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2008年2月20日水曜日

自衛隊艦船事故について

 もうあちこちでも取り上げられていますが、昨日に自衛隊の艦船が漁船とぶつかった話です。まあぶっちゃけ今は風呂掃除に熱中しすぎて右手小指を深く切って、右手が使えない事の方が私にとって重要なんですけど。キーボードも左手一本で叩いてるし、にしても神経傷つけないでほんとよかった。

 さてこの事件、マスコミはともかく現段階ではまだあれこれ詮索する事はしない方がいいでしょう。なんにしても情報が不足しています、自衛隊もまだなんか隠しているようですし。私の主な疑問点は一つ、衝突直後に救助活動が行われたか否かです。事故後すぐに海上保安庁が航海日誌などの資料を舟から押収していますし、供述が二転三転しているので、ここを結構怪しんでいます。

 とまぁ、この程度ならわざわざ記事を書くことはないんですが、一部今回の事故と付随して語られている、二十年位前に起こった観光船と自衛隊潜水艦の事故について、自分が記憶している話を書きます。この事故を私は十年位前にやってた深夜番組で見たのですが、30人くらいの人がなくなられたそうです。
 事故の経過を簡単に話すと、当初、両方の舟はお互いに接近しあっていると早くから認識していたそうです。ですが自衛隊の潜水艦が、今度の事故でも言われていますが、航海上、相手の舟を左手に見ている方を優先航路として、右手に見ている船は道を譲らなくてはいけないらしいです。今回の事故でも、過去の事故でも自衛隊の船は道を譲る立場にいますが、過去の事故の場合はこのままの速度ならぶつかる前に観光船の前を通り過ぎれると考えて譲りませんでした。実際、そのままなら衝突はなかったようですが、道を譲らないのに観光船が驚き、針路を確か変えたのだったと思います。そしたら潜水艦の方も驚き、速度を落とすとか針路を変えるとか互いにまごまごしているうちに衝突してしまったらしいです。

 この潜水艦の事故を紹介したその番組内では、最後のルビコンとも言うべき場面をこう分析していました。
 お互いの舟が異常に接近し合う中、潜水艦内では司令室で確か針路変更か運転停止を操舵室に伝えようと伝声管で命令をしたその瞬間、全く同時に操舵室側から伝声管を通して先の指示行動完了の報告が入ったようです。お互いの声が重なり合い、一瞬、はっと立ち止まってしまい、その際のタイムラグが最期の命取りになってしまったようです。

 今回のはどうかはわかりませんが、潜水艦の方をなかなかにありうるヒューマンエラーの好例だと思ってこの事件を私は記憶していました。結果論から言えば、最初の優先航路の原則を守っていれば問題なく回避できた事例で、そういう意味ではそれを無視した自衛隊の風土に原因があったとも思える事件です。今回も優先航路の原則が守られていたか疑問な点があり、この点に着目して今後を見守っていこうと思います。

 うわ、書くのに30分かかったよ。左手だけだと手書きで書いてるような気分だなぁ。

多神教としてのキリスト教の背景

 以前の記事に書いた「多神教と一神教の違い」について友人から、
「でも、キリスト教も多神教的なところもあるよね」
 と指摘されたので、今回はその辺のところをちょこっと扱います。ダビンチコードも読んだばっかだし。

 実を言うと、私自身もキリスト教、ひいてはイスラム教は多神教と見ております。ただ教義としての分け方としては仏教やヒンドゥー教徒は一線を画すので、前回は一神教と書きましたが、厳密に言うならキリスト教は多神教でしょう。
 たとえば、仏教では主神は一応のところ「大日如来」となっていますが、その下に千手観音やら不動明王、そしてそれに使える四天王、ひいては風神雷神様も日本人は神様として慕っていますが、これをキリスト教に当てはめるなら、「GOD」の下には聖ガブリエルから聖ラグエルなど数多の天使がおり、そして邪神とも言うべきサタンやベルゼブブなどもいます。これらを神性を持った天使らの存在を日本人らしく一つの神様と見るならば、やっぱり多神教になるんじゃないでしょうか。

 と、ここまでの内容だったら世間話程度、せっかくの陽月秘話がこの程度で終わったら名が泣きます。そこで、今日はさらにキリスト教の吸収の歴史も紹介します。
 さてさっきに挙げた「サタン」。それこそ悪魔信奉者を「サタニスト」と呼んだり、悪魔の代名詞となっていますが、この名には実は語元があります。それなにかと言うと、実はエジプト神話の中の「セト神」、例の海馬瀬人の元になった、確か洪水を引き起こす神様かな、これが元らしいです。
 もう一度よく名前を見てみましょう、セトとサタン、よく見てみると似ているでしょう。詳しいつづりはわかりませんが、古代の中東で使われていた言葉には現代のアラブ語のように母音記号がなかったので、「マホメット」、「メフメト」、「マハマット」というように、呼び方に数種類あったようで、これもそのバリエーションの一つらしいです。

 さてこのセトとサタン、この二つの神は名前が同じなだけでなく実はまんま同じ神様です。なぜかというと、当時の宗教というのはまさに作られる物語で、固定された話ではなかったのです。基本的には為政者が支配民に対してその支配の正当性を認めさせるために、利用されていたのが実情です。そのため、ある民族が他の民族、この際部族でもいいですがそれを征服した際、征服された民族の神様を邪神として、征服した民族の神が正義の神だったというように神話を作り、そしてそれを流布する事によって正当性を作っていたようです。そのため、言語学のように宗教上の神話は一つ一つに征服や習合の痕跡があり、それを辿る事によってその経過を探る事が出来ます。

 このように、キリスト教の神話の中にも習合の歴史が垣間見えます。このサタンのみではなく、たとえばオリエント地方の神話上で豊穣の神である「バール」、これもちょっと言葉をつけて「ベル(バール)ゼブブ」と、多分後ろのゼブブは悪い意味でしょうね。これはオカルトマニアならすぐわかる、ハエの王で旱魃をもたらす悪魔とされています。もちろんキリスト教に限らず、日本の仏教やらにもこういった特徴は見受けられます。まぁ日本は仏教神話より古事記の中の「土蜘蛛」や「酒点童子」などがこういったものの代表ですが。

 こういった点に着目し、様々な仮説を作るのがそれこそさっきのダビンチコードの作者のようなオカルトマニア達です。恐らく私もその部類に入ると思いますが、まぁ見ていて面白いし、話していても面白いないようだと思います。けどやっぱり本筋の人たちからすると相当頭に来る話もあるらしくて、先ほどのキリスト教だと、一つ一つの天子の名前や悪魔の名前をびっしり書いた「エノク書」という文献がバチカンから偽典と銘打たれています。しょうがないだろね。

 ただこの話でわかってもらいたいのは、神話や物語は基本的には征服する側のお話であって、真実とは限らない事です。前回の日本古代史の話でも少し書きましたが、様々に想像を張り巡らせ、真実にのみ向き合うのが唯一にして正しい姿勢だと思います。そう言いつつ、現代の神話は民主主義なのかと思って今日はお終いです。

2008年2月19日火曜日

構成員の条件

 前回に引き続き組織論の話で、今回は組織を構成する構成員の条件です。

 条件なんかといっていますが、実際のところこれはあまり画一された基準はないと思います。むしろ、その調査対象の集団において、どのような役割が求められているのか、どのような人材が不足しているのかを検証するすることのほうが重要でしょう。
 好例をだすなら、三国志の中の劉備と水鏡先生の中の会話があります。ある日水鏡先生と劉備が出会い、その際に水鏡先生から劉備の組織は力不足だと言われ、それに対して劉備は張飛や関羽といった武辺者に、孫乾やビジクといった文士と不足はないと反論しますが、張飛や関羽は非常に優秀な武将だが、彼らを上手く運用するような参謀に不足があると指摘され、これに劉備はドキッとします。そしてその指摘の通り、彼らを上手く運用する参謀こと、諸葛亮孔明を手に入れて劉備勢力は躍進する事になります。


 このように、集団ごとに対症療法は違うのですが、それでもあえて小集団の中で見るとするならば、いくつか必要とされる役割を挙げていくと、まず必要なのは率先的に動く、行動力のある人材です。それこそ勇気と無謀をごっちゃに考えるような人間で、この手の人材がいると、たとえば決断が難しい局面や誰かがババを引く事になりそうな場面で状況が硬直することなく、集団の行動力がぐんと広がるので、私は非常に重視していると共に今の日本でかなり不足している人材だと思っています。
 次に必要なのは、先ほどの人材に、「ちょっと待った」と言う、セーブ役です。歴史的な人物で挙げるなら、名筆家でも有名な唐の太宗の家臣、魏微がおり、この人は太宗の言う事にいちいち、「いや、それはダメです」と言ったそうですが、太宗はそれを聞き、本当にたった今決断した内容は正しかったのかと再考し、その上で採用する意見もあれば、却下した事もあったそうです。このように、一歩前に出た意見を押し止め、再考する機会を作る人材も一人は欲しいです。一見すると、この手の人材は日本人には多いように見えますが、実際には少ないと私は見ています。

 この他、いくつか個人的に組織論をまとめていて必要な人材などまだまだいますが今回はそれは割愛して、最後に最も優秀な人材を挙げます。それは何かと言うと、何にでもなれる人材です。
 前回の記事でも少し書いた官僚制ですが、基本的に強い組織というのは、構成員が何かの拍子で一人二人いなくなったとしても、すぐに代替できる事が前提にあります。そういう意味で何にでもなれる人材というのは、その時期その時期に組織が必要とする人材に自らを変化させられる人材という意味で、たとえばある時期には率先型の人材、ある時期にはそれを押し留める人材、またあるときには組織のリーダーにもなれるというような人材です。地味ですが、この手の人材ほど重宝する者はないでしょう。たとえそれぞれの人材としての能力が不足していても、いざというときのために一人は欲しい人材です。

2008年2月17日日曜日

リーダーの条件

 この時期ともなると、都会に行けば就職活動中の学生がちらほら見えますが、よく企業がこうした学生相手の募集広告には、「リーダーシップのある人材を求む」などと書いてありますが、そもそもリーダーシップとはなんなのでしょうか。そのまま言うならば、リーダーとして率なく集団を率いられる能力の事を指すと思いますが、そんなの言ったら集団の種類ごとに違うのではないかと、社会学の一学士として疑問に思います。

 たとえば、これなんか社会学の初歩でやる内容ですが、逸脱論の中で刑務所内の格付けというものがあります。一般に前科というものは娑婆の世界では目を背けられるものですが、刑務所内では逆に、その前科がどれだけ大きいかで格付けが決まるといいます。たとえば、窃盗で捕まった人間よりも、強盗を働いた人間の方が牢名主になるというような、不思議な事に割と世界中でこれは共通しているらしいです。
 また企業の社長や会長でも、ベンチャー企業などではとかく企業家自身の行動力が重要となってきますが、複合企業などではグループ内の連帯を保つため、権力や調整力が必要になってきます。それを一まとめにリーダーシップと言っても、やはり認知の齟齬が生まれるのではないかと思います。そこで今日は広く使えるような、一般的なリーダーの条件について書きます。

 まず、どういった能力が求められるかです。リーダーというと普通の概念では決断を下すような人物として捉えられがちですが、それは独裁体制やライン&スタッフ型に強く当てはめられた組織のみだと思います。もしその集団がある程度機能分担が行えていたというのならば、トップがわざわざ決断を下さなくとも専門の担当部署で決断が行えるはずでしょう。実際に、アメリカの企業では現在、下位の部署に権限委譲がよく行われていると聞きます。また、非常に決断力が高い人間がトップの横にいるのならば、そいつに任せればいいだけの話だし。

 では、単純に行動力や遂行能力は必要でしょうか。これも私は疑問です。行動力が必要とされる先ほどのベンチャー企業などならともかく、いくらトップとはいえ、組織が個人の能力で作業効率が変動するようでは機能分担が行われていないも同然で、それではたいした組織とは言えないでしょう。昔の人も、「たった一機のオーラバトラーで戦況を変えられるとつけあがるな」と格言を残しています。確かにあるに越した事はないのですが、必ずしも必要とは言えないと思います。同様に、遂行能力もありすぎては困りものです。遂行能力がやけに高いトップがいる組織でそれこそ突然トップが変更する事態になれば、途端に機能不全に陥りやすくなります。官僚制を多少勉強すればわかりますが、組織は構成員の代替が行えなくては一人前とは言えないでしょう。

 じゃあリーダーシップとは何ぞやですが、私が一番必要とされるリーダーの能力はやはり「夢を見させる能力」だと思います。これは確か、経営家でもあり社会学者でもあったドラッカーが述べた内容ですが、企業などの組織のトップは、如何に組織の構成員の意識を、組織の行動目的に近づけさせるかに心血を注ぐべきだと言っています。例を出すと、企業内で労働者に対し社長が、「私がいい暮らしができるように、みんな頑張ってくれ」と、言うのより、「会社の業績をみんなであげれば、みんなの給料も上がるから頑張ろう」といった方が効果があるようなことを指します。要するに、組織の行動目的と構成員の行動動機を合致させるように理由付けを行うということです。

 ある意味で、日本の天皇制などはこれに当ると思います。天皇という象徴を守る事が国を、ひいては自らの家族を守る事になると戦前で教育した結果、日本軍は果てしない逆境にも関わらず強い士気を保ったといいます。このように、組織のトップは自らが象徴となったり、構成員のやる気を引き出す事が唯一に求めれる仕事だと、ドラッカーは主張しました。このドラッカーの意見に私も同意します。組織のトップ自身が有能であるに越した事はないのですが、やはり一番に求められる能力はシンボリックで、構成員の結束を強めさせる能力だと思います。言ってしまえば、遂行能力やら決断力はトップになくとも組織は何とか回ると思いますが、これだけはトップでしか執り行えなとと考えています。
 最近の日本では前のトヨタ会長の奥田碩氏がこれを非常に重視していたような気がします。彼なんか社長時代の口癖が、「大企業病になるな」、「国内シェア一位に甘んじるな」などと、社員に対して非常に危機感を煽っていました。大抵、大組織の綻びは慢心から起こるので、トヨタという企業に対してこれらの激は効果的だったと私は思います。

 なんか話が途中から組織論になったし、次は構成員に求められる能力でもやろうかな。

2008年2月13日水曜日

日本人の欠点

 前回、というよりたった今、日本人の民族性について書きましたが、今度は真面目な話で日本人の欠点について書きます。意味としては、日本人としてマイナスな特徴であるにも関わらず全く改善が出来ない点ですが、過去この点について様々な人が議論しています。

 私が知っている中で作家の司馬遼太郎、彼の出身大学はこの前吸収合併受けたけど、彼は日本の歴史を見て、どうも日本人は優秀な人材が表に出てくると、周りがその人に嫉妬して引きずり下ろしてしまうというのを嘆いていましたが、私に言わせるとこんなの、どこの国でもあることだと思います。
 中国の歴史書の史記に至ってはこんな話のオンパレードで、むしろ最後まで大成した人の方が珍しい。同様に、西洋でもダーウィンやらガリレオなども憂き目にあっているし、今更な事を言っているような気がします。

 では私の意見はどうかと言うと、日本人の民族としての最大の欠点はその暴力性にあると思います。暴力性自体はどこにもあるものですが、日本人の場合に怖いのは、自分の立場が相手より上だとわかると、猛然と暴力を振るう点にあります。古くは、二次大戦中の陸軍などの体罰です。これは各証言者達、現在でも声高に主張しているのは漫画家の水木しげる氏くらいになりましたが、その誰もが陸軍内でのリンチの凄惨さについて語っています。無論海軍でも同様だと思いますが、本来不必要であるにも関わらず理由なくビンタの嵐が飛んでいたと証言しています。

 そして皮肉な話に、これがそのまま戦後にも続いて、この前起こった時津風部屋でのリンチ殺人など、体育会系では「しごき」と呼ばれるむやみやたらな暴力がまだ続いているようです。それでスポーツの試合に勝てるのならともかく、実際にこのようなしごきは運動生理学上で何の効果も表さないといいます。代表的なのは、足腰が強くなるという理由で70年代から80年代に広く行われた「うさぎ跳び」です。これで何人の若者の脚をダメにしたか。

 まぁこういうのが残っているのはそういう場所だけ、と思っていたら大間違いです。実は他国にはなくて、日本にだけ異常に多い暴力事件があります。何を隠そう、駅員への暴力です。
 私の友人がある私鉄でバイトしていた時、電車が遅延するなど何かしら問題が起こると大抵駅員などが文字通り殴られていたようです。その友人は発車確認をするバイトだったのですが、列車の発車時間を聞かれた際に戸惑うと、彼の友人らはすぐに殴られていたと言っていました。その私の友人自体は背が非常に小さかったのもあり、あまり殴られなかったようですけど。
 なにもこのようなバイトたちだけでなく、日本人の駅員への暴力は突出して多いです。またクレーム対応の係員もよく暴力を受けるという話を聞きます。このように、相手が自分に逆らえない力関係にあるとわかるや、普段は大人しいくせに日本人は異様に暴力的に変わる気がします。その代表的なものは言うまでもなく、学校や社内でのいじめになるでしょう。もっとも、これはアジア圏内でも多少同じような傾向があるようです。韓国でも軍隊内のいじめ問題は根深く、また中国でも一部学校内でそのような問題が起こっていると聞きます。

 しかしこれは非常に卑屈としか言いようがありません。アメリカ人にはぺこぺこするくせに、同じ日本人同士だと無茶な要求やら暴力をふるうという。しかも、私が見ている限り自覚症状があまりないように見えます。私自身も中学高校の部活動の最中に、そのような無用な権力を振りかざして変なことを言う先輩に会った覚えがあります、その部活はすぐ辞めたけど。
 こうして年を食ってみると、なぜあの時の部活で、十四のガキが十三の後輩に対してあんな偉そうな態度が取れたのだろうかと疑問に思います。たかだか学年の関係で上にいるだけで、あれだけ偉そうに何でも言いつけるというのは馬鹿馬鹿しい気がします。逆に、学年が上でありながら自分たちと同じ目線に立ってくれた先輩に対しては今でも折に触れて懐かしく思う事が多いです。

 はっきり言って、このような暴力性はすぐに改善させるべきでしょう。一番手に負えないのは、このことを自覚していない日本人が多い点です。なのでこれ読んでる皆さん、嫌な上司に会ったらさりげなくこのブログを紹介してみてくださいね。

日本人の民族性

 恐らく、私は一般の日本人と比べては海外に滞在した経験が長い方だと思います。初めて海外に行ったのは5歳の頃でハワイに行ったのを皮切りに、、ワシントンに一ヶ月、ロンドンに一ヶ月、北京に一年と長い滞在も経験しています。その際には言うに及ばず現地の人間と幾分か交流しますが、大抵よく聞かれるのは日本人の民族性についてです。

 なにもこんな民族性とか堅い言い方でなく、日本人はどんな生活しているのというような聞かれ方をします。この際、大抵一緒にいる人間は「無宗教だ」とか言いますが、個人的にこれは間違いだと思います。現在ですら元旦には日本人の九割が初詣に行くというので、多かれ少なかれ仏教なり神道なりが混ざった状態で信仰と呼べると思います。
 この他、日本人は行列によく並ぶともよく周囲で言っている人はいますが、まぁ間違いではないですが、自分の経験からするとイギリス人には遠く及ばない気がします。連中、本当にきしっと並ぶし。

 ただ、この行列の仕方を民族性やら、日本人の全体のルールを守る精神性に結びつけるのはまた間違いだと思います。一説によると、日本人が行列にきちんと並ぶようになったのは戦中期以降で、その時の配給制からこの並ぶ癖がついたようです。さらに調べてみると、どうやらイギリスでも同様で、配給制が原因との事。
 意外と、こういう習慣というのは古くからのものではなく、割合に新しく作られたものが多いような気がします。先ほどの行列と同様に、日本人は地域社会が強いとも言いますが、これも戦中の隣組制度が影響しているのではないかと思います。農村などでは話は違いますが、都市部ではそうなんじゃないかな。最近は弱っているけど。

 では、真の日本人の民族性とも言うべきものはなんでしょうか。私が外国人にこう聞かれた際に答えるのは清潔性です。
 自分から見て、これほど臭いやら汚れに気を使う民族は見た事がありません。海外に行けばわかると思いますが、他の国では多かれ少なかれ体臭などがあり、それをかき消すために香料やらなんやらを使っているので何かしら、街中で匂いがします。ところが日本では本当に無味無臭。おまけによく風呂に入る。毎日入るというのだから相当なものです。

 これは日本が温暖多湿の気候にあり、湯水に事欠かなかったのと、湿気のために一度汚れると非常に臭いを放つ事が原因だと思います。そのため、私は日本人としての感覚は清潔すぎるのだから、海外では多少他の人の臭いなどが気になっても口に出さないようにしています。また、乾燥した北京ではシャワーは二日に一回に切り替えたり、なるべく現地にあわせようと努力していました。まぁ向こうは乾燥してるから、実際におわないけどね。

2008年2月12日火曜日

日本が核兵器を持てない理由

 大阪の橋本府知事はこの前の選挙戦の際に、「日本も核兵器を持つべきだと発言した事がある」と書かれたビラが選挙地域内で撒かれたそうです。ま、結果はというとあちこちで言われていますが逆効果だったようです。どうも日本人はネガティブキャンペーンをすると逆効果になりやすいな。

 それはともかくですが、この核武装論は若い世代を中心に結構熱が高まってきています。それこそ昔は政治家がこの手の事を言い出すとそっ首が飛ぶくらいのタブーだったのですが、随分とそのタブー性も薄れたと思います。私はこれ自体はとてもいいことだと考え、やはりあれこれ自由に議論を行うべきだとも思っております。一部の政治家も、「持たないのではなく、持とうと思えば持てるが敢えて持たないという立場が大事なのだ」と主張していますが、なかなかに一理ある言葉だとは思います。

 しかしっ、はっきり言わせてもらうと日本は未来永劫、とまでは言いすぎですが、実際には核兵器を持つ事が不可能な状態にあるといわざるを得ません。というのも、ぱぱっというと、もし日本が核兵器を持つと、核兵器不拡散条約、通称IAEAから脱退しなければなりません。そうすると何が起こるかと言うと、核技術を平和利用にしか使わないという限定の上でこのIAEAに加盟し、日本は原子力発電に使うウランの海外からの輸入が許可されています。そのため脱退すると当然、ウランの輸入は禁止されて現在も日本の電力事業の一角を担う原子量発電所はすべて停止に追いやられる事になります。日本国内じゃウランは採れないし。
 ま、ここまで言えばわかるでしょうが、そうすると日本なんてすぐにパンクします。つまり物理上、日本は核兵器を持てないということになります。これはどっかで読んだ本にかかれていた内容ですが、日本の核武装論について私にとって最も説得力に満ちた内容でした。