはほかの記事よりもつまらないと感じられるかもしれませんが、たまにはこういうのを書かないと思考が現実側に偏ってしまうので……。
昨日は不老不死のうち不老のみ実現したらという仮想のもと、人体のサイボーク、クローン化が行われる世界について考えてみましたが、これとは逆に老化はありうるけれども不死である世界についてはあまり考察する必要がないかと思います。何故かと言うと不老ではないけれども不死になるということに魅力を感じる人間が多いとは思えず、よっぽど酔狂な人か脳味噌単体となってでも知識を集めたがる人でない限りはこんなことしようと思わないでしょう。
それでは今日はどんな場合を想定するかですが、いよいよ本番というべきか不老不死が完全に実現する世界についてです。
昨日の記事でも書きましたが人間は恐らく文明を持つ以前からこの不老不死というテーマについてその思考をめぐらしてきたことだと思います。不老不死が当たり前なギリシャ神話の神々はもとより日本においては人魚伝説と組み合わさった不老不死の八百比丘尼の話や、古事記において食べると不死身になれる常世の実を探しに行くスクナビコナ(都市伝説の小さいおっさんとは彼のことだろうか?)の話など不老不死に関する話は枚挙に暇がありません。
そういった不老不死が出てくる話で最近に私が読んだというかはまったのに、漫画家の弐瓶勉氏による「BIOMEGA」があります。現代漫画家の中ではハードSFを描かせると恐らく右に出る人はいない弐瓶氏ですが、基本的にこの人の漫画の主人公や登場人物は不老不死であるのが当たり前で最新作の「シドニアの騎士」でも数百歳の人物がごろごろ出てきますが、今回取り上げたい「BIOMEGA」では最高で600歳、次点で300歳の人物が出てきます。どちらも医療技術の発達を受け延命手術を行いつつ生き続けているのですが、作中ではさらに効率的で無限に生き続けられる可能性を持つ技術が見つかったことからいろいろと抗争が激しくなっていき、その技術に対して対立する二人が以下のような会話を行う場面があります。
「無限に人が生き続けても、星が人で溢れ返るだけだ」
「人口抑制こそが、人類の理想形だ」
ちょっと原作が手元になく上記の台詞は私の記憶によるもので不確かですが、不老不死が実現する世の中について実に的確な一言だと思って最近あちこちに聞かせまわっております。
不老不死が実現するとなると単純に人口が爆発することとなります。現時点ですら医療技術の発達、防疫の普及によって地球が持つ資源以上に人間が溢れてしまって(先進国並みの生活が世界中で行われたら資源が持たない)いますが、不老不死が確立されるのであればそういった資源がどうとかと言っている場合じゃ済まないでしょう。そのため不老不死が実現するとなれば必然的に、その不老不死の処置を受けられる人間を限定するか人間の生殖を厳しく制限して人口を抑制せざるを得ません。
可能性としてありうるのは前者の不老不死処置者の限定の方で、先ほどちょこっと書いた「シドニアの騎士」では特別にそのような処置を受け続けられる「不死の船員会」というメンバーが出てきますが(っていうか、そいつら以外はほぼクローンで光合成するし)、社会的に重要な地位や役割を果たすもののみ、場合によってはその処置を受けられるだけのお金を持っている人間に不老不死技術が独占される可能性が高いと私は見ています。私自身はそれほど魅力を感じないので気にしませんがこれだと中には反感を持つ人も出てきて、不老不死者に対してむやみやたらな攻撃が加えられたりするかもしれません。
また単純に適者生存というわけじゃありませんが、そのような不老不死処置者の選定において恐らく重要視されると思われる要素として遺伝子が挙げられて来ます。サラブレッドじゃありませんがより優秀な遺伝子を残すことで人類の質を向上させようという考えが浸透するかもしれません。これは不老不死までは行かずとも、世界人口が深刻なほど膨張した際にも生殖の限定方法として使われる可能性があります。
ただもし人類がそれこそ宇宙内でも活動できるようになったり、無尽蔵なエネルギーを得られた場合は案外簡単に人類全体が不老不死化するかもしれません。それはそれで結構かもしれませんがもしそうなった場合に私が想像することとしては、殺人や事故死といったものへの忌避感が極端に高まるのではないかと思います。
それこそ脳味噌吹っ飛ばされても蘇生が可能になるまで技術が高まるのであれば話は違いますが、不老不死者が死ぬとしたら殺人など外部的要因に限定されるようになればその死への恐怖は今以上に劇的に高まることでしょう。となるとどうなるかですが、やはり起こるとしたらそういった殺人をやらかしそうな人間を徹底的に淘汰するのではないでしょうか。それこそちょっとした行動や発言、もしくは過去の殺人者の傾向と一致する人間を見つける傍から徹底的に隔離、排除する密告社会化していくような気がします。それがいいかどうかは別として。
私自身は人生は細く長くよりも太く短くを信条としており、二十歳くらいまでで生きれれば御の字だと思うほどだったのでこの不老不死にはまだそれほど歳がいっていないのもあるでしょうがあまり魅力は感じません。ただ興味があろうとなかろうと現実に人間の平均寿命は伸び続けており、今後もさらに伸びることを考えるとこうしたテーマについて何かしら準備というか考える必要があるだろうと思ってこうして書いてみることにしました。見る人にとってはほかの記事よりもつまらないと感じられるかもしれませんが、たまにはこういうのを書かないと思考が現実側に偏ってしまうので……。
2011年1月10日月曜日
寿命の尽きない時代に向けて その一
アメリカのブッシュ政権ときたら先の見えない泥沼化したイラク戦争を始めるなどその評価はアメリカ本国でもあまり高くはありませんが、真偽は不確かですが以前に聞いた話で、唯一アンチエイジング治療の研究に予算を割いたことは評価されているといううわさを耳にしたことがあります。
このアンチエイジングという言葉ですが五年くらい前であれば多分誰も知らない言葉だったと思いますが、みんながみんな知っているわけではないもののこの数年間で随分と普及はした感があります。この言葉の意味は英訳そのままで反老化、つまり老化を防いだり寿命を延ばしたりする治療や研究の事を指しております。
近頃は日本においてもアンチエイジングを謳ったクリニックや医院なども現れるなど急速に普及しており、またこの方面の研究で大きな可能性を持つips細胞を京大の山中教授のチームが発見するなどあながち根拠なく広まっているわけではありません。元々日本人自体が世界的にも長寿の民族で本人らも寿命にやけにこだわるところがあり、滅茶苦茶な制度にもかかわらず生涯受け取る年金の額を若いうちからあれこれ計算するなど長生きに対して考える下地があるのかも知れません。
さてこのアンチエイジングですが、私の私見を述べさせてもらえば今後の研究によって人間の寿命が劇的に伸びる可能性は高いと見ております。ips細胞一つとっても慢性病の根治治療に大きな可能性を秘めており、また各種の薬剤の発達によって現時点でも見た目を若くする技術は以前とは比べ物にならないほどの進歩を遂げており、さすがに私が生きている間に不老不死までは行かないでしょうが、それこそ平均寿命が百歳を越えるのが当たり前の時代がやってくるかもしれません。
もちろんこうした技術の発達は歓迎すべきなのでしょうが、私は現時点でいささか、技術の発達に対してその技術を用いる器というか哲学的議論が遅れているような気がします。基本的に技術が思想や想定を超えると、たとえるなら三国時代にビームを撃てる人がいたりすると物事がちょっとおかしくなってしまうように、ある程度哲学的議論は技術に対して専攻しておく必要があると考えています。そこでちょっと気が早いような気もしますが、「不老不死が成立する時代」についていくつか考えを述べようと思います。
不老不死について考えるといった矢先ですが、まず不老と不死は分けて考える必要があるでしょう。たとえば不老ではあるものの寿命があって不死ではないという場合か、限りなく寿命が長くて不死に近いものの不老ではない場合かですが、両者ともにSF小説はもとより神話においてすらも題材に取られて描かれたりします。そういった空想のお話は大抵悲劇的結末で終わるのがオチで後者なんかは強欲な金持ちがよく妙な延命手術とかしてあーだこーだする展開ですが、今現在で近いうちに実現するとしたら前者の方でしょう。要するに見かけはある程度若さを保っていられるものの、寿命自体は多少は伸びるとしても大体現在の平均寿命で死んでしまうというような話です。
現実のアンチエイジング治療研究も大体はこっちを想定しており、寿命自体を伸ばすことよりも如何に若さを保つかという技術の開発が行われております。恐らくほかの方もそうでしょうがいくら長生きできるからといって体が弱って寝たきりのままでは意味がなく、それよりも八十歳や九十歳でも元気で走れ回れる方が生きている価値が高いと感じるでしょう。
私自身はこのような未来が実現するとしたら、それはきっと肉体の半機械化ことサイボーグ化が実現する未来だろうと見ています。すでに盲目の人の視神経とカメラを繋ぐことで視覚を一部回復する技術は実現していますし、今後も漫画の「攻殻機動隊」や「鋼の錬金術師」などのように肉体の一部を無機機械化する技術は高まっていくと予想されるのですが、その際に引っかかるというかどうしても代替出来ないだろうと思う組織として脳が挙げられます。思考や記憶を司っており、いわば魂に最も近い肉体組織の脳はさすがに機械化することは現時点では想像もつかず(漫画の「銃夢」ではコンピューターチップ化してたが)、肉体自体は機械化、もしくはクローンに脳を換装することで半永久的に保つことは出来るとしても脳だけは取替えが利きません。もちろん脳自体もたんぱく質で出来ているので細胞として寿命があり、最近は治療法も進んできてアルツハイマーなどについては現時点で根治治療は出来ないものの病状の進行はほぼ止められるレベルまで来ておりますが加齢による衰えはまだ克服しておらず、肉体は不老不死を保てるとしても結局は脳の寿命がその人の寿命(ほぼ現時点の寿命)に落ち着くのではないかと考えています。
多分近い未来に起こるとしたら上記のような事態でしょうが、このような事態で想定される問題としては果たして人間は死を受け入れられるか否かです。普通は寿命とともに徐々に肉体が弱っていって周囲も本人も死を徐々に実感していくものですが、肉体が不老不死では果たしてそうやすやすと受け入れられるものなのか私には疑問です。本人自身も脳の衰えを受けてやや整合の取れない行動を繰り返すようになっても肉体は元気なままですし、自分が近いうちに死ぬということを認知できるのか、場合によってはそれが認知できないまま元気に動き回り続けるということも考えられます。
こう言葉で表現するのは難しいですが、それが幸せなのか不幸なのかというよりそれでいいのかという風に私は思います。
多分こうなるだろうとは思ってましたがまだまだ書ききれておりませんので、続きはまた明日以降に書きます。平日にこんなややこしい記事に取り組むべきじゃなかったな。
あと余談ですが、やはり体力のある方が脳の痴呆症状を起こすと世話をする方の負担は凄まじいそうです。うちのおふくろの友人も生前に父親が痴呆を起こしたそうなのですが、戦時中に片腕を失ったにもかかわらず夜中に自転車でどこかへ行ってしまうなど大変だったそうです。この話に限るわけじゃないですが、おふくろの故郷の阿久根は自分の想像を超える話に満ち溢れている気がします。
このアンチエイジングという言葉ですが五年くらい前であれば多分誰も知らない言葉だったと思いますが、みんながみんな知っているわけではないもののこの数年間で随分と普及はした感があります。この言葉の意味は英訳そのままで反老化、つまり老化を防いだり寿命を延ばしたりする治療や研究の事を指しております。
近頃は日本においてもアンチエイジングを謳ったクリニックや医院なども現れるなど急速に普及しており、またこの方面の研究で大きな可能性を持つips細胞を京大の山中教授のチームが発見するなどあながち根拠なく広まっているわけではありません。元々日本人自体が世界的にも長寿の民族で本人らも寿命にやけにこだわるところがあり、滅茶苦茶な制度にもかかわらず生涯受け取る年金の額を若いうちからあれこれ計算するなど長生きに対して考える下地があるのかも知れません。
さてこのアンチエイジングですが、私の私見を述べさせてもらえば今後の研究によって人間の寿命が劇的に伸びる可能性は高いと見ております。ips細胞一つとっても慢性病の根治治療に大きな可能性を秘めており、また各種の薬剤の発達によって現時点でも見た目を若くする技術は以前とは比べ物にならないほどの進歩を遂げており、さすがに私が生きている間に不老不死までは行かないでしょうが、それこそ平均寿命が百歳を越えるのが当たり前の時代がやってくるかもしれません。
もちろんこうした技術の発達は歓迎すべきなのでしょうが、私は現時点でいささか、技術の発達に対してその技術を用いる器というか哲学的議論が遅れているような気がします。基本的に技術が思想や想定を超えると、たとえるなら三国時代にビームを撃てる人がいたりすると物事がちょっとおかしくなってしまうように、ある程度哲学的議論は技術に対して専攻しておく必要があると考えています。そこでちょっと気が早いような気もしますが、「不老不死が成立する時代」についていくつか考えを述べようと思います。
不老不死について考えるといった矢先ですが、まず不老と不死は分けて考える必要があるでしょう。たとえば不老ではあるものの寿命があって不死ではないという場合か、限りなく寿命が長くて不死に近いものの不老ではない場合かですが、両者ともにSF小説はもとより神話においてすらも題材に取られて描かれたりします。そういった空想のお話は大抵悲劇的結末で終わるのがオチで後者なんかは強欲な金持ちがよく妙な延命手術とかしてあーだこーだする展開ですが、今現在で近いうちに実現するとしたら前者の方でしょう。要するに見かけはある程度若さを保っていられるものの、寿命自体は多少は伸びるとしても大体現在の平均寿命で死んでしまうというような話です。
現実のアンチエイジング治療研究も大体はこっちを想定しており、寿命自体を伸ばすことよりも如何に若さを保つかという技術の開発が行われております。恐らくほかの方もそうでしょうがいくら長生きできるからといって体が弱って寝たきりのままでは意味がなく、それよりも八十歳や九十歳でも元気で走れ回れる方が生きている価値が高いと感じるでしょう。
私自身はこのような未来が実現するとしたら、それはきっと肉体の半機械化ことサイボーグ化が実現する未来だろうと見ています。すでに盲目の人の視神経とカメラを繋ぐことで視覚を一部回復する技術は実現していますし、今後も漫画の「攻殻機動隊」や「鋼の錬金術師」などのように肉体の一部を無機機械化する技術は高まっていくと予想されるのですが、その際に引っかかるというかどうしても代替出来ないだろうと思う組織として脳が挙げられます。思考や記憶を司っており、いわば魂に最も近い肉体組織の脳はさすがに機械化することは現時点では想像もつかず(漫画の「銃夢」ではコンピューターチップ化してたが)、肉体自体は機械化、もしくはクローンに脳を換装することで半永久的に保つことは出来るとしても脳だけは取替えが利きません。もちろん脳自体もたんぱく質で出来ているので細胞として寿命があり、最近は治療法も進んできてアルツハイマーなどについては現時点で根治治療は出来ないものの病状の進行はほぼ止められるレベルまで来ておりますが加齢による衰えはまだ克服しておらず、肉体は不老不死を保てるとしても結局は脳の寿命がその人の寿命(ほぼ現時点の寿命)に落ち着くのではないかと考えています。
多分近い未来に起こるとしたら上記のような事態でしょうが、このような事態で想定される問題としては果たして人間は死を受け入れられるか否かです。普通は寿命とともに徐々に肉体が弱っていって周囲も本人も死を徐々に実感していくものですが、肉体が不老不死では果たしてそうやすやすと受け入れられるものなのか私には疑問です。本人自身も脳の衰えを受けてやや整合の取れない行動を繰り返すようになっても肉体は元気なままですし、自分が近いうちに死ぬということを認知できるのか、場合によってはそれが認知できないまま元気に動き回り続けるということも考えられます。
こう言葉で表現するのは難しいですが、それが幸せなのか不幸なのかというよりそれでいいのかという風に私は思います。
多分こうなるだろうとは思ってましたがまだまだ書ききれておりませんので、続きはまた明日以降に書きます。平日にこんなややこしい記事に取り組むべきじゃなかったな。
あと余談ですが、やはり体力のある方が脳の痴呆症状を起こすと世話をする方の負担は凄まじいそうです。うちのおふくろの友人も生前に父親が痴呆を起こしたそうなのですが、戦時中に片腕を失ったにもかかわらず夜中に自転車でどこかへ行ってしまうなど大変だったそうです。この話に限るわけじゃないですが、おふくろの故郷の阿久根は自分の想像を超える話に満ち溢れている気がします。
登録:
投稿 (Atom)