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2014年1月13日月曜日

家族関係が異常に希薄な日本民族

 このところ日本人論ばかり書いていていい加減食あたり気味ですが、何故か知らないけどこのところこういうネタばかり思い浮かぶので片っ端から書いていきます。これらの日本人論は基本的に日本人を持ち上げる物ではなくむしろ批判的な内容に染まっていますが昨日に友人から、「好きと嫌いは背中合わせだよ」というようなことを言われ、こういう内容でも参考にしてくれればという思いがもしかしたら自分にあるのかもしれません。
 なお私はプロフィールで専門は国際政治と社会学と書きましたが、大学在学中に在籍した学部は社会学で、その中でも人類学のゼミを受講していました。そういう意味ではこれら日本人論は秦に自分の専門にマッチした内容であるのかもしれません。

 それではそろそろ本題に入りますが最終的な結論から述べると、あくまで私個人の実感ではありますが誇張ではなく、私は日本人ほど家族を大事にしない民族を知りません。もちろん戦争中や宗教上の戒律などがある場合は別ですが、一般的な先進国における家族の中隊を見比べるにつけて日本人が最も家族をないがしろにしているように見えます。

 私が比較対象として考えているのは米国と中国ですが、米国に至っては児童虐待事件なども少なくないものの、普通の家庭では子供が成人した後もハグし合ったりしたり、お互いの誕生パーティを派手に開いたりしていて全く屈託がありません。そして中国に至っては儒教的概念からか明らかに一族意識が強く、旧正月には一族で集まったり、記念日などに親へ贈り物を送ったりする習慣がありその中退は非常に強いです。なお以前に日本で夫婦別姓が議論された際にある議員が、夫婦別姓にしたら日本の家族における紐帯が切れるなどと言って反対しましたが、中国は夫婦別姓にもかかわらず家族仲が日本よりよさそうに見えるのは私くらいなものなのでしょうかね。

 話は戻しますがこうした他国に比べ、残念ながらというべきか日本の家族関係はそれほど濃いようには見えません。子供が幼児であればまだアットホームな光景が浮かびやすいですが、一度成人にもなろうものなら非常に関係が希薄になり、私の周囲でもそれほど顔を合わせたくないという人が少なくありません。
 また仕事との関係でもこうした傾向は顕著で、日本では未だに仕事のために家族を犠牲にすることが美徳というか推奨されます。たとえば野球などでは米国から来た外国人選手が家族が病気などになるとシーズン中でも帰国しますがこれなんか批判の的になるし、このほか家族を優先して残業せずに帰ろうとしたら「やる気あるのか?」とすごまれる職場なんて星の数ほどあるでしょう。多分というか中国人なら家族を優先して仕事をさぼる、もとい頼んだって残業をしないほど自分の気持ちに素直に従うと思います。

 もちろん個別の家庭によってこうした家族意識は千差万別でしょうが、社会全体でみるなら家族という単位が日本では非常に弱く、それが組織への概念意識の低さにもつながっているように見えます。蛇足かもしれませんがやっぱり普段ユースを見ていて、児童虐待を行った親に対する報道というか社会の批判が緩すぎる気がします。今日日一人の殺人でも死刑が判決されるのだし、自分の血を分け、さらには何も抵抗できない子供を殺害する人間に対しては例外なく死刑でもいいと思うし、殺害まで行かずとも暴行を行う親に対してももっと社会が厳しい目を持ってヒートアップした報道がされてもいいような気がします。なんていうか、今の状況は淡白すぎるというか。

 また話は戻しますが、じゃあなんで日本人はこんなに家族意識が低いのか、「団塊が悪い」と団塊の世代のせいにしたら楽っちゃ楽ですしあながち間違っていない気もしますがもう少し考察すると、歴史的には日露戦争が一つの区切りだったかなぁという風に考えてます。
 日露戦争ときたら与謝野晶子で、出征する彼女の弟を心配する短歌が新聞に載ったら与謝野晶子が市民から批判されたという事件がありました。何が言いたいのかというと国家意識を高める教育をしていくうちに外見だけ「お国のために」なんて言っていたらいつの間にか本音と建前が入れ替わってしまい家族意識が微塵もなくなった、というには自分で書いておきながらですがやや強引ですね。

 まぁこの際原因は何だったかは置いといて今後日本人はもっと家族関係を濃くするべきなのか、このままを維持するべきなのかを少し考えます。私自身リアルに親戚と絶縁に踏み切るほど家族関係が希薄な人間の一人ですがそれでも敢えて述べると、本気で少子化対策を進める気があるというのであれば「家族を大事にするべきだ」というような標語を国家レベルで普及させるべきでしょう。
 昨日の記事にも続きますが突き詰めると日本の少子化は家族関係の希薄さが大きな原因のように思え、家族というものを大事にする日本人が増えることによってこの方面の問題が少し改善するような気がしないでありません。なのでそれこそさっきみたいに家族を優先したいのに残業を強制する様な企業に対して目立つところを二、三社くらい業務停止させ、大々的に発表しさえすればみんな一斉に黙るんだし、こういうところに着眼点を置いて政策立てたらどうかなって思います。

 最後に面倒な説法は嫌いな人は読まないことをお勧めしますが、自分の思想の原点は良くも悪くもキリスト教の概念が非常に強いです。そのキリスト教における重要な協議の一つに「隣人愛」という概念があり、これはどの人間に対しても隣人の様に愛せよという説明がよくなされていますがそれ以外の解釈として、ただ隣人を何よりも愛せよという説明のされ方もあります。これはどういう事かというと私の解釈で言えば、距離が近い身内の人間を大事にできない人間がどうして多くの人を大事にできるのか、身近な人から大切に思うことが博愛の精神につながるという風に見ております。

2012年4月27日金曜日

エスカレートしていく行為について

農大ワンゲル部死のしごき事件(オワリナキアクム)

 上記リンク先の記事はかなり古い(1965年)ですが、今も昔も変わらずというか体育会系部活動による死亡事件を紹介したものです。内容を簡単に説明すると、当時の農業大学ワンゲル部である新入生に対して猛烈なしごきが行われた挙句、最終的に死に至らしめたというものなのですが、この記事で私がどこに注目したのかというと事件発生後にある部員が言った、「自分たちも1年のときから同じ訓練を受けてきた」というセリフです。今日はちょっとこのセリフを出発点に、エスカレートしていく行為と現象について考察しようと思います。

 この農大ワンゲル部のケースに限らず、恐らくほとんどの体育会とか運動部では、「俺たちも下級生の頃は同じことされた」もしくは「俺たちの頃はこんなもんじゃなかった」というセリフが4月か5月ごろに飛び交っているかと思います。意味としてはわざわざ説明する必要があるか悩みますが、「自分たちだってされたんだからこれくらいやってもいい」とか、正当化するのなら「ああいうことをされたおかげで今の俺たちがあるんだから、これは悪い行為じゃない」といってパシリとか理不尽な暴力とか、運動技術や体力訓練とは程遠く無関係な行為が横行しているのでしょう。ちょっと厭味ったらしく名前を挙げると、青森山田の野球部なんかはどうだったのか詳しく内実を聞いてみたいものです。
 こうした運動部などで繰り広げられるしごきについて私は前々から、本当に過去に受けた同じ行為を下級生へ行っているのかという疑問を持っていました。というのも小学生の頃によくうちの姉貴や友達と遊んでて強くぶつかったり、罰ゲームを受けた際に、「今少し痛すぎたからこれお返しね」といって反対に叩き直した後、「最初に叩いたのより今のがもっと痛かった」といってまた逆に叩き直し……というのがエンドレスで続くことがよくあり、過去に受けたしごきと今与えているしごきが同じものかと数値的な根拠なしに果たして言い切れるものか、もしかしたら本人らが気づいていないだけで年々しごきがエスカレートしているのではと思う節があるからです。

 最初の農大の事件についていえば、少なくとも言えることは過去に表立った死者は出ていなかったという点です。過去にいなかった死者が出たということは紛れもなくエスカレートしていると言え、人によっては「死んだ新入生の体がそれまでの部員より弱かったからではないか」というかも知れませんが、リンク先の記事で「背中には直径15cmぐらいのえぐれた外傷があり」と書かれている一点を見る限りだと体が強いとか弱いとかいうものじゃなく、やはり行為そのものに問題があったと私は思います。

 話は行為のエスカレートに戻りますが、では一体何故エスカレートするのでしょうか。検証なしでいいのであればいくらでも仮説は挙げられますが、まず思いつくのだと過去に受けた鬱憤というか復讐心が一つの原因ではないかという気がします。それこそ一年生の頃には散々こき使われたから、上級生になったら思う存分下級生をこき使ってやろうという具合に、たまった鬱憤が過去に受けた行為の再現、下手すりゃそれ以上の行為に踏み切らせる動機となり得るのではと言われれば私はなんか納得してしまいます。
 またこれは哲学科にいた友人が、「人間には恐怖する、畏怖する対象になり替わりたいとする欲求がある」ということを過去に言ってました。友人が使った例は暴力的な父親に虐待を受けていたある男性が、成人してその父親が死ぬや、嫌っていたにもかかわらず父親そっくりの振る舞いを取るようになったという話でしたが、なんでも地震を抑圧する力を逆に得ようと考えるところが多かれ少なかれ人間にあるそうで、これもなんとなく納得できる話です。

 もう一つ行為がエスカレートする原因として考えられるのは、単純に慣れじゃないかともいます。これの代表格はエスカレートしていく行為でも代表的ないじめで、伝え聞く限りだと大半のいじめのきっかけは教師による授業中のからかいなどほんの些細なものからだそうです。そうした些細な行為が、「こんなことしても相手は怒らない」と考える良からぬ人間によって、「次はこうしてみよう」とどんどん過激化していくのがいじめの実態だと思いますし、実際にそのような過程を私も目撃してます。いきなり過激な加害行為から始める人間もいないわけではないでしょうが、先ほどのしごきのように過去に行為を受けることで悪い意味で慣れが生まれていくのだと思います。

 上記のような考え方から私は他人に対して、「俺は前にこんなことされた」とか「俺の時の苦労はこんなもんじゃなかった」などという理由付けは一切しないようにしております。自分が受けた行為が今やっている行為と同等のレベルであるかなんてわかるわけなく、自分の基準で物事を測れると勘違いするような人間にはなってはならないと肝に銘じています。もっともそのかわりに他人に作業を指示する時によく、「俺でもできたんだから、きっと君にもできるはずだ(*´∀`)ノ 」などと言って余計なプレッシャーを与えることは多いのですが。
 あと蛇足かもしれませんがよく自分のような比較的若い世代は上の世代から先程の、「俺がお前くらいの頃の苦労はこんなもんじゃなかった」と言われることが誰もがあると思います。もちろん自分の感覚基準で物言ってはいけないとは思うのですが、それこそ年収や昇給カーブが10年前や20年前から格段に落ちていることに加え就職氷河期が続いており、挙句に残業代なんて中小企業だとどこも払わないのが当たり前でブラック企業も平気で上場できる上に、コンプライアンスが重くなったりグローバル化で競争が激しくなったことを考えると、何を根拠にそんなこと言うんだと聞くたびに(# ゚Д゚) ムッ!っとしてしまいます。この自分の意見に対してうちの親父は比較的受け入れてくれていて、「俺らが若い頃は、何もしなくても売り上げ伸びてたしな……」と言ってくれます。ただそんな親父も、

私「うちの会社の人がこの前、団塊の連中は上から指示するだけで自分じゃ何もできねぇんだよ、って言ってたで」
親父「その通りや!」

 とすごい速さで即答してたので、多分苦労してたんだろうという気がします。

2012年3月27日火曜日

孤立死報道について

 このところ孤立死に関する報道が非常に多くなっておりますが、ちょっと気になる点がいくつかあったので自分で調べてみました。一体どういう点が気になったのかというと、報道は異常に多くなっているのは事実だが、果てして本当に孤立死が増えているのかという点です。
 確か調べたのは内閣府のデータだったかと思いますが、結論から言うと確かに孤立死の件数は増えておりました。念のため高齢者人口の増加率などとも比較してみましたがこれを考慮しても有意な数字で伸びており、去年の震災で婚姻件数が増えたというデマとは違い、孤立死が増えているというのは確かな事実なようです。

 このように孤立死が増えているのは事実であることを踏まえた上で言うと、個人的にこの手の報道は非常に虫唾が走るというか気に入りません。こんなことをいちいち報じるくらいならもっと別の方面に人員を使えと言いたいです。この手の報道で何が気に入らないかというと、結局問題の投げっぱなしになることが多いからです。一番代表的なのは小中学校のいじめ問題で、これなんか周期的には大体5年に一回くらいのペースで大きく取り上げられては半年くらいで一旦止み、また次の周期を迎えると大きく取り上げられるといった具合で、騒ぐだけ騒いで全く改善に向かっておりません。さらに言えば、一昨年に流行った死亡届出を出さない年金詐欺の件はどうなったんだと言いたいです。
 多少気が早いようですが今回の孤立死に関する報道もどうも同じようなにおいが感じられ、というよりメディアは大きく騒いでは「もっと周辺地域との交流があれば」とか「民生委員を増やすべきだ」などと意見を上げていますが、なんていうかどれもこれも都合のいい意見ばかりで実現性や実効性という点で見たら胡散臭く感じます。

 確かにメディア側から言えばいくら問題性が高かろうとも、定期的に続報を出し続けことが難しいのはわかります。しかし一旦騒いではすぐ別の話題に切り替えることを延々とやっていると結局その社会問題は継続し続けることになりかねないので、それであれば今みたいにさもショッキングに、ヒステリックに報じるくらいなら、じんわりと淡々と報じ続けることの方がいいような気がします。ショッキングに報じれば確かに強い注目を浴びれるでしょうがその分人の記憶からも忘れ去られやすく、かつて「キレる17歳」と呼ばれた世代が今や「草食世代」とレッテルを張られてるおかしな現実にも気づけません。

 ただこういうことを書きながらも、このところ明確に改善が見られる社会問題もあります。もったいぶらずに言えばそれは児童虐待で、先日も一昨年に大阪で二児を放置死させた母親に懲役30年の実刑が下るなどこの問題に対する社会や司法の目は厳しくなってきており、勝手な予想ですが今後発生件数は徐々に減少していくのではないかという希望を持っております。この児童虐待もかねがね瞬間湯沸かし的な報道が非常に嫌でしたが、こうして虐待死させた親たちの裁判判決がきちんと続報として報じられるようになったのをみるとなんだか安心します。

2011年10月30日日曜日

ハリウッド人気子役のその後

 映画を見る方かと問われるならば「見ない方」と答える私ですが、ハリウッド映画における人気子役のその後の人生について何故かデータがそこそこ集まっているので日本でもおなじみだった子役俳優を何人か紹介しようと思います。

リバー・フェニックス(代表作:スタンド・バイ・ミー
 夏休みの少年による冒険物語と言ったらこの作品しかないとまで言われる「スタンド・バイ・ミー」で、主人公の親友役としてリバー・フェニックスは出演しています。作品の中でリバーが演じた役は準主役ともいうべきキャラというのもありますが、作中で明らかに主役を食うほどの演技力を見せており見た人にとっては忘れられない印象を持ったかと思います。
 この作品以降もリバーは活躍を続け若くしてハリウッドの大物として知れ渡りますが、皮肉にも彼が「スタンド・バイ・ミー」で演じたキャラクター(弁護士となるも喧嘩の仲裁中に刺殺される)のように麻薬の過剰摂取によって23歳の若さで早世しています。もし彼が生きていたら、ハリウッドの勢力図は今とは大きく異なっているのではないかと最近にも報じられるほど、その死は各界から惜しまれています。
 なお彼の弟であるホアキン・フェニックスも俳優をしており、「グラディエーター」では兄に劣らずローマ皇帝コモドゥス役で名演(怪演?)を見せており、こちらも主役のラッセル・クロウを食うかのような存在感を発揮しております。

エドワード・ファーロング(代表作:ターミネーター2
 映画初出演ながらターミネーター2で主役のジョン・コナー役を演じ大成功を納めるものの、ここで紹介するほかの俳優らと同様に成長とともに麻薬とアルコールに溺れ、リンクを貼っているウィキペディアのページを見てもらえばわかりますがあの若かりし頃に見せた美少年の姿はもうそこにはなく、一応俳優は続けているそうですがそのあまりの堕落ぶりに「ターミネーター3」への出演は見送られたそうです。

ブラッド・レンフロ(代表作:依頼人
 個人的にかなり記憶に残っている俳優です。私が代表作に挙げた「依頼人」のオーディションで上のエドワード・ファーロングを見出した人物に選ばれ、この作品以降も見事な演技と相まって若手俳優として一躍名を上げます。ちょうど全盛期の頃に日本のゲームの「バイオハザード2」のテレビCMで主人公の男性警察官役でも出演していましたが、私生活はまた例によって早くから麻薬とアルコール漬けで、25歳で過剰摂取によって急死しています。

マコーレ・カルキン(代表作:ホームアローン
 天才子役と言ったら自分らの世代にとってまず第一に、このマコーレ・カルキンが挙がってくるんじゃないかと思います。コメディ映画の「ホームアローン」は日米で大ヒットしてその名を世界中に知れ渡らせたマコーレ・カルキンですが、彼の成功後に両親が不仲からドル箱と言っていい彼の親権を巡って対立し、それが影響したのかこちらもまた早くからアルコール浸りとなっていったそうです。一応今でも俳優業はしているそうですが、20代前半期に活躍できなかったというのは非常に残念なものです。
 ちなみにアメリカでは仲が良かった故マイケル・ジャクソンの裁判に証人として出廷し、マイケルの児童虐待裁判で彼の無実判決を決定づける証言を行ったことから、「マイケルを救った人」としての印象が強いそうです。

イライジャ・ウッド(代表作:危険な遊び
 マコーレ・カルキンが子役として当時圧倒的な知名度を持っていた頃、彼と二分する人気を持っていたのがイライジャ・ウッドです。代表作はちょうどそのマコーレと共演し話題となった「危険な遊び」を挙げていますが、彼の真の代表作は有名故にお気づきの方も多いでしょうが主役のフロド役を務めた「ロード・オブ・ザ・リング」に他ならないでしょう。
 イライジャはこれまで上げてきたほかの子役に比べると成人後も俳優として成功しており、今も現役で活動を続けています。一見するとちょっと頼りなさげな見かけをしていて、「ロード・オブ・ザ・リング」の前に主役で出た「パラサイト」もそのまんまな高校生役を演じていますが、やっぱりフロド役は彼でなければ今じゃ想像できないことを考えると相当な演技力だと私は考えています。
 ただ「ロード・オブ・ザ・リング」の3作目ではフロドの従者であるサムがストーリー上であまりにもかっこよかったことから、キャラが食われているのではという指摘が私の周りでよくされていました。そんなサムを演じたショーン・アスティンも、知られざる有名子役だったということに最近気が付きましたが。

ショーン・アスティン(代表作:グーニーズ
 上述の通りに「ロード・オブ・ザ・リング」のサム役で好演を見せたショーン・アスティンですが、なんと彼は往年の冒険映画「グーニーズ」のあの喘息持ちの主人公役も演じていました。実際にグーニーズ以降はヒット作に恵まれていなかったそうですが、あの少年がサムだったなんてと知った際には大いに驚いたものです。どうでもいいことですが、昔ファミコンゲームでよくグーニーズしていました、クリアできなかったけど。

ジョナサン・キー(代表作:インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説
 そんなショーンとグーニーズで共演していた子供の中には、「インディ・ジョーンズ、魔宮の伝説」で主役のインディを助ける少年を演じたジョナサン・キーも出演しています。こちらは現在俳優をしておらず武術指導など映画スタッフとしての道を歩んでいるそうです。

 という感じでざらっと紹介しましたが、日本でもそうですがやはり子役として有名になったからと言って俳優として大成するのは難しいようです。それにしたってアルコールと麻薬依存が多過ぎる気がしますがそれはアメリカ故ということで、今後は「ハリー・ポッターシリーズ」に出演している俳優らがどのように活躍していくのかが注目ですが、私の予想としてはやはり大多数は埋もれていき、ショーン・アスティンのように30代に入った頃にぽっとまた芽が出る人が現れるんじゃないかと見ています。

2011年2月12日土曜日

戦争における殺人

 通常、どの社会においても殺人行為は処罰の対象となります。これは法律とかそういうもので決められているからではなく生物は基本的にメスの奪い合いなどといった例外事態を除くと同属を殺害する際には強いストレスを感じるように出来ているので、いわば本能に根ざした禁止、自然法的な概念だと私は考えております。しかし人間社会において唯一殺人が奨励され、処罰がなされないのが戦争です。

 国際法やら戦争法で決まっているのかどうかまではわかりませんが、基本的に戦争中における兵卒同士の殺人は処罰がなされないこととなっております。もちろん軍属が民間人を殺害した場合は軍法会議などで処罰対象となりますが、双方戦争を行うという合意に基づいての殺人は責任を問われないということになっているそうです。もっとも実際のところは太平洋戦争後のB、C級戦犯などのように戦勝国側に敗戦国側の兵士や仕官が一方的に裁かれることが多く、近年もイラク戦争でもあのアブグレイブ刑務所の捕虜虐待事件とかを見ているとやはりこういったことが行われているのではないかという気がします。

 さてこの戦争における殺人ですが、どのように捉えるかは非常に難しいものです。上記のように捕虜や民間人を殺さないという戦争のルールに則っていれば許されるものなのか、それともいくら戦争とはいえ殺人は殺人として許すべきではないのか、人によって意見は様々です。中には日本の自衛隊が影響しているのか自衛戦争において侵略者を殺害するのであれば許されるという意見もたまに見受けられますが、これは戦争には正しい側と正しくない側が存在するという前提があっての意見になり、そうなると戦争に正義はあるのかという議論にまで色々と発展していきそうです。

 先日元ライブドア社長の堀江氏がツイッターか何かで、「殺人は犯罪、しかし戦争で人を殺すのは無罪。両者にどんな違いがあるのか?」と書いたそうでなんか一部で議論となっていましたが、この意見を聞いて少し思い出した本があります。その本は加藤尚武氏による「戦争倫理学」という本で、よく人から「戦争に倫理もクソもあるかよ」とタイトルを教えるたびに言われるのですが、戦争という倫理が最も吐き捨てられる場所において最低限どのような概念を持つべきかという内容が書かれているのですが、読んではみたもののいかんせん個々の話がそれぞれ脈絡が少なく覚えている部分が少ないのが正直な感想です。

 ただこの本の中で名指しで批判されていたのが「ゴーマニズム宣言」の小林よしのり氏で、小林氏が自著の「戦争論」において、「戦争とは一種のカーニバルみたいなもので、平時は抑えられている欲望とかそういうものを一挙に開放する場所だ」というように描いた内容についてまさに上記の堀江氏のように加藤氏が、「そうだとすると戦争で殺された人間は平時に殺された人間と比べて運がなかったと言うしかないのか」と、同じ殺人として区分すべきというように批判をしていました。

 実際のところ、この辺をどのように考えるかは非常に難しいです。戦争における殺人を平時における殺人のように個々に裁いていたらとてもじゃないですが裁判や補償が追いつくわけもなく、かといってそれを戦争だからで全部無視していいのか、また戦争を指示した国家が賠償なりに責任を持てばいいのか、考えてたらはっきり言ってこちらも切りがないです。
 実際に「戦争」ということで殺人罪を許された例として、ここで挙げるべきかどうか少し悩みますが小野田寛郎氏の例があります。小野田市は終戦後も29年にわたってフィリピンにてゲリラ戦を行い、この間に現地の警察、米兵を殺害しておりますが、戦争中における行為としてフィリピン政府から特赦を受け帰国しております。

 もちろん小野田氏は上官から命令された行為を行っていただけで今現在の日本でも起きている通り魔や強盗といった自己本位による殺人とは動機や目的において一線を画しますし、彼の過酷な潜伏体験を考えると私もとても責任を求める気にはなりません。ですが戦争での殺人ということで何でもかんでも特別視をすることは本当に正しいのか、それともこういうことを考えること自体が馬鹿馬鹿しいのかという点で悩みは尽きません。

 名前は出しませんがこれは誰かが言っていた台詞で、国家に対して個人というものは非常に弱く、運命なぞ簡単に翻弄されてしまうといって特攻隊やインパール作戦の犠牲者の悲劇を語る人がいますが、戦争における殺人は個人単位ではなくやはり主体となる国家単位で考えるべきなのかもしれません。国家の殺人となると私の中で真っ先に思い浮かぶのはミドリ十字の薬害エイズ事件ですが、そのミドリ十字の設立者たちには731部隊の面々が関わっていることを考えると同じ殺人をする人間はまた同じ殺人をするのかと考えさせられます。

2010年10月24日日曜日

文物の暴力描写について

 こういうのもなんですが、暴力描写の多い漫画やゲーム、小説が私は大好きです。最近だと「ブラックラグーン」という漫画を読み始めましたがこれも久々に暴力を前面に出している漫画なので一気にはまり、現在単行本を徐々に買い集めていますが内容といい絵柄といい、これほどの漫画家がどうしてそれまで売れなかったのだろうかなどと思うくらい評価しております。
 暴力描写の多いゲームの場合ですと以前は「バイオハザード」が代表的でしたが最近では箱庭世界の中で何でも出来る「グランドセフトオート」が一番槍玉に挙がってくるでしょう。最後に小説だと、今はすっかり読まなくなりましたが以前はよく菊池秀行氏の小説を読んでました。どうでもいいですが菊池秀行氏原作の漫画、「退魔針」という漫画も連載当時に買って読んでましたが、最近になって絵を描いていた斉藤岬氏の別の漫画をよく買い集めています。斉藤岬氏の漫画とも、ずいぶん長い付き合いになる。

 そんな私の趣味の話はまたぞろ置いといて、今に限らず昔からこういった文物における暴力描写について批判する声は後を立ちません。やれ子供に悪影響が出るとか真似する人が出るとか、それに対して近年は主にインターネット上を中心に逆批判もあり、そんなの根拠のない話だとか都合よく規制をしようとしているなどという声を見ることが出来ます。

 今日ここで私が何を言いたいのかというと、そろそろこういう暴力描写の影響について中身のない議論はやめてお互いにきちんとデータを取ってみたらどうかと思っています。データを取るというのは簡単なことで、暴力描写の影響によって起こるとされる犯罪を実際に犯した人間から聞き取り調査を行い、具体的にそれまでに関わった漫画やゲームを挙げてもらい、そうやって挙げられた対象の文物に何かしら規則性があるのかどうかを調べるだけです。
 恐らくそうやってデータを取れば先ほど挙げた猟奇的といわれる文物を携わった人間の一人や二人は出てくるでしょうが、それがなんらかの規則性があると判別できるには最低でも母数比率からして10%以上、よくて30%以上が必要です。まぁやろうと思えばこういったデータはいくらでも都合よく操作することは可能で、たとえば視聴率の高い「サザエさん」を見たことがあるかといえば九割がたの犯罪者は見たことがあると答えるでしょうし。

 ただ私としては厳密にデータを分析することで何かしらの犯罪の傾向を読むことは出来るように思われ、実際にアメリカではさまざまなデータを比較分析することによって精度の高い報告をしていたりします。特に私がなるほどと思わせられたのは動物虐待を行う人間は後に猟奇事件を行う可能性が高いという報告で、この報告を元に向こうでは動物虐待に対して刑罰をかけるようになり、日本も同じように刑法を作るようになりました。
 この動物の虐待と猟奇事件については私もきちんとデータを見たわけではありませんが実感的にはやはり因果関係があるように思われ、あの神戸の連続児童殺傷事件の犯人も地元の野良猫を事件前によく殺していたらしいですし、それ以外の猟奇事件犯人についても人の飼い犬に石を投げるなどといった行為が見受けられます。逆に私の周りだと動物好きな人は優しい人が多いようにも思え、相手を見る上で動物への接し方を私は重視しています。犬派か猫派かだけでも割と性格分かれるし。

 そういう意味で暴力描写と犯罪がどのような因果関係があるのかをきちんと比較することは無駄ではない気がします。こういった比較研究が全くないわけではないですが先ほどにも言った通りにデータが意図的に操作されている例も少なくなく、まだ真剣に研究されているとは言い難い状況です。ただ一つ言えることとしてはゲームにおける暴力描写はゲーム製作の技術進化に伴い圧倒的に増えていますが、近年の若者による暴力事件の件数はファミコンが発売される以前の70年代より圧倒的に少ないです。まぁ母数となる若者の人数も激減しているので犯罪発生率で見ないといけないんだけど、誰かまとめてないかな。

 あと最後に私自身で言うと、最初にも書いた通りに暴力描写に対して人一倍接している量が多い自信がありますが今の今まで暴力事件で警察のご厄介にはなったことはありません。ただ読み取りが遅いことに頭にきて、PS2を殴り壊したことがあるほど短気なのは認めるけど。

2010年8月11日水曜日

続、児童虐待致死の厳罰化機運について

母親を殺人容疑で再逮捕 2幼児遺棄 「食事与えず死んだ」(産経新聞)

 上記リンクに貼った大坂での二児放置事件の詳細についてはすでに各所で報じられているのでわざわざここで説明しませんが、何度もこんな事は繰り返してはならないと事件のたびに報道されるもののまたもこうして痛ましい事件が起きてしまったというのは残念な事この上ありません。

 さて以前に私は「児童虐待致死の厳罰化機運について」という記事にて近年次々と明らかになる児童虐待事件を受けて、社会的にも虐待を行った親に対して厳罰化、具体的にいうなら現在主に適用される「保護責任者遺棄致死罪」ではなく「殺人罪」、もしくはもっと重たい刑が課されるような法改正をすべきだという機運が高まっており、早晩法改正が行われるのではという意見を書きましたが、すでに現時点で司法界もそのように認識が切り替わってきているようです。

 先にも述べました通り、これまでの幼児や児童の虐待致死事件では上記リンク先のニュースにも書かれている通りこれまでは「保護責任者遺棄致死罪」という刑法によって虐待を行った親は裁かれるのが一般的だったのですが、今回のこの大坂の事件では幼児らに対して明確な殺意があったとして(死ぬとわかってやっていた)初めから「殺人罪」で起訴される事となりました。またこの事件が目立ってこちらはやや隠れがちですが、

女子高生、乳児殺害容疑で追送検へ 神戸・側溝遺棄事件(朝日新聞)

 こちらの事件は女子高生がトイレで生んだ赤子を放置して死なせたという悲しい事件ですが、こちらも大坂での事件同様に殺人罪で起訴される運びとなっております。

 なんだかんだ言って、検察も昨今の社会的影響を考えてか児童虐待に対して厳罰を以って望もうとしているように感じられます。全部が全部、社会的の空気に影響されて物事の基準が変わるというのは問題ではありますが、私はこの児童虐待については倫理上でも社会的観点からでも厳罰化は歓迎すべきだと考えております。

 ここで話は少し変わりますが、今回の大坂の事件とよく似たケースとして1988年にこんな事件がありました。

巣鴨・置き去り事件(オワリナキアクム)

 この事件は主演の柳楽優弥氏の好演で話題となった「誰も知らない」という映画のモデルとなった事件ですが、今回の大坂の事件同様に母親が幼い子供五人を部屋に残したまま殆んど家に帰らず、たまに長男にだけお金を渡して何年にも渡って置き去りにしていたという事件です。結果から言えばこの五人の兄弟のうち二人は死亡していたのですが、この事件の最も奇妙というか理解しがたいというべき点として、近所に住む大人たちが誰もこの家族の存在に気がつかなかったという点です。同じく親に見捨てられた子供の話でも死刑判決を受けた永山則夫の例では見かねた近所の住人が福祉事務所に連絡を行っていますが、大坂の事件でもこの巣鴨の事件でもそういったことはついには起こりえませんでした。

 別にそれで近所の連帯がどうたらこうたら言うつもりはありませんし、いまさらそんな牧歌的な時代に立ち戻ろうとするよりも目下の虐待を防ぐためにも児童相談所といった行政の権限を強める事の方が大事だと私は思いますが、100歳以上の高齢者で行方不明者が相次いでいる件と絡めて考えると、今の日本社会は誰とも付き合わなくともそれなりにやってけるようになったと感じます。それを退化と取るか進化と取るかは人それぞれですが。

 最後に巣鴨の置き去り事件について、この事件の裁判で子供を置き去りにした母親には「懲役3年、執行猶予4年」の判決が下りていますが、仮にこの事件が今年に起きていたらまず間違いなく執行猶予はつかなかったでしょう。この差についてちょっと表現し難い感情を持ちえますが、時代の違いだと言って割り切るしかないでしょうね。

2010年5月29日土曜日

児童虐待致死の厳罰化機運について

 今ではすでに廃止されましたが、ちょっと前まで日本では「尊属殺人罪」という刑法がありました。これは自分の父親や母親といった親殺しをした場合、その殺人者には他人への殺人より一段重い刑罰(無期懲役か死刑。執行猶予は認められない)を課すという刑だったのですが、同じ殺人という行為に対して刑罰が不公平ではないか、また問題のある両親で親殺しをした子供に情状酌量の余地がある場合はどうなるのだといった議論が行われた事から数年前に完全に廃止されました。この尊属殺人は祖先を敬い、従うべきだといういわば儒教的、朱子学的概念から作られた刑罰で、このような概念が戦後以降一貫して弱まった事も廃止につながったと言われております。

 最近、とうとう法学にもチャレンジとばかりに友人から薦められた入門本を読んでおり、その本の中でもこの尊属殺人について触れられていたのですが、その箇所を読んでいる最中にふと突然、「この尊属殺人の逆はあるのか?」という問いが頭をもたげました。尊属殺人の逆、つまり親殺しの逆の子殺しです。

 私も何度かこのブログで児童虐待死事件を取り上げてきましたが、そのどれも目を覆いたくなるような事実ばかりで、こんな残酷な行為がどうして行われるのかと事件が起こる度に理解に苦しみます。ではそんな子供を虐待死させた親達はその後一体どんな判決を受けているのかですが、私がざらっと見た所、大体懲役五年前後の有罪判決を受けている事が多いようです。
 この懲役五年という数字を見た私の印象はというと、やはりその行為に対する刑としては軽すぎるんじゃないかという印象でした。

 通常、自分の子供を虐待して死なせた場合は「保護責任者遺棄致死罪」という刑罰が適用されて上記のような判決に落ち着くのですが、近年起こっている虐待致死事件の内容を見ていると子供を殺す親には子供に対して明確な殺意を持っており、本人らも裁判中にそれを認めております。そのため、私は言い方こそ虐待致死ではありますがこれら事件は事実上、親から子への殺人行為と言っても差し支えないかと考えています。

 仮に誰かが殺意を持って他人の子供を殺した場合、恐らくその人物には殺人罪が適用されて懲役十年に近い重たい刑が課せられるでしょう。しかしそれが自分の子供だった場合、現状では普通の殺人などより一段低い刑が課せられるということになります。本来、保護すべき責任のある自分の子供を逆に死に追いやる。これほどの残酷な行いに対して普通の殺人より刑罰が少ないというのは、どうにも不公平に思えて納得し難いです。
 また幼い子供というのは親以外に頼る者がなく、外で誰かに助けを求めるという術すら知りません。それこそバット持って暴れる中学生くらいの子供であれば話は違いますが、何も出来ないとわかっている幼子を手にかける親であるとすれば人格的にも疑いがあり、生半可な刑罰ではむしろ物足りない気すらします。

 このように感じているのはどうやら私だけでなく、ネット上を探すと似たような意見も多く見つかり、厳罰化を求める声があちこちで上がってきているようです。折も折で少子化が問題となっている時代であり、国としても子供を大事にする、保護するという姿勢がこれからも求められて行く事を考えると恐らく五年以内になんらかの法改正がなされるのではないかと思います。
 ただ付け加えておくと私は、このような児童虐待致死は何も最近になって増えたのではなく、恐らく以前からも数多くあったものが最近になって注目されるようになったというのが実情だと見ております。最初の尊属殺人もそうですが、刑法というのはその時代毎の社会的価値観に左右される事が非常に多く、この虐待致死の厳罰化を求めるという私の意思も時代に感化されたものなのかもしれません。

2010年5月24日月曜日

大学生犯罪の一般化

 ちょっと前にどの番組かまでは忘れましたが、あるゲストが昭和期に起こった「吉展ちゃん誘拐殺人事件」を引用し、仮に今このような誘拐殺人事件が起きたとしても当時のように大きく騒がれないほど、現代はこのような猟奇事件が一般化して来ていると言っていました。このゲストの発言を聞いて私も素直にその通りだと感じ、凶悪犯罪件数が増えているかどうかについてはまだ検討の余地がありますが、かつてなら連日連夜取り上げられていたような猟奇事件のワイドショーにおける賞味期限は確実に早くなっては来ていると思います。

 ただこうした猟奇事件以上に私が一般化し過ぎて問題ではないかと感じるのが、今日の本題となっている大学生による犯罪です。
 一応、日本の最高学府とされている大学に通う人間は普通の感覚で言えばある程度選抜された学識者と見られるべきなのですが、すでに大学全入時代を向かえている事もあって大学生と言っても日本ではあまり泊がつかなくなっております。それでもかつての大学生はエリートとして扱われており、戦後直後に起きた「光クラブ事件」「日大ギャング事件」といったいわゆるアプレゲール事件の当時の報道は、「どうして学識もあり、将来を約束されているような学生がこのような犯罪に手を染めたのか」、といった論調で以って報じられたと聞いております。

 翻ってみて現在、たとえ大学生が詐欺や殺人事件を起こしたとしても余程の有名大学でなければニュースにすらなりません。まだオウム事件の頃は、「これだけのエリートが何故?」という議論が当時ありましたが、現在に至っては数年前に早稲田大学の学生を中心とした振り込め詐欺グループが逮捕された際に、
「早稲田の学生らだけあって、(詐欺)電話での対応マニュアルまで作られていた」
 という報道がされていました。なんていうか、反応に困るんだけど。

 他の人がどう思うかは分かりませんが、意識しない所で当たり前でなかったこのような概念が当たり前になっているという事に、私は大きく問題がある気がします。大学生は犯罪など起こすわけがない、という概念を持っている社会と、大学生でも変わらず犯罪を起こす、という概念の社会を比べるなら、やはりどうみたって前者の社会の方がまともそうに思えますし、目指すべき社会の形だと思います。実態はどうであれ。

 去年の年末に私は、ほぼ毎日のように東京のどっかしらの鉄道路線が人身事故で止まっていたことについてどこも報じないばかりか、誰もおかしいとは言わなかったことに、今の日本社会はどこか異常なのではないかと書きましたが、この所の犯罪に対する感覚もあってはならないほど麻痺し過ぎてやしないかという気がします。恐らくこのまま行けば、数年後には児童虐待に対しても今ほど報じられる事もなくなるかと思います。

 作家の渡辺淳一氏(勝手にナベジュンって略しているけど)はその著書の「鈍感力」において、気にしなくていいものを気にしないというのは一つの才能であり能力だと書きましたが、その一方で本当に気にしなければならないものに気がつかない、気にしないというのは鈍感力ではなくただの鈍感であって、あってはならない事だと述べていました。私はよく人から何事も気にしすぎだと言われていますが、今日ここで書いた今の日本社会の風潮に対する懸念も杞憂なのかどうか、悩みどころです。

2010年3月5日金曜日

いじめや虐待をどう捉えるか

 先日私の母校の歳行っていた独身の先生が結婚したという仰天するニュースを友人に話した所、乱世なんだからそういうことが起こっても仕方がないと切り返されてしまいました。確かに現在は百年に一度とも言われる大不況とも言われる時代、佐野眞一氏も不況不況と嘆いているだけじゃなくてかえってこのような時代の節目に立ち会えることができたと前向きに考えるべきだとも言っていましたし、そんな時代にあっては何が起きてもおかしくないのかもしれません。
 そういうわけでこれからは何が起きても驚かないように心して生きていこうと思った矢先、こんなことが本当に起こるものなのかとまた驚かされるニュースが今日報道されました。

愛子さまが「乱暴」で学校お休みに(産経新聞)

 記事の内容はリンク先に書かれている通り、現皇太子の息女である愛子様が通っている学習院初等科にて同学年の男子生徒の行為が原因でここ最近学校を休みがちだそうです。情報自体は宮内庁の発表のため事実である事に間違いなく、一体その問題の男子生徒の「乱暴」という行動が何かという詳細までは報じられていませんが、ついには皇族にまでイジメ問題が広がったのかと一部で騒がれ、私自身も第一印象はそのように感じました。
 戦前に比べれば大いに開かれるようになった皇室こと菊のカーテンですが、それでも現代日本において明確な禁忌性とともに畏怖され続けている存在に変わりなく、子供とはいえそんな皇族の愛子様にこのような報道がなされる時代が来るなぞいくら乱世ったってなんでもあり過ぎなんじゃないかと、改めてすごい時代になったもんだと感じさせられたニュースでした。

 ただ今日はこの愛子様のニュースに隠れてもう一つ、子供に関するある痛ましい事件も報じられていました。

<4歳児衰弱死>市が対応協議中に死亡 埼玉・蕨(毎日新聞)

 こちらも詳細はリンク先にある通りで、2008年にわずか四歳の男児が実の両親から食事を与えてもらえず餓死した事件で、男児の両親が保護責任者遺棄の容疑で本日逮捕された事が報道されています。私はわずか一ヶ月強前に「児童虐待は何故防げないのか」という記事で当時に起こった児童虐待死事件を取り上げましたが、それからそれほど日も経たぬうちにまたもこの様な事件が報じられるなど、深い悲しみを感じるとともにどうして日本社会はこんなことを繰り返しているのかとやるせない気持ちになってしまいます。

 特に今回の事件で何よりも許せないのは、先に取り上げた虐待事件同様に周辺住民や警察が虐待ではと所轄の児童相談所に情報を寄せていたにもかかわらず、相談所職員は男児宅に訪問するだけで有効な対策手段を打たないまま最悪の結末を招いてしまっている事です。報じられている記事では相談所は男児の対応を協議している最中に事件が起こったと説明していますが、正直に言って私はこの弁解は聞いてて疑わしく感じ、実際にはサボタージュをかましていた言い訳ではないのかと、言葉は悪いですが見えてしまいます。

 今日取り上げたこの二つのニュース、いじめと虐待ですがこれらは言葉こそ違えど、「強者が弱者を必要以上、過剰にいたぶる」という意味では同じ行為を指しております。
 この頃私はよく思うのですが、

・いじめは学校内の問題
・虐待は親子間の問題
・しごきは部活内の問題
・パワハラは社内の問題
・アカハラは学内の問題・
・下請けいじめは業界の問題

 などと個別別々に語られますが、全部ひっくるめるとこの様な「イジメ」の問題というのは日本社会全体に当てはまる問題じゃないかという気がしてきました。だからこそとでも言うべきか、部分々々を取り上げて学校内のいじめや虐待はやめようとか防ごうといくら叫ばれようとも、それらを覆っている日本社会全体にゆるぎなくイジメの構造が行き渡っているためにいつまで経ってもいじめや虐待が減らならないのかもしれません。

 言うなればいじめや虐待はごく限られた範囲で起きている問題ではなく、日本社会全体で起きている社会問題なのではないかというのが私の意見です。私の目から見ても学校内のいじめをやめようといっている大人たちがそもそもイジメを是認している節があり、少なくとも日本では多少の理不尽な事であれば言われても我慢しろといい、年上には許されるどうでも良さそうな発言や行動も年下が年上に対して行う事は許されません。
 いじめや虐待をどの範囲の問題と捉えるのか、社会学をやるからにはこの様なややピントのずれた問題視点が重要になるのですがいい好例なので力を入れて書いてみました。

2010年1月28日木曜日

児童虐待は何故防げないのか

「パパはいじめない」虐待死の海渡君、親かばう(読売新聞)

 非常に痛ましい事件ということで、こちらも短いながら一筆書いておきます。
 上記リンクに貼った事件の概要については敢えて細かく説明しませんが、私が見たこの事件に対するテレビの評論家の意見にて、児童虐待を防止する制度や組織は存在していながらも、それらは今回の事件のように学校や児童相談所がほとんど連携を取っておらず現状機能しているとは言いがたい、というものがありました。

 確かに言われることもっともで、今後このような事態を防止するという意味ではいい意見だとは思いますが、今回のケースに限っては私は連携以前の問題で、学校も児童相談所もその自らの組織の役割をサボタージュしたがゆえに起こった事件なのではないかと見ております。というのもリンク先の記事を読んでもらえばわかりますが、プロでない一般人から見ても明らかに虐待が伺われる動向や情報が寄せられているにもかかわらず詳しく調査せず、その虐待者の疑いのある親を面談して、「二度と殴らない」という言葉を鵜呑みにして見過ごすなど馬鹿やってんじゃないよと怒鳴りたくなるような所業です。

 ただ学校については、もちろん今回の対応は呆れるほど悪いものだとは思いますが、児童を親から引き離すなどの強制措置を行う権限を持っていないためこの様な対応になってしまったのもある意味自然だったのかと思うところがあります。それに対し児童相談所は学校側の面談報告だけを聞いて対応を取りやめるなど、自らの職務を本当にわかっているのかと疑いたくなるような行動を今回の事件で取っております。

 芥川龍之介ではないですが、親は捨てることも出来れば養子を取ったりするなど子供を選ぶことが出来ますが、子供は自分から親を選ぶことは出来ないのです。そして子供としては親に捨てられれば生きてく事は出来ず、たとえどれだけ劣悪な環境といえども我慢するより他なく、今回の事件のように親からの暴行を外に強く訴えることが出来なくて当たり前です。
 ですから多少強引な手法となったとしても、虐待の疑いがあるケースに限っては一ヶ月など、短期間でもいいからすぐさま親と子供を引き離すことが何よりも大事になるかと私は考えております。よっぽど変な子供でない限りは虐待だと騒いで親をハメるということはないでしょうし、なによりももうこんな事件を起こしてはならないと心から願います。

2009年7月30日木曜日

映画「ウォルター少年と、夏の休日」について

ウォルター少年と、夏の休日(ウィキペディア)

 この映画を初めて見たのは、確かイギリスから帰国する飛行機の中だったと思います。私は今でもそうですがそれほど映画を見る人間ではなく、この映画も長い飛行機旅にへとへとになって時間が潰せるのならと思ってしぶしぶ見たような感じだったのですが、見終わってみるとそれほど強烈に面白いわけではなかったのですが何故だが深く心に残るような不思議な感覚がありました。
 その後、今年か去年かは忘れましたがちょっと前にこの映画がテレビのロードショーにて放送されました。さっきにも書いた通り私はほとんど映画を見ない人間で、テレビのロードショーに至っては以ての外というくらいに見ないのですが、何故かこの時だけはこの映画を初めから最後まで見ていました。

 そんな「ウォルター少年と、夏の休日」という映画ですが、あらすじを簡単に説明すると以下の通りです。

 主人公のウォルター(12歳くらい)は母親が資格取得の講座を都市で受ける間、半ば強制的に田舎にある大叔父の家に預けられることとなった。このウォルターの母親というのはあまりしっかりした人間ではなく、資格取得とは名ばかりで実際は自分ひとりで愛人と会うためにウォルターを預けるつもりで、また預ける叔父というのも実際に血のつながりがあるかどうかわからない人物だった。またウォルターを預ける前に母親は彼に資産家だと言われる叔父の資産の隠し場所を密かに見つけるようにと言い含め、なんのことはない、ウォルターを預けるのもそれが本当の目的だった。
 そうしてウォルターは大叔父と言われる二人の老人とわけの分からないままに暮らすこととなったが、その二人の老人は資産家だと言われるものの無愛想で頑固な性格で、財産目当てでやってくる人間からセールスマンまで毎日玄関先で発砲して追い返す、破天荒な老人だった。
 そんな破天荒な老人たちと暮らしている間、ウォルターはあることがきっかけに二人の過去を徐々に知ることとなる。二人は若い頃に一攫千金を狙ってアフリカに渡り、傭兵をやり、砂漠の王女と恋に落ち、王女をつけねらう道楽息子の取り巻きと王女を奪い合うといった御伽噺のような二人の過去を知り、最初はわけの分からない間だった相互の距離は徐々に縮まっていったまさにその時、母親が愛人を連れてウォルターを引き取りに来るのであった。


 というようなお話です。
 話のコンセプトとしては素知らぬ仲から徐々に打ち解けあうというよくある王道パターンなのですが、この映画がほかのものよりよかったと私が思う点は、主人公の少年の心の内の変化ではなく、彼と一緒に暮らす二人の老人の過去が徐々に分かっていくという、言わば打ち解け合う相手役の心情と過去にスポットを当てた点だと思います。そうした点もさることながら、駄目な母親と今まで全くの他人だった二人の老人のどっちに心を寄せるかという主人公の心の動きも見逃すことができません。

 ここで唐突に話は飛躍しますが、私は基本的に子供というのは逃げ場がないと考えています。親は子供が嫌いになれば捨てることができますが、子供は親を捨てることはもとより変えることもできません。それこそ真っ当な両親の元に生まれていれば何も辛い思いをせずに成長してゆけますが、以前より問題となっている児童虐待などを行う親の元に生まれてしまえば子供は逃げることもできず、自身の生存をひたすら耐えることしかできないでしょう。
 そんな子供にとって両親以外の大人、それも比較的近しい親類というのは数少ない重要な逃げ場の一つだと思います。私は周りにも自慢できるようないい両親の元に生まれましたが、そんな両親との間でもやっぱり反抗期の11歳から17歳まで(やけに長いな)はいろいろと溝が出来て大変な時期がありました。そんな時、私の叔父や叔母というのはいろいろと揉め事や悩みの相談に乗ってくれたりもすれば、ウォルター少年のように夏休みに自宅に招いてくれて自分の家とは違う環境で生活をさせてくれ、成人となった今になって思えばああした体験が一種の緩衝材のような役割を果たし、致命傷的な問題への発展を防いでくれていたように思えます。

 子供は基本的には親の元で生活するにしても、時折その環境下から一時的にでも抜け出す逃げ場というものが私は非常に重要だと思います。その逃げ場となるのは友人でもペットでもいいのですが、出来れば親と子供の間の目線に立てる祖父母や叔父叔母がなるのが理想的な気がいます。
 私にとっては叔父と叔母がまさにその理想的な逃げ場だったのですが、今朝その叔父が亡くなったということをお袋から連絡されました。肝臓が悪くなって酒は飲むなと医者から言われていたのに、死んでもいいから酒が飲みたい鹿児島人らしく全く言うことを聞かずに飲んでばっかだったそうです。叔父らしいといえば非常に叔父らしい最期だったのですが、この報せを聞いて自分の中では一つの少年時代が完結したような感傷を覚えました。

 今の私は成人しているだけでなく両親とも円満にやっているので「逃げ場」というものは必要ないのですが、今までその役割を果たしてくれた叔父には感謝の気持ちに堪えません。そして、今度は自分がそのような子供らの頼られる「逃げ場」にならねばと強く思うわけです。