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2008年3月12日水曜日

三月国会について

 昨日フジテレビ系列にて確認した情報ですが、自民党内で小泉、古賀、武部などと実力者がまた料亭にて会い、なんでも今年中の解散は見送るということを決意し合ったそうです。確かにこの状況下で解散なんて不利になることこの上もないので、賢明な判断と言えます。民主党も、どうも自民党を攻めきれないという、決め手にかけることから恐らくそのようになるでしょう。なにかしらまた、大きなスキャンダルでも出ない限りは。

2008年3月11日火曜日

続アニメ、漫画のブームについて

 前回では日本のアニメ、漫画ブームの世界への広がり方について説明し、その上でこの文化を正当な文化、つまりメインカルチャーとしてみることに反対する主張を行いました。今日はその辺の理由を説明します。

 まず、前回にも書いたようにメインカルチャーとなると避けては通れないのが表現の規制です。メインカルチャーの役割はというと公での生き方、考え方を提示、作ることで、どちらかというと高尚な文化を担当することになります。そのために反社会的な表現などはもってのほかですし、実際によくない影響を与えてしまいかねません。
 それに対してサブカルチャーの役割というのは、メインで拾えない部分を拾ったり、もしくはその反面教師的なドロドロとした影の部分をグロテスクに描くことが主眼となってきます。また、そうした表現を持って、いわゆる社会の不満などの捌け口ともするのが主たる役割だと考えています。

 そこで現況を見ましょう。現在の日本では小説類はすでにメインカルチャーの部類に入ってきていると思います。確かにまだまだサブカルチャー的な小説、言うなればジュニア向け小説やハードボイルド小説などはありますが、それでも公で堂々と読んだりできます。これに対して漫画、そしてアニメはまだ合コンとかで、「漫画を読むのが大好きです」というとドン引きされるほどで、サブカルチャー的な色彩が強いような気がします。
 ところがサブに属すにもかかわらず、このところ子供への暴力的影響などから表現の規制が強まってきています。一例を出すと先週のジャンプに載った「銀魂」という漫画でタバコを吸っているキャラが漫画の中で、アニメ版の自分の喫煙シーンについて、「アニメ版だと煙が描かれず、俺はチョコでもくわえているのか」と、セルフパロディをかましていました。このように反社会的なシーンなどの規制がこのところ非常に強くなってきています。

 一社会学士の目から見ると、反社会的な風潮が強まるのは確かによくはないのですが、そのはけ口とも言うべき場所を残すということは社会の安定にとって非常に重要だと考えています。しかし最近では、反権力の象徴でもあったロックミュージックも売れることが主眼になってきていると昔かたぎのロック親父がテレビで嘆いていましたが、私はそのはけ口とも言うべき役割をこれからも漫画やアニメに担っていってもらいたいと考えています。

 そのために、私は漫画やアニメを人目に隠れて読むべきだと思います。公に出てしまうと表現の規制からは逃れられなくなり、その価値は半減化してしまいます。あくまでサブカルチャーのままで、この文化は発展させていくべきではないでしょうか。

2008年3月10日月曜日

アニメ、漫画のブームについて

 近年、日本のアニメや漫画が世界中でブームを起こしています。実際に私も留学先で各国の人間らと詳しく話をしましたが、なかなか普通の日本人も手を出さないような細かな作品などにも触れており、その噂には間違いはないようです。
 この、日本のアニメブームについて私が初めて情報に触れたのは確か、94年か95年位に、今もやっている「世界まるみえテレビ」にて、アメリカにて日本のヒーロー戦隊の特撮番組(現地ではパワーレンジャー)やアニメの「マッハGOGO」が受けているというニュースでしたが、その後も順調に人気は続いていったようですね。

 ただ各国の状況を見ていると、いくつか違いがあるのではないかと少し感じています。まずドイツやフランスですが、この二カ国については相当なレベルまで日本のアニメ文化が根付いています。実際に両国の友人に私自身が話を聞きましたし、確か98年位にうちにやってきたドイツ人留学生も「カードキャプターさくら」にはまっていました。ですがこれがイギリスになるとちょっと話が違うのかもしれません。
 私は2004年にイギリスのロンドンに一ヶ月ほど滞在しましたが、その際に大規模のビデオショップなども細かく見ましたが、どうも噂されているほど日本のアニメビデオは見当たりませんでした。どうも先ほどの二カ国とは差がある気がします。
 そしてお隣の中国ですが、ここはなにせ人が多いもんだからはまる人ははまって、はまらない人は全くはまってないような気がします。それでも人数が多いもんだからはまる人の集まりもあっちこっちで作られ、ニュースなどは中国でもアニメブームが広がっているというような特集が組みやすいのではないかと思います。なお、恐らく連中が手に取るのはほとんどが海賊版です。

 そんなんでもはや日本のアニメや漫画はオタク文化、サブカルチャーではなく、ポップカルチャーだという声も最近ちらほら聞こえるようになりました。時も時で麻生太郎自民党議員が漫画通だということで人気を浴び、アニメファンを日陰者的なオタクの扱いをするようなマスコミに対して、中には逆批判するような勢いすら感じることがあります。
 しかし、ここで敢えて私は主張しますが、やはり漫画やアニメは人目に隠れて接するべきだと思います。
 そもそも歴史を紐解けば、現在のメインカルチャーである小説などの文芸は、明治の頃には卑しいものとして扱われ、二葉亭四迷などは小説家になると親に言ったらめちゃくちゃ怒られたというほどでした。言うまでもなくこれは現在のアニメの状況に似ているののですが、メインカルチャーになるとある種のデメリットが付きまとってしまいます。そのデメリットというのも、表現の規制です。

 長くなってきたので、続きはまた今度。

2008年3月9日日曜日

またパワプロの話

 またパワプロです。最近やっているのはマイライフという一人のプロ選手となって遊ぶモードですが、今私は投手でプレイしています。
 で、その投手ですが、これまで難しい難易度だとやけに打ち込まれるので低く設定して遊んでおり、そこそこ楽しんでいるのですが、何故だか知りませんがやはり対戦打者によって得意不得意が自然に出てきました。まず不得意としている打者ですが、これは松中と阿部です。特に巨人の阿部には正直、打たれてもしょうがないなとあきらめがちにボールを放ることが多いです。その逆に、得意としているのは小久保、福留です。特に福留に関しては打たれる気が全くせず、目下の対戦成績でも八割方三振を奪っています。別に福留選手が嫌いなわけでもないですが(中日は全球団中、最も嫌いだが)、なんでこんなに相性がいいのか不思議に思います。

 ちなみに、在籍球団は広島です。万年Bクラスでもがんばってやっています。

日本語の訓読みと音読みについて

 前回からの続きです。さて前回では日本語も時間とともに結構換わると書きましたが、その変化の最たる一つとして音読みから訓読みへの変化があります。

 たとえばこの前少し話題になったので、「豚汁」の読み方を「ぶたじる」と読むか「とんじる」で読むかがニュースになりました。私は後者の「とんじる」派ですが、私の意見を言うとどっちの読み方でも正直いいと思います。少なくともどちらもどんなものを指す言葉であるかは容易に想像できますし、それをわざわざ統一する必要はないと思います。

 しかし、なんというかこのところはこういったあいまいな使用法を統一すべきだという声をよく聞きます。たとえば英語の「team」ですが、私なんかは「チーム」と普通に日本語の中で読みますが、最近ではなんかスクラムが組まれたのか、テレビなどのニュースでこの単語を読む際は「ティーム」というような感じで読まれるようになりました。はっきり言って、「ティーム」だとキーボードで打ちづらいからやめてほしいです。
 同様に、地名などもここ最近で読み方を現地読みにすべきだとして大幅な変更が行われ始めています。これも例を挙げると、「高句麗」をこれまで「こうくり」と教科書で読みを教えていたのが「コグリョ」と、韓国語の発音に即した読みに一部の教科書で変更がなされています。
 すでに外務省のビザ関連の紹介ホームページで、一部の国名を現地読みに変更したところ、わかりづらくなったと弊害が報告されています。それに、私の専門としている中国語なんか、これやったらえらいことになると思います。

 たとえば「西安」は現地中国語に即した「シーアン」という発音がすでにかなりの部分まで浸透しているのでこのままでもいいと思いますが、「北京」なんか中国読みだと「ペイチン」です。知らない人も多いと思いますが、「ペキン」という読み方は実は英語読みです。同様に、「南京」も中国語だと「ナンチン」です。現地読みしても英語読みにしても日本語読みにしても、どれをとっても決め手にかける地名な気がします。

 このような決めづらい言葉などはひとまずは両論併記みたいにしていて、徐々にイニシアチブを握っていった方をそれぞれ使っていくのがいいと思います。それを無理矢理短期間に統一しようとするのは間違いではないでしょうか。

2008年3月8日土曜日

伊達の読みとは是如何に?

 歴史関係の記事が少ないので補給します。
 さて皆さん、伊達政宗はご存知でしょうか。言わずと知れた東北の戦国大名で、ゲームの信長の野望は判官贔屓とばかりに能力値が高めに設定されています。その伊達氏でありますが、この「伊達」という漢字、なんて読んでいますか? 恐らく「だて」と読む方がほとんどと思いますが、どうもこの政宗がいた時代にはなんと、「いだて」と読まれていたそうです。

 これは通説なのかなと私も思っていましたが、ネットで調べてみるとなんと政宗がローマ法王に遣った支倉常長が法王に渡した政宗直筆の書簡にも、「Idate Masamune」と書かれていたそうで、どうやらこっちの方がマジらしいです。「だて」という読み方はなんでも、近畿地方から広まって江戸時代に徐々に「いだて」と混在し、現在ではこの「だて」のが主流になったというのが真相だそうです。確か「伊達男」という言葉が流行だしたのも、江戸時代頃だった気がします。

 それにしても不思議なものです。本来備わっていた読み方が時代を経ることによって変わってしまうという、漢字ならではなの変化です。実はこの音の変化は東洋言語学を探る上で大きな障害になっています。西洋の言語はアルファベットを用いているので、そのつづりの変遷を辿る事によって各時代の音や言葉の変遷が辿れるのですが、中国語や日本語では使っている漢字が同じなため、読み方が変わっても全くわからないそうです。それでも辿る方法があるのか、以前の教わった中国語の先生は李白の時代に彼らの詩はどういう風に読まれていたか、唐時代の発音を研究していました。

 このような音の変化はなにも昔だけでなく、現在においても進んでいるといわれています。たとえば最も顕著なのは中国語です。向こうではこれまで各地方でそれぞれの方言でもって、それぞれの子女達に言葉を教えていたのですが、1958年に中国政府がそれぞれの漢字の正しい読み方として「拼音(ピンイン)」を作って言語の統一化を図ったために、年代によって地方では言語の隔絶があるそうです。実際に私も若い中国人となら中国語で討論もできますが、年配の中国人となるとそれも難しくなります。

 日本語も同様で、たとえば「彼氏」という言葉もアクセントのポイントがここ十数年で変化しているそうです。と、ちょっと夕食の準備が出来たので続きはまた今度。

2008年3月7日金曜日

刑事裁判について

 本当は昨日くらいに書くべきだったのでしょうが、敢えてタイムラグを置いて忘れた頃に記憶を引っ張り出させる手法で今日の記事です。その内容は、おとといあたりに出た、兄の放火殺害容疑でつかまった女性が無罪になったというニュースです。

 すでにこのブログ内で何度も書いていますが、目下の現在、日本国において最も改革を必要としている分野は裁判制度だと思います。今回の事件といい去年に判決が出た鹿児島県志布志市、富山県の冤罪事件といい、日本の刑事裁判制度及び、警察の捜査手法は以前より問題があると指摘されています。かつての明治時代、日本では裁判制度や刑罰制度が遅れているという理由で、欧米各国は自国の犯罪者に対して治外法権を認めさせていますが、今なら連中がそんなことやったのを理解できそうなくらいに、このところ一連の事件はあきれさせるような捜査、裁判ばかりです。

 折り良くも先週の土曜日には痴漢冤罪を題に取った「それでもぼくはやってない」がテレビにて放映され、この映画自体は公開していた時に見ていたのですが、改めて日本の裁判制度の欠陥を思い知らされた作品でした。
 そもそも、日本の刑事裁判は有罪ありきですべて進められるといいます。実際にこっちも何度も出てくる佐藤優氏は日本の司法制度を、「かつての旧ソ連ですらなしえなかった、有罪率九割以上という非常に優秀な結果を日本の刑事裁判は叩き出している」と皮肉っており(うまい皮肉だよなぁ)、もし裁判官が判決を無罪にしようとするものなら、有罪とするのに比べてその理由やら経過など資料を膨大に量で別に作らなければいけないらしく、無罪そのものがまず裁判において例外的ともいうべき扱いをしているそうです。その結果、映画のように明らかに警察側の証言に矛盾があったとしても、裁判官は有罪を押し通しやすいとも言います。

 そして今回の事件で問題になった代用監獄、これの説明はどこか別のウィキペディアなり何なりで見てもらいたいですが、私が中学生くらいの頃からこの代用監獄は問題があると指摘されていたにもかかわらず、未だにあったのか、そしてまだこんな使い方をしているのかと私自身、ほとほと呆れました。何でも聞くところによると、国際人権団体アムネスティインターナショナルもこの代用監獄を非人道的だとして何度も非難しているにもかかわらず、日本の司法及び政府は聞く耳を持たなかったそうです。これはどっかからの受け売りですが、中国やらオーストラリアに対しては国際世論に耳を傾けろといいながら、日本政府自体も国際的非難に対して一切耳を貸さない、いい内弁慶だと批判されていましたが、非常に的確な批判でしょう。

 それにしても、これほど杜撰な司法制度をみていると、かつて水と安全はタダの国と言われただけあって、80年代くらいには検挙率も九割にまで達していましたが、この数字にも疑問を覚えます。言ってしまえば、事件が起こるたびに目下のところの犯人をでっち上げて、無理やり検挙したという風に扱っていたのではないかと思います。それと同様に、まだまだ表に出ていない冤罪もたくさんあるのではないかとも思います。

 最後に私の勝手な予想を書いておきますが、鹿児島の志布志市の事件、あれは検察、もしくは警察が報奨金目当てで起こした冤罪事件だと考えています。前回に紹介した田中森一氏の「反転」という本に書かれていましたが、年度末になるとホシを挙げた、つまり検挙した数によって報奨金が検事などにでるそうで、田中氏が四国に検事として赴任していた際、選挙が起こるたびに適当な人間を選挙違反で挙げていたそうです。四国などでは露骨に選挙違反ともいうべき金のばら撒きが日常的に行われており、これで一気に検挙数を増やせるので選挙のたびに狙ってやっていたというのですが、恐らくこういう理由で鹿児島の冤罪事件が起こったのではないかと思います。

 すでに日弁連などから政府に対して、こうした捜査に関わる警察や検事、裁判官を逆に訴える訴訟法が提案されましたが、返事はなしのつぶてのようです。私自身、こうした冤罪を引き起こした人間ら、社会保険庁の役人も同じですが、彼らが一切罰されないということがなによりまず不公平だと思います。
 自分で言って間違っているとは思いますが、このようなあからさまな捜査ミスを起こした人間らは路上で刺されて殺されても、私は一切同情しません。それどころか、そうなることを願うばかりです。